Photoquai 2013 / フォト•ケ 2013, Paris

Photoquai 2013
http://www.photoquai.fr/2013/

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Photoquai は2007年から、Musée Quai Branlyの提案で始まった写真のビエンナーレである。一年おきに開催されるPhotoquai、2013年は第4回目の開催となった。Musée Quai Branlyには有名な庭があり、本写真展はその庭をセーヌ川のほとりまで延長する形でパブリックスペースを利用したオープン•ミュージアムの形をとっている。フォト•ケは世界中の現代写真家を対象にその展覧会を構成しており、第4回目となる全体のコーディネートはアーティストFrank Kaleroに一任され、彼の元に地域別セレクションを担当する8人のキュレーターが展示作品の構成に当たった。共通テーマは »regarde-moi »(私を見よ)である。

「私を見よ」というテーマは、世界の各地域から集められ、そこに展示された写真群を目にすれば、被写体となった人々が彼らのメッセージとして「私を見よ」という言葉を発していると考えるかもしれない。なるほど、多くのポートレートがそうであるように、レンズをまっすぐに見つめるモデルたちの視線は鑑賞者である我々にまっすぐに向けられているようであり、あたかも「私を見よ」という声が聴こえてきそうではある。だが、言うまでもなく、被写体はあくまでも被写体である。写真を撮る主体は写真家であり、写真に撮られた人々は、鑑賞者である我々に見られる以前に既に写真家によって見つめられた人々である。このような意味で、「私を見よ」は、レンズを通してこちら側を見ているように思える撮影された人々のメッセージではなく、カメラを向けたその人の言葉なのである。そして、それを見ることは、このトリックを破ることであり、本当は見られた人々に「私を見よ」という言葉の所存をこっそりと押し付ける張本人の視線を暴くことでもある。
そのような理由から、写真に現れた人々の視線を見返すこと、そのことだけによって物語を了承するのは不可能である。

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韓国のHein-Kuhnの画一的な流行のお化粧の白い肌に主張のない表情を浮かべる少女たちは、同じ髪型をして、他の少女との違いの中で写真に撮られることをためらっている。彼女たちは「私を見よ」と訴えておらず、沈黙しながら瞳の表面は潤って、向こうからやってくる光を反射している。 http://www.photoquai.fr/2013/photographes/hein-kuhn-oh/

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登場人物やそこにある物の様子が奇妙なポジションで撮影されたロシアのAnastasia Rudenkoの作品は一度目にすると忘れることが出来ない。『楽園(Paradise)』と題されたシリーズ作品はロシア社会において精神病患者が偏見や誤った理解によって不当な扱いを受けてきたこと、そして現在もなおその状況は変わっていないことや、家族の不理解、医者の誤った治療や診断の犠牲になっている状況を露にすることを目指した写真だ。構成され、計算され抜いた画面には、患者たちがありのままに立ち尽くしており、その奇妙な印象は率直に魅力的である。それは写真家の意図がうまく機能したことの証でもあり、被写体と我々の関係性を感じさせさえする。
http://www.photoquai.fr/2013/photographes/anastasia-rudenko/

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Adriana Duqueはコロンビアの写真家で、今回、植民地問題、宗教および民族の問題に焦点を当てた『聖家族(Sagrada Familia)』を出展した。シリーズの写真は、それぞれ家族写真の体裁をとっており、それぞれの家族の中に明らかな異物としての白人少女がドレスで着飾ってプリンセスのように挿入されている。貧しそうな老夫婦、暗くて慎ましい部屋、ジャージを着て日に焼けた大きな子どもたち、そこに、19世紀の西洋絵画から抜け出してきたような着飾った少女が浮かび上がる。この全く奇妙な構成は、作家自身の子ども時代の記憶が着想源となっており、コロンビアという国の歴史、植民国のポジション、持ち込まれて根付いた外来の宗教、現在も爪痕として残る文化的侵略の臭いを彼女自身が見つめ返す作品である。
http://www.photoquai.fr/2013/photographes/adriana-duque/

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Rongguo Gaoの双子写真は、双子がこれまでしばしば作品の主題となってきた専攻する表現に対してどのような新しさがあるのだろうか。一つ目は、一枚の写真に同時に双子である二人が現れないことである。二つ目は双子の一方ともう一方の、右側からと左側からという、異なる側のみを撮影していることである。つまり、彼らが双子であるという自明性がわざわざ述べられていないのだ。アーティスト自身がこの作品について述べているように、二人の独立した個体をあたかも「鏡写し」のような構図で描き出すことによって見るという提案の前に、我々はその意図を想い、しばし戸惑う。
http://www.photoquai.fr/2013/photographes/rongguo-gao/

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Gustavo Lancerdaは2009年よりブラジル社会に生きるアルビノの人々を撮影し続けている。アルビノの人々がしばしば、その遺伝的原因によって他者と異なる外見を獲得していることによって社会で差別を受けたり、異なる者への厳しい視線を浴びせられているという事実に対し、写真家はひたすらに自身が彼らの持つ独特の美を見いだしていることを主張する。その主張をもって彼らにモデルを頼み、スタジオでパステルカラーの衣装を着てもらって撮影することで、写真家が「私を見よ」という言葉をアルビノの人々の口から発せられた言葉のようにでっちあげようとするならば、そのことは大きな勘違いであり、あまりにも浅はかな表現行為である。
人々は彼らの写真の前に立ち止まる。彼らを見つめる。その方法が、実際の生活の中で彼らにであったときに彼らを見つける方法と違うとすれば、それは、彼らの表情の中に、彼ら自身の社会における経験と、過去の人生における物語と、彼らの生き方が浮かび上がるからなのである。私にとってそれは、アルビノの人々を撮影したのではない、その他の無数のポートレートの中に浮かび上がるそれと本質的な違いを持たない。人々は、他者のポートレートに目を奪われる。それは、人間の表情や、からだの形、皮膚の色や、体勢に、彼らの歩いてきた道と経験が見えるような気がするからであり、彼らの発してきた言葉が聴こえるような気がするからであり、それらに興味を持つからだ。社会の中で、「少数派」の人々のポートレートが力を持つのはひとえに、我々がその人生に興味を持ってしまうからに他ならないのである。
http://www.photoquai.fr/2013/photographes/gustavo-lacerda/

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