06/15/15

AYAKOさんの「パリの朝 〜 エールフランスのパンと一期一会」と親切を申し出ること

次の文章は、パリ在住の画家のAYAKOさんが6月5日にご自身のフェイスブックに載せていらっしゃった記事をご本人の許可を得て転載させていただいたものです。
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「パリの朝 〜 エールフランスのパンと一期一会」

エールフランスでフランス人の乗務員に「明日の朝のために、少しパンを分けてくださいませんか。夕方ブランジェリーに行けないの。」とおねがいしたら、「近所にパン屋さん、ないの?」と聞かれた。
「私、目が見えないので、夕方買い物するのはちょっと無理なんだ。」と答えると、乗務員は私が目が見えないことに気づいておらず、少し驚いたようだった。離陸のとき、杖をたたんでくださいと言われて、しまっておいたから。

その乗務員がエレガントで親切で、親しみ深く、朗らかだったこと。間食にお菓子をたっぷり持って来てくださったりと、サンパティックだった。彼女がなぜ、私が失明者だと知らなかったのかというと、もともと私のシートは、日本人の乗務員の仕事のエリアだったためだ。その日本人の乗務員も既に充分に親切にしてくれていた。話したところ、私の友達の乗務員の知り合いだし、とてもリラックスしてた。

少しして、フランス人の乗務員が、余った小さなフランスパンを袋に入れて私に下さった。チーズやバターも入れてくださったとのこと。後でその日本人乗務員に、彼女の親切を伝えると、チーフパーサーなのだという。飛行中は、ファーストクラスやビジネスクラスの仕事で忙しいはず。ホスピタリティーを全ての人に分け隔てない、そのスピリットはすばらしく、素敵である。

飛行機は無事着陸する。今度はフランス人のアシスタントの手引きでトランクを取りに行き、出口に向かう。
私のトランクは年季が入りすぎて、ほとんど壊れかけているのですぐわかる。空港出口で、前もって予約していた乗り合いタクシーの運転手をさがす。家の前の通りに着いたら運転手がドアのところまで荷物を運んでくれる。住民に見つけられ、トランクをエレベーターに乗せてもらう。1996年から住んでいるアパート。小さなアトリエ。

翌朝、もらったフランスパンがひとつずつティッシュに包まれているのに気づく。そのチーフパーサーはめったに日本行きには乗らないのだと言っていた。パンに霧吹きで少し水分を含ませてオーブンで焼きながら、見えぬ一期一会を感じる。

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他者に親切にすること、あるいは親切を申し出ることについて、時々思うことがあります。レベルの違う話や時と場合によること、一概に言うことが出来ないトピックでもあります。私はお祖母さんが大きな荷物を引きずって歩いていたり階段を登れずにいたら声をかけます。私自身が大きなスーツケースを持って、エスカレータのない駅で立ち往生してしまった時、大抵誰かが助けてくれます。それは男の人が軽々とスーツケースを持ち上げてくれることもあるし、女の人が声をかけてくれ、一緒に運んでくれるときもあります。言うまでもないことですが、基本的に独りで移動できない荷物は持ってはならないのが鉄則なので独りでも切り抜けることは勿論可能なのですが、手伝ってもらえば肉体的にとても助かるのは言うまでもありません。無論いつでも人を助けることが出来る訳でなく、自分がとても具合の悪いときなど、急いでいるときなど、どうしても出来ないこともあるのは事実です。

あるとき日本に帰国して、時々はエスカレータのない長い長い階段を30キロ近いスーツケースを持って一段一段上がっていると、ジロジロ見られるのですが、お願いしない限り相手のほうから声をかけてくれるということはないことに気がつきました。お願いすると、迷惑そうな顔をされたり、無視されたことももちろんありますが、手伝ってくれることもあります。どうして声をかけないの? と知人に訊ねてみたことがあります。すると、男性が女性に声をかけたり、手伝いを申し出ると不審に思われたり、警戒されたりしてしまうから、そういった反応を受けるのが嫌だから、困っていそうだとしても他者には話しかけないのだ、と。

文化的な違いは勿論大きい。パン屋でもレストランでも展覧会でもわりとそこら中話しかけるフランスと、店や飲食店は愚か、マンションのエレベータで隣人と出会っても会話をしない日本では、親切を申し出るためのハードルが全然違うのかもしれない。

そうはいっても、誰かにとってとてもたいへんなことは、別の誰かにとって全く簡単であることもあるし、独りで引きずるとしんどい荷物は、二人で持てば軽いかもしれないのだから、やはり残念なことだなあと思う。

AYAKOさんのお話では、最近では日本でも親切を申し出る人が多くなってきたというお話もお聴きした。親切を申し出て、その人が必要じゃないならそれで別にいいじゃないか。それを必要としている人のたいへんさが、時々は物凄く助かったりすれば、それでいいじゃないか。そう思う。自分が少し元気で究極に急いでいないとき、親切を申し出ることは、とてもよいことだとおもう。それが例え、迷惑だ、と投げ捨てられても、時々は、ありがとう、と言われることがあるかもしれないから。
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06/1/15

PEACE REPORT 2015 – « CORPUS » 盛圭太・西澤みゆき・大久保美紀

PEACE REPORT 2015 – « CORPUS »

パフォーマンス=インスタレーション作品「PEACE REPORT 2015 – « CORPUS »」は、西澤みゆき(新聞女)の作品「ピース・ロード」と、盛圭太による糸をメディアとしたドローイング・シリーズ「Bug Report」におけるコンセプトとモチーフが出会い、ダイナミックに結びつき、分断され、互いが変容する中で生み出された異型の再解釈の提案である。作品コンセプトの構築に関わって、私自身、盛圭太・西澤みゆきと語り合った。
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作品「PEACE REPORT 2015 – « CORPUS »」は、何よりもまず、世界への積極的コミットを念頭に置いた表現である。平和への希求、端的に要約すればそのことに他ならないかもしれない。しかし我々が体現しようと試みたのは、あくまで現実の中にある幸福の追求に似た行為であるように思う。我々は、自由で豊かな想像の中では、パラダイスのような夢を見たり、理想主義的なディスコースを繰り広げたり、眩くて直視できないほど美しい客体などをでっちあげることが可能だ。カタルシスのようなもの、それはなるほど、芸術の一つのミッションであるのかもしれない。私たちが、盛圭太と西澤みゆきが、シャルリー・エブド襲撃事件から3ヶ月が経過したパリの中心で構築しようとしたのは、しかし、フィクションとしての平和の希求ではない。
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盛圭太のドローイング・シリーズ「Bug Report」とは、ピストル型のノリで糸を固定し、カッターで切断することによって壁やキャンバスに描き出される糸によるドローイングである。盛によって描き出される画面は、あるときは密集した構造を表し、あるときは放っておかれた自由な一本の糸がたるんだまま存続することを許している。また時には、精緻に構築された糸の造形は、アーティスト自身によって、バリバリと音を立てて破壊され、そこには造形の跡としてのノリの欠片や剥がされた紙の毛羽立ちが遺る。シリーズのタイトルである「Bug Report」は、誤謬(Bug)を孕んだ関係性の構築と読むことも出来るし、あるいはその誤謬そのものがオートノミーの性質を持っていて霊媒(fantom)的に客体を結びつけようとする自律的な営みそのものであるとも、読むことが出来る。
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盛のコンセプトが西澤のピース・ロードと結びつくのは偶然とも必然とも言うことができるが、西澤の作品「ピース・ロード」が2001年9月11日のニューヨーク連続テロの世界的衝撃と一瞬にして崩れ去った平和の脆さへの気づきから始められ、世界中を平和の象徴である一本の道で繋ぐことを目指しながら、これまで日本国内はもちろん、ベネチアなど海外でも実践されていることを鑑みれば、出会いは運命的であると感じられる。「新聞による一本の道」は無論メタファーで、断片として世界に遍在しうるし、オートノミーでもあり得る。突如パリの中心にある盛のアトリエを拠点に、これを結ぼうとする参加者によって自主的に道が開かれることも、作品「ピース・ロード」の延長線上にある出来事なのである。
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私たちの日常は、おぼつかない安心の元に拠っている。無根拠な平和への信頼、安全への信用、穏やかな日々は、束の間に失われる。あるいはまた、常に生きにくい人生を生き続ける人だって大勢いる。アートはそのような非常事態において有用性を問われ、直ちに無用であると切り捨てられるか、あるいは傷ついた人々の心を癒すために必要であるとかろうじてセラピストとしての才能を認められるか、高々その程度の評価である。それ以上の意味や有用性が、表現行為にはあるだろう。リアリティを直視しながら、その過酷な世界に、私たちの家族や、恋人や、子どもや子孫たちが置き去りにされていくという事実から目を背けることなく、生き続けるということについて積極的に紡ぐべき表現行為を、共有する術はきっとあるだろう。

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盛のアトリエの壁は、参加者たちによって切り出された昨今の新聞記事の見出しや写真、記事の一部、政界の著名人、経済界のニュース、紛争や戦争のニュースや写真、意味の分からぬ言語を切り抜くもの、偶然裏表が違ってしまったまま壁に貼られたもの、本来の記事の文脈を失ったテクスト、分断されたイメージ、それらが糸によって結びつけられたり、糸によって孤立させられることによって、無数の窓を持つことになった。切り出された各々の平面はつまり、個別のスクリーンとしての役割を果たし、それらは盛がコントロールするレゾーの構成要素となったり、なり得なかったりする。思えば我々の情報の受容とはこのように断片的・主観的でしか有り得ないものなのだが、その情報のピックアップとリエゾンの行為が複数の個人によって同時に行なわれ、共有される空間のなかで、可視的で可触的なスクリーンとして遍在するとき、その意味はもはや別のものになる。

« CORPUS »。盛はこの集積を想像して、こう呟いた。

共有される空間は我々にとっての内側であり、それには外側を想像することができる。共同体が包まれているものをひっくり返したとしたら、新しい内側にもやはり曖昧な結びつきが広がるだろう。情報のアーカイブのような空間としての »CORPUS »、意味があるようで意味のない、関係があるようで関係のない、存在様態の「集積」。それは我々の身体の内側にまでレゾーを引き込むことができる、リアルなあり方なのだ。

パフォーマンス=インスタレーション作品「PEACE REPORT 2015 – « CORPUS »」は、2015年4月17日、盛のアトリエで生じ、開かれた無数の窓は、潜在的に、閉じない。

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感謝:
アーティスト 盛圭太、西澤みゆき
写真 Manon Giacone
撮影 杉浦岳史
参加者の皆様

05/31/15

Exposition Pierre Bonnard @musée d’orsay

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オルセー美術館で開催中のPierre Bonnardの回顧展に行ってきました。世界中で展覧会が行なわれ、ナビ派の画家でもよく知られているPierre Bonnardですが、オルセー美術館での回顧展は大規模なもので、大きな絵画、結構面白い肖像画や静物画、そして彼の好んだ水のテーマ(バスタブの中の女性)、寝室での親密な絵画など、数多く見ることが出来ました。
ナビ派はご存知ゴーギャンの大胆な色彩指導に影響を受けたBonnardやPaul Sérusier やMaurice Donisらがそれまでの印象派に対して提案した斬新で明るく強い、そして比較的平らなイメージを創った画家たちです。

«Il y a une formule qui convient parfaitement à la peinture : beaucoup de petits mensonges pour une grande vérité.»
(絵画とは、一つの大きな真実のための小さな噓の集積だ)

とPierre Bonnardが述べたのはよく知られています。
最近縁が会ってMusée Marmottan Monetで開催中の展覧会La toilette, naissance de l’intimeにおいてもやはり親密な行為を数多く描いたBonnardの絵画を拝見することが出来ました。細部が本当でなくても良いという指摘は、なるほど多くのことに通じている気がします。音楽もまた然りですしね。

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05/16/15

少女文字の研究! @日本記号学会 「美少女の記号論」

美少女の記号論、昨日から始まっています!
日本記号学会 第35回大会「美少女の記号論」
2015年5月16日(土)~5月17(日)
秋田公立美術大学、今日の朝10時から、少女文字について発表します!

「自己表象としての筆致―書くことと書かれたものへのフェチシズム、現代のスタイルとは何か」
大久保美紀
<要旨>
「書く」行為は、今日の情報化社会において〈電子的に書く〉=〈キーボードを叩いて文字を入力する〉という新たな意味を帯びる以前、長い間、我々の身体的動作と深く結びついていた。研いだ石を用いて石板に傷を付けるのであれ、墨を含ませた筆を木簡に押し付けるのであれ、あるいは、ペンを紙の上に滑らせるのであれ、書く動作は書かれたものを生み出し、書かれる対象は、何らかの不可逆の作用を被る。例えば、ひとたび文字が綴られた石板は何世紀経っても内容を伝え、公的文書が書き記された木簡や巻物は、今日も重要な歴史的資料として保存されている。また、あたかもその不可逆性をキャンセルしてしまう発明のように見える〈鉛筆/消しゴム/紙〉による記述は、なるほど、書いたものを擦り取った後にまたその上から書くことが出来ると言う点で、それ以前の使い捨ての媒体とは一線を画すが、それもまた、鉛筆の筆圧による紙面の物理的変容や消しゴムの摩擦による紙表面の綻びを考慮すれば、伝統的な「書く」行為の枠組みを出ないと言わざるを得ない。

「書く」行為の物理的軌跡である「筆致」がしばしば、個人的で親密な表現と見なされるのは、上に述べたように、この行為が身体性に深く根ざしているためである。日本社会では、個人の筆致(あるいは筆跡)が、ある個人のアイデンティティを確定する一要素であることを越えて、その個人の属するコミュニティーを確定する特徴としての役割を担ってきた。例えば、1980-1990年代に女学生の間で流行した丸文字(丸字)や、2000年代のギャル字、あるいはヤンキー文字やグラフィティー文字。ある特定のコミュニティーのメンバーによって共有されている特定の字体を身体的鍛錬によって習得し、その字体を「書く」ことは、すなわち、自分がそのコミュニティーに属するのだという、外側の世界に向けて意思表明することを意味した。

あるいは、丸文字やギャル字という特定の字体を追求しなくとも、日本社会における個人の「筆致」が、アルファベット言語圏と比較すると、高度にフェティッシュな表現として認識されていることは特筆すべきである。この要因は、日本語の文字の形状的特徴や教育・文化的背景など、様々である。いずれにせよ、個人の「筆致」は、男女問わず、大人になっても自らの字体を恥じ、それを改善しようとペン字を習い、字体を好まぬばかりに筆無精となってしまう状況を生むほど、個人にとってデリケートな問題なのである。さらに、身体的動作によって紡ぎだされた直筆の文章―たとえば手書きの手紙―は、あたかも書く者の肉声を媒介し、その身体的存在を〈いま、ここ〉に具現化するような特別なオブジェとしての役割すら引き受けることができる。字体のみならず、文体(=スタイル)もまた、本来「筆致」の身体性と深く結びついたものであったと考えられる。

本発表では、「筆致」がどのように、書く者の身体的存在を代替するフェティッシュな存在としての役割を与えられ、それを演じて来たのか、伝統的な意味での手書きから、1990~2000年代の丸文字とギャル文字文化における直筆のあり方までを分析しながら明らかにする。そして、今日「書く」行為が引き受けた新たな意味と、それに呼応して起こる、表現としての「書かれたもの」の変容について考察する。

有毒女子通信第16号もでたよ!ここに少女文字について書いてるヨ!
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05/16/15

日本記号学会 第35回大会「美少女の記号論」


日本記号学会 第35回大会「美少女の記号論」
2015年5月16日(土)~5月17(日)
秋田公立美術大学
「美術(史)の美少女たち/美少女の美術(史)たち―少女たちの行方」
実施日時:2015年5月17日(日)13:30-15:30 ※当日9:40-10:00の受付が必要
会場:秋田公立美術大学 大講義室
 美術のなかの少女たちはどこに向かうのか?
 2014年から2015年にかけて開催された展覧会『美少女の美術史』は、すでに江戸時代の「美人画」に見られる伝統的「美少女」像から、現代アートやマンガやアニメなどポップ・カルチャーに欠かせないモチーフとしての少女にいたるまで、日本社会において「少女」がどのように描かれ、演出され、鑑賞され、消費されてきたのか、その系譜を明らかにした興味深い試みであった。美術において少女は繰り返し隠れた焦点になっていたのである。それでは現在、彼女たちはどこに向かっているのだろうか? あるいは逆に、「美術」は「少女」を媒介にしてどこへ向かいつつあるのだろうか? これが第一の問いになる。
 もちろん、「美術(史)」と「少女」という問題圏においては、美術を作り出す側の「少女」も見逃すことができないだろう。「超少女たち」と呼ばれる女性アーティストたち、その多様で拡散していく表現はむしろ、先の試みとは逆方向から「美術(史)」という枠組みを揺るがす契機にもなっている。彼女たちはいったいどこへ向かおうとしているのか? 
 また、美術との境界がしだいに曖昧になりつつある広範な文化表象のなかでの美少女像を考えるならば、写真というメディアもこの議論に不可避的にかかわることになるだろう。往々にしてフィクショナルな存在にとどまる、だからこそ特権化されていたはずの美少女が、写真に写しとめられ、交換されるヴァナキュラーで散漫なアイコンになるとき、どのような変容を被っているのか。映像における美少女はいったいどこへ向かおうとしているのか。それは、ここまでの問いとどのように切り結ぶ可能性があるのだろうか。
 以上のような緩やかな枠組みで美術の美少女/美少女の美術を自由に議論してみたい。
登壇者:
工藤健志(青森県立美術館学芸主幹)
藤浩志(十和田市現代美術館館長/秋田公立美術大学教授)
大久保美紀(パリ第8大学非常勤講師)
佐藤守弘(京都精華大学教授)
司会:前川修(神戸大学教授)

 

シンポジウム! 美少女表象のこれからのために喋ります!
美少女表象の反復、変身、受肉–「実在しない《美少女》を追いかけるのは誰か」
現代美術において実践されている「美少女表象」には、典型的な二つの立場があります。それは、
(a)美少女崇拝的orポジティブなファム・オブジェ的表現
(b)女性性忌避的orフェミニズム的表現
のふたつです。発表の中では具体例を見ながらその存在と手法を確認します。

相異なる二つの立場から提案される美少女表象の方法について、その目的や効果を鑑みると、両者の間には意識的にも無意識的にも、「歩み寄り放棄/対話への不意志」が深い溝として横たわっていることに気がつきます。これが美少女表象の限界です。実例に基づいて検証し、このプロセスを通じて、現在の「美少女表象」が抱える問題を明らかにしていきます。

このような今日の「美少女」をめぐる状況=行き止り状況を打破するための案として、二つのオルタナティブな見方について提案します。理想少女ファンタジーの現実世界への連れ戻しおよび、女性によるヴァーチャル美少女の内面化という二つの案に焦点を当て、この有用性について考えます。

今日私たちはいい加減、美少女表象の新しい言説に向かっていくべきです。

さて、「実在しない《美少女》を追いかけるのは誰か」お楽しみに!
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04/10/15

PEACE REPORT 2015

Peace report 2015
Texte français → 日本語
17 avril 2015, 15:00 @Cité Internationale des Arts

Il s’agit d’une performance en collaboration avec Keita Mori et Miyuki Nishizawa dans laquelle la série Bug Report de Keita et la performance Peace Road de Miyuki se mêlent l’une à l’autre.

La performance Peace Road a été conçue par Newspaper Woman après l’attentat du 11 septembre 2001 face à la fragilité de la paix. En rallongeant le « chemin » (la bande faite) en papier-journal coloré en cinq couleurs, elle réalise cette performance partout dans le monde afin de souhaiter la paix éternelle. Ce chemin se prolongera continuellement jusqu’à ce qu’il couvre toute la Terre de son amour paisible.

Inventée par Keita Mori, jeune artiste vivant et travaillant à Paris, la technique de la réalisation de la série Bug report montre un travail incroyable à la fois systématique et précaire. Ce qui compose ses dessins, ce sont des fils coupés et de la colle. La surface du dessin garde des traces comme souvenirs du temps passé. Le titre de la série « Bug report » fait allusion à des erreurs « bug » qui est un terme informatique mais qui signifiait également « un effet fantôme ». L’artiste joue avec ces éléments du hasard, tout en acceptant la conséquence de l’improvisation artistique. Chaque fragment autonome et indépendant peut communiquer l’un avec l’autre, établissant une structure en réseau.

La paix n’est pas un état stable. À cause des catastrophes humaines et naturelles, elle est constamment en danger. Que fait-on avec l’art dans une situation difficile ? Alors, l’art est-il inutile ? Newspaper Woman s’habillant en papier journal n’arrête jamais de réaliser des performances qui ont but de porter bonheur à tout le monde. Elle sait que le partage d’une expérience transmettant l’espoir nous permet de « vivre ». C’est ce qu’on n’appelle l’utilité de l’art.

Grâce à l’interprétation de Keita Mori, ce chemin de la paix se transformera en une installation spatiale qui créera une forme relationnelle, en permettant aux visiteurs de partager une expérience inouïe.

Texte, concept par Miki Okubo

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このパフォーマンスは、西澤みゆき(新聞女)のPeace Roadと盛圭太ののBug Reportが互いに結びつけられ、異なる作品として再解釈されたものである。

新聞女の作品《Paece Road》は、2001年9月11日のニューヨーク連続テロの世界的衝撃と一瞬にして崩れ去った平和の脆さへの気づきから始められた長期的プロジェクトである。これまで、日本国内はもちろん、ベネチアなど海外でも実践され、世界中を平和の象徴である一本の道で繋ぐことを目指す。一本の道はもちろんメタファーであり、世界中に断片として遍在しうるし、オートノミーでもあり得る。

Keita Moriの作品Bug Rapportは、カッターで切り取った糸をピストル型のノリで一本ずつ紙面に貼付けることによって、具象的あるいは象徴的イメージを表現する。そこにはいつもBug(情報用語では誤謬のことだが、古くは霊媒(fantom)的なもの、人間のコントロールの外側で勝手に働くような作用を意味した)があり、予期せぬ偶然が、在る出来事の裂け目となって、異なる局面を生み出す。精密に繋ぎ合わされて構成されているように見えるKeita Moriのデッサンはその細部を見ればフラグメント化し、それぞれが独立しているのだが、しかし同時にやはり全体が関係性を築いている。

平和への信頼はいつの時代も無根拠である。9.11やシャルリーエブドの事件、あるいは3.11のような自然災害によってすら、温和な日常は束の間に失われることを我々は知らしめられる。非常時におけるアートの有用性はいつも極めて曖昧な結論に晒される。それでも新聞女が、新聞を纏いながら人々を笑顔にしようと右往左往するのをやめないのは、希望を感じられる経験を他者と共有し、その経験によって人々を生きさせることがアートの力だと知っているからである。

コラボレーションのアイディア、盛圭太の再解釈を受けて、この平和の道は空間的インスタレーションとして広がり、それは新しい関係性を想像しながら人々に新しい経験をもたらすだろう。

大久保美紀(文・コンセプト)

04/10/15

Workshop « Journée avec Miyuki : Habillons-nous en papier-journal » / ワークショップ「新聞女の日:新聞を着よう!」

J’ai le plaisir de vous inviter au workshop « Journée avec Miyuki : Habillons-nous en papier-journal » qui aura lieu le 17 avril, suivi par la découverte de la performance collaborative avec l’artiste japonais Keita Mori et le parcourt agréable pour des prises des photos-souvenirs aux lieux importants de la ville de Paris.

Appris la couture à l’université, travaillé pendant 12 ans dans le domaine de la mode, Miyuki utilise ses techniques et ses connaissances riches pour produire des robes en papier-journal. Mais pour Miyuki, s’habiller en papier-journal ne signifie pas un simple acte amusant. L’artiste considère que le quotidien est un média qui nous informe souvent des mauvaises nouvelles, tels des catastrophes, des accidents et des histoires tristes. Transformer les journaux en vêtement et les porter nous permettrons de bouleverser le sens de ce média de masse, nous offrant une nouvelle expérience d’être ouvert d’esprit grâce à cette pratique.

Commençons dans la matinée la création de vos vêtements avec Miyuki, ensuite nous nous rendons au lieu de la performance en collaboration avec Keita Mori. Puis, nous inviterons tous à prendre des photos-souvenirs avec Miyuki à certains lieux importants. (Bien, cette journée dense est suivie par un apéritif chez moi…)
Venez nombreux ! Pour le détail et plus d’information, n’hésitez pas me contacter.

***Rendez-vous : à l’entrée principale de l’Université Paris 8 à 10h40.

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ワークショップ「新聞女の日:新聞を着よう!」を4月17日に行ないます!とっても楽しいワークショップです、ぜひふるってご参加ください。お友達、お子様、ご近所様、どなたでも参加できます。

西澤さんの新聞コスチュームの制作には、彼女が大学で服飾を学び、アパレル企業で十数年勤務した経験が生かされています。ただし、西澤さんにとって、新聞を着るのはただ単に楽しむためだけではありません。「新聞」というのは、大抵悪いニュースを私たちに運んできます。大災害や事故、悲しい話題が多いです。その「新聞」をすばらしいコスチュームに変身させ、それを着ること、それは、このマスメディアの背負ってきた運命や意味をすっかりひっくり返してしまうと同時に、それを着た私たちにとてもハッピーな経験をもたらす意味があるのです。

4月17日は、午前中、みなさんと新聞コスチュームを作ります。そして、午後、パリ内で行なわれる新聞女×盛圭太(盛圭太さんは、「糸をつかって描く」独自の技法で驚くべき作品を制作されている気鋭のアーティストです)のパフォーマンスに出会いましょう。そして、新聞女と愉快な新聞仲間としてパリ中の大切なスポットで、記念写真を撮影しに街に繰り出しましょう。(皆様、撮影が終わったら大久保のウチでアペリティフしましょう。ぜひ来てください。)

とにかく楽しいので皆さんお越し下さい。部分参加勿論オッケーです。詳細、どうぞ私までコンタクトしてください。
***Rendez-vous : à l’entrée principale de l’Université Paris 8 à 10h40.
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