08/15/15

Demande de participation (3 min !) / アンケートのお願い (3分くらいで♥)

Chers amis,
Je vous remercie infiniment pour votre participation à cette petite enquête que je prépare pour un workshop de la création autofictionnelle (sur la question de l’archive et de l’exposition de soi) !
Le jeu est très simple.
1 Choisissez 3 portraits qui vous plaisent plutôt.
2 Notez le numéro des portraits et choisissez 5 mots qui correspondent à chaque portrait choisi dans la liste ci-dessous.
3 Pensez à choisir les mots différents des autres participants, pensez à choisir même les portraits originaux par rapport les choix des autres.

La liste vocabulaire:
brillante, raisonnable, égoïste, extravertie, sincère, généreuse, modeste, altruiste, sensible, prétentieuse, inventive, tranquille, cordiale, consciencieuse, audacieuse, responsable, directe, détendue, sérieuse, maligne, stressée, active, dominante, bavarde, serviable, chaleureuse, instable, ordonnée, attirante, créative, méticuleuse, heureuse, hypocrite, souriante, optimiste, ambitieuse, mûre, entreprenante, fière, ennuyeuse, amusante, exigeante, intolérante, autoritaire, impitoyable, violente, naïve, débrouillarde, tenace, perfectionniste, affectueuse, solitaire, prudente, fragile, émotive, étourdie, fiable, volontaire, sympathique, sociable, agréable, arrogante, superficielle, attentive, agressive, impulsive, jalouse, lâche, sûre de soi, triste, avare, timide, réservée…

Si nous sommes ami sur Facebook, envoyez moi votre réponse par message ou répondez moi si vous avez reçu mon e-mail. Si on n’est pas ami sur Facebook et si vous pouvez répondre à cette enquête, envoyer moi votre réponse par message au compte facebook de Miki Okubo. Merci. Je vous remercie cordialement pour votre temps.(les photos plus grande taille sont après le texte japonais)

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ご協力いただける皆様へ
現在アーカイブと自己表象に関連し、オートフィクションの作品づくりのワークショップのために、アンケートを実施しています!ご協力いただけましたら大変たいへん助かります。よろしくおねがいします!
方法はたいへんシンプル!
1 気になる証明写真を3枚お選びください。
2 その証明写真の番号をお書きの上、それぞれの写真に対し、下の語彙リストから、その証明写真を説明する5つの語彙をお選びください。
3 参加者の皆さんが色々な語彙を選んでくださったほうがおもしろいです。さらには証明写真自体も他の方と違うと思われる写真を選んでくださったほうが面白いです。

語彙リスト:
聡明、合理的、エゴイスト、外向的な、誠実な、優しい、謙虚な、愛他的な、感受性豊かな、うぬぼれ屋、創意に富む、静かな、親切な、良心的な、勇敢な、責任感ある、直接的な、和やか、真面目、抜け目のない、ストレスフル、活動的、支配的、おしゃべり、世話好き、熱心な、不安定な、きちっとした、魅力的、独創的、細かい、幸せそうな、偽善的、にこやかな、楽観主義、野心的、成熟、進取の気性、高慢、面倒な、面白い、大げさな、忍耐力のない、いばった、無情な、暴力的な、お人よし、機転のきく、頑固な、自発的な、感じの良い、社交的、雰囲気の良い、傲慢な、うわべだけの、注意深い、攻撃的な、衝動的な、嫉妬しやすい、意気地なし、自信満々、悲しげ、ケチ、恥ずかしがり屋、控えめな

Facebookでお友達のみなさま、Facebookのメッセージに皆さんの回答をお返事いただけますと嬉しいです。またe-mailでお受け取りのみなさんはそのままメールでお返しください。いずれでもないけれどもご協力いただける方は、FacebookのMiki Okuboまでメッセージくださいませ。お忙しい中大変失礼いたしました。ありがとうございました。

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08/15/15

戦後70年

戦後70年
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戦後70年。
さきほど、しりあがり寿さんのまんがを読みました。
http://politas.jp/features/8/article/427
ひらかず(平和)さんが70歳のお誕生日をいわってもらう、
ひらかず(平和)さんは疲れ気味だけど、
処方されるアンポナントカという薬を拒絶する、というものです。
しりあがりさんによる談話もつづいています。
フランスのマンガが大好きな若い人たちにも日本のこういった状況を知ってもらいたいなあと、
部分的にシェアしました。翻訳掲載できたらしたいです。
http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=4130

私は1984年に生まれたので、物心はっきりついたころには戦後久しい感じだったのですが、
つまり半世紀とかです。久しいといっても、人間の一生を物差しにすれば、久しい、というか。
1984年だと、戦後39年です。それから31年経って、今年で戦後70年。

70年経つと、戦争を行なっていたころに大人だった世代は年老いて、あるいは既に亡くなられた方も多く、
だからといって人間の世代交代ごとに何度も戦時となるというのも、アニマルとしてあまりに愚かではないでしょうか。

世の中は、戦争をせずとも既にある意味で日々が戦いです。
日々が恐ろしく、日々がしんどくもあります。
暇でもなければ、平穏でも楽でもありません。
我々はまったく退屈していないし、特需を必要としていないし、
人間が人間を殺したりすることに興味がない。

非常事態というのは、罪や非人道的な行為をうやむやにする口実として、
歴史上はびこってきました。たとえば慰安やレイプの問題がそれです。

人類史をながめるなら、それはそれは戦争や紛争に満ちており、
一国として70年の平和が続いたところで、世界規模では日々人間が殺されており、
これだけ技術やテクノロジーが発展した今日に至っても未だに
マテリアルなレベルでの殺戮や破壊が行なわれている。

生き物の本質は、生まれて死ぬまで生きることやと思います。

病気になったりとか事故にあったりすることはあります。
でもつまりは途中でわざわざ死んだりしないで生きることやと思います。

人は人と結びつき、人間くさく社会の中で生きます。
戦争がなくても十分に忙しくて生きるのが大変です。
戦争がなくても十分に難しく心が折れそうになります。
ただでさえ肉親を失うのがつらく、年老いた家族を思って止みません。

生まれて死ぬまで生き抜くために、
平和であることはたいせつです。

2015年8月15日 

08/14/15

La paix souffre d’une remède dérogeant la Constitution: Manga de Shiriagari Kotobuki/ 平和(ひらかず)さん、70歳の談話

le lien officiel du manga se trouve : http://politas.jp/features/8/article/427

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pour la suite : http://politas.jp/features/8/article/427

Ce manga réalisé par un auteur manga-ka Shiriagari Kotobuki parle d’une situation difficile d’aujourd’hui à propos de la PAIX de son pays le Japon qui dure quand même 70 ans depuis le 15 août 1945. Le personnage qui s’appelle Hirakazu (comme un prénom mais en fait c’est une autre façon de lire les kanjis signifiant la paix, heiwa, en japonais), âgé, un peu fatigué, souffre des nouvelles lois risquant la paix du pays. Il refuse de prendre un médicament proposé par une fillette, un remède appelé « anpo-nantoka » C’est bien sûr une métaphore des lois de sécurité qui ne respectent pas la Constitution, notamment son fameux 9ème chapitre.
Aujourd’hui le 15 août 2015, nous les Japonais, donc fêtons le 70ème anniversaire de ce personnage important « Hirakazu », c’est-à-dire, la paix (heiwa) de notre pays tout en souhaitant que ça dure.

l’auteur de ce manga Shiriagari Kotobuki a son blog et le compte de Twitter :
http://www.saruhage.com/blog/index.html
https://twitter.com/shillyxkotobuki

08/5/15

発症前と発症後の治療ー傷を負った軍人の職業移行と戦争に行かないこと

ちかごろ、医療のことについて考えることがあり、とりわけ、いわゆる「治療」と「発症前の治療」について考えている。
お腹が痛くなって初めてお腹の存在に気がつく、とは良く言ったもので、なるほど調子がよいとき人は身体のことを考えない。
フランス語に »soin »という言い方があって、たとえば、「お大事に」(« Prenez soin de vous »)とか、「だれかの面倒をみる」(« prendre des soins de qq’un »)とか、つまり、世話や気配りのことを指すこともあれば、「美容」(« Soin de beauté »)だとか「医療行為」(« soins médicaux »)など、医療の分野で治療という意味でも用いる。
« Soins »はすなわち、なるべくよい状態のために気を配る、という意味なのだが、それは何らかの徴候が出た後に施すのが治療であり、そうなる以前に未然に防ぐために行なうのが気配りであったり世話であったりすると言える。

身体のことを話せば、いつしかは綻びて、さまざまな器官も少しずつ機能が果たせなくなって行く人間の運命みたいなところはある。もちろん、200年生きる個体は今のところいないし、80年くらい経つと個体差はあれどもさまざまな機能の不調が目立ってくる。生活における身体に良いことや悪いことは、なるほど情報が錯綜していて、気にし過ぎたなら脅迫的ですらある。現在は、生物学と医学の交差点における研究も進んで、遺伝子分析によって病の発症前にそれらを未然に防ぐという画期的とも言える解決策が打ち出されてもいる。いつしか遺伝子にマークされた将来の病の発症をある程度明確に分析し、事前に対策することが可能なとき、我々は単に、老衰によってのみ死を迎えるのだろうか。

この、「発症後の治療」と「発症前の治療」というふたつのアイディアは重要である。

実は今日、もう一点考えざるを得なかったメディアの報道があり、それは、アフガニスタンに派遣されて身体的・精神的に厳しい傷を負ったベテラン(アメリカ兵)の転職のことだ。軍人としてもはや働くことの出来ない肉体的・精神的な傷を負ったベテランは、専門の施設において、新たな人生を歩むための職業訓練と社会生活の訓練を受ける。たとえば、料理を学びシェフになるとか、軍隊での規律とは全くべつの「ふつうの生活」のため、社会とのコンタクトの仕方を習得することができる訓練を受ける専門施設に滞在する。精神を病み、あるいは手足を失い、ハンディを背負った絶望や殺戮の罪悪感から自殺する者も数多い。

施設には、心理カウンセラーや精神科医、多数の精鋭の専門家がいて、傷ついた彼らをケアするのだ。セラピー、治療、訓練、transition(移行)。

必要なことである。彼らが生き直すために。

だが、なぜ生き直さなければならないのだろうか? 「発症後の治療」と「発症前の治療」があるといったのは、この問題について言えば、つまり、傷を負ったベテランを国を挙げてケアするのは国の責任であり、そのためには最大の »soins »を尽くすというわけだ。

だが、だれも「そもそも、傷を負わなければよかった」とは言わない。

何年も、何十年もたってすら、悪夢にうなされて一生を苦しむ、彼らのその経験がなければよかったと、なぜ言わないのか。既に傷を負った彼らを慰めるのは良い。だが、これから生み出される次のベテランを、生み出す必要がないと、言っても構わないのではないか。

身体を壊して、それを治療することは、素晴らしいことであるし、そのことは多くの人を助ける。

そのことをじゅうぶんに認めるとともに、それでもなお、発症の前の »soins »がたいせつであると、思ってやまないのだ。

07/28/15

La Manie d’Abruti par Mike MaKeldey @la Galerie Da-End

Mike MaKeldey « La Manie d’Abruti »
La Galerie Da-End, du 8 janvier au 28 février 2015

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酷いタイトルの展覧会なのである。しかしそれも戦略的な。
La Manieは日本語で「マニア」と訳される言葉である。つまり偏執とか偏愛とかいう。Abrutiはオロカモノ、とかいう感じである。愚かしさへの偏愛とか、オロカモノへの偏執などといった雰囲気を感じていただければと思う。

1973年フランクフルト生まれの画家、Mike MacKedleyは独学の画家であり、伝統的ポートレートを(彼の展覧会タイトルを尊重するならば)愚かしさへの偏愛によって異化させる、そんな実験的絵画を模索している。

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ご覧頂けるように、ベースとなるのは極めて伝統的でクラシックな絵画である。その表面はブラシで一定方向に流されており、それゆえそのイメージはぼんやりとして、境界線が溶け出したような印象を与える。そこに、画家は場違いの存在、エイリアン的なものを描き込む。描き込まれる奇妙な生き物やオブジェ、言葉によって何であるか同定しづらい形態は、文脈を逸脱している点で「オロカモノ」の要素を構築しているに違いないのだが、境界線がとかされるリアリズムの絵画を自明のものとして観るのを止めるとき、つまりそこにあるヒエラルキーを一度なし崩しにするとき、その異物こそが画面において支配的であることを認めずにはいられない。

形態そのものを変形させているのではないにせよ、日常的なものに対する、我々のヴィジョンをラディカルに変容させる試みは、フランシス・ベーコン的なものの影響であるに違いない。

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重ね合わされるタブロー、つまり重ね合わされた存在と時間、重なり合ったそれらが境目を溶け合わせるとき、ひとつのヴィジョンは壊され、あたらしく別のヴィジョンが作り直される。あるいは、生成中の絵画を垣間みるかのような。

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07/28/15

Joan Jonas « They Come to Us without a Word » Venezia Biennale / ジョ—ン・ジョナス 彼らは言葉なく私たちのところにやってくる

Joan Jonas(United States Pavilion)
« They come to us without a word » (The 56th Venezia Biennale)

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ジョーン・ジョナス(1936年ニューヨーク生まれ)の作品に関心をもったのは、2012年のドクメンタ以来である。その後もパリのギャラリーYvons Lambert(past article here : salon de mimi)などで彼女のインスタレーションを観る機会があった。彼女はいつも、独特のデッサン、神話や口頭伝承の民話などに基づく謎めいた映像、自然や動物の要素に重要な役割を担わせ、それらを彼女の方法で結びつけて一つの世界として立ち上げる。作品は多数のエレメントを孕みながら、それでも統一的な物語を為していて、そこにあるのはいつも「Joan Jonasの世界観」と言えるものなのである。

2015年の第56回ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ館では、ジョーン・ジョナスは第6章に及ぶ世界を作り上げる。ビエンナーレのインスタレーションに先立ち、今年ニューヨークで幾つものワークショップを子どもたちと共に行ない、そのパフォーマンスが各部屋のビデオに映し出される。風景の映像には彼女がこれまでも好んで利用してきた幾つかの都市や田舎、Nova Scotia(カナダの東の島)、ニューヨークのブルックリンなど。

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各部屋の章立ては次のようになっている。
1 Bees, 2 Fish, Rotunda Mirrors, 3 Wind, 4 Homeroom and Courtyard Nine Trees.
各部屋にはスクリーンと、物語にまつわるオブジェ、たとえばBeeやFishの部屋にはジョナスのドローイングが、Windの部屋には日本製のカラフルな凧が、あるいはマスクやテクストがショーケースに展示されている他、鏡の部屋を飾る表面が波上になっている鏡はムラーノ島で製造されたものだ。

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口頭伝承の民話、自然、動物、パフォーマンス、立ち上げられた一つの世界観。インスタレーションを経験することは自ずと前述のdCUMENTA13(2012)のインスタレーション »Reanimation »を思い起こさせる。

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世界の変わりゆく様相を、人間の伝統、自然や動物、都市の生活に焦点を当てながら思考するジョナスの作品では、ジョナス自身の言うように彼女から積極的な答えを明示されることはないが( »Althought the ideas of my work involves the question of how the world is so rapidly and radically changing, I do not address the subject directly or didactically, rather, the ideas are implied poetically through sound, lighting, and the juxtaposition of images of children, animals, and landscape. »)、そのことをそもそも我々の目にしたことのないような方法や観点から、本質的に問題提起する。というか、恐らく、重要なのは気がつくことそのものであって、どうするか、何をするか、ということは、その思考が明瞭ならば自ずと続くプロセスなのである。

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ジョナスのインスタレーションの体験は非常に魅力的である。それは、同一の世界の、しかし我々の見知らぬ世界の音楽と光を我々が生きてみることを許してくれるからである。

Ref. Joan Jonas « Reanimation » @Galerie Yvon Lambert, Paris / ジョーン•ジョナス « Reanimation »

Ref. Joan Jonas in Venice official

07/27/15

Jesper Just « Servitudes » @Palais de Tokyo / ジェスパー・ジャスト 隷属

Jesper Just   »Servitudes »
Katell Jaffrès (Commissaire)
@Palais de Tokyo du 24 juin au 13 septembre 2015
Website : http://www.palaisdetokyo.com/fr/exposition/jesper-just

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« Servitudes »と題されたインスタレーションは、パレ・ド・トーキョーの地下空間を利用した大規模なミクストメディアの展示で、地下という場所の親密さ、あまりにも広い空間の工事途中であるような構造がのぞく落ち着かないムード、無骨なようすで組まれた階段や廊下を歩きながら移動する作品鑑賞経験の効果はあまりに上手く、 »Servitudes »の演出に貢献する。

ジェスパー・ジャスト(Jesper Just, 1974年ニューヨーク生まれ、2013年第55回ヴェネツィア・ビエンナーレのデンマーク館にて展示)は、印象的な音楽と音響、気がかりな登場人物によって観る者の関心を喚起する物語を紡いできた。本展示では、足元の悪い、薄暗いパレ•ド・トーキョーの地下空間をおぼつかなく歩みながら鑑賞する幾つかのビデオ作品と、空間を満たすÉliane Radigueのエチュード作品17番が通奏低音のような役割を果たしながら、鑑賞者をジャストの物語に招待する。エチュードは、通常のテンポに照らせば、とまりそうなくらい、ゆっくりと響く。

« Servitudes »(隷属、あるいは何者かの拘束する対象となること)。

インスタレーションの入り口の大きなスクリーンにのぞくのは、両手に装具を着けた若い女がこちらを時々睨むように見据えながら、懸命にトウモロコシを食べている映像。女は思い通りにならない両手で、その両手を覆う装具はかろうじて役に立っているのかそれともむしろ動きを邪魔しているのか分からない。鮮やかな黄色のシャツに青白い肌、半サイボーグ的な姿をこちらに晒しながら、何度もかじりかけのトウモロコシを落としては拾いあげ、かじりつく。

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その地下に続く大きく開かれた空間とは別個に、親密な一室がある。ひとりの少女がやはり思い通りにならない両手をぎこちなく操りながら前述の、テーマとなる音楽エチュード作品17番を演奏しているヴィデオである。少女の指は様々な方向に曲がっていて、少女の頭の中で自由に鳴り響く流暢な音楽とは裏腹に、紡がれる音列はでこぼこして、丁寧な音色はひと粒ずつゆっくりと鳴り響く。

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ハンディキャップをもった登場人物は、トウモロコシをかじる女とこの少女の他に、おそらく身体の自由のきかない状況か空間で動き回る一人の人物や、ニューヨークの高層ビルを一望する貿易センタービルの上層階で時々吃りながら発話する女性など、繰り返し現れる。

複数のスクリーンに映し出される映像は、互いに結びついている。たとえば、この貿易センタービル上層階の女性に呼応する映像が、ピアノを弾く少女を通じて表される。ピアノを弾く少女は上述のように曲がった両手の指をもち、思い通りにならない両手に隷属する自己の受け入れ方を模索している。少女は見上げきれない貿易センタービルの根元で小さな石ころを片手に、それをびくともしない貿易センタービルの壁に、コツン、コツン、と打ち付け続ける。やがて少女は自分の片手を貿易センタービルのガラス張りになっている部分の隙間に挿入し、分厚いガラスを通じて見える自分の手がぼんやりしてその曲がった指の様子など分からないのをながめながらすこし幸せそうな表情を浮かべる。トウモロコシを食べる女の向かい側、下に位置するスクリーンは、ひたすら開閉を続ける数台のエレベーターの様子を映し出す。いくら見ていても、そこから誰かが降りて来ることはないし、誰かが乗るのでもない。エレベーターは必ずその階に止まり、扉を開け、閉めて去って行く。

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作品のキーワードとなるのは、タイトルの如く »Servitudes »で、登場人物は、内容は違えども何かしら本人にとっては深刻なハンディキャップを抱えて、しかしそのような身体の隷属するところのものとなる個人に焦点が当てられる。あるいは、隷属は肉体を抱える個人にあるというよりもむしろ、生きる存在として取り巻く世界に隷属していることを指すのかもしれない。見上げきれないビルが空を覆う大都会の小さな人間の弱さと感じやすさを強調しながら。

07/27/15

Henry Darger (1892-1973), La violence et l’enfer / ヘンリー・ダーガー その暴力性と地獄

ヘンリー・ダーガー その暴力性と地獄

Exposition du 29 mai au 11 octobre 2015 @Musée d’Art Moderne de la Ville de Paris
Web: www.mam.paris.fr

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ヘンリー・ダーガーのことについて、何か書くことが残されているだろうか?
あまりに有名で、ディスコースが確立しているようで、少なくとも日本ではヘンリー・ダーガーを新しく語る言葉をもはやだれも探していないように思える。構造主義的な作家解釈が力を持つ今日、(少なくとも彼の世界観については)彼の謎めいた私生活、社会と隔絶した奇妙な行動、女性を知らないまま生きて死んだという生い立ち等々の要素が組み合わさって、自ずと『非現実の王国で』は、現実世界に十分にコミットする手段と場所を得なかった一人の人間が、自分の理想的な想像世界にひきこもることによって紡いだ妄想旅行の集積であると見なされている。とりわけ少女がしばしば全裸であることや股間に男性器が見られることなどには関心が集まり、特定の文脈での引用が今日も盛んに行なわれる。

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しかし、この一ヶ月、三回パリ市近現代美術館に通い、その度にコレクション展示の中に特設されたヘンリー・ダーガーの作品の中をウロウロした。何回も同じ絵の前を通り、同じ抜粋テクストを読み、同じビデオを見た。ダーガーの創造したダーガーと7人の美少女戦士の物語。作品に対峙するほどに、彼はその“非現実の王国”の妄想において、ちっとも自由ではなかったということが痛々しく語られてくる。

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ヘンリー・ダーガーは、芸術訓練を受けた所謂「プロ」のアーティスト(インサイダー?)がアート市場のメインストリームを築き、名声を得るというスタンダードに反し、「アウトサイダー・アート」の表現者としてカテゴライズされている。というか、アウトサイダー・アートというカテゴリーをわざわざ創設したのすら70年代のことなのだから、ダーガーの仕事が行なわれていた1910〜60年代には勿論、アートだろうとアートでなかろうと問題でなかった表現行為なのである。ダーガーは、19歳のときに執筆を始め、死ぬ前年までこれを書いていた。1973年にダーガーは死ぬが、72年に彼が貧窮院に入った際、シカゴの自宅で膨大な「作品」が発見されたというわけだ。

ダーガーの60年に渡る創作がアートであるかどうかを議論することには個人的に興味がない。なぜならそれは表現されたものであり、表現することによって80年間を生き続けた一人の人間の行為の結果であると言う事実があり、それ以上でもそれ以下でもないからだ。

ただし、これまでのダーガー解釈はやはりお花畑のヴィヴィアン・ガールズのイメージに引っ張られすぎて、誤解を通り越して、むしろ皮肉ですらあるように思える。彼の物語にあてられるキーワード、イノセンス、夢、パラダイス、純真、そんなものは恐らくもっとも遠くにあるもので、ダーガーの生きた半生は、残りの全ての人生をかけて、セルフ・セラピーに時間を費やすことのみが必要であるような、トラウマティックなものだったと予測される。

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ダーガーの描く、子どもを蹂躙する男たちも、それをながめる人々も、戦う大人と子どもも、攻撃し合う兵士たちも、命令する権力者も、すべて、本当に彼が目にしたものに過ぎない。物語は非常に暴力的で、立ち向かう美少女戦士とそれを応援するダーガーという物語の骨組みは、「非現実の王国」における自慰の手段と言えないことはないが、それよりももっと深い、一人の人間の表現する切迫した必然性を感じさせて止まないものである。

①表現する切迫した必然性。

これは表現行為に人を突き動かす本質的なドライブである。

②芸術の有用性。

それはその表現されたものがどの程度まで他者に対して応用力を持つかである。

ダーガーの表現したものは後者において分かりやすいものではないために、その解釈の点で疑問を残す。しかし、前者(表現のための切迫した動機)を人々が感じ取ってしまう、その強烈な表現としての力にこそ、ダーガーの人生とその経験、その結果としての表現されたものが人々の関心の的となり続ける理由がある。

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ダーガーの作品は過剰にリアルである、というのが現在の私のダーガー観である。

「地獄とは、地の底にのみ存在するものだろうか?」(Henry Darger)

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07/27/15

Chiharu Shiota, la Biennale de Venise 2015, l’archive de la mémoire

第56回ヴェネツィアビエンナーレ、日本館。
塩田千春さんのインスタレーション。

アートは現代多様さを極めているけれども、作品に対峙することやそこに身を置くという物理的条件を満たすだけでその作品が持つパフォーマティブな要素に言葉を失うのは、作家の魅力である。何が起こるかおぼろげに分かっているのに、驚いてしまうというのは、塩田千春の作品の力なのだろう。

赤い糸、それが蜘蛛の巣のように、あるいは脳内の神経が張り巡らされているように、空間を満たす。
鍵というあまりに象徴的なオブジェ。それが世界中から集められて、持ち主の、鍵そのものの経てきた時間の集積を表す。
舟、海、錆び付いた金属、壊れた木片、舟と鍵のオブジェ自体が発する気のようなものがそこにはある。

塩田千春 ベネチア・ビエンナーレ:http://2015.veneziabiennale-japanpavilion.jp/ja/

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