日本記号学会 5月12,13日 神戸にて。part2
2012年5月13日(世間は日曜日)、この日の朝は早い。京大の加藤くんの発表が午前10時、9時半には機材チェックで集合。
この日一番ドキドキしたのは、個人発表のレジュメが足りなくなって、ファミリーマートに走った時だ。準備しているうちに、要旨に載せた作品分析の内容が思いっきりはみ出し、やむなく長々とレジュメに載せた部分があったし、心を込めて作ったレジュメでもあった。それに、せっかく日本で発表できる!!とワクワクやってきて、コピー代をケチってレジュメが足りないなんて、色々とおわってる(と思う)。せっかくファミマに行ったのに、ホワイトチョコ&クランベリークッキーを買い損ねたことには後悔の念が絶えない。
「なぜ人は外国のファッションに憧れるのか」は、二日目のシンポジウムのテーマである。コーディネートの高馬さんとは、スペインのコルーニャの学会で二人でフランス語で発表したという楽しい思い出がある。今回のシンポジウムでは、企画段階から当日まで、大変お世話になった。リトアニアからスカイプ電話をかけてくださったり、準備もとても楽しく勉強になった。いや、私なんかほとんど何も働けておらず、高馬さん、皆さんに感謝の気持ちでいっぱいである。
高馬さんがお話しされたエキゾチズムと未熟性への着目はとっても興味深い。西洋の日本のファッションへの憧れは、常にエキゾチズムの視点に立脚してきた。未熟性と無臭性を強調する日本のモードは、「アジアで最も西洋化した国」というアイデンティティーを西洋にもう一度突き返し、その価値を問う、盾であり矛であるのだ。
ジェシカさんの発表内容は、私自身もゴスロリとロリータカルチャーの海外輸出について色々調べたことがあるので、めずらしくちょこっと予備知識があった。だが、彼女の提示する視点は、さすが西欧の女性のものである。Yoji Yamamoto Comme des Garçons などの80年代以降パリのプレタ•ポルテで活躍したジャパンデザイナーが提案していた、クールでカッコいいファッションに憧れて日本にやってきた彼女が目にしたのが、少女というか人形というか子ども?!のようなフリフリ•ロリロリのスタイル。この流行を目に前にして、「日本のファッション界に騙された!!!」と思ったらしい。この発言はなかなかカッコいいなと惚れ惚れした。日本という国は、しばしば、小さくて美しい繊細な箱に入った、ノスタルジックなおとぎ話のように、ヨーロッパの人々に妄想されている。(日本人が、フランスに行けばマリー•アント•ワネットの世界が広がっていると妄想するように。) そう言われてみれば、Rei Kawakuboのギャルソンのスタイルは海外のアクティブで格好良くてオシャレなそしてやっぱりややギャルソンヌな女性に心から愛されているようだけれども、そのスタイルは、国内でティーンズやヤングのファッション雑誌のページの大部分を占めるような、いわゆる「はやりのスタイル」には成り得ない。ニッポンの女の子は、可愛くなきゃいかんらしい。
池田さんが見せてくださった映画の抜粋に登場する大正ゴスロリ少女は凄かった。少女というか、本来のゴシックの未亡人のようですらある。フリフリを軽く着こなすというのがいかに難しいかわかる。あまりに感動したので写真を撮った。
私自身は、「キャラ的身体とファッション」というテーマで、現代的なメディア環境に生きる中で、私たちのボディイメージとファッションへの感覚が変化しているのではないか、という話をした。アバターやアイコン、プロフィール写真で自分の顔を常に覆いながら、ネット上でのコミュニケーションに長い時間浸っていると、自分の生々しい肉体はほぼ意識の外に追放されて、二次元的のキャラ的イメージとして「わたし」を感覚してる状況に気がつく。このことが、テーマ「外国ファッションへの憧れ」にどうか関わるのかというと、つまり自分をキャラクター的に認識している身体意識は、リアルな外国人ボディを熱烈に目指していた身体意識とはまったく違うということを指摘した。
身体意識について、考え始めて久しい。そういえば以前は、身体イメージにより焦点を当てていた。このテーマについて語るとき、幾つか割り切れないエレメントがあって、それは、国(文化圏)と世代(年齢)だ。あまりに当たり前の要素で申し訳ないけれども、「キャラ的だよね!」なんて、一つのことを爽やかに言ってのけてみたいときに、これは大きなダメージを及ぼす。現象や文化はものすごく強烈に国や世代に結びつけられているとは言え、「キャラ的身体、なんて、日本社会内だけで通じる内輪ネタだよね!」とか、「二次元的に自己像を認識してるなんて、ネット世代だけでしょう」とかいう風に、希少動物保護地区に隔離されてしまうともう負けである。
いや、これはそもそも戦いではない。私たちがこれからすべきことは、国(文化圏)と世代(年齢)を越境できるちからをもった言葉で語ることだ。日本のネットが、日本のケータイが、日本のサブカルが、この先どこにも着地すること無く、ふわふわと漂って独自でガラパゴス的な伝説となるのなら、私たちはこれを語り、書き、残す必要は無い。少なくとも私はそんなことに興味がない。
学会の反省からやや脱線してしまった。だが、海外からの一部の視線によって形作られる、日本のファッションやアートに対するエキゾチズム風のちやほやモードの上で浮かれることなく、そんなものをむしろ突っ返すくらいパワーのある議論なり、書物なり、物語なりが、必要とされていると思うし、そういうものを発信していきたいと思う。