マネキン(パレ•ド•トーキョー)/Mannequins au Palais de Tokyo

マネキンが好きだ。ボディの質感も好きだし、マネキンのボディが結構精密に複数のパーツから構成されているところも(その関節具合も)大好きだ。こんなに好きなのに、マネキンの製造過程を見学したことがないのはつくづく残念なので、機会があったらぜひぜひ見学したいと日々思っている。

マネキンの身体は匿名的だと言われる。身体はおろか、彼らの顔も特徴というものが無い。マネキンというのは、誰でもありそうで誰でもないように作られた人形であり、もちろん洋服かっこうよく着こなす目的上、程よく謙虚なナイスプロポーションを誇っている。誰からしくて誰でもないというのは、ミステリーな感じがしてとても素敵である。

大きな人形だからといって、実物っぽいのは好きではないのだ。たとえば蝋人形館で有名な、パリのミュゼ•グレヴァンやロンドンのマダム•タッソー館は行ったことがないので、何がどれだけすばらしいか知らずにいい加減なことは言えないが、どうにも興味を持つことが出来ない。誰かをモデルにした人形というのは、それ以上の解釈の可能性は無いし、ミステリーも秘密も、何にもない。あるべき姿が決まっていて、それに似せられただけだと思うと魅力が半減してしまう。

とにかく、10代の頃からマネキンが好きで、見よう見まねでちょこっとミシンをかけて洋服を作るのも好きなので、トルソーも好きである。気になるマネキンがいたら写真を撮るし、ショーウィンドーで裸のまま放っておかれているマネキンのやりきれない感じもたまらなく愛おしい。(持っていないし、あまり関係ないけれど、サラサラした生地で作られた身長くらいある大きな抱き枕もきっと好きだと思う。)

mannequin au Bon Marché, Paris

そうそう、せっかくなので、マネキン人形の控えめな歴史をこの場をかりてお話ししよう。
何を隠そうマネキンはその昔、私が嫌いなセレブを集めた蝋人形館の人形達のように、蝋で作られていた。重くてどうしようもなく、熱に弱くて壊れやすい、蝋人形。制作のコストも大きいので、1928年、島津製作所(現在の七彩マネキン)が洋装マネキンをファイバーで制作するようになり、改良が進んだ。戦後の1950年代には、FRP製のマネキンが制作されるようになり、低コスト軽量化が実現。

日本のマネキン史の中で重要な役割を担ったのは、1968年に渋谷西武百貨店に導入された「ツイッギーモデル」である。ツイッギーは当時大流行したイギリスのカワイイアイドル歌手で、マネキン人形のボディラインを大きく変えた。日本人体型だったマネキンは輸入マネキンに取って代わられる。このことは、ファッションを纏う身体の形が、日本人のものから西洋人のものになったことを意味する。理想ボディイメージのシフトとそのイメージの徹底した普及はハイピッチでなされたといえよう。

マネキンのフォルムは歴史とともに進化してきた。身体自体の形の変化とマネキンの形の変化には密接な関係がある。とはいえ、身体自体の形の変化には長い時間を要するいっぽう、マネキンボディはもっと軽やかに自らを作り替えることができる。それはもちろん、彼らが人形だからであり、彼らの形は人によって作られるからだ。マネキンの高速なフォルムチェンジが表しているのは、人々の「なりたいからだのかたち」である。マネキンは、全ての人の理想をうけとめて変化し続ける、鏡のような存在であり、そこに映し出されているものは必ずしも捉えきれない矛盾を孕んだ、ミステリアスな存在だ。

Florence NIEF "REGARDS", Galerie haute, Palais de Tokyo

本当は、今回パレ•ド•トーキョーで三日間だけ行われたマネキンを使用した展示を紹介しようと思っていたのだが、前置きが甚だ長くなってしまった。(Florence NIEF « Regards » du 8 au 10 juin 2012) 会期中はアーティストから話を聞くことができた。マネキンをマテリアルとして使用するのは初めてと述べる彼女が表現したのは、我々の現代的日常生活のあり方。腸とも脳みそとも、あるいは糞のようなものとも見て取れる無数のひもに絡めとられて、身動きが取れないマネキン達。彼らはそれぞれヘッドフォンを付け、ケータイを持ち、その思索はタブレットにイメージとして映し出される。マネキンの中には部分的にパーツを失ったものがあり、別の場所には断片化されたパーツが同じくひものようなものに絡めとられている。

私たちはこれを彼女が言うように現代生活として解釈しながら、彼らの足下をがんじがらめにする腸のような存在を、ネットワークとして読むことができる。そして、その中に断片化された身体の破片を、納得しながらももがいて生きている現代の生として見なすことは行き過ぎた考えではないだろうと思う。

Florence NIEF, Palais de Tokyo ( du 8 au 10 juin 2012)

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