07/24/15

Valérie Jouve « Corps en résistance » @JeudePaume

Valérie Jouveは、1964年Firminy(サンテティエンヌの近く)生まれのアーティストである。都会生活や社会規範に対峙して生きる個人とその抵抗する身体のありようを「レジスタンスの身体」というテーマで問題視し続けてきた。1980年代末より、彼女の写真は、都市の風景と都市空間に生きる身体を捉えてきた。雑多なオブジェや生き物がぎゅっと詰まった都市という空間では、そのバラバラなものが凝縮されているけれどもちっとも調和しておらず、その中に存在する生き物は蠢き、息を潜めたり、喘いだりしながら、「抵抗する」。

Valerie Jouve 1

本展覧会で印象的だったのはセノグラフィーである。アーティスト自身がインスタレーションした空間では、その意図がより明瞭だ。

Valerie Jouve 2

どこにも居るような女たちのシアトリカルでもありリアルでもある一面。ありふれたシチュエーションはディテールを見るとやはり個人的なものである。

Valerie Jouve 3

Valerie Jouve 4

Valérie Jouveはモンタージュの手法にも長けている。そして、そのモンタージュは非常に恣意的で、それゆえに戦略的である。過剰な交通量と都会の車社会を切り取って我々に提示するこれらのイメージでは、よく見れば非現実的なようすで車が重ねられていることに気がつくだろう。たとえば、手前にいる車の左側の窓にあるはずもない壁が覗いている、というように。

Valerie Jouve 5

Valerie Jouve 6

シンメトリーの構図を持つイマージュ。折り返された半分はフィクションで存在した半分がリアルである。ただし、それらも完全な左右対称ではなく左側の画面には人物が表され、もう一度全体としての風景に生み直されている。

Valerie Jouve 8

映像のモンタージュ。

Valerie Jouve 10

都市の中にはみ出す人々。

Valerie Jouve 7

抵抗する身体を撮るということ。

Valerie Jouve 9

モデルは反復することもある。知っている人物を何度も撮影しているものもある。

Valerie Jouve 11

アーキテクチャーは重要な主題の一つだ。

Valerie Jouve 13

展覧会は9月27日まで開催中である。
JEU DE PAUME, PARIS : http://www.jeudepaume.org/index.php?page=article&idArt=2414

Valerie Jouve 12

07/24/15

Mémoire de crayons et Album sans fin : Jean-Louis Boissier / Des histoires d’art et d’interactivité juin 2015

Mémoire de crayons 1995-2001
Jean-Louis Boissier
Exposition « Des histoires d’art et d’interactivité
Au musée des Arts et métiers, Paris
du 11 au 14 juin 2015
Dispositif
Deux grandes tables parallèles de 80×240 cm, séparées par un espace de la largeur d’une table. La première table est une vitrine qui renferme, en 32 cases, une collection de 1024 crayons à papier, elle est éclairée par deux lampes de bureau articulées. La deuxième table supporte un ordinateur avec son clavier et son écran.

SONY DSC

ヴィジターが鉛筆の情報(色、場所、その他レジェンド)を入力すると、データベースの中からその条件にあった鉛筆を見つけ出し、それを画面に提示する。

SONY DSC

1024本の鉛筆は番号がつけられていて、レジェンド(あるいは、レシ)と外観とともにデータベースに登録されている。ヴィジターは、ショーケースに整然と展示された鉛筆を見ながら、気に入った鉛筆を番号から検索し、その詳細な情報を得ることもできるし、関心のある鉛筆を見つけ出すために条件をコンピュータに入力し、これを探し出すことも出来る。

SONY DSC

この作品の作者であり、1024本の鉛筆のコレクターでもあるジャン=ルイ•ボワシエは、この作品をオブジェの記憶に関するもの(「オブジェに関する記憶および単独のオブジェの集積に言語が与えられるランガージュの可能性をめぐる考察」)であると述べている。ジャン=ジャック•ルソーの『告白』的なエクリチュールに影響を受けた自伝的経験が芸術作品のコンセプトの重要な位置を占めるのは、ジャン=ルイ・ボワシエのインタラクティブ作品において本質的な性格と言える。

SONY DSC

この作品は2001年にポンピドーセンターにおいて展示され、2015年6月11日〜14日のArts des métiersのスペース内(Futur en Seineのプロジェクトの枠組み:http://www.cnam.fr/des-histoires-d-art-et-d-interactivite-738738.kjsp)で展覧会 »Des histoires d’arts et d’interactivité »において展示された。

SONY DSC

SONY DSC

同展覧会では彼の歴史的となったインタラクティブ作品Album sans fin, 1988-1989も同時に展示された。

SONY DSC

SONY DSC

私にとっては、これを体験するあまりにも貴重な機会であった。

SONY DSC

07/23/15

Conférence par Hiroshi Yoshioka : ENJEUX de PARASOPHIA (Université Paris 8, TEAMeD × MCJP)

7月1日(水)にパリ日本文化会館にて吉岡洋さん(パラソフィア・アドバイザリーボード)のパラソフィア報告会が行なわれました。企画はパリ第8大学+パリ日本文化会館、パリ第8大学名誉教授であるジャン=ルイ・ボワシエを迎えてのセッションとなりました。私は通訳+モデレータとして講演会を企画させていただきました。

arton1533-56ff5-1

本講演は、吉岡さんからのご講演(逐次通訳、パラソフィア報告・京都の街の歴史・銭湯芸術祭)に続いてボワシエさんからの大覚寺で2011年7月に開催された展覧会「Les Vigilambules」(« Les Vigilambules »はジル•ドゥルーズの「覚醒した状態」を意味するvigilambuleから着想を得た作品で大きな目を見開いて、決して眠ることなく、強く覚醒した状態を意味します。プロジェクトの詳細ははボワシエさんのサイト:http://www.vigilambule.net/blog/?page_id=2でご覧になれます)に関するご発表、そしてお越し頂いた皆さんとのディスカッションとなりました。

Parasophia07
ここには吉岡さんのカンファレンス内容とパラソフィア事務局からご協力いただいた画像、パリ日本文化会館から頂いた講演会風景を掲載いたします。

LES ENJEUX de PARASOPHIA
PARASOPHIAとの関わり

吉岡: »PARASOPHIA: International Festival of Contemporary Culture”というのは、今年(2015年)3月7日~5月10日に京都で開催された、現代美術の展示を中心とする催しです。京都府と京都市の財界人が後ろ盾となりました。会期は約2ヶ月ですが、この催しに関連したイベント、小規模なプレ展示、講演会、ワークショップなどは、オープニングの1年以上前から京都を中心に積み重ねられてきました。ぼく自身とこの催しとの関わりは、2年ほど前に、この展覧会のアーティスティックディレクターである河本信治さんから、Professional Advisory Boardの委員となるように依頼されたのがきっかけです。河本さんがぼくにそれを依頼した主な理由は、ぼくが今から13年前の2003年、「京都ビエンナーレ」という芸術祭のディレクターをしたからです。この催しはPARASOPHIAよりは小規模なもので、主として京都市がバックアップしたものですが、残念ながら1回だけで終わってしまいました。この内容については後で少し述べます。Professional Advisory Boardの第1回の会合で、河本さんから、”PARASOPHIA”という名称について聞きました。アートの介入によって現在の支配的な知(Sophia)とは別の知のあり方を求める、という基本的なコンセプトには共感しましたが、同時に日本語において”PARASOPHIA”という名称はその意味が直観的につかみにくく、難解なものとして敬遠されるのではないか?とも言いました。ではどうしたらしいのか?と聞かれたので、1年前から雑誌やペーパーを発刊して、PARASOPHIAという言葉やコンセプトを広めていけばいいのではないか?とアドバイスしました。「では吉岡さん、やってください。」ということになったので、学生たちと一緒に『パラ人』というフリーペーパーを5回発刊してきました。

Parasophia04

『パラ人』について À propos de PARAZINE
この出版物に関しては、印刷のための経費はフェスティバルから出ていますが、編集スタッフの学生たちはもちろん、執筆者も(いま通訳をしてくれている大久保美紀さんも執筆者の一人です)、編集長であるぼくも全員ボランティアで、謝礼は受けとっていません。このことは重要で、私たちはPARASOPHIAの宣伝をする義務はなかったのです。ソフィアとパラソフィアについて、幸福について、戦争について、そして京都について、気の向くままに話し合いました。こうした出版物を許容することは »PARASOPHIA »というコンセプトに合致しており、その意味で間接的にはフェスティバルのためになったと思います。これはPARASOPHIAの公式出版物ですか? という質問には、「半公式」であると答えました。「半」というのが重要な部分でした。

『パラ人』というのはPARASOPHIAの(MAGA)ZINEということですが、 »ZINE”という音は日本語で「人」という意味もあるので、モノやお金が中心に回っているかのような今の世界で、あえて人を中心にするという意味でこのように名付けました。また内容も、PARASOPHIAという美術展の紹介をするのではなく、集まった学生たちと、今の世界についての様々な議論をするということを中心に編集しました。現在の日本の大学は、学生に対するサービスという点では完備していますが、学生と教員がカリキュラムという枠組を離れて様々なことを話し合う場はほとんどありません。だから『パラ人』の編集部はまるでもうひとつの、オルタナティブな大学のようになりました。

parasophia2015delta_kawata-1_philipsz_1200w_72

京都という場所(1)
吉岡:京都の経済界と行政がなぜ現代美術のフェスティバルに関心を持ったかというと、それはひとつには、京都という都市の将来についての心配があったからだと思います。ご存じのように、京都は平安時代以来の日本の古都であり、夥しい文化遺産や芸術文化の豊富な伝統を持っています。大学も多く、様々な領域の国際会議も頻繁に開かれる他、国内外から年間5千万人以上の観光客が訪れます。したがって、さらなる集客のために今さら新たな文化的プロジェクトを開始する必要はないようにも思えます。けれども京都の世界的な魅力の大半は、主としてその伝統文化に集中しています。もちろんそれは重要なものですが、伝統的文化というのは、ただ形を変えずに保存してゆけば存続するものではありません。伝統というのは、常に新しい世代によって受け継がれ、常に形を変えることを通じて存続してゆくものです。その意味で、伝統的な文化と革新的な文化とは単純に対立しているのではなく、互いに刺激しあいながら発展してゆくものです。

日本では2000年代以降、横浜トリエンナーレ、新潟の田園地帯に展開する越後妻有アートトリエンナーレ、愛知トリエンナーレ、瀬戸内芸術祭などの大規模な現代美術祭が開催される中で、京都にも新しい文化のイメージが必要だ、という判断があったと思います。さらに、ぼくの考えでは、京都には歴史の明るい側面ばかりではなく、行政や観光業界がふつうは眼を向けたがらない過去の歴史もあり、それが比較的眼にみえる形で現れており、このことは、京都で芸術祭を行う際の障害ではなく、むしろ利点となりうると思っています。ツーリズム的な京都のイメージでは隠されている、この都市の多様な側面をみることができるからです。 その意味で、表層的・産業的な文化商品としてだけではなく、より深い普遍的なレベルにおいて世界や人間のあり方について考察するためにも、京都という場所でアートプロジェクトを行うことには可能性があると考えています。

さまざまな意味で、PARASOPHIAの”Enjeux”とは、たんに日本にさらにひとつの国際美術展を増やすということではなくて、京都という場所とその歴史といかに関わるか、またそれを通して日本全体の問題や、近代社会全体の問題といかに関わるかという点にあると考えています。

京都という場所(2)
日本がかつて巨大な破壊行為の犠牲となった場所として、世界中の人々が広島・長崎を訪れます。それに対して、京都には貴重な文化的・芸術的遺産が数多く存在するので、アメリカは京都に大きな攻撃を加えなかったのだという「伝説」が今でも信じられています。しかしこれは作り話です。太平洋戦争の末期、京都は原爆投下の第一目標とされていたことが、アメリカ自身が1990年代に公開した軍事資料によって分かっています。その理由は、京都が日本の象徴的な中心であること、盆地なので核攻撃の破壊力が効果的であること、この破壊の威力を正しく認識し戦争継続を諦めるよう政府に進言できる知識層が住んでいること、などです。この計画は最終的に実行されませんでしたが、それは京都を破壊すると日本人への心的ダメージが大きすぎて、戦後反米的な感情が持続することを怖れたためだと推測されています。京都を、もっぱら伝統文化に守られた古都として想像するのは一面的だとぼくは思います。京都の文化とは70年前、戦略的な計算によってぎりぎりのところで存続を許された存在、もしかしたら消滅していたかもしれない、危うい存在なのです。

京都には日本の近代化に伴う様々な問題が現れています。京都の中心には巨大な御所がありますが、これは1868年の明治維新によって、天皇が首都である東京に移ったため、居所としては不在になったものです。都市の中心に巨大な空虚があるという構造になっています。保守的な政治家たちは日本が「単一民族国家である」(だから団結心が強い)ことを強調してきましたが、それは作り話です。たとえば京都には、朝鮮半島から移住した人々も住んでいます。また人間の平等性という近代的理想とは異なり、歴史的に差別され続けて来た部落の人々もいます。ぼくはたまたまそうした人々の居住区のすぐ近くで育ってきましたが、多くの場合そうした問題に触れることは、怖れられタブー視されてきました。

parasophia2015kmma-111_kawata-21_cai_1200w_72

京都ビエンナーレ2003
吉岡:2003年の秋、「京都ビエンナーレ」という国際芸術祭のディレクターをしました。そこでも、京都という都市の歴史に関わることが重要だと考えました。この2003年の展覧会のテーマは「Slowness」というものですが、その背景には、その2年前に起きた「9.11」とその後のイラク戦争があり、グローバル化と電子的な同時性というテクノロジー的環境や、その中で遂行される巨大な破壊行為に対して、何らかの抵抗意識を持つことを考えました。たんに速度に対立する「遅さ」ではなく、速度それ自体の中に遅さを見出して行く技術として、アートを考えられないだろうかと思いました。こうした問題に関わるアートの試みとして、2003年の京都ビエンナーレにおける例をひとつだけ紹介するなら、日本の美術家である高嶺格が行った「在日の恋人」という作品があります。これは京都の北にある、廃坑になったマンガン採掘抗で作品を制作・展示するものですが、この鉱山にはかつて、朝鮮半島出身の労働者たちが過酷な条件化で働かされていました。作品はそうした歴史を、現在はアーティストの妻である在日韓国人の恋人との和解という個人的なストーリーと重ね合わせて表現するものです。政治や歴史の重要な問題をあるがままに提示するのではなく、また避けるのでもなく、多くの人が想像力を駆使してそれを新しい角度から眺め、真剣に、しかし楽しく対話する可能性を模索することは、アートの重要な役割であると思います。

parasophia2015kmma-w1f_kawata-4_yanagi_sandwich_1200w_72

京都市美術館
吉岡:PARASOPHIAにおいても、京都の歴史との関わりという点は明確に現れていると思います。まず、メイン会場となった京都市美術館という空間を、作品展示を通して新鮮な形で体験することができました。この美術館はもともと1933年に昭和天皇の即位を記念して建造された施設です。太平洋戦争が終了し、日本がアメリカの占領下にあった時代には、この建物はアメリカ軍によって接収されました。それは1952年まで続きました。この美術館の地下にはまだ占領時代の靴磨きの部屋などが残っています。吹き抜けのもっとも大きな展示室はバスケットボールのコートになりました。蔡國強はこの空間に7層の竹の塔を設置し、彼が行ってきたワークショップ「子供ダヴィンチ」や「農民ダヴィンチ」の作品を展示しました。ジャクソン・ポロックのように絵の具を飛び散らせてロボットが描いた「作品」が、飛ぶように売れて行くというやや皮肉とも思える現象も起こりました。日本のアーティスト田中巧起は、京都市美術館というこの場所の歴史そのものに関心を抱き、それをテーマにしたワークショップを行いました。1970年、この美術館には当時活躍していた評論家の中原裕介が企画した「人間と物質」という国際展が巡回します。これは海外から27名、国内から13名のアーティストを招いた日本最初の国際的現代美術展と言えるものでしたが、同じ年に開催された大阪万国博が6400万人という空前の入場者数を記録したのに対して、入場者数は伸びず興行的には赤字となり、これ以降日本における現代美術の大規模な国際展は、2001年の横浜トリエンナーレまで30年間行われませんでした。

parasophia2015horikawa-526_ufer-6_rist

堀川団地
吉岡:さてPARASOPHIAでは、「堀川団地」と呼ばれる場所にも作品が展示されました。この場所もまた、日本の近代史を象徴的に示す地域のひとつです。「堀川」というのは京都の堀川通という道路の名前ですが、ここは太平洋戦争の前には、きわめて賑わった繁華街であり、様々な店舗が密集していました。戦争末期、アメリカ軍の空爆による火災が広がるのを防ぐための防火帯を作るため、多くの建物がとり壊されました。実際、東京や大阪をはじめ日本の大都市の多くが、戦争末期には空襲によって焼け野原になりましだか、皮肉なことに、京都は先ほど述べたように原子爆弾の投下目標になっていたので、その威力を測定するために大規模な空襲はなく、そのために古い建築物が残る結果になりました。戦争が終わり1950年代になると、住宅不足と商店街の復興を目指して新しい集合住宅を備えた店舗が建設されました。これが堀川団地です。一階が店舗で、2階以上は個室に水洗トイレと都市ガスが完備された、1950年代においては最新の集合住宅です。まだ個別の浴室はなく、銭湯が利用されていました。けれどもそれ以前の集合住宅はトイレと台所が共同のものも多かったので、きわめてモダンで個人主義的な住宅設備でした。けれどもそれも1980~90年代になると老朽化が進み、また新しい耐震基準からも問題があるので、この住宅をどうするかが議論されてきました。その過程で、この団地をテーマとするアートプロジェクトも参加しています。

parasophia2015suujin-1_kawata-6_hoefner-sachs (1)

崇仁地区
吉岡:崇仁地区というのは、JR京都駅のすぐ近くにあるエリアで、周囲はきわめて賑やかな繁華街ですが、この場所だけ空き地のような場所が点在しています。それは、この地区が大規模な被差別部落だったからです。近代以前、処刑や屠殺などに従事する身分の低い階層がありました。近代に入ると、彼らは公式には平等な市民として認定されましたが、現実には依然として差別的な扱いは続き、行政がその場所を特別に配慮が必要な地区として指定したために、かえって差別的な構造は存続することになりました。それは現在でもまだ続いています。ぼくはたまたまこの近くで育ち、公立の学校に通っていたので、そこにはこの地区出身の生徒や職員の人たちがいて、それがどんな雰囲気であったか、大人たちがどんな態度をとり、それを子供に伝達していったかを、ある程度経験してきました。差別は日常生活のさまざまな細部まで入り込んでいるので、単純な正義や同情では解決できません。解決には広い意味での教育がきわめて重要であり、しかも長い時間がかかると思います。だから、アートプロジェクトがこの場所を積極的に利用するというだけでも、それが継続していくなら意味があると思います。それは、これまでこの歴史について知らなかった人も、そこを訪れるようになるからです。

Parasophia03

銭湯芸術祭
吉岡:最後に、PARASOPHIAそのものではなくて、PARASOPHIAと並行して開催された催しの中から、ぼくが直接関わった「京都銭湯芸術祭」という活動を紹介して、おしまいにしたいと思います。このプロジェクトもまた、別な仕方で場所とその歴史に関わる試みであると言えます。まず日本における入浴の考え方と、銭湯とは何かということについて、簡単に説明します。日本人の多くは入浴を非常に大切な生活の一部とみなしています。そこには、たんに身体を清潔に保つという純粋な必要性以外の要素があります。人類全体として考えてみると、入浴はけっして必要不可欠なものではありません。まったく入浴をしない文化は現在も存在するし、歴史的にも入浴をしない時代が存在しました。むしろ、日本のような入浴習慣や入浴についての考え方こそ、世界的にみてもきわめて独特なものであると言えます。日本のサブカルチャーが「クールジャパン」と言われるのなら、お風呂こそ「ホットジャパン」として売り出すべきなのかもしれません。日本の入浴習慣と言っているのは、お湯に身体を浸けるという行為を中心に考えるという意味です。身体を洗うという、清潔のために必要な行為は中心ではありません。入浴はお湯のぬくもりや圧力を全身で感じること、その場所と自分とが一体化しているという精神的な満足感があります。日本の共同浴場の歴史はそれ自体きわめて興味深いものですが、時間がないのでここでは近代の銭湯だけに話を限定します。それは、たいていは個人によって経営され、大人3ユーロ程度の料金を払って入る施設です。もちろん男女に分かれていますが、完全に仕切られているわけではなく、仕切りの壁の上方は開いているので、声は聞こえるし家族の間で石鹸などを受け渡しすることもできます。だいたい昼の3時頃から深夜まで開店しているものが多いです。脱衣場にはテレビや雑誌なども置かれ、冷たい飲み物を飲むこともできます。浴室は現代では複数の浴槽——ジャクジのように気泡を発生するものや薬草の入ったもの、弱い電気が通っているもの、サウナ、水風呂など——が用意されています。

銭湯は日本の都市生活において、1970年代まではきわめて一般的なものでした。先ほど「堀川団地」の話でも触れましたが、多くの庶民の住宅には個人用の入浴施設がなかったからです。したがって当時は、それは地域の人々のコミュニケーションの場としても機能していました。まあ、カフェのような役割を果たしていたわけですが、互いに裸であることが大きく異なっています。1980年代に入って、日本の住宅に内風呂が普及してくると、銭湯はどんどん減少してゆきました。けれども京都には比較的まだ残っています。「京都銭湯芸術祭」は、若いアーティストたちがこの銭湯に興味を持ち、そこにアート作品の展示やイベントを持ち込むことによって、そうした地域的なコミュニティのあり方を、それに属さない人々にも経験してもらおうという試みです。ぼくがなぜ「京都銭湯芸術祭」のようなプロジェクトに関わるようになったかというと、それは過去約30年間において、日本の歴史が一回転したと思うからです。銭湯が減少していったのは日本人の居住環境や生活様式が大きく変化したからですが、それはたんに豊かになったということではなく、地域の経済生活が破壊されたということでもあります。銭湯がなくなったことは、銭湯を含む商店街や地域の様相が一変したということです。つまり銭湯だけが問題なのではなくて、銭湯を含む生活や社会のあり方の変化が問題なのであり、銭湯の減少はそのことをはっきりと示す指標のひとつなのです。

粗っぽい言葉で言えば社会・経済のグローバル化ということですが、それが今、もうどうにもならない瀬戸際まで来ているということです。けれども、たんに昔に戻るということが重要なのではありません。アートを通じて関わることにより、たんなるノスタルジーとかエキゾティシズムではない形で、銭湯をより多くの人に経験してもらえることを目指しています。

日名舞子作品

***********
Ceci est le compte-rendu de la conférence par Hiroshi Yoshioka qui a eu lieu le 1 juillet 2015 à la Maison de la Culture du Japon à Paris grâce à la collaboration de l’Université Paris 8, l’AI-AC l’équipe de TEAMeD (Théorie Expérimentation Arts Médias et Design) et la MCJP. Voici le contenu de sa conférence. (En raison du temps, cet article n’a pas été corrigé. Merci beaucoup de signaler les erreurs et de proposer les corrections en français pour améliorer l’article.)

Parasophia05

ENJEUX de PARASOPHIA
PARASOPHIA et moi

HY: PARASOPHIA: festival international de la culture contemporaine est un événement qui a eu lieu à Kyoto du 7 mars au 10 mai 2015, qui a consacré aux expositions de l’art contemporain. Les sponsors principaux étaient la ville de Kyoto et les représentants des milieux économiques. Cet événement durait donc deux mois mais en anticipant plus d’un an, avant son ouverture, il y a eu des pré-expositions, des conférences, des workshops et d’autres pré-événements dans la ville de Kyoto. L’occasion de travailler pour ce projet était le fait que Monsieur Shinji Komoto qui est le directeur artistique de cet événement m’a proposé d’être membre du comité de conseils professionnels il y a 2 ans. La raison pour laquelle Monsieur Komoto me l’a proposé, c’est parce qu’il y a 13 ans en 2003 c’était moi-même qui ai été le directeur artistique de la Biennale de Kyoto qui est aussi un festival international de l’art contemporain. Cet événement, la Biennale de Kyoto était moins grand par rapport à Parasophia, financé par la ville de Kyoto, mais malheureusement nous n’avons pas pu faire la deuxième fois. Je reviendrai plus tard sur cette histoire. Lors du premier comité de conseils professionnels, Monsieur Komoto nous a expliqué la signification du « PARASOPIA » comme nom d’un événement. Explorer une nouvelle modalité de l’intellect (voire SOPHIA), qui est différent de celle qui domine notre société d’aujourd’hui, à travers l’intervention de l’art. J’ai été d’accord avec son opinion en principe, mais je lui a également dit qu’il était probablement difficile de populariser ce nom car le mot même « PARASOPHIA » ne dit rien, et difficile de faire comprendre au public. « Alors, qu’est-ce qu’on peut faire », m’a demandé Komoto. C’est à ce moment-là où j’ai proposé la publication d’un magazine gratuit afin de populariser le nom de PARASOPHIA et son concept pendant 1 an. Comme ça, on m’a nommé l’éditeur responsable de ce magazine qui s’appelle « PARAZINE » dont j’ai travaillé avec les jeunes étudiants pour les 5 publications.

À propos de PARAZINE
HY: « PARAZINE » est donc le magazine de PARASOPHIA. Mais « ZINE » (jin) signifie la personne en japonais. Dans ce monde actuel, on a l’impression que c’est des produits industriels et l’argent qui sont dominants, j’ai trouvé que ce n’est pas mal de donner à l’être humain une place importante en nommant ce magazine « PARAZINE ». Ce magazine ne présentait pas les expositions des beaux-arts, mais montrait de nombreuses discussions sur l’actualité avec les jeunes étudiants. Les universités japonaises d’aujourd’hui donnent à leurs étudiants de nombreux services très pratiques, mais il n’y a pas d’occasion qui permet aux enseignants et étudiants de discuter ensemble divers sujets en dehors des cours et du cursus. Par conséquent, la réunion de comité de rédaction de PARAZINE est devenue une sorte d’université alternative.

La publication de PARAZINE a été financé par ce festival mais les membres de comité de réduction, étudiants, moi, et Miki OKUBO qui est l’un des essayistes de ce magazine, personne n’a été payé. Nous sommes bénévoles. Le fait que notre activité a été bénévole est important, car grâce à cette condition non payée, nous avons pu rester libres de l’obligation de faire la publicité de PARASOPHIA. Ce que nous avons réalisé est parler librement des sujets variés tels le bonheur, la guère, la ville de Kyoto, etc. À mon avis, soutenir ce type de publications étranges convient parfaitement au concept de cet événement « PARASOPHIA » et je pense que ce magazine a pu quand-même contribuer au festivald’une façon indirecte. Quand quelqu’un nous demandait si PARAZINE est une publication « officielle » de PARASOPHIA, on lui a répondu « moitié-officielle ». Cette expression « moitié » est importante.

parasophia2015mok-annex-1fa_kawata-3_morimura_1200w_72

Kyoto, comme lieu 1
HY: Pourquoi les milieux économiques et politiques de Kyoto sont-ils intéressées à tel festival de l’art contemporain? C’est d’une part parce qu’ils sont inquiets pour l’avenir de la ville de Kyoto. Comme vous le savez, Kyoto était la capital japonaise pendant plus de 1000 ans depuis l’ère Heian le 8 ème siècle. Cette ville embrasse de nombreux patrimoines culturels, industries et artisanats traditionnels et artistiques. Beaucoup d’universités y existent, attirant fréquemment des conventions internationales de différents domaines. Le nombre de touristes atteint plus 50 000 000 par an, soit du Japon, soit des autres pays. En constant ce chiffre, on peut penser qu’il n’est pas nécessaire de lancer de nouveaux projets culturels pour accueillir encore des visiteurs. Toutefois, l’attrait majeur de Kyoto du point de vue international se limite à sa culture traditionnelle. Certes elle est importante, mais la culture traditionnelle ne pourra pas continuer à être appréciée avec sa simple conservation. La tradition peut être conservée quand elle est héritée par la nouvelle génération, en ayant la modification incessante. À mon sens, la culture traditionnelle n’est pas opposée à la culture innovante mais elles se développent en se stimulant réciproquement.

Depuis 2000, le Japon a expérimenté de nombreux grands festivals internationaux tels la Triennale de Yokohama, la Triennale de l’art de Echigotumari réalisée en profitant la régions rizière de Nigata, la Triennale d’Aichi et le festival de l’art de Setouchi. Dans cette ambiance, la ville de Kyoto a été convaincu de la nécessité d’une nouvelle image culture pour le futur de Kyoto. Kyoto garde sa mémoire historique non seulement « positive » mais « négative », voire même « triste » qui est assez visible mais qu’en général le milieu politique et l’industrie touristique ne souhaitent pas trop montrer. À mon avis, ces traces historiques ne sont pas un obstacle pour organiser un festival de l’art mais ça peut être plutôt un atout. On s’intéressera à d’autres aspects cachés par les images stéréotypes montrés par le tourisme. Je crois, réaliser un projet artistique dans la ville de Kyoto possède une possibilité pour qu’on puisse réfléchir profondément sur la modalité de notre monde, la nouvelle relation humaine, allant au-delà de la compréhension superficielle fondée sur la société de la consommation.

Je pense que les Enjeux de PARASOPHIA, comme le titre de cette conférence, est non pas simplement de réaliser encore un festival international de l’art au Japon, mais de trouver une intervention possible de l’art contemporain dans cette ville, afin de réfléchir sérieusement sur des problèmes concernant tout le Japon ou concernant la société moderne.

Kyoto, comme le lieu 2
HY: Les deux villes, Hiroshima et Nagasaki, sont connues dans le monde entier comme lieux symboliques car ces deux villes ont été victimes des bombes nucléaire. En revanche, à propos de Kyoto, il existe une explication légendaire comme celle-ci : les Etats-Unis n’ont pas choisi Kyoto pour leur cible du bombardement grâce à leurs héritages culturels existant dans cette ville. C’est un mensonge total. Les documents militaires des Etats-Unis qui ont dévoilés dans les années 1990 montrent qu’à la fin de la Seconde Guère Mondiale (dit la Guère Pacifique au Japon), Kyoto était leur première cible pour la jetée des bombes atomiques. La raison de leur choix est variée : puisque Kyoto était le centre symbolique du Japon, puisque Kyoto est géographiquement une cuvette qui leur permettrait de mesurer clairement l’efficacité de la bombe atomique, puisque les intelligentsias qui jugeraient correctement la gravité de sa force destructrice pour conseillerait au gouvernement de capituler en renonçant la continuation de la guère, etc. La raison pour laquelle les Américains n’ont pas finalement réalisé ce projet est expliquée par la crainte, c’est-à-dire, si la ville de Kyoto était totalement démolie par les Etats-Unis, les Japonais garderaient leur sentiment d’anti-américa pendant une longue période. C’est pourquoi je ne suis pas d’accord avec une image typique de Kyoto comme ancienne capitale toujours protégée grâce à sa culture traditionnelle extraordinaire. En effet, il y a 70 ans, cette culture a risqué son existence. Sa disparition totale a été possible.

Kyoto montre les problèmes divers causés par la modernisation du Japon. Gosyo, l’habitation de l’empereur, se situe dans le centre de Kyoto, mais depuis la Restauration de Meiji en 1868, c’est-à-dire depuis que l’empereur a déménagé de Kyoto à Tokyo, la nouvelle capitale du Japon, cet espace Gosyo est un énorme vide du centre-ville. Les hommes politiques conservateurs insistent souvent le Japon comme nation constituée d’un seul peuple homogène, c’est pourquoi les Japonais partagent le sentiment de solidarité, mais c’est une fiction. Les immigrants de la péninsule coréenne aussi y habitent. Ou encore, malgré la belle idée moderne pour l’égalité des hommes, il existe historiquement un quartier des habitants discriminés. Dans mon enfance, j’ai habité près de ce hameau, et j’ai compris que parler de ce type de problèmes en haute voix était considéré comme tabou.

La Biennale de Kyoto 2003
HY: Comme je l’ai dit tout à l’heure, en 2003 j’étais le directeur artistique d’un festival international de l’art appelé « La Biennale de Kyoto ». J’ai déjà considéré qu’il était important de mettre en lumière l’histoire de la ville de Kyoto. Le thème de cette manifestation de 2003, « Slowness » (la lenteur en français) a été fondé sur la réflexion sur le choc du 11 septembre et de la guère d’Iraq et sur le globalisme et le développement technologique qui ont amené par conséquent une sorte de violence catastrophique. Il faut opposer une résistance à cette situation violente. Non pas la lenteur contre la vitesse qui domine notre monde, mais je voulais que l’art soit considéré comme sorte de façon de vivre pour trouver la lenteur dans la vitesse elle-même.
Pour vous montre un exemple concret, Je voudrais présenter juste une oeuvre de Tadasu Takamine conçue pour cette Biennale de Kyoto, intitulée « Mon amoureux de Zainichi » (Zainichi est ici coréens résidant au Japon). Cette oeuvre est été créée et exposée dans la mine du manganèse se situant au nord de Kyoto qui est abandonnée aujourd’hui. Dans le passé, c’était les ouvriers coréens qui ont travaillé pour l’extraction du manganèse dans des conditions misérables. L’artiste superpose ce qui s’est passé dans l’histoire sur son expérience personnelle telle la réconciliation avec sa femme qui est Zainichi, c’est-à-dire la deuxième génération d’immigrant coréen.

Je considère que le rôle important de l’art est non pas de montrer les problèmes politique ou historique tels quels, ni d’éviter de les traiter, mais de trouver des moyens possibles qui nous permettent de regarder ces problèmes sérieusement pour que nous puissions en parler et les discuter librement grâce à l’art.

parasophia2015kmma-e_kawata-17_para-cafe_1200w_72

Musée municipal de la ville de Kyoto
HY: À mon avis, PARASOPHIA met en lumière l’histoire de la ville de Kyoto. Tout d’abord, les visiteurs peuvent découvrir l’espace du musée municipal de la ville de Kyoto d’une manière originale qui est le lieu d’exposition le plus important. Son bâtiment date de la cérémonie d’intronisation de l’empereur Showa en 1933. Après la Seconde Guère Mondiale, pendant l’occupation des États-Unis, ce bâtiment a été réquisitionné par les soldats américains jusqu’en 1952. Le mur se situant au sous-sol de ce musée garde toujours les traces de cette période. Par exemple, il y a un coin pour le cirage des chausseurs pour les soldats américains. La plus grande salle d’exposition a été utilisé en tant que cours de basketball. Un artiste chinois, Cai Guo-Qiang a présenté ses deux oeuvres « De Vinci des enfants » et « De Vinci des fermiers » réalisés par les workshops, sur une énorme structure des bambous construite dans ce grand espace. Mais parmi ses oeuvres, celle qui est la plus appréciée était « Robot dessine comme Jackson Pollock ». Les tableaux fait par le robot se sont vendus comme des petits pains, c’était ironique.

Koki Tanaka, artiste japonais, s’est intéressé à l’histoire du lieu du musée municipal de la ville de Kyoto et il a réalisé un workshop sur ce sujet. Lorsque l’exposition international intitulée « entre homme et matériel » (Between man and matter, 1970) est arrivée au Japon, Yusuke Nakahara, critique d’art actif à cette époque, a organisé la première exposition internationale de l’art contemporain du Japon accueillant 27 artistes étrangers et 13 artistes japonais. Mais malheureusement par rapport à l’Expo universelle d’Osaka qui a eu lieu dans la même année qui a accueilli 64 000 000, bien sûr le résultat sans précédent, cette première exposition internationale est gravement en déficit si bien qu’au Japon pendant 30 ans il n’y avait aucune exposition internationale de l’art avant la Triennale de Yokohama en 2001.

Horikawa Danchi
HY: PARASOPHIA a utilisé aussi Horikawa Danchi, habitation collective de Horikawa. Ce lieu est aussi important car il montre la mémoire de la vie moderne du Japon. Horikawa est le nom d’un boulevard Horikawa-Dori. Avant la Guère Pacifique, Horikawa était le quartier fréquent avec beaucoup de magasins. À la fin de la guère, pour construire des murs protecteurs contre l’incendie en cas des bombardements, on a démoli de nombreux bâtiments. C’est vrai que Tokyo, Osaka et d’autres grandes villes ont subi des attaques aériennes et ont été réduit en cendres, mais comme je l’ai dit tout à l’heure, Kyoto a été l’une des cibles pour la jetée de la bombe atomique, il n’y a pas eu d’attaques importantes, par conséquent, les anciens bâtiments sont conservés.

Après-guerre, dans les années 1950, pour résoudre le manque des habitations et pour reconstruire la rue commerçante, la nouvelle construction a été commencée. C’est Horikawa-Danchi, l’habitation collective de Horikawa qui existe aujourd’hui. Les magasins au rez-de-chaussé et les habitations aux étages équipés des toilettes à chasse d’eau et du gaz de ville, c’était l’habitation collective la plus moderne dans les années 1950. Il n’y avait pas de salle de bain individuelle mais on allait au bain commun appelé « Sento ». Mais en tout cas, par rapport aux habitations plus anciennes où on partageait la salle de bain et la cuisine, l’habitation collective de Horikawa est un exemple symbolisant la vie moderne et individualisme. Le temps passé, dans les années 1980 et 1990, le problème structural des bâtiments telle résistance aux tremblements de terre s’est levé. De nouveau, Horikawa-Danchi est devenu l’objet problématique. Quelques projets artistiques traitent cette habitation collective de Horikawa dans ce contexte-là.

parasophia2015suujin-5_kawata-3_hoefner-sachs

Sûjin-chiku
HY: Le quartier Suijin est près de la Gare de Kyoto. Autour de ce quartier, l’ambiance est très animée mais seul dans ce quartier il reste quelques terrains vides. C’est parce que ce quartier a été un important hameau discriminé. Avant la modernisation, il existait des classes sociales basses discriminées constituées des gens qui travaillaient pour l’exécution ou l’abattage. Depuis la modernisation du pays, ils ont été officiellement admis en tant que citoyens comme les autres mais en réalité ils étaient toujours discriminés. C’était l’administration qui a décidé ce quartier Sujin comme quartier pour ces gens discriminés pour leur sécurité mais cette décision a finalement mis en relief ce problème structural, qui dure d’ailleurs même aujourd’hui. J’ai grandi près de ce quartier et j’allais à l’école publique, donc j’ai témoigné l’ambiance autour de ce quartier, l’attitude des élèves, des personnels des écoles, comment les adultes l’expliquaient à leurs enfants, etc. La simple justice ou la pitié ne résout pas ce problème car la discrimination est quelque chose qui est présente partout dans la vie quotidienne. Ça prend beaucoup de temps, mais il est important d’éduquer dans le sens « profond ». Donc si les projets artistiques continuent avoir lieu à cet endroit régulièrement, ce sera significatif car ce type d’événements peuvent amener les gens qui ne connaissent pas l’histoire de ce lieu.

市川さんダンス

« Festival de l’art de bains communs »
HY: Pour finir, en s’éloignant un peu de PARASOPHIA, je voudrais vous présenter un autre festival de l’art « festival de l’art de bains communs » sur lequel j’ai travaillé. Ce projet essaie également de mettre en lumière le lieu et son histoire. 

D’abord, je vous explique la notion japonaise « se baigner » et ce qui est Sento, le bain commun. La plus part de Japonais considèrent que prendre un bain est une habitude très importante dans la vie quotidienne. Les Japonais donnent une signification beaucoup plus importante qu’un simple acte pour la propreté du corps. Quand on regarde le monde entier, prendre un bain n’est pas une coutume indispensable. Il existe des cultures où les gens ne prennent pas de bain, et il existait aussi la période où on se baignait pas. La coutume japonaise et l’idée obsessive à propos du bain sont plutôt originales selon les normes internationales. Si la pop-culture japonaise appelée « Cool Japan » tels Manga ou Japan-animé est très appréciée, il faudra lancer cette coutume du bain comme « Hot Japan » en tant que nouvelle culture compétitive. Cette coutume japonaise « prendre un bain » signifie « se baigner », « mettre notre corps dans l’eau chaude » et « se laver » ou l’acte pour la propreté du corps n’est pas très importante. Dans l’acte de « Prendre un bain », sentir le volume de l’eau qui permet de nous rassurer mentalement car on est couvert et soutenu par l’eau. L’histoire de bains communs au Japon est un sujet très intéressant, mais aujourd’hui, comme nous n’avons pas suffisamment de temps pour cela, je parlerai du bain commun du temps moderne. C’est des particuliers qui tiennent en générale la maison de bains communs et on peut prendre un bain en payant à peu près 3 euros. Le bain est bien sûr séparé pour les hommes et pour les femmes mais la séparation n’est pas complète. Il y a un mur au milieu mais au-dessus de ce mur il y a un espace ouvert continu. On peut entendre la voix de chaque côté et on peut prêter ou récupérer le savon entre les familles etc. Cet établissement est ouvert du 15h au soir tard. Dans la salle de déshabillage, il y a la TV, les magazines, et on peut boire un boisson frais. Dans la salle de bains, aujourd’hui, il y a des bains différents tels bains bouillonnant (jacuzzi), bain de plantes médicinales, bain électrique, sauna, bain froid etc.

Sento, le bain commun était très courant dans la vie urbaine jusque dans les années 1970. Comme j’ai parlé de l’exemple de Horikawa Danchi, la plus part des gens ne possédaient pas une salle de bain dans leur habitation individuelle. C’est donc le bain commun Sento qui a joué un rôle important d’un lieu de la communication. On peut dire que c’est un type de café mais un café où on est tout nu, évidemment. Dans les années 1980, la salle de bain individuel ont commencé à généraliser, cela signifie le déclin de la culture de Sento. Mais Kyoto garde relativement beaucoup de bains communs. Le festival de Sento, « festival de l’art de bains communs » est un événement créé par les jeunes artistes qui sont intéressés par cette culture. Ces jeunes artistes souhaitent d’apporter leur contribution à l’exposition des oeuvres d’art dans les bains qui permet aux amateurs l’art qui ne connaissent pas la culture de Sento d’expérimenter cette culture. L’une des raisons pour laquelle je travaille pour ce projet, « festival de l’art de bains communs » est fondée sur l’importance de cette culture et la signification du déclin de Sento. Je considère que ces trente ans l’histoire japonaise a fait un tour complet. La disparition de bains communs en ville signifie le changement radical de l’environnement résidentiel et du style de vie au Japon. Cela signifie également la destruction de l’économie et de la vie locale. La disparition de Sento dévoile aussi le changement du paysage de l’ensemble des rues commerçantes comme environnement local. Autrement dit, ce n’est pas seul le problème de Sento, mais cela révèle le changement de la société.

Résumer cette situation comme globalisation sociale et économique est sans doute un peu violent, mais la situation atteint un point critique aujourd’hui. Toutefois, je ne crois pas qu’il faille revenir au passé. À travers l’art, ne pas tomber dans la nostalgie ou l’exotisme, les organisateurs visent à offrir une expérience de la culture de Sento aux nouvelles générations.

Exif_JPEG_PICTURE

Exif_JPEG_PICTURE

(En raison du temps, cet article n’a pas été corrigé. Merci beaucoup de signaler les erreurs et de proposer les corrections en français pour améliorer l’article.)

07/22/15

OZIMAGA 001 (Photographies des messieurs de Kobe par Yoshiko YAMAMOTO

写真家のヨシコ・ヤマモトさんが手がけてらっしゃるOZIMAGAをパリでお預かりしています。こちらがバタバタしておりご連絡が遅くなってしまって申し訳ありませんでした!これからパレドトーキョーさんやギャラリーさんやオジマガに興味を持ってくれる素敵な場所に、ヨシコさんファン、オジマガファンの皆様に出会ってもらうべく配置してこようと思います!

オジマガは、「神戸の50歳以上のカッコイイオジサマをシンプルに紹介するだけのフリーペーパーです!」(ヤマモトさん)。
記念すべき第一号は、アビョーン・プラス・ワンのマスター&ミュージシャンでいらっしゃる大川透さんと、フランス文学者、作家、ミュージシャンでいらっしゃる鈴木創士のお二人のお写真です。

このマガジン、マガジンと名付けられているものの、ヨシコ・ヤマモトの「ヨ」の字ものってません。「無駄な物は省きたいので」(ヤマモトさん)だそうです。シンプルなマガジンは、シンプルすぎて、カッコいいおじさまのポスターみたいなんです。そう。格好良すぎて、お家の壁にそのまま貼っていただける感じです、そしてモデルのおじさまは神戸の50代のおじさまだそうですが、どこのどなたか存じ上げないにも関わらず、そして普通、どこのどなたか存じ上げないおじさまのこんなでっかいポスターを家に飾ったりせんと思うのですが、ヤマモトさんの写真も選ばれしおじさまもとてもクールです。ちなみに、マガジンのサイズはシンプルでピタリと折られて素敵な持ち運びやすさです。ぜひゲットしてください。ご興味あるかた、ヤマモトさんかこちら(パリなら)にご連絡ください。

OZIMAGA est un magazine édité par Yoshiko YAMAMOTO, photographe japonaise. J’ai certains nombres d’exemplaires à Paris. Contactez-moi si vous êtes intéressé.
L’OZIMAGA est un nom composé : Ozi = un monsieur (environ 50-60ans) plus maga signifie donc un magazine. Ce magazine très minimaliste a été conçu par Yoshiko pour présenter des messieurs COOL qui habitent à Kobe (une ville très chic au Japon). Ce magazine semble plutôt un poster des musiciens car ça montre un monsieur COOL (sur le chaque côté) en noir et blanc avec son info très simple (nom, métier et sa devise). C’est le travail professionnel de Yoshiko YAMAMOTO, en tant que photographe.

Désormais, j’essaie de confier certains exemplaires dans des galeries, des musées, des cafés…afin que les personnes intéressées puissent en prendre un ! N’hésitez pas me contacter si vous êtes intéressés !

ozimaga 001 yoshiko yamamoto

07/21/15

N’a-t-on pas peur des feux d’artifice ?

Feu d’artifice
N’a-t-on pas peur des feux d’artifice ?
Moi, j’ai peur. Je trouve ça violent.
Oui, c’est artistique, coloré et même très sophistiqué.
Avec beaucoup de couleurs, techniques incroyables, tout en s’évoluant avec nouvelles technologiques.
Il me semble que c’est le bruit qui me gêne.
C’est un genre de bruits que je ne supporte pas.
C’est une explosion ou des bombardements, qui pourra être à l’aise dans cette ambiance ?
Personne.
Ceux qui n’ont pas peur de feux d’artifice ne sont-ils pas gênés ?
Si, ils sont gênés.
En réalité, ils sont stimulés.
C’est la raison pour laquelle on apprécie des feux d’artifice lors de tels événements.
Dans le monde partout.
Feu d’artifice, c’est une bombe métaphorique.

SONY DSC SONY DSC SONY DSC SONY DSC SONY DSC SONY DSC SONY DSC SONY DSC SONY DSC

07/21/15

Beauté CONGO 1926-2015 CONGO KITOKO

SONY DSC

7月11日に開幕したばかりのFondation Cartier pour l’art contemporain で開催中の展覧会Beauté Congo 1926-2015に行ってきました。地下が歴史的展示、地上階は現代アーティスト(1970年代から現代)そして庭ではサウンド・インスタレーションがありました。

SONY DSC
SONY DSC
SONY DSC

JP Mikaは1980年生まれの画家で、本展覧会展示アーティストの中でも最も若い。
キンシャサのボザール出身でChéri Chériのアトリエで学んでいる人気画家。

SONY DSC

SONY DSC

絵画にはティシューを使っています。典型的な大柄の布にペインティングをするというものも多い。

SONY DSC

SONY DSC

SONY DSC

風刺画が非常に多い。カリカチュアの文化があります。
避難所に逃げ込みたい人々が列を作っている(上)
プレジデントに話し合いに応じるよう訴える(中)
動物たちが議会を開いているがそこにはPolitiqueをもじってPourritique(Pourriは腐ったという意味です)(下)

SONY DSC

このバンドデシネ的なタッチの絵画は1970年代から活躍したChéri Sambaの貢献に拠る所が大きい。ポピュラー絵画のジャンルをコンゴで立ち上げた先駆者でもある。

SONY DSC

母の腹から出てこないUn vieil enfantのカリカチュア。
国家の独立とは何か、というシビアな問題に関する作品です。

SONY DSC


SONY DSC

SONY DSC

興味深かったのは1990年代から2000年代のコンゴの雑誌のコレクション。
バンドデシネ文化が分かる。

SONY DSC

SONY DSC

地下の階では1920年からのヨーロッパがコンゴ美術と出会ってからの歴史的作品。
1926年にベルギーのGeorge ThiryがBukamaやKatangaで様々な職人と出会い、水彩画に必要な画材などを伝えたようです。
1946年以降のフランスのPierre Romain Desfossésが作ったElisabethville学校というのは、通称Atelier du Hangarと呼ばれて、もっとコンゴ美術に深い影響を与えています。画法も強制せず、イマジネーションも自由に、ということだったようですが、国際的な展示や交流機会は、コンゴの美術家たちに大きな影響を与えたことは間違いないと思います。

SONY DSC

展覧会は11月15日までです!
http://fondation.cartier.com/fr/art-contemporain/26/expositions/1771/en-ce-moment/1789/beaute-congo/

07/21/15

Installation par Keita Mori @Galerie Catherine Putman

SONY DSC

Installation par Keita Mori @Galerie Catherine Putman
(Voici, c’était cette exposition)
11665408_916909135039693_4991339905499255305_n

Keita Mori, artiste japonais, est un spécialiste de dessin fait par le « fil ». On connait des artistes qui utilisent des fils comme matériaux principaux tel Chiharu Shiota (qui représente actuellement le pavillon japonais à la Biennale de Venise) mais l’usage des fils de Keita Mori est différent. Différent ou bien précaire.

SONY DSC

Le fil comme matériau est en principe utilisé pour nouer des objets, créer un lien entre les deux objets, fixer des corps solides, construire une structure des fils, voire même pour devenir une masse (comme un de ces aboutissements serait un tissu). Chez la série de « Bug report » de Keita Mori, le rôle du fil ne s’y limite pas.

SONY DSC

Son fil ne crée pas forcément un lien stable mais laisse des objets en suspens. Au lieu de construire une architecture absolue, son fil est pendu avec son bout libre. Une construction déjà faite est parfois toute démolie par l’artiste lui-même tout en gardant des traces de la colle (mise par le pistolet) sur sa surface rêche. C’est le fil même qui cherche sa place. Le fil cherche à s’installer à son lieu. C’est pourquoi sa série s’appelle peut-être « Bug Report ». Le destin (le résultat) est fondé sur le hasard – le mouvement libre du fil ou l’intuition de l’artiste.

SONY DSC

Nous avons récemment travaillé ensemble (lors de l’installation – performance « Peace Report 2015 – Corpus » : web article http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=3777). Son fil a joué encore un rôle différent. C’était, une part, un dominant qui détermine l’ensemble de la signification de tous les écrans ouverts sur le mur. D’autre part, un subordonné qui est ballotté par la forte image (des fragments des articles des journaux coupés par les participants), qui est pré-déterminé par le lien sémantique (textes et images des articles). Ce qui me tient comme intéressante signification du fil chez l’oeuvre de Keita Mori est, me semble-t-il, cette nature éphémère.

Keita Mori : artiste website http://keitamori.com

SONY DSC

07/15/15

Newspaper woman (Shinbunonna, 新聞女), Miyuk Nishizawa (English text)

Newspaper woman (Shinbunonna, 新聞女), Miyuk Nishizawa

On March 9, 2013 @Guggenheim Museum – A great night of something happened…
In early February 2013, Newspaper woman, her comrades and some AU members (Art Unidentified*) arrived in the USA. Kiki Nienaber (Director of Fuse Art Infrastructure) and Gregory Coates (Co-director of Lollipop Operations) hosted the Japanese artists in Allentown. They lived under the same roof for a month, each day bringing to life artistic events titled « Lollipop Gutai Influences. » These included performances, exhibitions and workshops in Allentown and New York.

Shozo Shimamoto, Co-founder of the Gutai arts movement in postwar Japan and Miyuki Nishizawa’s dear mentor, was clinging to his last moments of life when Miyuki received a personal invitation to perform at The Guggenheim Museum. Shimamoto passed away January, 25, 2013. Miyuki and the Newspaper Girls immediately abandoned their paid return tickets to Japan and vowed to meet the challenge to infuse the Guggenheim Museum with Shimamoto’s expressive spirit, to deliver happiness to all visitors participating in the events and to transmit that happiness not through just one night performance but as an infinite newspaper dream!
*Guggenheim museum held the exhibition « Gutai : Splendid Playground » February 15 – May 8, 2013

The powerful performance lasts until midnight. The backstage is in chaos, filled with newspapers and working staff while visitors arrive at the entrance. The event opens with an exceptional newspaper dress whose hem reaches to more than 30 meters long. A sign instructs visitors: « Please walk under here ». This work is in homage Shozo Shimatmoto, one of whose participative and interactive works is called « Please walk on here » (1955).

Participants are supposed to walk under the long hem of the artist’s huge skirt. They can touch the dress to turn it up, making a newspaper arc for visitors passing under. This long hem is intricately cut like lace fabric, making a sophisticated shadow on the floor (look at the picture!) In walking under the artist’s skirt, the exciting ambiance envelops us.

After the opening performance « Please walk under here », a parade starts with assorted newspaper costumes and characters. Panels of Yoshiko Yamamoto’s photography on the museums long slope involve the visitors on the floor while people donning larger-than-life newspaper jackets and Miyuki and the Newspaper Girls parade together in newspaper dresses. According to Miyuki, the concept of the giant jacket is « to enjoy wearing it and looking at people wearing it…even if the most intelligent university professor wears it, they will look so stupid! That’s the advantage of this work!”

Following the parade, a giant newspaper Teddy Bear appears slumped on the floor! A monster covered with newspaper shredded as thin as angel-hair pasta hair dances eccentrically around the giant teddy bear. Old-fashioned Japanese popular songs Enkas, 演歌 or Miyuki’s original music (BGM), drift through your ears while you risk being stuck with bizarre, colorful labels indicating a discount price on your clothes. These are the same labels used to indicate discounts in Japanese grocery stores. Everything here makes us laugh and feel happy!

In the final act of this Gutai experience, you’ll find Miyuki on the Guggenheim’s spiral ramp, wearing a beautiful cloth which is one of Shozo Shimamoto’s real works. She looks like an elegant and beautiful fairy.

Gutai mind and the birth of the Newspaper Woman
Shozo Shimamoto (1928-2013.1) is one of founding members of the Gutai Art Association. Shimamoto coined the term « Gutai » – “embodiment” in Japanese. He is known for performance paintings such as cannon shooting painting, crane performance painting etc. He also founded the art association « AU » (Art Unidentified) which aims to give amateurs an artistic experience. In his later years, he contributed to these activities to educate and help people through the arts. The term « Shimamoto meme » refers to the transmission of Shimamoto’s artistic mind and attitude towards the arts. This attitude is shared by many, including Miyuki, who was moved and touched deeply by his art and life. She is a follower of the Gutai conviction that Art is an activity for the liberation and opening of minds. Through her art, Miyuki overcame difficulties in her life. Art helped her to destroy the heavy chain that had long fastened her heart and then smash it into fragments.

In her youth, she suffered from strained parental relationships and social pressures formed by banal stereotypes. Pains she felt are not far from those we have when wearing un-suitable clothes, or by a corset confining our body from the chest to the hip. « Nyotaku »*, one of the most significant works of Shozo Shimamoto is worth analyzing. This important work received much unfair criticism and was misinterpreted by those who lack the capacity to understand its purpose. It was treated as a downright scandal in Japanese society. A play on the word “Gyotaku,” or “fish print/impression,” “Nyotaku” literally means “Female print.” Nyotaku is an ink rubbing of a female body on paper. Miyuki stripped naked to model for the Nyotaku works, at one point completely nude. Ben Shimons, a renowned American photographer, was deeply interested in Nyotaku, saying that in Nyotaku women are natural and free, representing their lives as they were. Miyuki became one of Ben Simons’ best loved models. He appreciated her inner energy and brilliant beauty. A young Miyuki gradually came to understand positive energy as the most important thing to survive in this world. The nourishing of her strong, exposed soul through her Nyotaku experience and Ben Simon’s photographic work helped her to find her way towards “Newspaper Woman.”

Miyuki is always smiling. In each of my personal encounters with her, and in her pictures online, she radiates happiness. I believe smiling people have a naturally positive influence on the world and enable the spread of joy by sheer presence. Smiling people are essentially much stronger than those who carry a depressed and sad look wherever they go. Miyuki’s positive energy, something most worthy of being transmitted from one individual to another, is precious and irreplaceable.

Newspaper woman and newspapers
Newspaper woman uses newspapers as the main material for her artworks. Every day, vast quantities of newspapers are published to inform their readers of news, only to be thrown away soon after. Newspapers are printed day by day in vain… Before working as an artist, Miyuki Nishizawa, studied fashion at university and worked for a company as designer for 12 years. She was unmoved by the high-paced fashion industry and the contemporary consummation society. She felt sick watching those around her carry out a lifestyle where material objects are purchased in great quantity and frequency only to be ignored or tossed aside. Indeed, the high-speed apparel industry’s scheme is very similar to that of newspapers as a materialized mass media. She decided to drop out of the barren cycle of consummation in order to start carrying out artistic activities by using newspapers as compensation for things she had abandoned thus far.

Shozo Shimamoto, her master, also used newspaper as a material for painting in the beginning of his career. The work is commonly known as « Holes »(1954, Shozo Shimamoto, Work Paint on newspaper, Ashiya City Museum of Art & History ). Its concept was born from the same moment of the avant-garde artist, Shozo Shimatmoto. Shimamoto, whose parents had not allowed him to major in arts at the University, decided to apprentice himself to Jiro Yoshihara(the leader of Gutai Art Association founded in 1954). Shimamoto painted everyday without capturing Yoshihara’s approval. In those days, just 5 or more years after the end of World War Ⅱ, the young man who lacked financial means to buy canvas, superimposed newspapers on the wood frame, coated it with boiled flour (imported from the U.S.A through the GHQ*) and finished with white paint. One day when he was pressed to finish a painting, a hole was ripped on the canvas because its surface hadn’t yet dried. –  » Am I the first artist who invented a painting with a hole ? » – As he expected, Yoshihara ardently praised the « broken » painting and he afterwards gained a positive reputation abroad. When Shimamoto’s early works obtained a durable existence with a permanent place in several museums, then newspaper canvas’ were fossilized at the cost of its liberty. In contrast, newspapers in Miyuki’s works are free and represented very differently: mobile, cut into fragments, shredded, teared, modeled, touched, worn, and thrown away immediately after her performances. Her newspapers live through a brief, joyful existence for the sake of Newspaper Woman’s performance participants.

*GHQ (General Headquarters): After the World War, the Allied Powers held by Douglas MacArthur ruled Japanese government during the Occupation of Japan. Supreme Commander for the Allied Powers (SCAP) is the official title however GHQ was the term generally used in Japan.

The « Eco-Art » (Art for the ecology) is not the only reason Miyuki uses newspapers. If you look more carefully into the real signification of the use of newspapers in her artworks, you can clearly understand the important character of newspapers as a « mass media ». Contrary to the beauty and joy in her artworks, the contents of newspapers always represent information about horrible accidents, scaring wars, durable tribal conflicts or political discords and bad business. When we let our eyes to follow these articles about depressing events, we cannot avoid getting the impression that the world is filled with tragic stories, and actually, it may be a kind of truth.

I’d like to introduce one of the most reputable works titled « Peace Road », presented in a famous Japanese art magazine, Bijutsu-Techo on June 2004. In this work, she faced the tragedy of 9.11 of the U.S.A by collecting paper articles about the issue. She blotted out the part concerning 9.11 with five colors: blue representing our planet, and white, black, red, yellow representing people’s skin colors. She created a 1.2 km long newspaper “Peace Road” passing through a shopping arcade in Kobe. An earnest hope for world peace and for contributing to people’s happiness is shared concepts in Miyuki’s work. This project is replicated worldwide, including several places in Japan and at Saint Mark’s square in Venice, setting paper streets round the globe!

On February 11 2013, Monumental crane performance in Allentown
The crane performance is symbolic of the dynamism and energy of Newspaper Woman. While Shimamoto’s crane performances were carried out to make a giant painting by throwing colorful, ink-filled glass bottles from the sky, it is Newspaper Woman herself who becomes a living sculpture in her crane performance. She wears a giant, 20 meters long newspaper dress. The giant paper skirt can enclose the spectators observing her from the ground as they look up into her skirt! Miyuki has a serious pathological fear of heights. However, her fears are undetectable as she appears chilled out and happy in the sky, sometimes releasing an elegant blizzard of falling newspaper fragments, like cherry blossom petals. The first task in Allentown this February was the crane performance. The preparation lasted all-night. There was heavy snowfall. Needless to say, rain or snow is most inconvenient for the paper works which break easily when wet. Journalists, local media interviewers and even the mayor of Allentown city came to see the spectacle. Miyuki felt heavy pressure knowing she was to carry out this performance in the place of the late Shozo Shimamoto, that is to say, she wouldn’t be excused of any small mistakes.

This celebrated performance ended in great success, surrounded by applauding spectators and their smiles.
« Then, I was caught by some odd sensation. Before, I had been down on the ground clapping my hands with other spectators, to cheer him on. However, this time I was in Mr.Shimamoto’s place, looking down at the people on the ground. » said MIyuki.

The triumph of the crane performance in Allentown has a crucial significance for members of Shozo Shimamoto atelier, Newspaper Woman’s group and Miyuki Nishizawa herself.
Her dear master “has retired from his activities in the real world, » leaving amazing and testing opportunities for her and her comrades. This sensitive and fragile Nyotaku model has now become an independent artist who, suspended alone in the sky by a big crane, is applauded by people on the ground. Sometimes she appears in public elegantly or sometimes suddenly, like a guerrilla, making her beautiful music and dance experiences to spread joy to all people present. Everything she makes exists for « liberating people’s minds » and for delivering happiness to each person she meets.

She said,
« I have succeeded in freeing my mind thanks to the arts, as well as Mr.Shimamoto and many friends around me as well. Then, I want to help people who currently have difficulties living joyfully by liberating their minds from their suffering, even if for just a moment. I hope this happiness will be spread to young people of the next generation. »

 

Author :

Miki OKUBO
Born in 1984, in Sapporo, Japan
Docteur, Art Critic, Essayist, lecturer at the Université Paris 8.

document en PDF (télécharger)
Shinbunonna_Essay_MikiOkubo_Eng

SONY DSC

07/4/15

La soutenance du 30 juin 2015, Espace Deleuze de l’Université Paris 8, « Exposition de soi à l’époque mobile/liquide »

La soutenance qui a eu lieu le 30 juin à l’Université Paris 8.Merci à tous ceux qui sont venus pour me soutenir ! J’achève une fois ces longues recherches durant 5 ans. Je suis très honorée d’avoir travaillé sous la direction de M. Jean-Louis Boissier, mon directeur de thèse, qui m’a soutenue et encouragée énormément, et d’avoir eu la participation des membres du jury, M. Olivier Lussac, M. Hiroshi Yoshioka et M. Mario Perniola, à cette soutenance. Maintenant, je souhaite vivement contribuer au développement et à l’évolution des pratiques artistiques à propos de « l’exposition de soi » (comme c’était mon sujet de recherche) par divers moyens éventuels !

Titre de thèse : Exposition de soi à l’époque mobile/liquide
Membre du jury : Monsieur Jean-Louis BOISSIER (Directeur de recherche)
Monsieur Olivier LUSSAC
Monsieur Hiroshi YOSHIOKA
Monsieur Mario PERNIOLA

Résultat : Très honorable avec les félicitations du jury

Résumé (Fr) : La réalisation de l’expression artistique n’a jamais été si « facile » qu’aujourd’hui, et les enjeux de la création n’ont jamais été si « banals ». Il existe divers moyens pour satisfaire nos désirs expressifs, tels des moyens traditionnels et contemporains. Malgré cette facilité, nous avons peu de possibilité pour devenir un artiste célèbre. Nous sommes aujourd’hui bien conscients de cette situation difficile jusqu’à ce que nous soyons même parfois désespérés vis-à-vis de ce nouvel environnement médiatisé.
Cependant, selon les recherches archéologiques, cette situation n’est pas nouvelle ni particulière. L’art est depuis toujours un moyen possible pour surmonter des problèmes personnels. En cherchant une expérience partageable avec les autres, nous bénéficions de l’utilité de l’art pour sublimer la difficulté de la vie.
Le monde caractérisé par sa nature «mobile» et «liquide», donne naissance à l’art contemporain qui met souvent en lumière la question de l’intimité. Sa signification est en fait liée à l’universalité, qui semble pourtant s’éloigner de la notion d’égoïsme et d’individualité.
Cette thèse a pour but de considérer l’exposition de soi « plurielle » pratiquée à l’époque « mobile » et « liquide », afin de comprendre la véritable signification de l’acte expressif. À travers l’observation des réalisations artistiques telles la photographie, la mode, la littérature et d’autres créations, je fonde une étude sur l’esthétique de l’exposition de soi non seulement par les artistes mais aussi par les amateurs, pour interpréter son utilité des points de vue sémiologique, phénoménologique, archéologique, anthropologique et esthétique.

Résumé (En) : Artistic expression has never been easier to carry out than today. Engaging in creation has even become a mundane, commonplace undertaking. We have a vast array of mediums available to us to satisfy our desire for self-representation, including traditional and modern medias and advanced technologies. Despite this ease of access to platforms for self- expression, creators have no chance of becoming a celebrated artist. Facing this truth during our everyday interactions online and with modern media leads us to feel rather disheartened with today’s media environment.
However, from historical point of view, today’s context of creative work and exposition is neither new nor unique. Art has always been one possible way to process or overcome personal problems. In our search for shared experiences with others, art is useful in easing life’s difficulties.
Today’s world, characterized by its « fluid » and “mobile” nature, is giving birth to a contemporary art that often highlights the question of intimacy. Its significance is universal, while being distant from notions of egoism and individualism.
This thesis aims to consider “plural” self-representations practiced in our “fluid” and “mobile” world, in order to better understand the importance of expressive acts. Through the careful study of artistic activities such as photography, fashion, literature and other domains, I present a study on self-representation and exposition, found in both professional and amateur creative activities, to interpret how self-representation and exposition is useful and even essential, from semiological, phenomenological, archeological, anthropological and aesthetic points of view.

expo_paris_2015_DSC00575
expo_paris_2015_IMG_8668
expo_paris_2015_IMG_8670
expo_paris_2015_IMG_8667
SONY DSC
SONY DSC
SONY DSC

06/27/15

SOUTENANCE DE DOCTORAT, Miki OKUBO

AVIS DE SOUTENANCE DE DOCTORAT
(Arrêté ministériel du 7 août 2006)

École doctorale Esthétiques, sciences et technologies des arts
Discipline
Esthétique, sciences et technologies des arts – spécialité arts plastiques et photographie

Miki OKUBO

Titre de la thèse
Exposition de soi à l’époque mobile/liquide

Membres du Jury
Monsieur Jean-Louis BOISSIER (Directeur de recherche)
Monsieur Olivier LUSSAC
Monsieur Hiroshi YOSHIOKA
Monsieur Mario PERNIOLA

Mardi 30 juin 2015 à 14h00

UNIVERSITÉ PARIS 8
2, rue de la Liberté
93526 SAINT-DENIS cedex 02

Salle des thèses
Espace Deleuze
Bâtiment A, 1er étage (Face à l’Amphi A2)