08/28/14

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会 / NEW INTIMACIES

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会 / NEW INTIMACIES

ホテルアンテルーム:http://hotel-anteroom.com/gallery/

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「インティマシー(親密さ)」という類いのテーマが、美術の展覧会においてとりあげられるとき、それがとても魅力的に思えるのはなぜだろう。展覧会だけではない。作品がなにか「親密さ」に関わる主題をめぐって作られたとき、たとえば、美術作品や文学作品、演劇や音楽、あるいはパフォーマンス。様々な形をとって行なわれる表現が、人々の非常に個人的な部分に触れると知るとき、そのようは表現は「繊細で脆く小さな世界」を捉えたに過ぎないと一蹴されうるいっぽうで、同時に、隠された脆弱なそれを垣間みたくてたまらないという欲望に人々は駆り立てられるかもしれない。
そのような状況は、「親密さを表現する」行為それ自体が、ア・プリオリ、見られるべきでない親密な瞬間を他者の目の前で暴露するという自己矛盾の遊びであることに端を発する。

そもそも、芸術の主題は古来より親密な主題に溢れている。親密な主題、それが追求されるのは、異なる人生を生きる個人の非常に違った人生のフラグメントが他者にとってもの珍しい対象として受容されるからではなく、それがユングの元型(archetype)のような普遍的表象の領域に触れうることを人々が直観的に知っているからである。そのことが脆弱な個人をインティムな領域から解放し、大きな世界に関係することを許すのだ。この意味で、一般に普遍性の芸術と呼ばれているものも実は、脆くて小さな個人の表象と表裏一体である。

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さて、「親密すぎる展覧会」の「親密すぎる」とはどういうことだろう。
人はいったい、親密すぎることが出来るのだろうか。恋人同士はいったい、ほんとうに親密すぎる関係なのだろうか?
多様である個体間の関係において、「過剰に親密である」状況を定義するのは難しい。人はどれだけ交わりをもち、共振し合っても、おそらく過剰に親密であることができない。この点では、恋人同士よりも思考の奥深くまでを共有する双子のような個体のほうがずっと親密であると言えるかもしれない。この展覧会タイトルは、冒頭にも述べた、我々の親密なるものへの抗いがたい興味を刺激する戦略的なものだ。私たちは、逆説的にも普遍的である「アンティム」なものを垣間みたくてたまらないように運命付けられている。

本展覧会は、ホテルアンテルーム京都 Gallery 9.5で開催された。8組のカップル(アーティストだけではなく、ギャラリスト、学芸員も含まれる)が、協働で作品を制作し発表している。

〈手をつなぐこと〉のためのドローイング

〈手をつなぐこと〉のためのドローイング

「〈手をつなぐこと〉のためのドローイング」と「〈手をつなぐこと〉のためのインストラクション」は井上文雄+永田絢子により構想され、異なる時間と場所で実践されたイベントである。非常にシンプルなインストラクションは以下の通りだ。

0 待ち合わせ場所に集まってください(トランプを持参すること)
1 トランプの数字を使ってくじ引きをして2人組をつくります
2 それぞれ決まった相手と手をつないで、自由に過ごしてください(90分)
3 最初の場所に集まり、どのように過ごしたかを全員で話し合います(90分)

よっぽどの人好きでない限り、知り合いでも友人でもない他者と手をつないで90分を過ごすのは心理的に抵抗を伴う。苦痛を感じる人もあれば、時間を持て余すかもしれず、あるいはひょっとすると繋いだ手のぬくもりと共有した時間が相手への愛着に転じることもあるかもしれない。こういった「イベント」は日常生活で訪れることない奇妙な事態である。非常事態であるからこそ、新しい関係性の経験をもたらしうる。人々が、奇妙で常軌を逸したこのようなパフォーマンスに、しばしばすすんで身を投じてしまうのは、そのような非常事態の可能的意味を察知する能力があらかじめ備わっているからに他ならない。

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高木瑞希+竹崎和征の作品は、何枚かの異なるドローイングが切り刻まれて、一つの画面を再構成している。細く切り取られた各々の欠片は描かれていたものを垣間見せるものもあれば、全く分からないものもある。目の粗い織物のように再度合成された性質の異なるフラグメントの集合体はまるで、恋人同士という一般的に非常に強く結びつき、互いの深い部分まで踏み込んでいるように思える関係性において、その二つの個体は、混ざり合って中和するのでなく、依然として異物としての存在を保ちながら、しかし分離不可であるつよい結びつきとして存在していることを明らかにしているように思える。

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菅かおる+田中和人の「before flowers are blooming on canvas」は消えかけているような、目を凝らしてもその細部を認めることのできない、独特な表面が印象的な一連の絵画である。

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斎木克裕+西脇エミの作品「CURRENT」はドローイングの下に形而的に水を受けるためのコップが用意されているマンホールを表したものと、イメージの上に水が入ったコップを置くことによりカナル・ストリートを表した二つのインスタレーションから成る。私が展覧会を訪れた日は、九条駅から5分歩くのもままならぬ大雨だったのだが、窓際に設置されたインスタレーションである点在するコップが暗示する「CURRENT」(流れ)が外界とのつながりを強く認識させた。「流れ」は8組のカップルが提案するそれぞれの表現を繋ぐのみならず、それが建物の外へと溢れて行くように促しているようである。

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会は、8月31日まで開催されている。

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06/30/14

Boris Détraz + Makiko Furuichi exhibition Chambre Charbon / シャンブル・シャルボン, ボリス・デトラズ+古市牧子

Boris Détraz + Makiko Furuichi exhibition
Chambre Charbon

2014年7月5日(土) ~ 21日(月・祝)
木金 17:00 – 21:30/土日 12:00 – 19:00/月~水 休
オープニングレセプション:2014年7月5日(土) 19:00 – 21:00

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フランスのナント在住のアーティスト・デュオChambre Charbon(シャンブル・シャルボン)をご存知でしょうか。Boris DétrazMakiko Furuichiの二人のアーティスト、彼らは数年来互いの芸術表現をよく知り、影響を与え合ってきたカップルです。表現者同士が深くかかわり合うとき、そこに生じるインタラクションは強力で、興味深い。彼らの二人展を目撃することは、二人の中に生じた変化や対話、衝突や突然変異を目の当たりにする行為であり、場合によっては目撃する私たちが、第二のインパクトを被る身となるかもしれない。

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日本に出発目前の二人がパリを通過し、彼らに展覧会についての言葉を聞くことができたのだが、もしあなたが表現の生まれるその瞬間に興味があって、表現の生まれ方そのものに働きかけようとする試みをかいま見ることに興味があれば、ぜひ足を運んでほしいとつよく願う。展覧会は7月5日土曜日より、WISH LESS gallery にて始まる。

《過去Salon de Mimiインタビュー記事、展覧会記事はこちら》
★古市牧子/ Makiko Furuichi アーティストはハイブリッドな絵を描く:http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=811
★Décongélations Prématurées @ Atelier Alain Lebras, Nantes / 展覧会「未成熟な解凍」,ナント:http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2007

彼らが今回展示するのは、開かれたデッサン達だ。今回の展示のために新しく生み出された作品群である。Boris DétrazとMakiko Furuichiのそれぞれの作品を知る人であれば、彼らの持てる世界観もテクニックもあまりに違っており、以前から違っていたし、今も違う。しばしばカップルの中で起こるようにどちらかがどちらかに芸術的に迎合したり、混ざり合って似通ったり、アンビエントな模倣が見られたり、ということが無い。では彼らは互いの言葉を聞いていないのか、というと、そうではなくて、誰よりもよく聴いているのである。彼らはお互いの世界観を、模倣や視覚的類似によって確認されるよりも別の次元で混ぜ合っているのではないか、私はそのように感覚する。だからこそ、今回彼らが行った、ある意味実験的なペインティングはとても興味深いのである。

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, Boris Détraz, 2014

Ultrasommeil
, Boris Détraz, 2014

Chambre Charbon(シャンブル・シャルボン)は、展覧会名であり彼らのデュオ名でもあるが、フランス語の »Cha »というのは特徴的な音である。空気の多い音で、人間の口が楽器としてのキャパシティを発揮するようないい音だ。Chambre:部屋/空間、Charbon:炭/デッサンの木炭。彼ら自身がChambre Charbon(シャンブル・シャルボン)のコンセプトについて語った下りがWISH LESS gallery のサイトに掲載されているので、これを引用しよう。

———シャンブルとは仏語で空間(部屋)、シャルボンは炭素を意味し、2つの言葉は”汚れた道具と汚すための空間”に置き換えています。絵に見える荒々しい躍動感や強烈な存在感は、手を汚し部屋をけがす事で生まれた結果であり、これらの行為そのものが作品を構成する上で重要な証明となるのです。つまり「潔白な手によってつくられる、罪のあるイマージュ。」だと2人は語ります。(引用:here

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Makiko Furuichi, 2014

Inquiétude, 
Makiko Furuichi, 2014

ペインティングはフィジカルな行為である。ムーブメントを引き起こす個体を包含する空間で、そこに存在する物体を物理的に傷つけたり変形させたり変質させる行為である。二人はその空間で、互いの行為が世界を傷つけ変容させながら、その空間にリアルタイムで第三者が介入して来ることを許している。そこでさらなる抵抗や摩擦を生じさせるために。そして、彼ら自身とその第三者が本質的に変わるために。
二人の作品が日本でコレクティブに展示されるのを見られるのは興味深い機会です。

WEBSITE
Boris Détraz:http://www.borisdetraz.com
Makiko Furuichi:http://makikofuruichi.com
Chambre Charbon:http://chambrecharbon.com

06/30/14

Indiens des Plaines @quaibranly, インディアン・ファッション

本展覧会« INDIENS DES PLAINES »は、エッフェル塔から少しセーヌ沿いに東に移動したPont d’Arma近くのMusée Quai Branlyにおいて現在開催中の展覧会である。「プレーンズのインディアンたち」と題された本展覧会で出会ったのは、鑑賞者の注意を喚起するのに成功したセノグラフィーであり、展示作品であり、物語であった。

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Musée Quai Branlyは、パリの大きな国立美術館がそれぞれの担当領域によってある程度棲み分けをはかっているといったあまりに一般的な見方から紹介するならば、世界のプリミティブアートとアフリカやオセアニアのアート、少数民族の文化や手工業のコレクションを数多く収蔵しており、企画展もまた、こういったプリミティブアートやアフリカ・オセアニアの工芸に焦点を当てたもの、人類学的観点からある文化を展開・紹介するような傾向が見られる。ただし、この美術館の一つの強さは、「アートとはなんであるか」「アーティストとは誰か」という、自分がアートに関わっていると自負している人なら誰しもつい溺れてしまうくだらない問いから、完全に解放されている点であると思う。

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我々がここで目にすることの出来る展示作品は、しばしば作者不明あるいは匿名の表現者たちによる作品である。イリノイのある地方、ミシシッピ上流の谷、グレートプレーンズ、それぞれの地域で名も無き作り手たちが丁寧に作り上げた精巧な衣類や織物、人形や祭りのための飾りといったものが17世紀よりその地を訪れたヨーロッパ人を驚愕させてきた。

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人々はしばしば、今自分たちが生きている、あたかもたった一つに結びつけられたかのようなグローバル世界が行き着くべき理想的体系であるかのように思って、それ以前に独立して存在していた別々の世界は、現在ある全てのものより洗練されておらず野蛮なものだと妄想しがちである。今の世界が最終的で最高の形と感じるのは、我々が今しか生きられない生き物だからなのである。現在のデザインや技術は存在した全てのものの上に立っていることは有り得ず、だから、我々の知らない物凄いものが時々発見されたとしてもそれは実はとてもナチュラルなことなのである。

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展覧会は7つの章に分けられ、最も素晴らしいことには、開かれた大きな展示スペースに至る前までの3つのセクションは、現在から遡って行く時間軸をとっている。
L’exposition est ainsi organisée en sept parties :
. Le renouveau artistique dans la vie contemporaine, 1965-2014
. Communautés et diaspora, 1910-1965
. Peuples anciens, Pré-contact
. La vie dans les Grandes Plaines, 1700-1820
. L’épanouissement d’une culture, 1820-1860
. La mort du bison, 1860-1880
. Dans les vestiges des terres ancestrales, 1880-1910

アイデンティフィケーションに血眼になるような展示はアートの可能性を広げないが、ならばどうしたらいいのか?という問いへの一つの解釈がここに展示されていると思えた。

Manteau d’homme and Souliers de femme (about 1920),
Artiste lakota
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Patchwork (about 1915)
Rebecca Blackwater, artiste dakota
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Manchettes de danseur (about 1925)
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Chaussures sabots (2014)
Jamie Okuma, artiste luiseno, Californie
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Robe de femme avec accessoires (2005)
Jodi Gillette, artiste lakota hunkpapa
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本展覧会は、2014年4月8日〜7月20日まで開催中である。
参考:http://www.quaibranly.fr/fr/programmation/expositions/a-l-affiche/indiensdesplaines.html

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05/8/14

Salon de Montrouge 2014 / サロン・ド・モンルージュ 2014 @Beffroi, Montrouge

Salon de Montrouge 2014

Salon de Montrougeは、1955年に始まったサロンで、拠点のモンルージュ(パリの南)で、Léger, Lurçat, Daliなどの回顧展を行いました。1976年以降、Nicole Ginouxの方針でコンテンポラリー•アートに焦点を当てたサロンへと方針を転向します。サロン・ド・モンルージュ(Salon de Montrouge)は、Montrouge市の全面的なサポートのもと、若いアーティストの幅広い表現活動を受け入れて、彼らを助け・育てるためにその機会を提供し続けていると言えます。従ってこのサロンは、素材や主題を問わず作品を受け入れています。コンテンポラリー・アートのアーティストたちが社会のなかで重要な役割を担うべきであり、たえず変容する状況の中に投げ入れられているとすれば、彼らが美術の教育を受け終えた後にどのような「道」を提案してあげられるだろうか?どのような場所で、どのような機会に、彼らの表現を発表して行くべきだろうか?Salon de Montrougeが若いアーティストをサポートしようとしているのは、このような重要な問いに関する答えのひとつをたぐり寄せてあげることと言えるでしょう。

2009年から当サロンは、Stéphane CorreardがArtistic Directorを務めて、今日まで多くの応募から選ばれたアーティストの作品を毎年Montrougeの市役所向かいのBeffroi(鐘楼)のスペースで展示しています。第59回目となる今年は、4月30日から5月28日まで開催しています。
http://www.salondemontrouge.fr/index.php/salon-2014

今回はパリ出身、ナント在住のアーティスト、Anne-Sophie YACONOさんに招待していただいて、レセプションに行ってきました。Anne-Sophie YACONOは、ミックスメディアでラディカルなコンセプトを発散している若手の女性アーティストですが、彼女の作品はSalon de mimiでもご紹介したことがあるほか、有毒女子第12号 特集「食べないこととか」で私のエッセイのなかで紹介させていただいてます。
展覧会 Décongélations Prématurées (Nantes)
http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2007
有毒女子第12号 特集「食べないこととか」
http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2754

彼女の作品は、入り口右手の階段を上っていただいて左手の「Anne-Sophieの部屋」と言わんばかりのお部屋にずらりとおいでです。レセプションでドレスアップした彼女と、ご両親にもお会いしました。こちら、サロンのサイトをご覧頂くとアーティスト・インタビューのビデオもあります。
http://www.salondemontrouge.fr/index.php/salon-2014/la-selection/7-artistes/12054-anne-sophie-yacono
Les portes de Chatteland, 2013
Céramiques et sculptures sur bois. Dimensions variables
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また、フライヤーのイメージに採用されている招待作家の作品は、1977年生れ、オルレアン出身のJulien Salaudの作品。

第55回のSalon de Montrougeの受賞作家。動物の剥製を使った作品を作っています。
彼のブログはこちら。(Blog Julien Salaud

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また、ハンガリー出身の作家Anna ADAM(ANNA ÁDÁM)の空間の記憶をモチーフにした作品は繊細でした。社会的・政治的抑圧が、学校や職場だけでなく、個人の生活にまで陰をひそめていた彼女が生まれる前の時代。その事実は写真を通じて、現代を生きる人にも物語を伝える。
Re-Play !, 2013
Broderie, collage sur photographie

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JUDITH DESCHAMPS

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Dorith Galuz, Collectionneuse, 2014 video 7min12
この映像は、Judith DESCHAMPSがコンテンポラリー・アートのコレクターであるDorith Galuzにインタビューした際に撮影したもので、彼女は1970年代から現代までのリアルとフィクションを織り交ぜて物語をつくる数々の作品をコレクションしてきた。彼女の言葉からそこにある歴史全体を摑み取り、そこに参入し、過ぎた世界を作り変えようとする。

 

Anne BROUJEANの二つの作品(Les Petites Morts, 2012
Photographie et texte, Biographies, 2012
Photographie et texte)は、一人一人は限られた時間を持ち、生まれては死ぬ私たちの、そうはいっても生きている時間はたくさんの思い出や出来事に満ち溢れ、幸せであったり、悲しかったりする、人間の「生」というものをこのアーティストの方法で表した一つの実験的な試みでしょう。とにかく、ビックリします。Les Petites Morts(2012, かわいそうな死者たち)は、世界の様々な文化の中で生きて死んだひとりの人間が、棺桶の中で?棺の中で?肉体をともなった最後のイメージとして表象されています。日本人らしい写真もあります。
なんて書いてある?

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「サーモンのアルミニウム包み焼き」(Les Petites Morts, 2012
Photographie et texte)
彼女の問題意識としては、現代の情報化社会にあって、私たちは、私たちのナルシシズムを満足させるような自由な発言を認められているけれど、それと同時に生や死のイメージが蔓延するなかで、それへの生き生きとした感情は乾燥し、バラバラになり、退化すらしているかもしれない。テクノロジーの発達した社会における我々の感情の問題を喚起する作品と言えるでしょう。

 

GAËLLE CALLACは、ブルターニュ生れ。親密さや個人の物語をテーマとする作品を作っています。彼女にとって、このテーマは、決して個人の中に留まるような小さな問題ではなく、それはむしろ、普遍的な問題として立ちのぼります。本作品は、本のタイトルからインスピレーションをうけた言葉遊びで構成される作品で、今や時代遅れのもはや見向きもされなくなった古い本を集めて、ひとつの時が止まったような記憶を作っています。

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CLÉMENTINE DESPOCQ

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彼女は、もともと宝石やアクセサリーなど装身具について学び、その後装飾品のデザインについて学びました。しかしビデオの中でも彼女が述べているように、アクセサリーはそれを身につける身体を伴ったとき、一つのオブジェクト以上のものになることに興味を抱きます。彼女の作品では、単体のアクセサリーが独立するのではなく、常に、そこにある肉体のことを想起させます。

PAULINE BAZIGNAN

彼女は画家です。しかし、筆も指も使いません。もちろんそのほか何によっても、紙やキャンバスに触れることはありません。彼女はまず紙を床におき、色彩の雫をぽたっと垂らすと、折りをみてその紙を垂直にします。絵の具は重力に惹かれて流れて行く。時々は紙やキャンバスにせき止められて、時々はその流れる性質を失って途中で止まってしまいながら。花のような、星のような、不思議な表象。(Sans titre, 2010
Acrylique sur papier. sur toile.)

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たずねずにいられなかったオレンジの彫刻。普通、鋳型をとる彫刻言うのは、量産するために鋳型をとりますよね、ロダンの考える人がたくさんあるように。彼女はコルシカ産のオレンジの彫刻をたくさんつくったのですが、どのオレンジも、一回だけ型にするとその役目を終えてしまいますから、これらのコルシカ産オレンジの彫刻は同じものはもちろん一つしかないんです。一つ一つの実の大きさやあの白い筋の様子がよく分かります。

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Salon de Montrouge 2014は、2014年5月28日まで!

04/8/14

彫刻家 井上佑吉, Yukichi INOUE, Sculpteur « Mille et une têtes »

彫刻家 井上佑吉, Yukichi INOUE, Sculpteur

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Yukichi INOUEさんは、1966年よりEcole Nationale supérieure des Beaux-Arts de Parisで学び、その後50年近くフランスで彫刻作品を制作しておられる。
私が生まれるよりもずっとずっとまえだ。私は1966年がどんな時代だったかを知らないし、1966年に彫刻を学ぶためにフランスに渡るということがどういうことかも知り得ない。彼がフランスにわたった1966年、パリには今よりもずっと少ない日本人が滞在しており、さらにパリ以外の地となると、もはや、日本人のコミュニティとはかけ離れた場所で完全なる移民として生活を送ることを意味するのだろう。彼は、アトリエのあるElancourtの街や、その近隣の街を拠点に多くの発表をしている。

HP ウェブサイト : http://milleetunetetes.com/yukichi-inoue

プロジェクト「沖縄の石」は、沖縄からやってきた何トンにもおよぶ彫刻作品だ。2005年、南城市玉城字堀川の武村石材建設で制作を行い、それらは船でフランスに運ばれ、Mille et une têtes として作品化されたものだ。作品タイトルMille et Une Tête s「1001人の顔」。集合としての1001体に及ぶ沖縄の石から削られた彫刻は一人一人異なる存在を表す結果になっている。1001体の彫刻、そして一体一体が少しずつ異なるといえば、人の背の高さほどの木造千手観音像がずらりと安置されている蓮華王院本堂三十三間堂のことを思い出すだろう。ちなみに蓮華王院本堂三十三間堂の観音像は殆どが鎌倉復興期に制作され、平安期の像も含む。さらに数体は国内の博物館に寄託され、異なる時代の異なる作者(しばしば作者不詳)による観音像の集合なのである。それは、似たような外観として同じ空間に長い年月安置されているが、いつしかはその場所からいなくなるかもしれないし、観音像として彫りだされる以前、彼らは異なる時代異なる場所に行きた木であっただろう。彼らの細胞は我々の知らない陽の光を浴びて成長し、我々の身も知らぬ空に向かって幹をのばし、そして今日、この場所に再発見されるのだ。

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Yukichi INOUEさんがマチエールとしての「石」について語ることは興味深い。彫刻家として、石だけでなく、もちろん様々な物質を作品の材料として彫りだしてきた彼は、その中でも石が内包することのできる時間の層の壮大さに強く惹かれる。石は、その中に、記憶を堆積する。それは、土の記憶であり、水の記憶であり、その中に生きとし生けるもの全ての記憶である。さらには、そこを吹き抜けた風のことや音のこと、匂いのことすらも含む。石を削るとき、石を切り出すとき、石に穴をあけ、石を象るとき、その壊された表面に次に現れるのは、まったく異なる時間の、まったく異なる場所の記憶かもしれない。そうやって現れる見知らぬ表面と出会うことがアーティストは好きなのだ。

展覧会を見学している最中、小さな子どもが何人も訪れていて、アーティストは彼らに幾つかのことを説明した。象られた顔の、小さな部分に現れた過去の生き物の姿、葉っぱの葉脈、閉じ込められながら突如晒されることになった貝殻、あるいは貝殻の跡。石の中に閉じ込められていた記憶が、パリンとその上に或る一層が剥がされた瞬間に、そこに現れる。それらはいつか水の中にあったり、早く泳いだり物を食したりして生きており、あるいは隣の欠片と出会いもしないほど遠くに存在していた。そんなものが、いま目の前にある。1001人の顔として。子ども達は、示された貝殻の跡やエビのような生き物、植物の欠片を好奇心に満ちた目で追う。

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なぜ、沖縄の石を?

Yukichi INOUEさんは1942年生れ、彼の父親は第二次世界大戦の終戦間近44年に徴兵され、45年沖縄戦で戦死した。沖縄で亡くなったことは分かっているが、それ以上詳しいことは分からないそうだ。2005年、戦後60年の戦没者追悼式に参列した年、アーティストはそれまでむしろ距離をとっていた「沖縄の石」を彫ることを決める。
石は、そこで起こったどんな出来事もその表面に纏った。それがどんなに昔や最近の出来事で、人間の起こした悲惨な出来事で、長く続くことや束の間のことであっても、耳を澄ませて聴いていた。

Yukichi INOUEさんは 彼の死んだ父親の記憶に出会うように沖縄の石を彫る。ただし、そこに聴かれる対話は、彼と彼の父の間にとどまらない。それはいま、フランスの子ども達に石の記憶を語り、それを目にするこの地の人々や現代の人々の記憶の中に入って、遠くにやって来たのであり、もっともっと遠くまで広がって行くだろう。1001人の顔は、重ねられた世界の時間と生き物の記憶を乗せて、地球のテレパシーのような存在になったのだと、私には感じられる。

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受賞歴:
Prix Susse fondeur au Salon de la Jeune Sculpture, à Paris.
Premier prix à la Biennale de sculpture Contemporaine de Bressuire, à Deux Sèvres.
Prix de la Fondation de Coubertin au Salon de Mai, à Paris en 2001 et 2011.
Prix de la fondation Pierre Gianadda de l’Académie des beaux Arts

02/12/14

「反重力 」展 @豊田市美術館/ Anti-Gravity @Toyota Municipal Museum

反重力 Anti-Gravity
2013年9月14日[土]-12月24日[火]
豊田市美術館
Web Site link

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豊田市美術館に訪れたのは二回目で、私はこの美術館がとても好きである。初めて訪れたのは、2012年「みえるもの/みえないもの」というコレクション展で、ソフィ•カルの『盲目の人々』や志賀理恵子の『カナリア』などの名作を、メルロポンティ現象学が取り組んだvisible/invisibleの間に思いを馳せながら鑑賞するとても良い展覧会であった。その日のお天気や、近くに生えていた梅の花がどのくらい咲いていたかすら明確に思い出せる。salon de mimiのポストにもその展覧会のレビュー(http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=384)が掲載されているので、ぜひご覧頂きたい。

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さて、能勢陽子さんがキュレーションされた展覧会「反重力」は、魅力的なタイトルの展覧会である。「反重力」は「無重力」ではない。あくまでも、Gravityに対峙する、Anti-Gravityなのだ。それは次のように説明される。

引用)「反重力とは、創成時の宇宙にインフレーションを起こし、今日の宇宙を加速膨張させているといわれる、重力に反する仮説の力です。SF作品では(中略)物質•物体に関わる重力を無効にし、調節する架空の技術として登場します。」(本展覧会カタログp.2)

当展覧会のカタログに掲載された吉岡洋さんの「飛行、浮遊、そして反重力へ」という文章中にも述べられているが、反重力はしばしば、SF的想像力(宇宙飛行、テレポートなど)の原理として登場し、それは必然的にに科学(物理)的説明を期待される。だが、その言葉によって展覧会を構成するのは、芸術の展覧会にいたずらに科学の権威を掲げようとするためではないし、よくわからないが魅力的な言葉で鑑賞者を煙に巻くためでもない。ソーカル事件を通じて「ソーカルのやった行為は(略)芸術的•批評的観点からみれば的外れ」であるという考えには私も同感である。槍玉にあげられたのは、ラカンやボードリヤール、ドゥルーズといったフランス現代思想家たちだ。彼らによる科学用語の濫用が神聖な科学を歪曲する欺瞞だという。ソーカル的な問題意識や排他的棲み分けは、今日においても何も解決されておらず、むしろ無意識的に多くの人によって共有される伝染病のようなものだ。現代の哲学者も心理学者も、社会学者も芸術家も、科学的な用語を使う。科学的な概念を使い、科学的な思想に拠る。それを全て否定し弾圧するならば、今日より後の世界には、なんの変化も驚きも、訪れることはないだろう。

したがって、「反重力」は、現時点ではSF上の仮説の力にすぎないが、それは私たちの、慣習的に同じ流れに向かうつまらない思想を全く思いもよらず跳ね返すことによって、見たことのない表現を創り出すのかもしれない。そのとき、「反重力」はすでに実在する力となり、我々に働きかけているのだ。

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ジルヴィナス•ケンピナス(Zilvinas Kempinas)Beyond the fans(2013)は、磁気テープが二つ向かい合った扇風機の風によって円状に浮かび続けている。磁気テープは扇風機から与えられる風の力で空中に浮かび続けており、そこには何のマジックもない。だが私たちは、自分が近寄れば僅かながら空気に別の流れができたり、他の鑑賞者などが通ってまわりの空気は動かされ続けているにも関わらず、そのくらいのことでは決して軌道から外れて落ちてきたりしない、この単純な装置の安定さや強さを美しく思う。思いのほかに物事は、結びつけたり固めたりしなくても変化しないのだ。

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『微小重力環境におけるライナスの毛布のための試作』は、中原浩大+井上明彦による、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の共同研究の実験的作品である。このプロジェクトは、宇宙飛行士のためだけでなく、将来宇宙に旅立ち、そこで生き続けるかもしれない一般の人々のためでもある。触れたことのないタッチのクッションや毛布。地球で生まれた人間は地上の重力環境に慣れており、長期間宇宙に滞在し、微小重力のもとにおかれると、心理的•生理的不安を抱くそうである。人間が拠って立つことを可能にし、頼れなさを緩和してくれるもの。不安は、フィジカルなオブジェによっても満たされるのだ。

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カーステン•ヘラー(Carsten Höller) は、次のように述べる。
To five room to uncertainty, and to the beauty within uncertainty, in order to challenge the cultural environment we live in.
ネオン•エレベーター(2005)は、人間の目の錯覚に訴えかける。鑑賞者を取り巻く形で配置された壁の中には水平のネオンライトが上から下に向かって明滅する。その光の動きに目を凝らしていると、自分の立っている空間が光のエレベーターとなって上昇していくように感じられる。どれほど分析され、理解が進んだとしても、我々の認識は錯覚のような曖昧さで満ちており、それはしばしば我々を今ここから解放することを助ける。

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やくしまるえつこは、アインシュタインの宇宙項や『相対性理論』などの原理から着想を得た表現を提案している。ボーカル、作詞、作曲、プロデュースを手がける彼女は、作品『Λ Girl』において、お互いに引き合おうとばかりする世界の物質に対して、たったひとりで、万物から遠のくことを選んだひとりの少女のΛの存在を、モニターや72台のスピーカーを介して、我々の目の前に引き出すことを試みる。

少女は逃げ惑い、私たちは決して彼女に追いつけない。モニター上の少女は鑑賞者がいる場所の正反対の位置に逃げ、彼女の声も向こう側からしか聞こえない。たくさんの人間の存在に、点滅し惑う少女はひょっとして喪失してしまうのではないかという恐怖に似た直観がよぎる。でも案ずることはない。Λ(ラムダ)は世界の存在に反しながら、ここにはいないのだから。

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レアンドロ•エルリッヒ(Leandro Erilich)の作品は、我々の日常にインスピレーションを与え、その見方すら回転してくれるかもしれない。

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中村竜治の構造『ダンス』は、太さの異なるピアノ線で構成された、軽やかな彫刻である。『ダンス』とは素敵な名前だと思う。マチスの『ダンス』において肉体は、ほとんど普通の意味での肉体であることをやめ、ムーブメントと化しており、作家はマチスの『ダンス』から着想を得たと話す。重力と物体の緊張感を尊重した作品である。

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クワクボリョウタ『ロスト•グラヴィティ』は、アーティストが取り組むテーマの一つ、機械と人間の境界を真っ向から問うた作品であると言えよう。暗闇の壁に映し出される様々な形の光は、部屋の中央に置かれたザルやスポンジ、待ち針など日常的で単純な形状のオブジェの影だ。それらは、単純なシステムによって回転し、光を受けて、彼らの隙間を投影する。そこにあるのは、繰り返される回転の音とパタンである。しかし、暗闇に身を置き、その光を見つめたならば、ロマンティックで懐かしい感情におそわれ、心が温まるのはなぜだろうか。

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エルネスト•ネトは、ストッキングなど伸縮性のある素材を用いて上からぶら下がる不思議な形状のインスタレーションを数多く発表している。今回豊田市美術館で我々が経験するのは、『私たちという神殿、小さな女神から、世界そして生命が芽吹く』という、母体(あるいは子宮)をモチーフとした生命体の中に我々を包み込むようなインスタレーションだ。天井は描写しがたい暖色をうっすらと帯び、外の様子を感じられるが、内部にいる我々は守られている。

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中谷芙二子の霧彫刻が美術館の池から立ち昇った。霧彫刻は彼女が述べるように「ライブ彫刻」であり、その時の湿度、風、温度、地形など環境に応じて形を変える。我々人間は、微粒子ノズルと高圧ポンプで自然の霧のひな形を創り出してしまう。彼女は1970年の大阪万博のためのプロジェクト以降世界中で霧彫刻を発生させ、そこにはなかったはずの霧の中に多くの人々を包み、異型の体験を生み出した。その日は雨で、沸き上がった霧は雨に叩き付けられて、地面を這い、淀むことなく広がって美術館を包み込んだ。

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さて、最後の作品に出会おう。

内藤礼『母型』は心に響く。それは、大きな空間を満たす白い光と、繊細なビーズが吊るされている空間の隅、中央に横たわる人形と、ロウソクの火、それらが取り囲む場所に身をおくと、世界に存在することを人生の最初に遡って肯定された感じがするからだ。円形の小さな紙に書かれたメッセージ、「おいで」という声が、向こう側からやわらかく聴こえてくる。もう一体の人形が、上のほうから見守っており、その声は、生まれ直すことを許すのかもしれない。反重力の世界では、ひょっとして様々なものが逆さまになって、長い人生の折り重ねてきた時間を反対側に辿って、おいで、というその声を耳にする瞬間まで立ち戻ることを可能にするかもしれない。その声は温かく、私たちは幸せである。

02/7/14

宮永亮×つくるビル コラボレーション 『INSIDE-OUT』/Akira Miyanaga, Media Installation

宮永亮×つくるビルコラボレーション 『INSIDE-OUT』/ つくるビル
『INSIDE-OUT』:website
Miyanaga Akira
2013.11.20(水)~12.23(月・祝)

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作品《INSIDE-OUT》は、会場つくるビルが位置する京都の五条通りとその周辺の、数ヶ月に渡る記録映像をコラージュすることで生まれた、映像インスタレーションである。つくるビルの内部の展示会場では、複数の窓が次々と開かれ、そこに存在するあらゆるモノが宮永亮のスクリーンと化す。私たちは、自分自身では出会うことのなかった五条通のある夜の眩い喧噪や、白っぽく霞んだ昼間の影の形を知り、そこで揺れていた木々の緑や枝の付け根の形、どこかで見たような身のこなしの人が自転車でとおり過ぎていく様子、会社帰りのサラリーマンが無表情で足早に店に出たり入ったりするその速度、そんなものを観察する。それらはかつて在り、今はなく、混ざり合い、輝く。

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宮永の作品タイトル《INSIDE-OUT》は、文字通り、外側の世界の出来事が、つくるビル内部の壁やモノに映し出されることによって、内側の私たちの見つめる世界に置き代わってしまう「裏返し」を意味すると。壁やスクリーンに映し出されるイメージは、一つの場所の場合もあれば、重なり合って複数の時間と場所を映し出すこともある。イメージのコラージュは、したがって、映像の時間と場所を折り重ね、さらに凝縮した内部として再提示される。しかし私にとって、《INSIDE-OUT》が真に意味するのは、さらに別のディメンションに広がっていると感じられる。それは、内部と外部の反転の結果もたらされる、仮想世界と現実世界の反転であるように思われてならないのだ。

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アーティストが空間をスクリーンで満たす方法に着目してみよう。一般的な意味でスクリーンと呼べるのは、おそらく正面と左右の壁、振り返って向こう側にあるカフェのベニヤ板だ。一方、展示空間にはテーブルや時計、長イス、カフェと繋がる本物の窓とその桟の部分などがあり、それら全てがプロジェクションを受けて仮想的環境を構成する。その環境の中に一度身を置き、ポリフォニックな映像が、ある日ある場所の風景の断片を暴露するのを目の当たりにしたとき、ヴァーチャルな世界が突如リアルな経験として立ちのぼる。

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私たちの日常はそもそも、スクリーンの集積に似ている。外の世界で直に何かを経験することと、行き止りの壁に仮想窓を開き、そこに世界を感じることの間に本質的な差異を説明するのは実は難しい。それらは互いに侵犯し、共に生きることに関わり、私たちの生活を築いている。

01/2/14

みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術@栃木美/ Expo : Touch is Love @Tochigi

企画展 [みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]
栃木県立美術館 Web

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栃木県に行ったことが無かった。東京からは鈍行でも二時間ほどで栃木県立美術館まで行けそうだということが分かると、どうしても、栃木県立美術館で開催中であった[みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]展を訪れたくてたまらなくなった。きっかけは、写真家の糸井潤さんからいただいたアナウンスメールであった。糸井さんは写真家で、2012年に小山私立車屋美術館で開催された個展『Cantos Familia』や昨年1月に国立新美術館にて開催された『第15回 Domani•明日展 』において、フィンランドの森で撮影された写真作品を発表している。私はフィンランドの森を見たことがない。その空気の冷たさも、木々の硬さや枝の細さも、雲がどのように流れ、雪の粒はどれほどに細かいのかを知らない。展覧会は12月23日までで、数日関東に滞在していた私は、その日の朝、宇都宮行きの鈍行に乗った。

企画展 [みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]というテーマには惹かれる。美術展が、あるいは美術そのものが、近くからも遠くからもとにかく「凝視するもの」になって久しい。触れてよいものは、デザインや素材の展示には登場しても、美術には滅多に現れない。あるいは、ゲームや一部のメディアアートのように、鑑賞者に決められた操作を要求する作品があり、規定されたオペレーションを遂行する場合はある。だが、時々はそんなつまらないものでない、ワクワクするような展示に出会うことがあり、そういったものを体験したかったのだ。

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栃木県立美術館は、JR宇都宮駅よりバスで15分ほどまっすぐ行ったところにある。企画展側の入り口は正面より左側、コレクション展の入り口が右側にある。入り口をすり抜けると、フクロウの群れが迎えてくれる。全力で石に触れている少年が見えて楽しくなる。手塚登久夫の黒御影石彫刻は、壁側に配置されたフクロウの群れと同じ、石材を切り出した後はほぼノミとハンマーだけで少しずつつくられた二羽のフクロウに触れることができる。御影石はご存知のように、花崗岩の一種で古くから石材として用いられてきた非常に緻密で固い素材の一つである。しばしば墓石などにも利用され、研磨されて光沢を帯びている黒御影石は、ここでは冷たく削り口を露にし、丸いヴォリュームのぎゅっと詰まった感触が手のひらから伝わってくる。

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また、栃木美保のインスタレーションでは、楠、檜、月桂樹の三種類の木々の香りを吸い込んで体験するものである。タイトル『結葉(むすびは)』は、インスタレーションに見られる布で作られた葉が重なり合って光を透過するように、若葉がひしめく様子を表している。

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松島さくら子は、漆工を学び、世界各国で創作を披露している。本展覧会では、undercurrentシリーズが展示され、あまり見たことの無い形をもった漆工作品の、その表面がどのように艶やかであるかということを目撃することができた。

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丸山浩二のフロッタージュ作品は、フロッタージュという技法そのものが体現する三次元的な奥行きが、完成した二次元の作品にも滲み出ている。簡単なフロッタージュが体験でき、近隣の小学生や中学生の作品が合わせて展示されているのも楽しい。

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糸井潤のCantos Familiaからの6枚の森の写真と、ビデオ作品 »Solitude'(5min)を目の当たりに、森の中を歩く。視覚情報から出発したはずの、ずっと北の、遠い森のイメージは、知っていることや知らないけれども思い描く風景と重なり合って、揺れ動き、そこにはやがて音があり、風の動きがあり、光と熱があり、森の感触がある。ビデオでは森の様々なシーンが、その森に混入し、ついには溶けようとする人間の鼓動とともに映し出される。

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丑久保健一の木のボールや、彫刻には触れたほうが良い。そこには触れることによる驚きと気づきがあるからである。

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岩本拓郎の水彩•油彩画には、光に関するタイトルがつけられている。たとえば写真は『生成—生まれる光/2012-W1』(部分)である。そこで画家は、ピグメントが化学反応を起こし、たとえば点滅したり、見る角度によって色が全く変わるような事態を引き起こそうとする。滲んで予想外の動きが時の中にそのまま固まった様子は、琥珀の中に閉じ込められた年老いた虫の羽に少し似ている。

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藤原彩人は、施釉陶の彫刻をつくる。写真は『揺れる男』(2013)のインスタレーションの様子である。誰にも似ていない、白くて光沢の在る頭部、それは風鈴のように揺らめく他の身体の部分を伴って、世界を漂っている。しかし彼らはその重くて硬い頭部のお陰で、結びつけられているのであり、自由ではない。また、『立像―雪は溶け、地に固まる』の三体の彫刻もよい。我々は雪よりも少しは長く生きるが、所詮、少しだけ沸き上がってきてぺたぺたと地を歩き、遠くに行ける気もするが、やはりいつかは死に絶えて、溶ける雪が地に戻るように、形を失うのだ。

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展覧会[みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]は、そのわかりやすいキャプションや体験のための丁寧な説明から、おとなしく見るだけでなく、触り、嗅ぎ、聴きたい人々がたくさん訪れ、鑑賞を楽しんでいた。美術は触れえぬものであるという前提は、効力を失った呪文なのである。

10/4/13

ILYAURA The Window @The Window, Nuit Blanche Event

« ILYAURA The Window »

@The Window rue Gustave Goublier 75010 PARIS
2013年10月5日20時〜
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ニュイブランシュというのがある。10月5日パリは眠らない。一晩中続くアートイベント、アートの白夜祭だ。2002年に初めてパリで開催されて以来、翌年にはローマ、その翌年にはモントリオールで開催され、都市の文化事業として重要な役割を果たしている。日本では、2011年より京都で毎年の「ニュイブランシュ京都」の開催が始まり、今年で第3回目になる。日本のほうが7時間も早いので、パリの夜は日本の夜が更け始める頃、ようやく明かりを灯し始めるのだろうか。

突然だが、パリでアートアソシエーション »ILYAURA »が設立された。パリを拠点に活動するアート•アドバイザー、キュレータ、アーティスト、クリティックが、これからのフランスー日本、もっと国際的には、エイリアン(異邦人)としてある場所から発信しようとする表現者たちの、出会いの場となり交流の場となり、出発と発展の場となるような活動を繰り広げて行くのが目的だ。私は、このサイトでも行っているような批評活動や現代アートのアーティストたちとの交流の報告を通じて、縁があり、このアソシエーションのメンバーとして、上述したような活動や目的について考えることになった。

私たちは、アートについて一晩中時間が与えられている一年にたった一度の10月5日の夜、創立イベントを構想した。白雪姫のパフォーマンスで国際的に知られ、アーティストとしてフランス内外で活発にプロジェクトを展開している、Catherine Baÿさんの運営するスペースThe Windowにて行われる当イベントは、ILYAURAとThe Windowのパートナーシップのオープニングを飾る意味でも非常に重要である。

当イベントは二つのパフォーマンスによって構成される。一つはコラボレーションと食をテーマにした私自身の構想したパフォーマンス作品で、もう一つは、この20時から始まるイベントに空間的•時間的な意味を与え、それらが重なり合い交錯し合うILYAURAとThe Windowの共同パフォーマンスである。本パフォーマンスは明日の晩に初めての発表となり、アソシエーションのメンバーでありアーティストの石井友人とThe Windowに所属するアーティストであるManon Harroisの合作である。

彼らのパフォーマンスの次第は是非、明日The Windowにお越し頂いて目の当たりにしていただければと思う。あるいは後日展示やトークイベントの予定もある。以下に構想についてのメッセージを掲載したい。

アート・アソシエーションILYAURAとThe Windowによる、ニュイブランシュの共同プログラムは、石井友人・マノンハロワの合作”La réponse de la plante à l’œuf”(卵に対する植物の応答)を発表します。
今回ILYAURA設立イベントにて発表される本作は、石井とマノンの相互交差的なコミュニケーションを通じて構想が練られました。本作において、石井とマノンのパフォーマンスは異なる場所(パリーランス)を通じて行われ、The Windowの中で二人はその遠く離れた距離を対象化することで、積極的に作品を生成しようと考えています。
パフォーマンスの中で、石井はインターネットを通じて、様々な彼の親しい友人達と交信を図ります。それ等のコミュニケーションはパリを起点として、東京(青木豊・千葉正也)・京都(木坂あおい)・ストラスブルグ(平石晃樹)など多岐に渡り、石井と彼らによりアーティスティックな往復書簡的なやり取りがなされ、その過程・結果はThe Window内部において可視化されます。
同時にこの様な親密な交信は石井によりランスにいるマノンへと同時中継され、彼女はこの中継に触発されることにより、独自のパフォーマンスを展開することになります。マノンはこのパフォーマンスにおいて、他者と隔絶された状況であると同時に展覧会場の空間に能動的な働きかけを行う特殊な存在です。この様なマノンと石井、マノンと観客の複雑な関係性は、距離を隔てたバーチャルなもので在るにもかかわらず、石井によって再度媒介され、具体的な実存をともなった創作物として会場内に展開される事でしょう。
二人の想像力は””La réponse de la plante à l’œuf”(卵に対する植物の応答)というタイトルに暗喩的に込められており、会場内での二人のパフォーマンスは一つのあるいは複数の応答として存在します。彼/彼女等による応答はフランス・日本のアート文化の相互交流の出発地点として相応しいと思われます。それらは常に揺れ動き・移動し、あたかも風によって運ばれる、小さな植物の種達のようなものかもしれません。
あなたがたが彼/彼女等の作品を通じて、新たな想像力の種を持ち帰る事を我々は祈っております。

さて、ケーキのことはまたの機会に喋ることにしよう。と思ったが、キーワードだけ。明日の創立+コラボオープニングイベント、様々の物事の始まりにはお誕生日ケーキがよい。ケーキ作りは孤独な仕事である。一つ一つの所作は単純であるけれども、時間のなかにある身体のことやそれが一貫性を伴うことが望ましいからだ。出来上がった素晴らしいケーキを食べるのは分け合う喜びである。アソシエーションの根底にあるのは我々が異邦人であるという強烈な意識である。我々は敢えて、異邦の土地で生れ、祝われることを選んだ。ケーキはフランス人におなじみのおやつや食材、古く彼らが愛してきた食べ物によって構成されている。彼らのエネルギーとなってきた食べ物たちによって。我々はそれらによって祝福され、受け入れられ、異邦のままにそこに生まれようとしている。この「不思議なケーキ」はそのようなものである。

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more information ILYAURA The Window

09/24/13

奇形魚のクッキーを食べて、食べ物のことなどを思う。/Deformed fish cookies @Société de Curiosité

奇形魚のクッキーを食べて、食べ物のことなどを思う。

audio « fish cookies short version »


fish cookies short version

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今週末、9月28日土曜日、夜、パリの北のほうでパフォーマンスをする。
パフォーマンスといっても私はバターを泡立て小麦粉を混ぜて、大きくのばした生地にこまった魚の型をとり、それらをオーブンに入れて魚のクッキーを焼いて、イベントを訪れる人々にクッキーはいかがですかと、たずね回るかあるいは、デフォルメされたお魚の下手くそな絵をクロッキー帳に描いてみるのみである。おどったり歌ったりすることもなければ、素敵な詩をフランス語や日本語で吟じたり、オカリナを吹いたりもしない。そこでおこるのは、ココアやお茶の香りのする、何よりもまずフランスの恵まれた大地でのっしりと育った牛の巨大な乳によるバターの臭いのする、焼き菓子がふるまわれ、それを手にした人々が食べるという、それだけのことである。

それだけのことであるゆえに、ぜひ来てほしいと思う。

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人生には、忘れたくても忘れられないことが時々起こる。たいていのことは、年齢を重ねるに連れてどうでもよくなって、完全に忘れてしまうか、無関心になる。その瞬間には非常に悲しかったことも、非常に大切だったことも、時が流れるというサラサラとしたその働きによって、悉くどうでもよくなる。それでも時には、時に流されない強烈な感情に出会う。矛盾したことのように思えるが、じつは、強い印象というのは、たったひとつの感情によっては決して引き起こされない。そういったものは、それが怒りであれ、悲しみであれ、実はだんだん遠のいて行ってくれる。消えないのはそれがなんであるか、いつまでもはっきりと分からないような感情なのだ。

2年前の3月に東北の震災があったとき私は既に外国で暮らして一年半くらいが経過していて、それはとても中途半端な時期であった。新しい生活の場で人間関係を築きつつもそれは依然としてしっかりとしたものではなく、フランスという国の生活をすこし理解したような気もするが一方で日本にいつでも帰りたいと思えるような、そんな引き裂かれた気分で鬱々と朝から夜、夜から朝を迎えていた。ある日震災がおこり、その後はどこに行っても誰に会っても、日本の被害の現状と放射能問題について情報と意見を求められた。来る日も来る日も異なる人から同じ質問を受け、ときには私が将来日本に戻る気があるのかどうかといった質問を真剣に投げかけてくる人も会った。私は疲弊して、外に出るのも人に会うのも嫌になった。そんな中、たくさんの人と協力して一回目のチャリティーコンサートをムードンの教会で実現した。司祭さんも承諾してくれ、日本人の多くの音楽家が一生懸命練習した。地元の方にも来てもらうことや一緒にコンサートを行おうと言う主旨で、地元合唱団が協力•参加してくれることになった。私はこの日、抹茶のクッキーを差し入れに焼いて持って行った。彼らは喜んでくれた。一人の年配の女性合唱団員が、クッキーを配る私のトレーが目の前にまわってきたとき、「このクッキーは、放射能汚染されてないの?」とたずねた。私はどのくらいのあいだ、言葉を失っていたか思い出せないが、おそらく数秒の思索ののち、その女性の質問にはウイ、ノンで答えなかったのではないかと思う。私は演奏会開始前にものすごい泣いた。演奏会は、弦楽器、管楽器の演奏者、ホルンアンサンブルのグループ演奏、どの演奏者もすばらしかった。合唱団の連れてきたオルガン伴奏と共演のトランペット奏者の演奏が誰の耳にも分かるほど際立ってめちゃくちゃで、演奏途中に止めようとしたくらいであり、私は演奏会終了後も疲れるまで泣いた。

この年配女性の放射能汚染クッキー疑惑は、耳を疑いたくなるのは私たちが感じやすい日本人であるからで、ちっとも珍しいことではない。(誤解しないでほしいのだが勿論、この女性の無神経さを批判するフランス人もたくさんいる。)先ほど、あまりに日本の状況を尋ねられるので疲弊したと言ったが、それには時々まともに受け止めきれないヘイトスピーチの類いも含まれていた。日本は綺麗な国だったけど、もう汚染されているので旅行できない、日本の製品は買わない、レストランのしょうゆは汚いのではないか、できるならせっかく外国にいるあなたたちは帰らないほうがいいのではないか。

奇形魚のクッキーは、美味しい。これらのクッキーは、フランスのバターと小麦、そして卵、および、フェアトレード製品のみで作られている。基本的にビオの品物からなり、一般的に身体にいいと信用されているものから作られている。食物の安全性と衛生、生産地がどこであるか賞味期限はいつまでか、どのようにどこでだれに加工され、どのようなルートで誰の手を伝わって、どんな風に保存され、洗われ、何と共に調理されて我々の体内に忍び込もうとしているのか。国産の商品は国によってそれを買うように奨励されており、フェアトレードの商品はフェアトレードのマークによってその安全性を保証されて、それを購入し食することは特定の国や人々を経済的に助けることに繋がるという意味を与えられて、購入するように奨められている。

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高嶺格さんの作品『ジャパン•シンドローム』の中に、非常に印象的な一節があった。福島産の桃には値がつかないというので、桃農家の人は仕方ないので非常に安い価格で販売されているのだが、あるいは、とれた桃は置いておいても腐ってしまうというので、ただで与えられており、一人の消費者が「お金を出してはぜったいに買わないが、ただなら」といって持って行ってしまうくだりだ。(うろ覚えの部分があって細部が厳密には違うかもしれない)買わないが、ただならもらってやるというのである。結局は、食べるということだ。この消費者は食に困るほど金がないわけではない。ここにきて、食の安全という前提と信じていたものが、いとも簡単に壊されるのを目の当たりにし、戸惑うのはとうぜんである。戸惑うのは、作品をみる我々だけではない、本当の情報というものがどこにあるのかあるいはどこにもないのか、分からないのは被災地の人々も同じだ。

日本を囲む海の周りで、奇形魚が増え始めていると言う情報、それらを我々がどこかで口にしているかもしれないという情報、それらが放射能被害であると言う情報、それらは養殖によるもので過去と比べて変化などしていないという情報、現にセシウム値が異常に高いという情報、そんなもんはデタラメだという情報。なせ我々は、こんなにたくさんのことを知り、たくさんの情報を受け止め、たくさんのことを学んでいるにもかかわらず、なにひとつ本当らしいことを知ることができないのだろう。

魚のクッキーはおいしいと思う。
だから、みんなで食べましょう。
28日の夜、イベント会場@Société de Curiosité, 123, rue de Clignancourt 75018, Paris でお待ちしています。

Je participe à l’événement Human Frames @Société de Curiosité, Paris le 28 septembre 2013. Venez nombreux pour partager le moment délicieux et inquiétant avec les cookies en forme des poissons déformés. Voici ma lettre.

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Deformed Fish Cookies

We are very sensible and nervous about
our foods’ safeness, hygiene and origin.
It sounds very reasonable for our health.
However,
Food production process is very visible to us ?
Not really.
It’s still in the darkness.
The fair trade is good
for helping developing countries financially.
These products are supposed to be well controlled, safe and delicious.

Radioactive contamination for foods in Japan is serious.
2 years after the Fukushima plants’ explosions,
deformed fishes are found in the sea.
You will reject buying these fishes.
Many fishers lost their jobs.
If they give you fishes,
will you have them ?
otherwise,
in order to help poor fishers,
can you purchase these deformed fishes ?

It’s a question.

What do you react
if someone ask you to buy strange foods
« to HELP PEOPLE IN DIFFICULTIES » ?

I hope your deformed fish cookies please you.

Miki Okubo

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Cookies de Poissons malformés

Nous sommes tous très sensibles à
la sécurité, l’hygiène et l’origine des produits.
C’est logique pour notre santé.
Cependant,
Les processus de fabrication alimentaire sont-ils vraiment visibles ?
Non, pas vraiment.
Ils sont dans les ténèbres.
Les produits équitables sont bien
pour aider les pays en voie de développement.
Ces produits seront bien contrôlés, en sécurité et bons.

La pollution radioactive de l’alimentation au Japon est grave.
2 ans après les explosions nucléaires de Fukushima,
les poissons malformés se trouveraient à la mer.
Vous refuseriez d’acheter ces poissons.
Les pêcheurs ont perdu leur métier.
S’ils vous donnait ces poissons,
les vous-prendriez?
Sinon,
pour aider ces pauvres pêcheurs,
achèteriez-vous ces poissons malformés ?

Ceci est une question.

Que feriez vous
si quelqu’un vous demandait d’acheter la nourriture non-conforme
« pour AIDER LES PERSONNES EN DIFFICULTÉ » ?

J’espère que les biscuits de poissons vous plairont.

Miki OKUBO