2012年1月7日〜4月8日、大阪の国立国際美術館で行われている草間彌生の『永遠の永遠の永遠』展を訪れた。
草間彌生展は回顧展的なエクスポをパリのポンピドーで12月に見たところであった。←草間彌生展レポートはこちら。(ヤヨイラッシュはとどまることを知らず、現在ロンドンのテート・モダンでもYayoi Kusama展が6月5日まで開催中である。tate modern London )だが今回、最新の140枚を超える「わが永遠の魂」のシリーズや、それに先行して2004〜2007年製作された50点の絵画作品が一挙に展示されるということで、ぜひとも訪れたいと思っていた。
一時帰国の終盤の、よく晴れて京阪電車の旅が素敵な日和に、大尊敬する美学の先生とこの展覧会に訪れることができたのは非常にハッピーなことであった。
この展覧会のスタートである地下3階まで下ってくると、外のお天気などどうでも良いと思えるほどに外界と隔絶される。さきほども述べたように、今回の展覧会は草間彌生の2004年以降の絵画作品を一挙に公開することに主眼が置かれており、パリのポンピドー・センターで展示されたようなソフト・スカルプチュアや大きな彫刻の展示やパフォーマンスビデオの放映などはあまりない。絵画以外の作品では、「チューリップに愛をこめて、永遠に祈る」(写真)と「魂の灯」がインスタレーションとして展示されている。そして、最後には草間彌生制作中の場面を収録したドキュメンタリー・ビデオが展覧会を締めくくる。
絵画作品のエリアでは写真撮影はおしなべて禁止。チューリップのお部屋と光のお部屋、地下2階の南瓜の彫刻など、一部作品に関して撮影が可能であり、鑑賞者は撮影エリアに達した瞬間にあたかも義務か使命であるかのようにしてバッグからデジカメを取り出す。そういえば鑑賞者はダントツ女性が多かった。
ヤヨイ・クサマはオノ・ヨーコについで今日海外で高い評価を受けている日本女性アーティストであるだろう。そして海外でのクサマ評価には日本人アイデンティティに結び付けられたものが少なくない。モチーフの執拗な反復や非常に細かい模様を丁寧に実現したペインティングは、日本人のきめ細やかさやクオリティーの高い仕事を連想させるらしい。さらには、赤や黄色のビビッドなドットのスカルプチュアやペインティングは、ジャパン・ポップの代名詞である「Kwaii」らしさを鑑賞者に想起させるらしい。このことは、彼女の執拗な反復の表面を見つめるたび目眩や吐き気をもよおしかけている私としては驚嘆せざるを得ないのだが、たしかに、コマーシャルな日本のアートシーンにおいて、ヤヨイグッズは可愛い物として販売され、草間彌生は可愛いおばあちゃんだったりもするし、とにかくそういった作品イメージが流通しているのだから、そういうものなのだろうと諦められないこともない。
草間彌生はアウトサイダーアーティストではない。そういうことになっているし、現代アートの専門家の答えによっても草間彌生はインサイダーアーティストであるらしい。今日やや論争のある「アウトサイダー・アート」について議論することはたしかに興味深いく面白くもあるのだが、その一方でひょっとしたら無意味であり何も生み出さない行為であるかもしれないなどと、悩んだりしているため、今ここでアウトサイダーとヤヨイの関係性について言葉遊びをするのはやめておく。
ただし、この展覧会の第一ページを構成する白カンヴァスにモノクロのシルクスクリーンの一連の作品について、これらが草間彌生らしいとか草間彌生にしか描けないとか、そんな風に評価することは不可能だ。少なくとも私には。一緒に展覧会を訪れてくださった先生がおっしゃっていたが、ヤヨイペインティングを埋め尽くしていた、反復する顔や目のイメージ、模様、どこがはじまりどこでおわるともない画面構成は、統合失調症の精神病患者の絵描く絵のなかに一般的によく見られるイメージだそうだ。ここ数年は特に、アウトサイダーアートが注目を浴び、特定のギャラリーや美術館においてこれらを目にすることが珍しくないせいか、デジャヴの印象がぬぐいきれないのが正直な印象だ。
さらに展覧会は正方形を基調としたカラーのペインティングの章へと進むが、状況はさして変わらない。強烈な色彩を帯びながらしかし似通ったイメージが繰り返される。「愛はとこしえ」と「わが永遠の魂」シリーズで構成される2つの大きな部屋の作品は、ぜひ展覧会に足を運んでいただいて直接ご覧頂きたい。類まれと思われるか、デジャヴと感じられるか、二者択一であると思うからだ。
新作ポートレートの3枚の大きな絵画はいずれも227.3×181.8cmとかなり大きなサイズであり、2011年に製作された草間彌生の自画像である。素晴らしい存在感を放ってそこにあり、いずれも少女であるかかなり若い時分の自己が描かれている。いや、これらは過去の自画像などではなく、現在の自画像、草間彌生はこの青春であり純真である心象をなおもっているのかもしれない。
鑑賞者をいたたまれない気分にするのがこの展覧会の締めくくり、展覧会としていたってまっとうな構成であるけれど、製作過程とインタビューを収録したドキュメンタリー・ビデオの放映である。いったい何がそんなにいたたまれないのか。1929年生の彼女が生き続けるためになおも作り続けている姿なのか、もはや作らされているようにも見える姿なのか、これを見た直後はなかなかピンとくる言葉が見つからなかった。しかし、今、一言で言うなら「終末のイメージ」を目にした辛さみたいなものなのかもしれない。どんなにエネルギッシュであった表現者もいつかは限定された方法に閉じ込められ、他人の力を借りながら、他者の意思に侵されながら、妥協がいかなるものかを知るのではないか。それを人は「大成」とか「まとまり」とかしょうもない言葉を選んで語るのではないか。
大の字を3つ付けたいほどに大好きな画家にアンリ・マチスがいるが、彼が晩年、絵を描くことができなくなり、貼り絵などアシスタントが代行する制作を行なっていたことを知っても、ここまでつらい気持ちにはならなかった。それはおそらく、草間彌生という一人の女性に対する女性としてシンパシーのせいであり、同時代を生きる者として彼女の生き続けるためのエネルギーに対するシンパシーのせいでもある。