Mannequin Corp de la Mode / マヌカン、ファッションの身体展 @Les Docks

「Mannequin Corp de la Mode (マヌカン、ファッションの身体)」展を訪れた。人間の身体のかたちに関わること、マネキン人形のこと、オブジェとしての肉体のこと。それらのトピックは言い尽くされてきたようで、しかし、決して言い尽くせないことのようでもある。展覧会は、現在は改装閉鎖中のパリ•ガリエラ美術館の別館として2008年にオープンしたレ•ドック(Les Docks, cités de la mode et du désign) で2月16日から5月19日まで開催されている。

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site : Mannequin Corp de la Mode

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展覧会の冒頭には、三つのマネキンの頭部(左より、1860年頃の紙製の頭部、1880年代、20世紀初頭)と二体のトルソ(左より、1890年頃、20世紀初頭)。いくらクチュール用のトルソといっても今日の我々の目から見るとあまりに不自然な形をしている。京都服飾文化財団の研究成果によると、女性身体のかたちが18世紀から現代を生きる我々のものにいたるまでに大きな変化があったことが明らかになっている。下の図をご覧頂きたい。現代以外の5体のトルソは京都服飾文化財団のもの、現代人のものは日本のマネキン老舗の七彩マネキンのトルソである。この中で最もショッキングなのはおそらく、1900年頃のトルソのフォルムではないだろうか。いわゆるコルセットで締め上げられ、胸はデコルテから美しく露出するために最大限に持ち上げられ、腰回りはクリノリンで覆われていた時代の身体のかたち。強烈な鳩胸に無理矢理くびれたウエストと両サイドに張った腰。いったい、前時代およびその次のトルソと比べてこんなにも身体のかたちが変わり得るだろうか?そのすぐ後には良く知られているように、ファム•オブジェとして物理的に締め付けられた女性身体の解放が行われたので、あたかもストレスから解放された身体であるというように表象されている。(参考:『身体の夢—ファッションor見えないコルセット』)

18th C., early 19th C., mid 19th C.

18th C., early 19th C., mid 19th C.

 

c.1900, 1920's, the present day

c.1900, 1920’s, the present day

私はかつてこの分かりやすい説明をその分かりやすさ故に快く感じていたのだが、今は同じ理由故につまらないとも感じている。そもそも、これは身体のかたちの変化ではなく、衣服を鋳型としてそのなかにシリコンとかコンクリートを流し込んだならば、こんな風になりますよ、というモデルに過ぎず、つまりは洋服の内側の形の移り変わりを表したモデルである。「洋服の内側=身体」でないのは自明だ。現代人の我々だって、ヒップアップ•バストアップ下着とか、お腹を締め付ける腹巻きとかふくらはぎやももをカバーするストッキングとかあるはずで、それらのなかに包まれている時と、全て脱いだ裸の身体では同じ形ではあり得ない。そもそも、1900年代の印象派の画家たちが描いた奇妙な形をしたドレスを着こなす貴族女性たちはたしかに苦労して服を着ていたに違いない。しかしながら、現代を生きる我々がその時代の着衣に比べてそれほどクールにで服を着るという営為をやりこなしているとは到底思えない。上述したように、我々現代人は頭部からつま先に至るまで、物理的にも抽象的にもそれは細かく造形されているではないか。さらに騙されるべきでないのは、このデータを見るとあたかもその変化は(時間のスパンは違うものの)人類が進化の中で骨格やプロポーションが変化してきたことと関係があるように思われるかもしれないが、こんなものはごく限られた階層のごく限られた地域のごく限られた人口の歴史に過ぎないのである。

GUY Bourdin, Charles Jourdan été 1978

GUY Bourdin, Charles Jourdan été 1978

さて、話を「Mannequin Corp de la Mode (マヌカン、ファッションの身体)」展に戻そう。GUY Bourdin(1928−1991)はパリ生まれの写真家である。1948-1949年にダカールおよびセネガルで兵役に服し、空軍在籍時に写真を学んだ。軍を退役した後、マンレイに出会い、展覧会も行うようになる。その後1955年にはファッション写真に取り組み、ヴォーグに掲載される。Bourdinの写真はたしかにハリウッド女優やオートクチュールブランドを美しく撮影するような洗練された写真でありながら、時とすると撮影された女は人間ではなく人形だとかマネキン、あるいは生命のないからだであるかのような奇妙な印象を与えるものがある。

Helmut Newton, 1981

Helmut Newton, 1981

ドイツ生れの世界的写真家ヘルムート•ニュートン(1920−2004)のSie Kommen, Naked and Dressed(1981)はVogue Parisに掲載された有名な作品である。4人のモデルたちがさっそうに歩く様子。左はコスチュームで、右は裸で。完全に再構成され、全く同じポーズをとる2枚の写真は我々にもしも透視能力たるものが備わっているならば、この2枚の写真が重ね合わされ、それらが交互に点滅するように知覚されるのかもしれない。そんな覗きのフェティシズムがこの作品にはうかがえる。しかし、ニュートンが実際にこの2枚の写真を撮影するプロセスとそれを演じる4人のモデルたちの努力を考えると、この作品はたちまち相当滑稽な物語として書き換えられ、あるいはひょっとしたら覗きのフェティシズムなどというロマンティックなものではなくて(実はその反対方向に世界が在る、つまりは)裸の王様なのではないか?この作品は、そのように考えたほうがずっと内省的である。

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1954年のある靴のプレゼンテーションにおける写真(上)。素敵な靴を見るために、モデルの身体は必要ない。モデルの身体がどのようであるかに左右される必要はないし、どのような色の服を纏うかについても想像の自由が見るものの側に残されている。ここまでやるならば顔も隠して足タレ(足タレント)にすればよいのにとも思うが、さすがにライブのプレゼンテーションにおいて足だけではあまりに無生命的な印象を与えるのだろう。
それから60年が経過した今、我々は同じ手法で洋服を売っている(下)。e-commerceのサイトではたいていモデルの頭部がない。衣服を紹介するのは、とりわけ際立った印象を与えないほっそりした「普通の」身体。このいかにも無味無臭の身体はサイトを個人個人がそこに自分の身体や顔をあてはめる際に出来るだけ差し障りのないように(つまり、購買意欲を阻害せず、ひっかかりを与えないために)準備されている。

mannequins de taille normale chez H&M

mannequins de taille normale chez H&M

そういえば、ついこの間意外なほど世間を騒がせた「普通サイズのマネキン」(H&Mの店頭に並んだ)というのがある。通常マネキンは身長は平均より大きく、身体は平均よりも痩せて作られ、どのサイズの服でも着られるようにある意味でオールマイティに作られているのだが、この普通サイズのマネキンは、40とか42(比較的ふくよかなサイズ)、あるいは38(いわゆる平均的な体型)を再現したものである。このマネキンの登場は一時インターネットやメディアを賑わし、倫理や健康概念、広い分野に渡る議論を巻き起こしたのだが、インターネットやシュミレーションで洋服を購入することもあり、身体が必ずしも物質性を伴わないとすら言えるような今日、このマネキンがスキャンダラスになる現象自体が不審に感じられる。あるいはまた、そのようであるからこそ、リアルに目の前に提示された生々しくリアルな形をした見慣れないマネキンに挙動不審になってしまうということだろうか。

マネキンも生身のモデルも本当は普通サイズではなかったのですよ、ということに敢えて気がつくことが新鮮である現実もまた滑稽である。あるいは、気がつく必要があるとすれば、それはいったい誰の、何のために?

 

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