04/27/14

ガブリエル・アセベド・ベラルデ《舞台》/ Gabriel Acevedo Velarde, « Escenario »

世界の秘密を知ってしまったような、ーそれも、けっして知るべきではなかった類いの、そうでありながら、確認などする前からおよそ明らかであった類いのー、ばつの悪い瞬間だった。一人でそれを眺めていても十分に「良心の呵責」たるものを感じ得るのに、こともあろうにそこは東京の六本木の美術館の開かれた一室で、そこにはイノセントな子どもはもちろんさらにナイーブな大人すら出入りし、スクリーンに目をやって、そこには短い行為が反復されていることを認めると納得したようにその空間を去って行く。

《舞台》(Escenario, 2004)と題された映像作品は、ペルーのリマ出身のガブリエル・アセベド・ベラルデ(Gabriel Acevedo Velarde)の作品である。ガブリエル・アセベド・ベラルデは1976年生まれ、これまでビデオ作品を始め、ドローイングやインスタレーションを手がけているが、2011年にフランスのリヨン・ビエンナーレに本映像作品《舞台》を発表し、国際的な評価を受けたのである。

《舞台》は奇妙な作品である。
本作品は、六本木の森美術館の展示室において2014年5月6日までご覧いただけるが、こちらの一応こちらのウェブリンクも紹介しておく。3分程度のショート•アニメーション作品である。
video here 

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何が起こっているのだろうか?
このステージで繰り広げられるシナリオはいったい、何を意味しているのだろうか?

ガブリエル・アセベド・ベラルデは、そのドローイングやビデオ作品において、個人の人間と公的なるもの(大きな組織や集団)が、明確な衝突に至らずにそれが一見日常的で平和的状況のなかで対峙する場面においてうごめいている「なにか」を可視化しようとする。

作品《舞台》では、無個性の個人が観衆となって一つのステージの前にひしめく。登場人物はおよそ、それら無個性の個人と、彼らを選別し、整列させ、「舞台」に連れてゆき、光線を当てる、彼らがつよい光線によって変性したのちに集団にもどす一連の働きをする役人たちがいる。役人たちは、無個性の個人たちよりも体格がよく、身長も大きい。言って見れば、選別されるべき個人は半ズボンを履いた子どもで、役人は小学校の先生のようである。子どもは舞台に連れ出され、大砲のような装置で強烈な光と音を浴びて倒れてしまう。一見暴力的なシーンに思われるが、次の瞬間観客はその悪い予感を拭い取られ、安心する。なぜなら、倒れた子どもは役人に抱きかかえられた後にすぐに自力で歩いて集団にもどり、他の子どもと元気にステージを鑑賞しはじめるのだ。表面上、誰も傷つかず、何も壊れず、そのムーブメントはひたすらに繰り返され、私たちは鳴り響く光線大砲の音とその強烈な光の断続の中に、映像の物語を追う動機を見失うだろう。

だが私たちは全てを見せられている。

光線大砲で気絶させられるのは、世界が見えるようになってしまった子どもたちなのだ。無個性な個人は、時間が経つに連れて目を開き、見てはならないものを目にしてしまう。見てはならないものを見ることは、役人の意図に反するばかりか、個人の身を脅かす危険すらある。だから、個人は逃げたりしない。無意味に長い整列の道筋に列をつくり、黙って並び、審判を待つ。光線大砲を受けることになれば、覚悟はできているというふうにまっすぐにステージに登って、もう一度盲目となる。溢れる光の中に全てはホワイトアウトし、これでもう、世界の秘密を目撃せずにすむ。これでもう、集団から切り離されてひとりぼっちにならなくて良い。見えないことは幸せとなり、彼らはもういちど、見ることを奪われることによって自由を得た集団の中に身をうずめる。しかしその幸せも長くは続かない。光線大砲の魔法は少しずつ溶けてゆき、そこでは世界はたちまち不穏なものとなってしまう。そのことをだれかに密告される前に、自己申告し、整列するべきなのだ。もういちど盲目になるために。

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世界の秘密は見えてはならない。それは見えることによって、脆弱な個人を脅かすだろう。
大きく見える役人も、自分の目をしっかりと守っている。彼らはそれがあることを知りながら常に瞼を半分下ろし、そちらに目をやらないことによって、自分自身が存続する世界を守っていると信じ込んでいるのだ。

盲目となることによって、あるいはまた、見てみない振りをすることによって束の間の幸せを享受する個人たちは、共通した思い込みがある。

それは、その世界を囲む塀はとうてい超えられないほど高く、高く、彼らを閉じ込めていて、そこからは出られないのだ、だから、そこにいて、繰り返しながら、従うのだ。

ガブリエル・アセベド・ベラルデはこのことに対し、明確な異論を唱えている。
彼らの小さなステージと、慎ましいコミュニティを囲む柵はたとえようなくお粗末で、その外側には言うまでもなくずっとひろい外側の世界が広がっており、簡単に飛び越えられる、ということを。

主催: 森美術館
企画: 荒木夏実(森美術館キュレーター)
会場: 森美術館 六本木ヒルズ森タワー53階
http://www.mori.art.museum/contents/mamproject/project020/

02/10/13

会田誠 « 天才でごめんなさい » / Makoto Aida « Monument for Nothing » @Mam

会田誠:天才でごめんなさい/ Makoto Aida « Monument for Nothing »
@森美術館/Mori Art Museum

November 17 (Sat), 2012 – March 31 (Sun), 2013
museum’s site here

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「天才でごめんなさい」とはなにごとか。この人は、いったい誰に対して、何を謝っているのか?アーティストが天才で何が悪い。天才でないほうがあやまって欲しいくらいではないか?

とは言ってみたものの、本当はこの謝罪、もっと丁寧に説明されなければならないのだろう。「会田誠は天才である」。このことは半分くらいは本当で残りの半分は噓である。会田誠という表現者は、天才的な直観を持ち、その有無を言わさず天から勝手にやってきたインスピレーションを、どうすれば最大限のインパクトを以て社会に提示できるのかということを本能的に知っているという点で、やはり才能に恵まれた人である。ただし、この人が抱えている(かもしれない)迷いや悩み、葛藤みたいなものがあまりにも人間臭くて俗世の我々にも響いてくるので、この人もまた普通の人であるような気もしてくる。

そうはいっても、この展覧会タイトルを聞くと、1)なるほど、会田誠は天才なのか。それならひとつ見てみましょう、あらほんと凄いわね、とジーニアス•テーズを丸呑みする、あるいは、2)ウンコやらセックスのどこか天才じゃ、なんでこんなもんが芸術かと憤慨する、はたまた、3)神妙な顔で難しい言葉を使いながらウンコでもやはり素晴らしいアートなのだと頑張る。ざっとこのようにして、会田誠の表現しているものの周縁で煙に巻かれてしまう。それこそがナンセンスなことである。ナンセンスでもいいのだが、「面白」もしくは「気持ち悪」という率直な印象に耐えて、もう少しだけその絵(など)を凝視してみる必要がきっとあろう。

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私は日頃、相当しつこくフェミニストっぽい立場を表明しているので、キングギドラとか犬シリーズなどは、「女性や少女にそんな目を向けて、だから会田誠という美術家サイテーじゃないの」とどうせ非難するんだろうと思われるかもしれない。だが実際にはそうでもなくて、キングギドラの絵はあまりに素晴らしくてあまり長い時間見ると泣き崩れそうになってしまうし、犬シリーズに至っては、「こんなもん見たない」とおっしゃる殿方にこそ「よくよく見ました」とおっしゃるまで凝視してほしいと願い願って止まない次第なのである。ミキサーの中にぎっしり詰められた少女たちが少しずつ鮮やかな赤色を帯びていく「ジューサーミキサー」などは見ていて気持ちが良くなり、ついうっとりしてしまうほどである。

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キングギドラに犯され突き破られる大きな絵も、四肢が切られて首輪で結ばれた犬シリーズも、ギュウギュウ押された少女のお腹からつややかなイクラがポロポロひりだされる「食用人造少女・美味ちゃん」なども、直球である。あまりに正直にそれが包括する問題を提示するが故に、目も当てられない鑑賞者がいることは確かだ。ただし、描かれたものに虚偽は無い。ここにあるのが少女や女性やセックスそのものをとりまく日本社会の一つの局面あるいは一つの実在する視線を浮き彫りにしたものである。会田誠がたまたまここに形を与えたヘンタイとか飼育とか暴力に関わるようなものは、フェティッシュな趣味を持つ限られた個体だけに冷ややかな視線が注がれればいいという問題ではなく、大げさだが、人間の欲望の通奏低音として鳴り響き続けているような、しかしそれが様々な要因の生で歪曲した形で表出したものなのである。それを断固として見ないのはひょっとして、言ってみれば、自分だけ永遠のヴァージンであると信じているくらい高尚で愚かしいことである。(もちろん、ヴァージンはただの比喩であり、老弱男女みんなの話をしております)

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このようにして、会田誠の描き出す世界にはリアルな問題がたくさん具現化されているように思えるけれど、それらはユーモアとアイロニーとニヒリズムで構成されているだけではない。希望だってある。

イデアという作品がある。壁に書かれた大きな「美少女」という文字に向かって、素っ裸の会田誠ご本人がマスターベーションに励む。お部屋が寒かったことや素っ裸直立であったことなど、不慣れな環境におけるこのパフォーマンスは、シナリオコンプリートまでに1時間以上かかったらしい。素晴らしい。何時間かかってもよろしい。この作品は美少女を陵辱するものではなく、美少女を永遠にイデア界に解放する儀式の録画でもあり、さらには少女時代(少年時代)というしょうもない人生の時間を過ごしている世の中の個体を潜在的•永久的に救済する儀式ですらある。つまり、肉としての美少女なんて本当はどうでもいいのである。壁に文字を書けばいいのである。犬としての少女の絵を見たり、伊勢エビと交わる少女の写真を見たりすればよろしい。IDEAは、美術家自身は勿論プラトンのイデアのことを言っているのであるが、これは同時に一つの「アイディア=理想」を描きだす重要な作品なのである。

この他にも個人的には英語コンプレックスに関わる作品や難しい哲学コンプレックスに関わる作品は今回の記事では触れられなかったのでまたの機会に書いてみたいが、これらは会田誠という表現者の天才的なところと普通の人っぽいところが出会うためにハンパ無くエネルギッシュな作品群である。そして、最後に、「自殺未遂マシーンシリーズ」に触れて終わりにしよう。自殺マシンではなく、あくまでも自殺未遂のためのマシンであるこの何とも言えないアナログの装置は、裏も面も無く、自殺の国の日本国民にこの問題を朗らかに提示する。試行者は、頑丈そうでちょっとやそっとじゃ切れそうも無い輪に頭を突っ込み、意を決して段から飛び降りる。彼は(不運にも/幸運にも)自らの肉体をを伴ったまま、バラバラと分解するマシンとともに床に崩れ落ちる。「自殺未遂マシーン」の体験を通じて人々が得られるのは、「あかん、こんなマシンでは到底死ねん。」という途方もない事実である。こんなに絶望的で希望に溢れた試行の存在を知っただけで、芸術の表現っていうのはやはりあっていいのだ、と思える。