松田有加里 / Matsuda Yukari, FANTASIA in Gallery サラ(改訂)

松田有加里 FANTASIA ギャラリー•サラ Gallery Sara

松田有加里さんと初めてお会いしたのは、2011年11月にパリ•バスティーユ広場のギャラリー•メゾンダールでの個展においてである。この時、彼女の作品が持つ雰囲気やテクスチャー、幾つかの一貫した主題に個人的関心を抱き、その翌年2012年の3月に大阪でインタビューさせていただいた。この記事は、拙ブログ「松田有加里/Yukari Matsuda, 奏でられるイメージ」に掲載しているのでお読みいただければ幸いです。その後、彼女のシリーズとしての作品、FANTASIAの第三楽章(PARIS)までを包括する展覧会が、滋賀県比良山のふもと、ギャラリー•サラで12月23日まで開催されているということで、こちらにお邪魔し、会期も終盤の在廊でお忙しい中であったにもかかわらず、お話をいただいたことに感謝したい。

Place de la Bastille, Paris

FANTASIAは何よりもまず、インスタレーション的、かつ音楽的に構想されている。沈黙した画廊でのシンプルな写真展示であったことはこれまで一度もない。彼女は写真家として活動を始める以前、ピアニストであったし、そもそも生まれながら活発な表現者である。さて、FANTASIAの展示空間には、音楽が鳴り響いており、それは遠くから聴こえるようでもあり、時々はっきりと意味を紡ぐようでもある。FANTASIAは現在、三楽章までが発表されているのだが、今回のギャラリー•サラにおける展覧会では、その全貌が一挙に公開されたという点で、彼女がこれまで対峙してきた被写体とそれを表現する方法を結ぶ松田自身の問題意識、さらには、全体的な世界観を一望することが出来る貴重な機会であったといえよう。

FANTASIAの森に足を踏み入れるその前に、今回私自身も初めてお邪魔させていただいたギャラリー•サラという展示空間がアーティストに提供している特殊性について少しだけご紹介させていただきたい。ギャラリー•サラは、滋賀県比良山の麓に数年前にリニューアルオープンした趣のある展示空間で、ロッジ風のお洒落な扉を備えた建築がとても可愛らしいギャラリーである。お庭はギャラリーをぐるりと囲み、春や夏には草花がにぎやかに茂り、秋と冬は葉を落とし引き締まった木々の凛とした表情が美しい。当ギャラリーの代表で陶芸家であられる塚原さんがデザインした陶器のリュミエールが印象的だ。中に一歩入れば、ガラス張りの四角い中庭に明るい色の苔の丘が我々を出迎えてくれる。丘の麓は断片となった陶器で飾られていて、様々な模様や色に楽しいきぶんになる。この中庭を一周するように展示空間が与えられている。そして、入り口の正面に位置する一つ奥まった畳のお部屋があり、このギャラリーの特徴的な鑑賞ルートを作り出す。私が訪れたその日は、展覧会も終盤で多くの鑑賞者で賑わっていたのだが、この不思議な空間では人々はすれ違うけれども干渉せず、それでいて一緒に一人の作家の作品を見ているような温かい連帯感がただよう。

本ギャラリーは、湖西線比良駅と近江舞子駅の間に位置し、近江舞子駅からの送迎もしてくださる。近隣の山並みもほんとうに素晴らしいのでぜひ一度訪れていただきたい。

gallery サラ


FANTASIA : A Song born from fantasy, not limited by form.

形式が重要視される西洋音楽の中心に身を置きながら幻想的で自由である歌、これを彼女が自分の作品テーマとして選び取ったことは、必然のようにさえ思われる。彼女が暗室で浮かび上がらせる色と形は、いつも不思議な印象でその表面を覆っている。前回紹介したように、彼女の被写体は、取り壊しが決まった明治時代のレジデンスや、今は立ち入りが禁じられているような老朽化した建造物、現存する最古の学生寮として知られる京都大学の吉田寮など、かつてそこにあった人々の生活を記憶するものや現在も記憶を上塗りし続けているもの。実は、消え行くそれらを写真に残すことと、デジタル化する写真の危機に直面しながら直観的な手焼きにしか実現できない表現を守ることは彼女の中でパラレルなミッションとして認識されている。人々がどんどんデジタル写真へと移行して行く中で、今日上質の印画紙を手に入れることすら簡単ではなくなってきていると言う。彼女が主に使用している紙はドイツ製のトーション紙だが、過度ではない光沢と深みがあり、確かに彼女の浮かび上がらせる色調を引き立てる効果がある。彼女は、一貫して暗室で手焼き写真を作り続けてきた。学校ではデジタル写真についても学んだし、デジタルカメラを使って出来ることの可能性はもちろん肯定的に受け止めている。ただし、技術革新によってあらゆることが平均化されてしまい、あるいは非常に器用にできるようになったために、本来作りたいものがあるはずのアーティスト自身が、技術の海の中で視野を失ってしまうことが問題だと言う。ただテクノロジーの可能性を追求することに終始してしまう今日ではありふれた現実を目の当たりにしながら、それでも彼女の作りたいものは、有無を言わせない数学の計算だけではすべてをクリアーに説明することの出来ない感覚的な音楽である。

 

「 »内なる目で見た写真 »を表現するとどうなるか、ということに興味があるのです。」

 

ある対象にじっと目を凝らすとき、あるいは、目を凝らしているようで自己の内側では感情が溢れ出すような瞬間あがり、それはつまり見ているようで何をも見ていない瞬間だ。そのようなときにシャッターを切る写真は、ややもすればその平らな印画紙の上にのっぺりと漠然としたしかし完全なプロポーションで姿を現すのみであって、それは端正でリアルらしいイメージを描き出す。通常、人々が写真に求めているのはこの側面であるだろうし、学校で教えられる「正しい写真」というのもこれを意味する。松田有加里は、写真のサイエンスに意味もなく首を縦に振ることをしない。当たり前の写真を覆し、暗室で静かに身体的な反応に集中する。


たとえばピンぼけ写真などは、通常、写真としては典型的に嫌われる。松田の作品にはピンぼけ写真が数多く登場する。それも、とても深くぼけているイメージだ。私はこの深く遠くずれていく写真が比較的、彼女の視線を再現しているイメージであるように感じてきた。とりわけ、パリのカフェや道で撮影された作品は、音と色以外の五感に強く訴えるような作品がある。もちろん、完全なピンぼけ写真以外にも、紅葉に飾られた車庫前やホテルの窓なども秀逸である。

私は彼女をただの写真家というよりはむしろややインスタレーションを行うアーティストのように捉えるほうがいいのだと勝手に考えている。例えば、彼女は展示空間に併せて、版の大きさや額を対応させるのはもちろんのこと、印画紙を変えたり、ストーリー構成を組み替えたり、音の扱いも柔軟に変化させる。それがその都度、ぴたっとはまる。こうあるべきというより、もともとこうだったと思わせるほどに。そしてその感覚は、各々の写真の内部に立ち戻ってみても感じ取ることができるのだ。

 

今回第三楽章にあたるParisを見ることができて、私は個人的にとても快感だったのだが、それはきっと、沢山の写真家が見てきた「リアルなパリ」ではなく、大きくずれたり溢れたようなイメージ、つまりは自由に幻想的な異端のパリの手触りを感じ得たことが爽快だったのだと、そう思う。

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