創作の自由と暴力のこと, Free Expression or Violence

自由で暴力的な創作、あるいは創作の自由と暴力のこと

私は男尊女卑を支持しない。無論その逆も支持しない。
平等主義はシンプルで聞こえがいい。ただし、それは不可触な理想に似ている。
世界の人々が様々な理由から均質でないのと同じように、性差は、その他の個体差よりも遥かに大きな違いである。

『抑圧された人々ー男と女の役割が入れ代わる日』(Majorité opprimé : quand les rôles masculins et féminins sont inversés)という短編映画のリンクを数日前ソーシャルメディアでシェアした。10分ほどの短いストーリーで、そこに描かれるのはあからさまに不自然で、しかし有りそうもないかというと、かろうじて信じられる程度のリアリティが漂う日常世界だ。フランス語だが状況はヴィジュアルから十分に解釈することが可能なので、もし興味がある方はこちらのリンクをご覧になっていただいてもよいかもしれない。
http://www.lidd.fr/lidd/9252-majorite-opprimee-quand-roles-masculins-et-feminins-sont-inverses

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『男と女の役割が入れ代わる…』というタイトルを聞いて誰もがすぐに思い浮かべるのは、育児や家事をする男のことだが、この映画もその単純な想像力の例に漏れず、ベビーカーを押して細々した日常の所用を済ませる父親が主人公に設定されている。一歩外に出れば世界は陰鬱な嫌がらせで満ちている。偉そうな大家の年寄りの女が嫌みを言う、道を歩けばホームレスの女が口汚い言葉で軟弱な男を罵倒する。「笑顔見せてみろよ!」というのは現在もなおリアリティのある女への捨て台詞であり、「〈女なんだから〉しかめっ面してないで、愛想振りまいて、にっこりしてみろよ」という常套文句をこの映画の制作者が男女をひっくり返したのである。また、最終的に彼は細い路地で柄の悪い女のグループに出会い、勇気を振り絞って、女達の嘲笑に、一言二言、言い返すことに成功する。その態度にキレた若い女達のグループは、男を細い道に連れ込んで、脅し、ついには暴力を振るう。それは、「尊厳」という言葉を使うならば、その人の「尊厳」を踏みにじるような行為であり、性的な暴力であり、精神的な暴力であり、理解の余地のない暴力である。そもそも、暴力には理解の余地がもともとないのだが。警察での事情聴取、上司の女は若い男の部下にコーヒーを頼む。今日もなお、多くの「上司」が女性社員にお茶やコーヒーを入れさせるように。放心状態の旦那を迎えにきた妻は、たいそう可哀想に、と酷い目に遭った旦那を抱きしめる。だがその次の瞬間、この男がその妻のいたわりにも関わらずいつまでもぐずぐずとやり切れなさを口にしていると、妻は急に、「疲れてるんだからいい加減にしてよ!」というのである。私は外で働いて疲れてるんだから、家事してるあんたがこれ以上グダグダいうんじゃねえよ、というわけである。さて、重要なのはここからだ。

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しょうもない旦那を見放したキャリアウーマンの妻は、真っすぐ続く大きな道を闊歩する。足取りは次第に軽く楽しくなり、今にも飛び立ってしまうことができそうだ。でもどこに? だらしのない、身のこなしもぱっとしない、女々しい男を突き放して、ぐんぐん歩いて行く。彼女の開放感はクライマックスを迎え、私たちはそれが彼女の夢であったことを知る。夢、あるいは、妄想、彼女がもっとも望む世界。彼女の楽しさは増して行くが、私たちはそれが悲しいかな夢であることをはっきり知っている。彼女がどれほどそこから醒めて、戻ってきたくないとしても。

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表現の自由の前に、束の間の幸せを求めて暴力的な作品を作ることもまた、自由と呼ばれるのかもしれない。
ただし、この作品は、鑑賞者の中の何人かがあるいは潜在的にたくさんの人が、「いい気味!」「すっきりした!」「その通り!よくあるこういうこと!」「一度なってみたらいいのよ、逆に!」と、ひと時の勝利を手にする喜びに酔いしれるだけであって、その先に道はなく、どこにも行くことができない。このビデオを創ることも、それを目撃して十分間満足することも、つまりは、ビデオの中のあの女、本当は「抑圧」され、その苦しみのあまり男女の役割が入れ代わって男が女に暴力を振るわれる、という妄想を作り上げてしまった女の行き場のない夢を共有することに過ぎないのである。

仕返し、で世界が変わらないことは、あまりに明らかなことであり、仕返し、がなくならないこともまた事実だ。

少なくとも意識的でなければならない。違う者は平等ではない。役割を入れ替える発想そのものが妄想である。
創ることは自由であり、言葉を発することや同意を求めること、結びつこうとすることや、想像することは自由である。
ただし、私たちは、戻ってこなければならない。
たとえ遠くに飛んで行っても、まわりに何も見えないくらい離れて行っても、とても楽しくて何がなんだかよくわからなくなっても、私たちは、戻ってこなければならない。
生き続けるために、夢から醒めなければならない。

夢はなるほど、殺伐とした現実よりもまろやかな方が良い。
しかし、醒めてしまったことを、醒めている間じゅうずっと後悔する夢でないほうが、はるかに見たいと思えるのだ。

自由で暴力的な想像力は、目の前の壁を越えることができず、表現する意味を感じさせてくれる創作は、別のところにあると信じる。

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