09/6/19

ホメオパシー(同種治療)について 4 水の記憶との関係

ホメオパシー(同種治療)について 4
水の記憶との関係 (2019年9月5日)
今日はホメオパシーに少し距離を置いて、「水の記憶」について取り上げてみたい。1988年にジャック・バンヴェニスト教授がNatureに発表したセンセーショナルな論文「水の記憶」は、当時たいそうホメオパシー支持者を喜ばせた(テーズが反証されたのち、Banvenisteが水の記憶についてまとめた著作は日本語訳も出版されている:『真実の告白 水の記憶事件ーホメオパシーの科学的根拠「水の記憶」に関する真実のすべて』)。それもそのはず、「水の記憶」理論が立証されれば、ホメオパシーのリメディーに原材料となった物質の分子が一個も含まれていないことが問題にならないし、希釈によってどれだけ引き伸ばされても物質の効能が記憶されていることが明らかになるかもしれないからだ。結論から言ってしまったような、いつも通り順序の悪い記事になってしまったが、さて、「水の記憶」について手短に紹介しよう。

「水は記憶する」という考え方は、1988年にジャック・バンヴェニスト(Jacques Banveniste)が明らかにした、免疫における抗原抗体反応の影響に関するテーズからきており、バンヴェニストは、水溶液をもとの分子が含まれていないほど極度に希釈しても抗原抗体反応を引き起こす能力を保持すると主張した。水溶液が希釈されて元の分子が含まれていないということはつまり、水分子のみの状態。その水分子がそれ以前に溶けたものを記憶していて、それによって抗原抗体反応を記憶していると述べた。この斬新なテーズは、瞬く間に論争となり、科学的反証のすえ否定され、現在、<科学的思考に基づく><一般的な理解>では、水分子が記憶するなんてありえない!ということになっている。

いうまでもなくホメオパシーは、この「水の記憶」的な考え方が基礎となっていて、つまり極度の希釈によっても失われない<記憶>のような(水の記憶が否定されてしまうような現行の科学によっては計測できない)現象があって、それゆえに微量の毒物の刺激を適切に身体に与えることができると考えている。

「正しい」「正しくない」の議論をしたいだけなら、ここでもう何もいうことはなくなってしまいそうだが(なぜなら、バンヴェニストの実験と結論は、同様に実験した研究グループによってことごとく反証されているのだから、科学的に水の記憶が立証されなかったことは認めざるをえない)、私はもう少しこの興味深い現象について考え続けたいように思う。人はあるとき直感によって左右され、それこそ何故と万人にわかるように説明することが難しいけれども本当であるところの直感は実在して、私には、水の記憶をベースとするホメオパシーという療法がたとえ科学的に立証されなくても、それが全く無為のものと言い切れるのか、いや言い切る前にもっと考えるべきことはないのか、と思えてならない。

少し引っかかるのはホメオパシーが、個人に焦点を当てた個人化された医療だということである。このことは、そもそも実験によって計測可能なブレない結果が叩きだせなかったことをよしとしてしまわないだろうか。ホメオパシーは確かに曖昧でマージナルな発展を遂げてきた。完全に無根拠な民間療法とか言い伝えではもちろんなく、魔女の調薬を想像させる錬金術的であり化学的でもあるリメディーの生成方法。そしてあわよくば現行の科学の基準で効力を立証しようとしたが今の所うまくいっていない。次のようにいうと、結局考え語ることから逃げていると批判する人もいるかもしれないが、そうではない。大真面目に、科学で立証される物事は一つの物差しであって、私たちの生命を取り巻く全てのことがそのただ一つの物差しによって測られることはできない、といってみたらどうだろうか。私たちの生命は、毒が薬になったり、健康と病が判別不能になったり、生きるために死んだり、数多くの一見の<矛盾>を孕みながら複雑なダイアローグを行っている。そこには、単純な二項対立とか、相補的な構図では解りきることができないような、私たちが表現の仕方を獲得していない営みがあるのではないか

問題提起にするとたいそう月並みでどうしようもない表現になってしまったが、実はとても大切な何かがこの問題の周辺にはあるように思われてならない。

09/4/19

ホメオパシー(同種治療)について 3

ホメオパシー(同種治療)について 3 
(2019年9月5日)
ホメオパシー(homéopathie)の基本的な考え方とリメディーの生成について、今更だが言及しておきたい。これらの内容についてはより専門的で網羅的な情報を手にいれる手段があり、これから書くことは一応、私のような非専門家が端折ってまとめているに過ぎないとご理解いただいた上でお読みいただければと思う。

ホメオパシーは、同種治療つまり、病や症状を引き起こす原因となるもの(と似たもの)を微量摂取することによって、これを治療することができるとする考え方である。スルーしてはいけない。「え?待て待て、それってどういうこと?」とすかさずつっこむべきだ。病や症状を引き起こす原因を摂取することでなぜ病が良くなるの?と。ここにホメオパシー最大の仮説あるいは魅力的思想が横たわっていると思われる。それは、「身体は知っている」原則なのである。それは直ちに、ジャック・バンヴェニスト(Jacques Banveniste)が1988年にNatureに発表した論文のテーズ 「水の記憶」(« Mémoire de l’eau »)が言ってのけた、「水は憶えている」を思い起こさせる。バンヴェニストの「水の記憶」についても、のちの考察の過程で言及するつもりだが、この論文が発表された時、フランスの、いや世界のホメオパット(ホメオパシー専門家)たちは大変喜んでこれを支持したのはもっともなことだ。今回の話題に戻るが、ホメオパシーの最大のポイントは、私たちの身体が生まれながらに持っている自然治癒力たるものへの全面的な信頼(と信仰)なのである。
つまりこういうことだ。病や症状を引き起こす原因を摂取することでなぜ病が良くなる。なぜならば、身体はもともと病や不調が起こった時にそれを治癒する力を持ち合わせていて、しかし身体の不調においてはそれが忘れられているに過ぎない。それを思い起こさせてやるためには<適切な>刺激を与えることこそが必要であり、その刺激というのが、身体の不調の原因となった<毒>を超微量摂取することなのである。

次の図は、doctissimoというフランスの医療関係のウェブサイトにあるホメオパシーの原理を説明する記事から借用した。図は、絵を見ての通り、
<健康な人> + <希釈されていないホメオパシーのリメディー> = <不調がある人>
<不調がある人> + <適切に希釈され準備されたリメディー> = <健康な人>
という単純明快な方程式を表している。


また、以下の図も同様の記事から借用したものだが、ホメオパシーのリメディーに記されている「(数字)CH」「DH(数字)」という記号が、どのような希釈濃度を表していることを説明している。これはホメオパシーの創始者であるハーネマンの名にちなんでおり(ハーネマン式100分希釈、la dilution Centésimale Hahnemannienneあるいはハーネマン式10分希釈、la dilution Décimale Hahnemannienne)、1CH数字が上がるとそれは1/100に希釈される。リメディーにもよるが、処方されるリメディーでよく見るのは、7CHとか9CHとかが多く、5CHというのもあったが、それでも原液の100の5乗分の一の濃さなのでかなり希釈されていると言える。

ホメオパシーのリメディーの原材料は、植物、動物、ミネラル由来の三種類があり、そのうち60パーセントは植物由来のため、なんとなく身体に優しく自然なイメージがつきまとう。調べていくと、虫を丸まんますり潰したものとか、カエルとかイカスミとか、ウソ〜、希釈されててもなんだか摂取が憚られるよ?といった原料にも出会う。リメディーの原料と効果リストもかなり興味深いのでこの話題はまたのちにとっておきたい。今日のところは、ホメオパシーのリメディーがどのように作られているかごく簡単にまとめた。以下の図は同様のdoctissimoよりホメオパシー原料を説明する記事より引用した。お分かりのように、延々と希釈されたのちにそれはショ糖や乳糖と合わされて、あの色とりどりのプラスチックケースに入っている甘い小さなつぶつぶになるのだ。砂糖玉は舌下において溶けるまでゆっくり待つことによって摂取される。

さあ、この原材料から遠く遠く希釈されていく様子をご覧ください!原材料はすり潰したり濾されたりしたのち、アルコールに混ぜられる。三週間ほどアルコール漬けにされる。そして、濾されて、濾されて、ここでやっと上の希釈方法の図に出てきた原液が完成する。説明が前後してしまったが、材料となった物質が、リメディーには一分子も含まれていないのはどうやら本当で、この長い希釈の過程を経て、患者が摂取するリメディーが作られているのだ。

子供の時の薬が甘いシロップが多いからだろうか、この甘ったるい砂糖玉を舐めていると、嫌が応にも精神がリラックスして、この「優しい医療」(médecine douce)の毒?にあてられる気がする。この薬には恐るべきあるいは苦しむべき副作用もなく、苦くて嫌な味もなく、なんと私の身体に優しいことか!

09/3/19

ホメオパシー(同種治療)について 2

ホメオパシー(同種治療)について 2 
(2019年9月3日)

ホメオパシー(homéopathie)について、前回の記事で、医学的に効果が証明されていない療法に保険適応をすることや処方を認め続けることについて議論は尽きないことを書いた。それ自体に心身への害はない単なる砂糖玉であるリメディーを処方することについて、どのような理由で厳しく批判があるのだろうか。プラセボ(偽薬)は医療としても適切に用いられることについてはその効果が認められているのだから、もしただの砂糖玉であったとしても、それがなんらかのポジティブな働きかけを患者に対してしうるとすれば、処方を全面的に禁止するまでの批判が出るまい。

戦後のホメオパシー実践では、いくつかホメオパシーによるリメディー処方による死亡事故が起こっている。日本でホメオパシーの問題について語られる時必ず引かれるのが、2010年に起こった新生児死亡事故である。これは、新生児は出血時に血液凝固の働きを助けるビタミンKを十分に持たず、母乳でもこれを補うことはできないことから、稀にある消火器や頭蓋内出血を防ぐため、今日は産院で出産するとビタミンK2シロップを処方され、これを新生児に飲ませることになっている。新生児死亡事故では、適切に与えられるべきビタミンK2シロップの代わりにホメオパシーのリメディを与えたことにより、新生児ビタミンK欠乏性出血症により新生児が死亡してしまった。

また、イタリアではホメオパシーの処方のみを受けていた7歳の子供が中耳炎を悪化させ脳に炎症が及び死亡したという事件が2017年に起きている(http://www.lefigaro.fr/flash-actu/2017/05/27/97001-20170527FILWWW00072-homeopathie-l-italie-s-emeut-de-la-mort-d-un-enfant.php)。この悲惨なケースでは、子供の両親は3歳からホメオパシーのみそれ以前も耳鼻咽喉の不調を治療してきており、中耳炎についても過去にホメオパシーのリメディーで治療したことがあったが、二週間も熱が下がらず緊急病院へ連れていったという。子供にホメオパシーを実践する親の数は決して無視できない中で、ヨーロッパでのホメオパシー見直しが厳しくなるきっかけとなる一件であったことは間違いない。

上述のような極端なケースでなくとも、反対派の主要な主張としては、ホメオパシーのリメディーを与えられて、患者がホメオパシーのみで治療が可能であると信じることによって、癌や他の病など急を要する治療に取り組むことが遅れてしまい結果的に重篤な事態を招きうるのだから、ホメオパシーに基づく処方を患者が信じてそれのみで病気が治ると考えてしまうことは危険だ、というものだ。

ここまで考えてみると、<実はこんなにも危険な(可能性のある)>ホメオパシーが一体どのようにして広く利用され、公的に処方され、その効果が信じられるところでは信じられ続けている状況が今日もあるのか、わからなくなるかもしれない。

これ以上考察を進める前に断っておきたいのが、私自身がここで行いたいのは、ホメオパシーがいいか悪いかを議論することではないということだ。ホメオパシーの実践者に対して、あるいはホメオパシーの非実践者に対して、個人的な意見の介入や批判をすることは全く目的ではない。私が心に刺さっているのは言ってみれば、「今日私たちがだいたいは信じ切っている科学的なことでは証明されない療法であるホメオパシーを、自立させ得ているものの正体はなんなのか?」、「科学的見地に基づく医療を超えた力みたいなものを、私たちは再度味方にすることができるのか?」、「その力は私たちをよりよく生き抜くいこと可能にするのか?」そんな好奇心に満ちた疑問なのである。

09/2/19

ホメオパシー(同種治療)について 1

ホメオパシー(同種治療)について 1
2019年9月2日

ホメオパシー(homéopathie)は、同種療法、つまり、ある病や症状を起こしうる物質によってそれを治療することができるという考えに基づく治療法である。病や症状を起こしうる物質とは時に毒や身体に害のある物質のことであり、それを薬として利用することで心身の不調を治そうとする考え方だ。身体にとって毒となるような刺激によって病を防ぐという原理だけ聞くと、今日科学に基づく西洋医学に慣れている私たちは、「ワクチン」のことを思い出すかもしれない。しかしワクチンとホメオパシーのリメディ(ホメオパシーに使われる薬のこと)は決定的に異なる。ワクチンはご存知のように感染症の予防のために接種され、それは対象となる病の病原体から作られる抗原(弱毒化あるいは無毒化されている)を含んでおり、結果、身体は病原体に対する抗体を産生して感染症に対する免疫を獲得するというものだ。ここで、ワクチンの効果は医学的に証明されている。一方、ホメオパシーの効果は、現代の医学的見地から、プラセボ(偽薬、placebo)以上の効果はないとされ、それ自体に害はないがリメディーはただの砂糖玉に過ぎないとされている。

ホメオパシーは、用語としては18世紀末にドイツ人医師のサミュエル・ハーネマン(Samue Hhnemann, 1755-1845)によって用いられ、ヨーロッパにおいて各国で研究がなされた。ナチス・ドイツ時代にアドルフ・ヒトラーがホメオパシーを厚遇したことはよく知られているが、ユダヤ人強制収容所で行われた人体実験においてホメオパシーの偽薬以上の効果が検証されることはなかった。ドイツ以外の各国でも、今日までホメオパシーのリメディーによる治療が医学的見地から効果を認められたことはない。

にもかかわらず、戦後も、どころか今日においても、ホメオパシーは「代替医療」として普及し実用化されている。ヨーロッパの国々の中でもフランスはホメオパシー実践が今日もなお盛んな国の一つである。ホメオパシーのリメディーの処方は、30パーセントまで保険が適応される<オフィシャルな治療>と現行の医療ではみなされている。(ただし、昨年の医療関係者124名による署名運動を含め、医学的に効果が証明されていない療法に保険適応をすることや処方を認め続けることについて議論は尽きない)

ホメオパシーは、現代主流の医学的見地から偽薬以上の効果がないことは明らかであるのに、医学先進国であるフランスにおいて今尚実践されていることはとても奇妙な事象だと思うし、そもそも効果がないということが一般に理解されているのかどうかも微妙なところであり、その現状も非常に謎めいている。なんとなくだが、ただの砂糖玉だと気がついてはいる一方で、砂糖玉にすらすがりたいと思わせるような魅力がホメオパシーにはあるのではないか、あるいはホメオパシーという不明瞭な代替医療が確からしく科学的な現代医学に対して一般の人々が抱く不満のようなものを受け止める役割をしているのではないか、と感じられてならない。

これから、どのくらいゆっくり考えていくことができるかわからないが、このなんとなく不穏な問題について、そのありうる答えを探っていきたいと思う。なぜホメオパシーを現代人の我々が頼りにするのか考えることは、私たちが抱えている身体に関する問題、現代医療に対する問題、よりよく生きることに対峙する仕方について思考を深めることを可能にしてくれると直感するからだ。

議論したいことはたくさんあるのだが、ひとまずは私がなぜホメオパシーのことが大変気になっているのか、そのきっかけについて述べたい。
私は2015年より、フランスのナント(Nantes)を基盤に医療と環境の問題を提起する大変興味深いアート活動を続けているアーティスト、ジェレミー・セガール(Jérémy Segard)との協働プロジェクトをいくつか展開してきた。彼とのプロジェクト展開において、やがて、ファルマコン (Pharmakon)という、ある物質や出来事はしばしば毒と薬の両義的役割を持っている、という興味深い概念に出会い、これについて、研究及び展覧会を通じて探求してきた(展覧会ファルマコン )。2017年に京都と大阪で9名のアーティストによるコレクティブな展示を行い、その開幕に合わせて開催したシンポジウムにお越しいただいた埼玉大学の加藤有希子さんは、新印象派のプラグマティズムについて色彩とホメオパシーに焦点を当てた講演をしてくださり、ホメオパシーが19世紀ヨーロッパである種の怪しげな宗教的な信仰を受けて支持されていたという状況や、同種療法が毒を用いて行おうとしたことに関心を抱く。そして、強烈だったのは自分自身のホメオパシー実戦である。私は2018年12月に出産し、半年ほど経った6月頃から度々授乳時の痛みや乳腺炎の手前までいくような乳腺の炎症を経験し、助産師に三回、医者に二回かかった。助産師は私に複数のリメディーを処方し、医者はアルコールと抗生物質を処方した。強い痛みや熱が伴い、崖っぷちの状況で、処方されたリメディーは言われるままに正しく摂取し続けたが、症状が落ち着くにつれて、ホメオパシーについて冷静に色々考え直してみると、砂糖玉によりすがったことが馬鹿らしくも思えてくるが、いやまさか、ちょっとは効いたのではないか、など思いたくもなってくる。多少保険が効くとはいえ、一時期だいぶん調子が悪くなって大量のリメディーを処方され、それを購入して摂取したのだ。偽薬でしたと片付けるには、助産師の処方もたいそう公的に行われているし、なんだか腑に落ちない。そもそも、この代替医療はかなり多くの妊婦・産婦、子供、老人、自然的なイメージの代替医療を好む患者によってしぶとく実践されている。これだけ情報の入手が可能な今日、自分が服用する薬がどんなものかは知らない手段がないわけでもないし、それなのにこれほどまでにホメオパシーが根強いとしたら、無視しづらい。
さて、こう言ったことが私の関心の原点だ。