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粒はほころぶ。 粒の存ることは、糾弾されない。
「粒はほころぶ。粒の存ることは、糾弾されない。」
どこまでも具体的にあるいは抽象的に、
かぎりなく実践的にあるいは観念的に、
ひとは生きることができるだろう。
極と極のあいだで、折衷しながら生きることも。
積年の、個別の生の積み重なりの、
「連続」と見なされる歴史、文化あるいは叡智。
あたかも織られた絹糸のように物語られているのは、
僅かに互いを引き寄せたり突き放したりする、
独立した粒のようなものである。
かぞく、ムラ、クニ、世界、宇宙に
触れ、関わり、包まれ、育まれ、
マテリアルである肉体のマテリアルとしての限界まで、
世界を浮遊し時間を潰す、
粒のようなものである。
ミズナラの木は地面を覆うほどのドングリを与え、
蝉は夜明けまでじっと羽のパリっとした乾燥を待つ。
食べ物がなければ在る場所を探す他なく、
それでもなければ施しを乞うしかない。
凍えて生きられないほど寒いなら智惠をしぼって暖まるか、
他者の恩恵に与って温めてもらうしかない。
そこに選択の余地はなく、
生はつまり粒のように、
マテリアルがほころびて、運動をやめるまで、
そっとされるだけである。
意味を創り、詩を書き、音を奏で、ダンスする。
食欲を満たし、性欲を分け合い、睡眠し排泄する。
生そのものは、そっとされるだけである。
粒はほころぶ。
粒の存在は、糾弾されない。
創られた意味の糖衣がたとえ失われても、
そこに在り、生きることは、
ひたすらに明らかである。
Reiko Nonaka « Double Vie » : la gémellité d’une vie double / 野中玲子「ダブル・ライフ」: 双子性
Intervention de Reiko Nonaka, artiste photographe
Reiko Nonakaさんは、フランス、パリを拠点に創作・発表をされている写真家でおられ、今回パリ第8大学造形芸術学科の授業 »Exposition de soi »の12月3日の講義にいらっしゃっていただき、ご自身の最近の作品のコンセプトや制作のお話をしていただいた。
主に紹介していただいた作品は「Double vie」(ダブル・ライフ)で、双子のコンストラクティド・ポートレートのシリーズである。モデルは、全て本物の双子である。ご存知のように、双子には、一卵性双生児と二卵性のものがある。(と思ったら、胎盤が融合するパタンなどもあるのですね… というわけで説明はこちらを:site baby twins)野中さんは2013年10月にパリで本作品「Double vie」の展覧会をされている。
野中さんがモデルとして主に依頼する双子は、一卵性の双子、文字通りの「Double vie」を共有する人々の存在に関心を抱いている。アーティストが関心を抱くのは「双子性」(gémellité)と呼ばれる、双子間の共感や共鳴、同じ家族に産まれるのだから、生後の環境のシェアや教育のシェアは無論言うまでもないが、それ以上の結びつきを証明する「なにか」の存在である。
彼らはしばしば、殆どの時間を共に過ごす子ども時代が終わり、それぞれの道を歩む学生時代、そして、成人してもなお、精神的・身体的な影響の感覚を持ち続けている。それは、もともと一つの細胞から全ての遺伝情報を共有し「ダブル」になったのだから、と想像するのはたやすくロマンティックであるのだが、非双子である人々には経験することのないものが、ダブル・ライフの中には流れているようなのである。そのことを、野中さんの写真は、ある意味で可視化しようと試みる。
野中さんは依頼するモデルに出会い、撮影まで、十分な対話の時間をとる。どのようなエピソードがあるか、彼らの双子としての人生の特徴は何か、それぞれの共通点・相違点はなにか、面と向かった彼らから読み取るもの、それら全てを、画面の中に再構成する。作品内のコンポジションは、物や家具、ポーズ、衣服を含め、アーティストが彼らとのやり取りのなかで着想し、構築したものだ。
「双子性」(gémellité)の探求は続く。100組ほどの双子を撮影したいと語るアーティストは、我々に自伝的なヴィデオを紹介した。赤いずきんと青いずきん、お気に入りの絵本を手にしている二人の幼い女の子が並んで座っている写真。
「Double vie」の作者であるReiko Nonakaは自身が一卵性の双子として生まれ、「双子性」(gémellité)について問いながら生きてきた張本人である。
奇しくも講義受講者内にも双子が二人いた。あるいは皆さんの知る双子もいつか彼女のモデルとなるのかもしれない。
双子としてのダブル・ライフに関わらず、我々は誰一人として自分の人生以外の人生を経験することの出来ない身である。双子同士は双子としての経験を互いに予想するものの、別の双子の人生は経験不可能である。しかし、モデルと語り合い、彼らの双子性を再現するアーティストの試みはなかなかに面白く、それは言わば双子性という不可触のものを世界に開いてみようとする勇敢な試みであるようにすら思える。
Interventionに感謝をこめて。
Reiko Nonaka : website http://www.reikononaka.com
Marcel Duchamp La peinture, même / マルセル・デュシャン ペインティング、さえも
du 24 septembre 2014 – au 5 janvier 2015
Centre Pompidou, Paris, France
Site web : pompidou exposition
9月24日から開催されていて始まった時、行かねば!と思ったのをハッキリ覚えているのに、すっかり3ヶ月が経過してしまったのにはちょっと驚いた。12月31日、2014年最後の展覧会はMarcel DuchampのLa peinture, mêmeです。
Jardin gelé, le 1 janvier 2015
Le matin du 1er janvier 2015,
dans un jardin était bien gelé,
l’air froid, le rayon du soleil calme,
les oiseaux qui sifflent sur les arbres,
je respire du fond de mes poumons,
afin que je me rappelle l’hiver de mon pays,
celui qui me réveille,
celui qui éveille mon corps et esprit…
Je vous souhaite une année heureuse et paisible.
大谷悠:ソロ・ウエディング, Solo Wedding: HARU OTANI / 「独り挙式の意味と無意味」
「独り挙式の意味と無意味」
Solo Wedding
結婚はしていません。
したこともないし、する予定もありません。
それでも無関心でいられないのはなぜなのか。
ウエディングドレス屋のショーウインドウにヘレン・ケラーの無数の指紋(穂村弘)
考えながらブルーになってきたとき、そのブルーをこの短歌に肯定された気がして、自分でやってしまおうと思いました。
王子様を待ってない。
結婚したら負けだとも思ってない。
どちらにせよ、私はソロで、ここにいる。
(大谷悠)

2014年11月26日、パリの北郊外はサン・ドニ、パリ第8大学までお越し頂いて、大谷悠さんに作品 »Solo Wedding« を披露していただいた。公演が行なわれたのは、私の教えている »Exposition de soi »(自己表象)の講義内であったが、宣伝内容をご存知の方もいらっしゃるように(salon de mimi past article)、講義受講者に限らず、一般の方、学外の方にも一部お越し頂くことが出来たのは幸いであった。この場をおかりし、本公演のために遠方までお越し頂いた方々に感謝の意を表したい。
さて、Solo Weddingは、コンテンポラリー・ダンサーの大谷悠さんの自作自演の作品で、かの著名な結婚行進曲(メンデルスゾーン)に乗り、ウェディングドレス風の白い衣装を纏った大谷が踊るソロダンス作品である。2014年に構想されたばかりの本作品は、国内の発表会で初演され、フランスのパリ第8大学造形芸術学部の学生達に向けての公演は二度目の発表となった。すでにこの作品はつい12月22日に京都大学にて吉岡洋さんのオーガナイズしたエルキ・フータモさんの特殊講義後、三度目の公演が行なわれ、さらには明日、横浜での公演も予定されていると言う。極寒の中薄っぺらいウエディングドレスで舞う花嫁の姿は、冬が深まるほどにそのソロ感を増すのではないかと想像し、思わず楽しくなってしまう。
パリ公演が行われたのは、大学正門から造形芸術学部の建物入り口に進む手前の広い吹き抜けの空間で、真っ白な壁にガラス張りの明るい素敵な〈隙間〉である。大谷からこっそり届いた練習ヴィデオと衣装写真を目にし、即座に目星を付けていた場所。此処でないと嫌というほどイメージにぴったりだった。通りすがりの学生や職員もつい足を止める。視線の先には、真っ白なドレスとスニーカーの黒い短髪の花嫁。音楽が鳴る。1980年よりヴァンセンヌに移転してから一貫して若い表現者の自由を擁護してきたパリ第8大学だからこそできる公認のゲリラ公演。若い観客は、初めての海外公演に望む踊り手の熱意に敬意を払う。真剣なまなざしがこの異名のダンス〈Solo Wedding〉に注がれた。

大谷悠は、幼少よりバレエ、ジャズ、タップ、コンテンポラリーと様々なダンスを学び、在学中より自身で振り付けも行なってきた。写真家として活動する傍ら、演劇作品にも参加している。大谷の表現は、時に象徴的で、時に概念的であるのだが、彼女の表現にしばしば見いだされる「自然の流れを自ら遮断するもの」の存在は、作品全体の中にある種の抵抗と予定調和しない意味を創り出すす。一貫した「意味」をなし崩しに理解されることを拒み、それなのに、なおも寄り添って共に考えるように我々を繋ぎ留めるつよい意志が伝わってくる。
Solo Weddingは、孤高の花嫁が、自らの憂いを誰に訴えるというのでもなく淡々と独白する作品である。作品中には明白な孤独の描写、つまり、花婿の不在や、不在を補完する花嫁自身の花婿化の動作が表されるが、それらは全体として、世界の中の孤独という直接感情からは遠く距離をとる花嫁の夢幻の遊びの中に収斂されてしまっている。無邪気に遊ぶ花嫁は、時々現実世界に引き戻されそうになりながらも、やはり象徴的な宙空を彷徨う。
独り挙式の意味を読み取ろうとすること、あるいはその無意味を受け入れること。
二つのチャレンジに大きな違いはなく、いずれの出会いを選ぼうとも、花嫁は我々にたたみかけ、そして遠ざかるだろう。我々もまた、問いながら遊びに没頭すればいいのだろうか?
それは花嫁に出会ってから考えても良い。
*** 作品 »Solo Wedding »をCourt-métrage作品にする予定で、悠さんと撮影に行きました。完成をお楽しみにー!





































































































