平等を主張し、自由を讃えるということ, Qu’est-ce que l’égalité? Qu’est-ce que la liberté?

10年ほど前に見た以来、忘れがたいイラストがある。
バーナード・ルドルフスキーの著書『みっともない身体』に掲載されていたイラストである。言わんとしていることは実にシンプルで、身体のどこを隠すか、何を恥ずかしいと感じるか、どのような服装が普通と認められるか、そんなことは全て文化によって決められており、我々はそれを当たり前として生きている、ということだ。

何の変哲もないテーズである。

我々は例えば20年前や10年前よりも、ルールのない世界に生きているような気がしているかもしれない。とりわけ私の生活環境であるこの土地では、毎年「テロ」が大きな事件を引き起こし、それらは報道が作る物語として定着し、定型化してさらに語られやすくなったキャッチフレーズは、誰もが口ずさめる流行歌のようにすり切れるまで反復され、認識はそのように、鋳型に収められていく。

自由の国であり、平等の国である。全ての民の人権を、尊重する国だそうだ。
男女は平等であり、異なる宗教を進行する民もまた平等である。肌の色の違う人民も、収入の異なる人々も、教育レベルの異なる人々もまた、同じ権利を持ち、同じように扱われるそうだ。

思うことがある。

果たして、髪の毛をむき出しに道を歩いたことのない人々が、それを露わにすることを強要されたり、膝下なぞ決して見せることなく覆っていた人々が突如そのふくらはぎや足首を露出して、その慣れない不格好な歩みを、誇らしげに闊歩する人々と並べられながらさらけ出さねばならないということを、自由と呼ぶことができようか。

果たして、肉体の露出を自由と信じる民を前に、肉体の不露出こそ自由であると解いたとき、それはあなたが洗脳されているのだとか、文化や教育によって現在そのようにしか思うことのできない不憫極まることだるとか説かれるとき、その人々は肉体を露出することを強要されており、それは実際には強烈に暴力的なことでもあるのだと、想像する想像力を、一方的に自由と平等を主張する民が持っているかどうかは定かでない。

そのように語るとき、全ては構造の中にあるということを、言い放つことは残念ながらできず、それでもなお、確かに不幸な状況の存在を認めることは、世界に幾つものケースがあると思われる。

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