アートのエコノミクス展 / Economics in Art @Mocak, Poland

salon de mimi Economics in Art
@Mocak(click here, website)

Economics in Art @MOCAK
17.05.2013- 29.09.2013
Exhibition information here click

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Museum of Contemporary Art in Krakow(MOCAK)で開催中の展覧会 »Economics in Art »を訪れた。
この展覧会は、MOCAKが2011年より毎年テーマを決めて開催してきた長期展示の第三弾、アートと経済の関係を問う展覧会である。様々な文明の重要な領域とアートの関係に焦点を当てるこのシリーズは、これまで、歴史とスポーツが取り上げられ、今後、サイエンス、宗教などが予定されている。

第一弾は2011年の »History in Art »(アートにおける歴史展, http://en.mocak.pl/history-in-art, 参考:http://dailyserving.com/2011/09/history-in-art-at-mocak/) であり、ここではどのようにして歴史が社会と個人レベルのアイデンティティを確立してきたのか、そのプロセスをリサーチすることに焦点が当てられた。歴史的出来事に関する記述には不正確なものや虚実が常に存在してきた。アートを通じてこの問題を考えること、すなわち個人による解釈を与えることは、その問題に他の糸口を与えるかもしれない。
第二弾は2012年の »Sport in Art »(アートにおけるスポーツ展, http://en.mocak.pl/sport-in-art)で、こちらでは、アーティストたちが人々の日々の生活に関わる問題をどのように扱うかが焦点となっている。スポーツは動物である我々の運動能力と攻撃性を実際的な争いや被害を作り出さずに発散することが出来る点で、セラプティックな役割を持っている。アーティストが様々なメディアや切り口から取り組むスポーツのあり方は多様で興味深い。

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そして、第三弾としての »Economics in Art »は、エコノミクスとアートの関係性に切り込む。今日、アートマーケットやアートフェアーが以前より存在感を増し、芸術作品の価値について語ることは珍しくもないトピックスになってきているのだが、それでもなお、エコノミクスとアートを並べることはそれほど自明はない。一方は数値に基づく実践的な学問であり、もう一方は自由なイマジネーションの領域である。しかし、その二つの異なるドメインの出会いは、インスピレーションの契機を与えるだろうし、思ってもみなかった表現を創り出すだろう。さらには、今日の世界的な経済危機に際して、アーティストたちが提起する視点は注目に値するかもしれない。

ポーランドおよび世界各国の37人のアーティストにより構成されるこの展覧会は、以下の4つの観点で区切られている。

  • <価値>:どのように価値は創られるか。価値を象徴するものは何か。それはどのように操作されるか。
  • <マーケットアクティビティとメカニズムの倫理>:どの程度の経済的成功が倫理的に正当とみなされるか。富めるものは罪悪感を感じるべきなのか。
  • <エコノミクスの人道的側面>:経済的な事情と社会問題の結びつきはどのくらい強いのか。
  • <市場のパワーに依存するアート>:アートワークの価値はなにによって決まるか。どうやって市場のゲームがまわるのか。なぜアーティストの仕事に価値を与えなければならないか。作品の持ち主とは何か。

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さて、Liena Bondareのブラックボードの作品 »Art=Capital(Kunst = Kapital) »(2010)を見てみよう。この作品に置いて、アーティストは、「アートは日々のありふれた出来事以上のなにかである」と述べたヨーゼフ•ボイスの言葉を皮肉的解釈を示している。「アート=財」と書かれた等式は、黒板に子どもがチョークでいたずら書きをしたように綴られ、人々はこのブラックボードに芸術作品としての価値を見いだすことは難しい。経済的な観点からアートを取り巻く現象を考えてみたならば、その価値はその作品を形作る「物」にはないことが明らかなのである。このボードはチョークで自由に絵を描くことができ、なるほど物質としての作品は今日と明日で全く異なり、少女たちのいたずら書きがなされる前となされた後で異なるのである。

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Banksyのイギリスのポンド紙幣を用いた作品を見てみよう。この偽10ポンド札は2、3千枚印刷された。見ての通り、クイーン•エリザベスⅡがプリンセス•ダイアナによって置き換えられ、背面のチャールズ•ダーウィンの右下には »Trust no one »のメッセージが。英国銀行がBanksy銀行(アーティストの名)になっている。

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ルーマニア出身のDan Perjovschiの大きなドローイングの作品は、これもまた黒板風のチョークで書かれた作品で、壁一面にアートと金に関わるイラストが詰め込まれている。落書きの一つ一つはたしかに眺めていてもしばらく飽きることなく楽しめるのだが、アーティスト本人のインタビューにおける発言はもっとラディカルである。(Exhibition Opening Video, click here)つまり、これらは落書きだというのである。チョークで書いたり指で消して書き直したり、それ自体はシンプルな線や文字で描かれたこの黒板は、いったい誰がアートワークだと同定したのだろうか?あるいはその価値はいったいどこにあるのだろうか?52歳の美術家がチョークで描いたいたずら書きのようなイラストの集積をなぜ大きな美術館が受け入れ、展覧会で提示するのか?それらはまさにDan Perjovschi自身の問題意識である。

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プロスティテュションの広告。 »Why rent when you can buy »とはセンセーショナルなタイトルである。いや、本来経済活動において、とりわけ「シェア」とか「リサイクル」、「エコ」が流行っている今日のことなので、買えるけど借りて済ませるのは悪いことであるはずがない。ただし、売春や女性を買う/借りるという文脈ではその規範は成り立たない。無邪気に使われる、「買うより借りる」などというありふれたスローガンもオールマイティーではない。

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Laura KalauzとMartin Schickによるパフォーマンス作品 »Common Sense Project »である。Common Sense Projectは、観衆が参加する形でなりたつ、ソーシャル•パフォーマンスである。タイトルに臭わされている「コモン•センス」は実に馬鹿馬鹿しい経済活動のゲームを通じて実感されることになる。要するに、悪知恵を使いながら、感謝の気持ちを演じたり、でっちあげの信用を築きあげながら、契約に基づくのでないナマの社会関係を結んでいくゲームなのである。もっと経済がリベラルになれば、社会における人々の関係がもっと開かれるはずだというメッセージを表している。

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Charlotte Beaudry、無題。あたかもそこには纏うボディがあるかのように描かれた二枚の男性用アンダーウェア。

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Malgorzata Markiewiczの »Flowers »(2004-2007)は、遠目に見ると鮮やかな色彩や模様の布で作られた花のように見える。そして、その期待はかなり接近するまで裏切られることはない。しかし、その布の一つ一つの形状が認められるまで近づいたとき、それらが女性下着やスカート、スカーフ等で形作られていることを発見する。この作品は、見た目の美しさとその洗練された印象、よく選ばれて完璧に造形された布の彫刻である一方で、そこで行われたストリップティーズのパフォーマンスを見るものに思い起こさせるのである。

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美しいコスチュームに包まれた二つの身体がある。死の恐怖は身体を過剰に飾り立てることによって紛らわされているかのように思える。しかし、どれほどに努力しても、死はそこに有り、そのラグジュアリーなコスチュームすらも身体の生きていない状態を強調するのみである。

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さて、エコノミクス展によりコミットする作品に戻ろう。絞首自殺のためのロープである。ロープはドル札によって作られている。お金に殺されると考えることも出来るし、お金があっても人は死ぬと考えることも出来るし、アーティストによれば、「クレジット」は金を表すと同時に信用のことであるのだが、この「クレジット」が現在の経済危機のルーツである。

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アーティストゴリラの上に、キュレーター猿が乗り、その上に批評家小猿が乗っかっているというペインティング。ほんとかいな。あるいは、それがエコノミクスの点で、アートワークの価値言説を作っているのが批評家であるという意味にも理解することが出来るし、同時に、身体能力的に優れており強い力を持っているのは疑いもなくゴリラである点で、このヒエラルキーは様々に読むことができる。

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かの「働けば自由になる(ARBEIT MACHI FREI)」にネオンをつけた「アートで自由になる(KUNST MACHI FREI)」。アートそのものは自由なイマジネーションに開かれているものであることを文字通り表しながらも、「働けば自由になるARBEIT MACHI FREI」がまったくの虚言であったように、経済的基盤のないアートに自由はないことを、ネオンによるドリーミーな演出を加えてさらに辛辣に訴える作品である。

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