眠ることについて/ about the sleep

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眠ることは気持ちがいい。このことを後ろめたくなく言えるようになったのは、ここ数年のことである。眠ることが気持ちが悪かったのでは決してなく、素直に気持ちがいいと言えなかったのである。

 

私が覚えている限り、あるいは聞いて知っている限り、私は眠らない赤ん坊であったし眠らない子どもであった。赤ん坊は眠るはずであるから、眠らないならばなにか眠れない理由があったからに違いない。子ども時代の思い出としてよく覚えているのは、眠る時間が無駄であるという強烈な信念を小学生の自分が持っていたことであり、あまりに遅く眠ると親に怒られるというので、朝5時に目覚ましを掛けてこっそり起きて本を読んだり、算数の問題集を解いたり理科の資料集や恐竜や生き物の図鑑を眺めたりしていた(むろん、眠いのでそれが目覚ましい効果をあげたとも思えない)。とにかく、5時間以上眠ることは自分の中のルール違反であり、ナマケモノの始まりであり(ちなみに、アニマルとしてのナマケモノは素敵な生態で大好きなのだが)、限られた人生の時間を無駄にする悪いことなのだと思っていた。なぜだか分からないが眠ることへの罪悪感は殊の外深く、昼寝も出来なかった。学校の授業中、殆ど授業を聞いたことがないのは眠っていたからではなく内職(その授業の内容とは異なる単元あるいは教科の自習をすること)をしていたからであり、寝落ちしても自分を責めずに済んだのは、せいぜい、電車や地下鉄の中くらいである。もっぱら、移動手段は自転車だったので、こぎながら居眠りというわけにはいかず、したがってこれもあまり叶わぬルール違反だった。

 

この思い込みと習慣は大学に入って一人暮らしをするようになっても続き、私は引っ越すと凝りもせず実家で使っていたのと同じタイプのロフトベッドを買って、超低い天井なのにこれを組み立てて設置し、ロフトベッドというか、イメージとしてはカプセルホテルの域というか、寝台列車のいちばん低い等級の3段ベッドの真ん中というか、そんな寝床が十代終わりかけの私の日常だった。時々頭をぶつけたし、酔っぱらって帰ってきた日にはよじ登るのが一苦労だ。大学一年生の時いちど、自力で家に辿り着けなくなり友人が搬送してくれたが、さすがにカプセルホテル級の窮屈さを誇るロフトベッドまで私を運ぶことは諦めて、広々とした床に放置してくれたということもあった。(そうそう、いちばん自己への思いやりに欠けた、あるいは自己鍛錬に晒していた経験としては、インテリア的にとてもブサイクに思えて、ハシゴを設置をやめた時期であろう。これはかなりスポーティーな決断で、つまり眠るためには本格的に天井付近までよじ登らねばならない。もちろん、不可能ではないのだが。)この頃私は、それでも少しずつ、眠りを魅力的に語る人々に憧れを抱き始めていたように思う。自分は得体の知れない罪悪感のため、心おきなく眠ることができないので、友人や知人がうっとりしながら彼らの眠りの素晴らしさを語るのを聞くたびに、自分が辿り着けない至高の幸福がそこにあるように感じられて、純粋に、憧れた。

 

そういえば私が出会った人々のうち、かなり多くの人々は、友人、男友達も女友達も、眠るのが好きな人たちだった。眠るのがいちばん好きだと断言する人もおり、趣味は寝ることだと言い放つ人もおり、鼻血が出るほど驚いた。

 

いっぽう、私にも眠りに関して自慢できることがひとつだけあり、それは、私は今まで眠れなくて困ったことがないということだ。それは私に悩みがないからとか本気の心配事がないからだと言われそうだが、私にもそれなりに悩みくらいあり本気で心配している物事も幾つもある。でもぜったい眠れるのである。私は、猫の言葉も社会生活も、亀の欲望もサボテンの体調も手に取るように聴こえてくるのだが、不眠症の方々の苦しみはほんとうに未知なるものである。私はこのことを次のように考えている。

私は眠る時いつでも眠ることが出来る、なぜなら私は眠ってしまうときにならないと眠らないから。

 

。。。

 

人生の、少しずつではあるが、時間が経つにつれ、友人達が言い放った憧れの名ゼリフ、「眠るのは気持ちいい!」に実感を伴って賛同できるような気がしてきた。たしかに、カプセルホテル的ロフトベッドより、しっかりしたお布団とパリっとして同時にちょっとひんやりするシーツとか、固めのマットレスのごろごろ寝返りがうちまくれるベッドとか、身体が垂直から水平になったときに地球にしゅーっと吸い込まれそうになる感じとか、そういった感覚は、たしかに「気持ちいい」。それでもやっぱり私は眠ることそれ自体に興味がない。なぜなら、眠るためには眠る以外の意味が必要であり、その意味が充溢していると感じられるときにのみ、眠ることが幸せに思えるからだ。眠るのに眠る以外の意味があるというのは、たとえば、進まない仕事があって寝てしまえば明日フレッシュなアイディアが思いつくかもしれない、とポジティブに信じられる夜であったり、睡眠時間を確保することによって体調が維持できると思い込める時であったり、あるいは見たい素敵な夢の続きがあるとか、一緒に眠ることによって愛する人と過ぎ去っていく時間を共有することができるとか、そういったことである。常に意味は外側にあり、その何かに身を任せているときにしか、眠りの喜びを享受することが出来ないのである。

 

こういったことは、眠りだけに言えることではない。現代の私たちの生活では様々な行為ー生物的に本質的であるような行為ーがしばしばこのような方法で納得されており、このような方法でしか納得されていない。たとえば、食べることや、セックスをすることなどもその例にもれない。

 

なぜそれ自体に喜べず、なぜそのものの幸福を感じられないのか。あるいは、それをキャッチするレセプタが誰も知らないところでこっそりと破壊されているのかもしれない。

 

私は、すこし仲良くなった猫や犬であれば、どのように触ってあげると最も気持ちがいいかわかる。人間でもわりと、わかる。そうやって触ってもらって喉をごろごろ鳴らしている猫のとても繊細な表情の移り変わるのを見ていると、羨ましく思えた睡眠礼賛の精神も、あるいは、可哀想なアンチ睡眠主義の想い出も、つまりはその猫の細めた目の、切れ目の中に吸収されてしまって、そのディテールはもはや知ることができないということになる。それはほんとうのことで、それで、いい。

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