01/4/15

Manger, Boris Charmatz / 「食べること」をダンスする

Manger 

manger poster danse

2014年12月3日にThéâtre de la Ville, Parisでダンス作品「Manger」を鑑賞した。Boris CHARMATSによって構想された作品「Manger」(フランス語の動詞:「食べる」)は、そのタイトルの宣言する通り、人間の「食べる」行為に真正面から焦点を当てた作品だ。今日、非常事態を除いては飢餓による生命の危険に直面しない平和な食生活を送る人々にとって「食べる」とは、日常的で身近で、あえてとるに足らない行為と感じられるかもしれない。もちろん、食事を自由にとれない病気と共に生きている人、アレルギーのある人、止む負えず食事制限している人、その他あらゆる食のトラブルに出会ったことのある人々にとっては、「食べる」行為は自ずとグロテスクでつかみどころのない、奇妙な行為として立ちのぼるかもしれない。

だがじつは、そもそも、口からも異物を摂取し、内部に一時的にであれ一定の時間内包し、それを様々な消化酵素で消化し、吸収して、抽出されたものを自らの肉体の一部と成し、さらには、口から摂食したけれども不必要であり、廃棄できる内容を液体や固体として排泄するという一連のプロセスは、たとえば、植物が、道管と師管から水分や養分を吸収し、日光や二酸化炭素を利用して養分を生成していることに比べると、遥かに生々しく、インパクトある行為ではないだろうか。

異物を体内に受け入れたり、それを内部に同化しようとするのは、たとえば生殖行為にも通じる出来事であるし、つまり「食べる」行為は、よく見ると奇妙であり、もちろんとるに足らずつまらなく、それでもやはり分かりにくい行為なのである。

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「Manger」(2014) は、Boris CHARMATS(Dance Museumのdirector)によって構想された作品で、人間の口が持てる可能性を追求した作品である。口がかなでる音、それを作家は、噛むときのメロディーと表現する。食べものがすりつぶされるときの音や、それらが肌と奏でる音、そして食らう人の声。それらがダンサーの身体を通じて、彼らの感覚を経て、総合的な表現となって、舞台全体で動きのインスタレーションとして提示される。「食べる」人間の肉体と食べられる物との限りなく狭い境界線を具体化しようとしている。

舞台上で繰り広げられるのは、もはやなぜ舞台上でそれを見せ、見せられる観客は硬直してそれを見守らねばならないのか、わけの分からない出来事の塊である。10数名の演技者たちは、破れる際にいちいちよい音のする「白い紙」のようなものを何枚も手にもって、唇や歯、手で破り、それを口の中に含むことを繰り返す。繰り返される咀嚼、次々と破られた紙は口の中に送り込まれる。演技者たちは、異なる音をたて、異なる形でそれを食べ、異なる表情を浮かべて咀嚼する。やがて孤立していた演技者は、歩み寄り、絡み合ったり、影響し合い、食べることを続ける。ちぎりまくられて、口に入れられなかった白い紙は床に散らばり、それを舐めるように拾い集め、あるいは咀嚼の末をれを体外に放り出し、そしてまた、体内に送り込むことを繰り返す演技者がいる。

演技者の行為は、我々の「食べる」行為のあり得べき姿、あるいはあり得る姿をひとつずつ具現化しているようでもあり、しかし単に実験的であるようでもある。そのカオティックな様子は、なるほどリアルである一方、表現として理解されることを期待してもいないようだ。

この作品は、「食べる」行為の多様なesquisse(素描)として、非常によく表現されており、研究されているけれど、ならば「食べる」我々をもっとあるままに肯定するアクションを、私は観劇中ずっと探していたのかもしれない。

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11/3/14

「死者のための和気あいあいとした儀式」/ Un rite convivial pour la mort

Un rite convivial pour la mort

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11月2日は死者の日でした。日本のお盆もそうですが、この日あるいはこの日が近くなると死者は生きている我々との距離を一時的に縮めるようです。生きている人々も普段の生活の中でなかなか彼らを訪れられないので、一年に一回お墓にお参りをして近況を伝えたり近況を聴いたりします。この日の数日前より今年は普段よりたいそう体調が悪くなったりもしました。もう11月3日になってしまったので、死者の日は終わりました。

9月29日から4日間、ルアーブルの美大での死についてのワークショップに自主Intervenantesみたいな感じで参加してきました。ルアーブルは歴史的な港町で、第一次世界大戦で街全体に壊滅的な打撃を受け、戦後に新しい街として造り直されました。パリからは電車で2時間半くらいです。ジャン=ノエル・ラファルグさんの企画したワークショップで、彼がこのために設置し、たびたび情報を更新し続けているブログLa Mortは充実しているので、関心のある方はご覧になってください。

このワークショップについての記事は、同じく彼のブログ:こちら(http://hyperbate.fr/dernier/?p=31586)に記載されています。参加した学生の作品やコンセプトがラファルグ氏によって解説されています。私は4日間は滞在できなかったのですが、最終日にもう一度参加し、数分のビデオを発表してきました。私のヴィジットについても記事内で触れてくださったので、ご覧ください。こちらに引用もしておきます。

ブログの引用はこちら。
Le dernier jour, Miki Okubo, qui a été en quelque sorte la marraine de cette semaine de travail, est venue nous montrer un petit film sur la mort de sa grand-mère et a nourri tout le monde avec des makis qu’elle a préparés et des cookies en forme de pièces de dix yens comme celles que l’on incinère avec les défunts pour qu’ils paient leur passage vers le monde de leurs ancêtres — un étudiant s’est intéressé à une tradition proche : dans l’antiquité gréco-romaine, on plaçait dans la bouche ou sur les yeux des défunts des pièces destinées à payer à Charon pour la traversée du Styx.

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写真をみると、おやつ食べてるみたいですが、ショートフィルムを見た後にそのストーリーを共有した皆でいっしょに食事を摂るという趣旨でした。タイトルのUn rite convivial pour la mortは、「死者のための和気あいあいとした儀式」という意味で、convivial(和気あいあい)はしばしば、皆で食事を楽しくとって打ち解けるような状態を現します。このビデオは、基本的に全て私の撮影した画像と家族によるイラストを素材とした、祖母の死に関わる、極めて私小説的なストーリーです。時間は8分くらいで、彼女の死をめぐっての一つの不思議な話と死の間接的原因になった食事時の出来事についてあわあわと語っています。10円玉が消えたこと、生きるための摂食は時に生を奪いうること、物語を共有すること、食を共有すること。ストーリーはこのような問題に焦点を当てています。

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Vimeoにアップロードしましたのでこちらでご覧ください。数日間ここに載せておきます。何せ家族が出演し過ぎているので、ご覧になっていただける際は、パスワード2222を入れていただければと思います、お願いします。ワークショップの折りに急いで作成したものなので、何かと無骨ですが、いずれ全体をまた作り直そうと思いますが。さしあたっては多くの方にご覧頂けますように。

2014年11月3日 大久保美紀

 

03/18/13

食することとセックスをすること / eating and sex act

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バナナをほおばりながら、もくもくと歩いていって、道ですれ違う人の視線が自分がバナナを食べる人に対して向けるのと比べ物にならないほど穏やかであることに気がつきながら、それでもしゅんとして食べようかがつがつと食べようか悩みながら歩いていって、ほっとすることにちょうどゴミ箱のある交差点で食べ終わってその黄色いバナナの皮をぽいと捨てたところ、ゴミ袋の一番上に私の捨てたのじゃない、私の捨てたのよりも酸っぱそうなバナナの皮がぽいっと捨ててあって、そうか、道で積極的にバナナを食べてもよいのだということに気がつく。部屋の外に出るということは、それだけで解らないことにたくさん出会うということであり、それを避けてはとおれないのであって、湿度が高くて目の奥が痛い日などにはそういったことは身にこたえる。

家の中にいても恐ろしいことは起こる。わたしはほとんどテレビを見ない。テレビから得られる情報や提示される物事の見方なんかにケッと思っているという訳でもなくて、それはたしかにもっとずっとずっと若いときにテレビ番組でコメントする人たちの恥ずかしげのない感じを見るにつけさらに恥ずかしくなるということをおぞましく思ったのだが、いまテレビを見ないのはただ単にみるチャンスがないからだ。大量の豚の死体が川から流れてくる映像が、それも大量の豚は川で溺死したのでまっさらに白っぽくなってフワフワに大きくなって、しかし川の流れの中でその身体はところどころに傷ついて、その生きていない肉の大量の塊をその川の近くに住む人が恐れながら、しかし乱暴に機械などを使って掃除しているという映像が画面を通じて音もなく次々に映し出された。システマチックに行われる家畜の管理などは、もちろん海の生き物を養殖することや、そもそも農耕も人間を養うという目的のもとに繰り広げられている崇高な営みであるらしいけれども、それは現代の人々の生活において、スーパーで食べ物を買う際にいろいろなことに気をつけるという以上に決して遡らないことになっており、大量の豚が運悪く病気になってしまったので燃やすのも費用のかさむことですので捨てられて川で溺死していることもとりわけ仕方なかったりやむおえなかったりするだけで、また今日もおいしく豚の生姜焼きなどが食べられるのである。わたしは肉を殆ど食べないけれども肉を食べて育ったし、魚は今でも食べることはあるし、植物は食べるし、いちいち何が混ざっておるか厳密に詳細に確認したりしないし、したがって自分を蚊帳の外に置いているのではぜんぜんない。それに、動物がかわいそうだから肉を食わないのでも何でもなく、それどころかどうしても摂取できないものなどはサーブされても放置しまくって日々を過ごしているので、もしそんなものが存在するならばだが「罪深さ」を競えば負ける気がしない。

ときどき、物を食するというサイクルから完全に逸脱することができたら、楽しいのではないかと思う。物を食するというのはサイクルである。だから、もちろんぐるぐる回る仕組みからぽーんと離れることができたら、それは楽しいに決まっているのである。たとえばお釈迦様も食物をどんどんシンプルにしていって、お水だけを飲んで、そのうちお水も飲まないでしばらくしばらくすると、それまでとは次元の違うことになったのである。人間のすることは中途半端なので、世の中にはずーっと続けるわけではない絶食なども存在する。宗教的な絶食も、健康のための絶食も、積極的な目的で行われる絶食のたぐいは、おそらく、そうやってサイクルから外れることによって、つまり今までただひたすら繰り返してきたことから決別するようなことなのだとおもう。つまりはそこで、決別したといっても完全に決別できないのは残念なことであり、身体を伴っているわれわれはこれがどんなに魅力的でも、とても意味のある形でこれと決別することがなかなかできない。一般に、身体を持ち続けるために食するサイクルを巡り続けることは必要不可欠であり、身体を持ち続けることが生きることのポジティブな意味と考えられているのは事実であり、大きな流れにしたがうことはある意味で楽であろうとおもう。

肉体が肉体としてやむおえず感じられるケースでふたつの強烈なものの例は、やはり、食べるサイクルに関わることが一つと、もう一つはセックスに関わることである。食べるサイクルは、異物が自分の(と思っている)肉体を通過して、なんらかの影響を与えてでてゆき、また入ってくる過程であり、セックスは異物との境界(があるならば)が破壊され、それが具体的な結果を伴う可能性を持つような過程である。食べるサイクルを逸脱することにたいして、セックスをするという営みから完全に決別することは比較的不可能ではないように思われる。ただし、セックスはしなければ死ぬというものではないために、逸脱したからといって、そんなに画期的に楽しそうでもない。

ひとつ言えるのは、セックスをしないまま食のサイクルに属し続けることはあるが、
食のサイクルから自由になったものにはセックスも必要ないということである。このことは、ありそうもないことに聞こえるかもしれないが、それはけっこうポジティブなことであって、ちょっとしたお札のように、それを遠くに想像するだけで、いろいろなことがもう恐ろしくない。