03/30/13

尋常な話 – 3 ひげ抜き / Des histoires ordinaires – 3 L’épilation des barbes

3  L’épilation des barbes

Chacun a des manies de différentes choses.
On ne sait pas pourquoi mais il y a des enthousiasmes irrésistibles
qui bouleverse fondamentalement la sensation corporelle juste avec l’imagination.

Une de mes manies est d’épiler les barbes des hommes.
La racine des poils est une drôle de chose.
Ni poils corporels, ni cheveux, la racine des barbes donne une  impression magique

lorsque l’on les arrache de leurs trous sur la peau.
Le son produit lors de l’épilation est fin et agréable.
La forme de leur racine représente une ligne parfaite.

Une chose qui ne me contente pas suffisamment
est la difficulté de rencontrer des hommes généreux qui me permettent de le faire
à cause du peu de cette population existant dans le monde.

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3 ひげ抜き

それぞれ人には、好きでたまらないことというのがある。
なぜだかわからないが堪え難い情熱と言おうか
それをするのをイメージするだけで身体がぞくっとするようなことがあるのである。

わたしは男の人のひげをぬくのがたまらなく好きである。
毛根というのはなんとも不思議なものである。
髪の毛でも体毛でもなく、ひげの毛根。
それが皮膚から引き抜かれる瞬間の、あの感触はほかにはない。

キュッと毛根が穴から抜ける音はきもちがいいし、
ひげの毛根は完全なかたちを持っている。

このことでたったひとつだけわたしを満たさないことがあるとすれば、
わたしがこれをすることを好き好んで許してくれる人に
世界で巡り会うのがほとんど難しいという事実である。

 

*ce série représente un univers où se mêle l’histoire vraie et la fiction.

03/30/13

尋常な話 – 2 踏切 / Des histoires ordinaires – 2 Le passage à niveau

Le passage à niveau

Je déteste le passage à niveau.
Encore plus le passage à niveau d’une journée agréablement ensoleillée de l’été.

Un homme me visita à Kyoto que je ne voulais pas voir.
Je m’enfuis et m’abritai chez mes amis car j’eus peur.
Lorsque je décidai de le voir finalement,
cet homme arrêta décidément son pas devant un passage à niveau,
comme s’il attendit le train qui allât venir vers lui,
comme s’il attendit le train qui courût vers lui pour l’écraser.

Je déteste le passage à niveau,
notamment un passage à niveaux qui me rappelle
une image effrayante sous la lumière très forte
et ses mains tremblant du désespoir…

 
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2 踏切

わたしは踏切が嫌いだ。
夏のつよい陽の光がさし過ぎてしまったような午後の踏切は、とりわけ嫌いだ。

ある男が京都にわたしを尋ねてきて、わたしは会いたくなかった。
恐ろしいのでわたしは友人の家などにさんざん逃げ回った。
しかし仕方ないので会うことにした際、
男は踏切の前で立ち止まって、
あたかもいつかやってくる電車を待つかのように
電車がやってきたらそれに轢き潰してもらうのを待つかのように。

わたしは踏切が嫌いだ。
あの夏の日をわたしに思い出させる
強すぎる光と震えた手を思い出させる
そういう踏切はとりわけ嫌いだ。

 

*ce série représente un univers où se mêle l’histoire vraie et la fiction.

03/30/13

尋常な話 -1 おじいちゃん様 / Des histoires ordinaires -1 mon cher papi

これらの短いテクストは、パリ第8大学でL1,L2の学生を対象に行っているCréation Littéraireの授業の2つ目の課題、Ecriture sur « le moi », errant entre le journal intime et l’auto-fiction ( Ecriture sur le réseau sous forme de journal intime) のプロジェクトのために、例としてわたし自身が作成したものです。お話は、したがって、自伝的—私小説的(ノンフィクション−フィクション)な内容です。
タイトル『尋常な話 / Des Histoires Ordinaires』は、現在5つの短編を含みます。番号順にフランス語、日本語テクストを掲載します。また、今後の別の作品の動向はこちらのサイトに掲載されます。

le cours site.

 

des histoires ordinaires / 尋常な話
Miki OKUBO 


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1 Mon cher papi 

Mon grand père du côté paternel décéda quand j’eus 6 ans.
Le téléphone sonna pour nous informer de son état critique.
J’entrai dans la chambre de l’hôpital où mon grand père était allongé avec ses grands yeux ouverts.

Mon père fut son dernier fils né.
Son père le chérit beaucoup plus que les autres enfants selon ce que ma tante me raconta un jour.

Le jour où il décéda, je me réveillai toute seule en pleine nuit.
Dans notre chambre à côté de l’entrée, je vis mon grand père s’allongeant sur le dos tout près de mon père.
Ils furent presque de la même taille, la même tête et la même constitution.

Le lendemain matin est venu sans revoir mon cher papi.
Je ne lui ai rien dit ni bonsoir ni au revoir.
Je ne racontai jamais cette histoire à ma famille.

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1 おじいちゃん様

父方の祖父はわたしが6歳の時死んだ。
祖父の危篤を知らせる電話が鳴って、
わたしは両親とともに病室に入る。
大きな目を見開いた祖父がそこに横たわっているのを見るために。

父は祖父にとって末の子どもで、
父をいちばんに可愛がっていたということをいつか叔母から聞いた。

祖父が死んだその日、おしっこがしたくなり夜中にひとりぼっちで目が覚めた。
寝室は玄関のすぐ隣で、わたしは父の眠るすぐ横に祖父が仰向けに横になっているのを見た。
彼らは同じくらいの慎重で、良く似た顔で、同じ体格をしていた。

明くる朝は祖父をふたたび見つけることなく静かにやってきた。
何も言わなかった、おはようも、それにさよならも。
このことは家族の誰にも、いちども話したことがない。

 
*ce série représente un univers où se mêle l’histoire vraie et la fiction.

11/12/12

« Leurs lumières » Exposition, interview à Jean-Louis BOISSIER / キュレーター•インタビュー

“Leurs Lumières”, Exposition @ Abbaye De Saint-Riquier
“leurs lumières”
exposition du 13 octobre au 16 décembre 2012
Abbaye de Saint-Riquier Baie de Somme
site de l’exposition
Abbaye de Saint-Ruquier

本展覧会のキュレーターであるJean-Louis Boissierが展覧会カタログに寄せたテクストの題名は、 »Leurs lumières » : illumination et aveuglement (「彼らの光」:イリュミナシオンとアヴーグルモン)。(本テクストは、こちらからご覧になれます。

フランス語のイリュミナシオン/ illuminationにはいくつかの意味がある。一つ目はもちろん照明によって照らされること、日本語においてカタカナで使われるイリュミネーション、つまり人工的な光を発する電飾を意味する。なるほど、私たちが普段「ひかり」というとき、それは自然光であるか人工光であるかは比較的重要な光の属性であるが、イリュミナシオンと言った時、これは人工的に作り出された光をさす。本展覧会においてアーティストそれぞれによって作り出された光を見てみると、純粋なイリュミナシオンは、Jakob Gautel & Jason KaraïndrosのDétecteur d’angesと、Tomek JarolimのFermer les yeux、およびMichaël SellamのBlind Testの3作品のみである。その他の作品は、たとえばMayumi OkuraのLa petite fille aux allumettesでは、マッチが作り出すあたたかい光は自然光であるけれども、それが正面のスクリーンに映し出されて「マッチ売りの少女」のテクストを浮かび上がらせる時、それはもはやマッチの火そのものではない。Donald AbadのS’abstraireでは明らかに日没や夜の闇、昼間の太陽の光というものが盲目の猫とアーティスト、その全体のイメージにとって重要な役割を演じている。後述する、Félicie d’Estienne d’OrvesのEclipse Ⅱは、実際にその黒いスクリーンに映されるのはプロジェクションされた人工光であるけれども、表現されるものは隠された太陽であるという点で重層的だ。EMeRIのLumières de Rousseauはどうか。iPadの画面から発される光はイリュミナシオンである。しかしジャン•ジャック•ルソーJean Jacque Rousseauのテクストには、Les rayons du soleil levant rasaient déjà les plaines, … など、『エミール/ Emile』からの抜粋であるパッセージでは、日の出の太陽の光が平原に広がってゆく様子が描写されており、テクストを読む者に自然光をイメージさせる。

あるいは、イリュミナシオンには、ひらめきやインスピレーション、天啓という形而上的な意味もある。天啓というと、神という超越的存在の声を聞くという良い意味であるかのようにしばしば誤解されがちだが、イリュミナシオンがもつ「天啓」のニュアンスは、宗教的に「過剰な光を得てしまった状態」を言う。似たような意味を持つ言葉にenlightment(啓蒙)があるが、これは光のないところに光を当てて明るくする、という意味であって、光の過剰を意味するイリュミナシオンとは根本的に異なる。本展覧会でJean-Louis BOISSIERによって解釈される光はイリュミナシオンであり、このことは、展覧会で展示される作品たちがただ穏やかに自然の中に調和するようなものではなく、少なからず危険性や不安を呼び起こす光であるという解釈を暗示する。

さて、アヴーグルモン(盲目であること)に関して与えられる説明は前者よりずっとわかりやすい。この展覧会にもたくさんのアヴーグルモンが共存している。Julie MorelのLight my Fireは光のもとではそのテクストが姿を見せることはない。部屋の明かりが全て消された時、闇の中にバタイユのそれが浮かび上がるのだ。私たちが日常過ごしている明るい空間というのがあたかも光の過剰であと言わんばかりである。Donald Abadの飼い猫が盲目であることは既に述べた。盲目の猫が撮影した映像を私たちは視覚によって追体験するのだが、そこには解決されない問題が含まれている。そして、Blind Test の前には警告がある。直接見てはいけない。展覧会に作品を見に来て、見てはいけないとはなにごとか。いかなる好奇心をもっても除いてはならない。私たちの目の代わりに犠牲になったカメラのレンズが捉えた奇妙な像がある。

この二つの重要な概念、illuminationイリュミナシオンとaveuglement アヴーグルモンに関して、ジャン•ルイ=ボワシエはこういう。

「ひとが視野を失うのは、たいていの場合、光によってである。過剰な光は我々の目を失明させる。イリュミナシオンのなかで我々は盲目になる。」

したがって、イリュミナシオンと盲目は表裏一体の関係であるという。

 

ボワシエはまた、本展覧会のシンボル的イメージとして繰り返し私たちの記憶に留められているFélicie d’Estienne d’OrvesのEclipse Ⅱ(日食Ⅱ)について、« Oxymore romantique »(ロマンティックな撞着語法)という表現を用いて語る。撞着語法とは、Make haste slowly. / Hâte-toi lentement. (ゆっくり急げ)のように一件矛盾した二つの事柄を共存させる言い方のこと。自然現象である日食において何がいったい撞着しているのかというと、我々すべての生きとし生けるものを本質的に生かす存在としての太陽を、我々は直接目にすることができない。それが叶うのは逆説的にも太陽が隠されてしまったときのみであるという事実である。このとき、Félicie d’Estienne d’Orvesの作品のおいてよく表現されているが、それは「黒い太陽」になる。「黒い太陽」は世界に存在する光を全てそのténèbre(暗闇)の中に吸収しつづける、ブラックホールのようである。我々に命を与える「太陽」が光を発し続けるなら、「黒い太陽」はその対極にあって、世界の光をその暗闇のなかに奪い続ける。そういった意味で文学においても伝統的に「黒い太陽」は死の象徴としての意味を付与されてきた。

この作品は、フィルムのプロジェクションで、漆黒の円形スクリーン上にぴったりと重なるようにプロジェクターで真っ黒の円が投影されている。漆黒の円の周りには隠されきれなかった光が漏れだし、目を凝らしても捉えきれないような繊細でゆっくりとしたうごめきを見せながら、黒い太陽が果てしなく黒いということを強調する。

太陽を直視してはならない。太陽によって我々はヴィジョンを失うこともできる。Eclipse(日食)は、我々がまっすぐに目を向けることのできる唯一の太陽の姿なのだ。たとえそれが死を象徴する「黒い太陽」であったとしても。

 

そういったコンテクストから、鑑賞者はこの展覧会の次の作品、Blind Testへと導かれる。この作品には予め強い調子で警告が発せられる。光は我々を照らし出し、我々を生かす。しかし、時にはその過剰性の中でヴィジョンを奪い、結局のところ我々を闇の中に陥れるのかもしれない。

 

さて、この展覧会が行われているAbbaye de Saint-Riquier(サン•リキエ修道院)は、フランスの修道院の中でも屈指の規模と歴史を持つ。修道院は、時をさかのぼること7世紀にリシャリュス(Richarius)がフランス北部の都市ポンチュー(Ponthieu)をキリスト教に改宗した時から墓地とともに存在し、カロリング朝のカール大帝(768-814)在位中もっとも宗教的重要性を持っていた。その後、繰り返しの破壊と改築を経て今日に至る。第二次世界大戦中は、さきほどのEclipse Ⅱ(日食Ⅱ)の展示空間等は負傷したドイツ兵が手当を受け、かくまわれていたという記録も残っているそうである。現在では、Centre Culturelle de Rencontre(CCR)の活動によって展覧会会場としてパリのみならずフランス全土からのヴィジターを招いている。

最寄りの国鉄駅Abbeville

Abbeville駅

全体のセノグラフィ(演出法)でキュレーターが選んだ色は青。石造りでいつも少しだけ暗い修道院は、白い壁によって展示室が仕切られている。(セノグラフィはこちらhttp://www.ednm.fr/leurslumieres/?page_id=50)その壁を、この展覧会では青く塗った。展示に使用されている台やテーブル等も青に統一した。ここでキュレーターがいう青とは、所謂ブルースクリーンの青であり、あるいはヴィデオの青画面で我々が目にするあの青である。この青は修道院の中を一つの大きなスクリーン化すると同時に、展示作品が離れた空間にあるばあいには色彩それ自体が記号的役割を果たし、それらもまたExposition « Leurs Lumières »へ帰属しているということをアナウンスする。

Jean-Louis BOISSIERのテクストは、谷崎潤一郎の『陰影礼賛』(1933)への言及を経て、ドイツ在住の作家である多和田葉子が昨年発表したテクストを引用し、私たちとリュミエールの関係、とりわけ人工的なリュミエールへの問いを投げかけて結ばれている。

「午後、ちょっとでも暗くなると母は蛍光灯に明かりを灯した。私は部屋の隅まで一様に真っ白に明るく照らされたばしょで成長したのです。暗さというものはそれが部分的であれども第二次世界大戦の思い出を人々に連想させるものであるから。日本経済は1970年代、大戦の記憶を呼び起こす「ランプ」は抹消してしまいましょうと、全力で発展してきました。90年代には、バブル崩壊の経済危機に直面しますが、東京の明るさはいっこうに陰ることはありませんでした。(中略)しかし、24時間絶えずきらめきつづけている東京の明るさが福島原発によって可能となっていたという事実、そしてそれが今日私たちの生活をおびやかしている脅威となっているのですが、そのことを知っている人は殆どいませんでした。」(仏語→日本語訳は筆者による)

 

光それ自体は、現代アートのシーンでも数えきれないアーティストにより、様々な方法で用いられている媒体だ。ただそれが使用される時、かならず光自身の外にあるものが表象されている。本質的に »articifiel »な光は存在しない、とキュレーターが語るのはそういった解釈によるのである。

10/28/12

« livre comme thème artistique »/ 「本」に関わる作品 dOCUMENTA(13) @Kassel

カッセルで行われた第13回ドキュメンタを訪れた。2012年6月9日~9月16日の会期(100日間)であったのだが、私が訪れたのは9月14日~16日の最終三日間にかけて。3ヶ月も続くアートイベントの最後の三日間というのも、もはや作品がくたびれているのでは!なんて予想するが、ドキュメンタに関わる様々な人たちの努力故であろうけれど、まったくそんな印象もなく作品はぴしっとしていた(と思う。)私はざんねんながらドイツ語を話さないし読まないが、基本的には全て英語でも説明されている。しかし、作品によっては、たとえばいちいち字幕が表示されないビデオ作品やテクストを主要な意味として構成した作品等においては、たとえアーティストが個々のテクストや会話内容の不理解が全体としての作品理解に致命的に作用しないと主張したとしても、それでもなお、そこにあるはずの「意味」をキャッチできないという点で、言葉の壁を感じざるを得ず、そのことが作品鑑賞にとってややざんねんな結果を生じさせていたように思う。もちろん、この難しさというのは、何をどこまで説明する必要があるかというレベルの問題に帰着できるに違いないし、このことは、何らかの媒体で表現されたすべてのものが、作り手から受け手に伝わるプロセスの中で本質的に含有する「非理解性」みたいなものである。

 

ヨーロッパにいながら、ビエンナーレ的なものや国際的なアートイベントに積極的に足を運んだこともなく、カッセルのドキュメンタを訪れたのも勿論初めてである。パリのギャラリーやアートフェア、アートイヴェンとには足を運んでいるものの、なかなかヴェネチアビエンナーレに行ったり、カッセルのドキュメンタを訪れたりできなかった。したがって、まず広大な敷地と膨大な作品の量に驚き、カタログの厚さ(というよりむしろ、各々のアーティストについての言及は少ないのに、こんなにページがあるという事実)に驚き、まあ到底ぜんぶ見ることはできないし、見ようと思わないのがよいということがよく解った。

先に既にアルバム化させていただいた写真群(album1, album2)ですら出会った作品のごく一部なのであるが、今回はその中からさらに恣意的に選択、「本」に関係する作品を発表したふたりのアーティストについて書こうと思う。

 

Paul Chan, Why the Why?, 2012

一人目は、Paul Chan ( born in 1973, Hong Kong, lives in New York)。カッセルで発表されたのは、 »Why the Why? » (2012) という作品である。この作品は、作者であるPaul Chanがある日、床に落ちていたショーペンハウアーの著書『余録と補遺』/ Parerga und Paralipomena (1851年)を拾い上げ、突然衝動に駆られてハードカバーの表紙を中のページとびりびりと切り離し、その汚れて埃にまみれたハードカバー表紙を破り割いてしまおうとした。引き裂こうとカバーに手をかけたところで、ふと、このカバーを90℃回転させて、縦長に持って目の前にかざしてみると、それはもう本のカバーではなく、乾燥して埃っぽくガサガサの人の皮膚みたいにみえた、という日常的におけるしかし非常に奇妙な気づきからスタートしている。

 

その後、彼はこの90℃回転させたカバーをキャンバスに見立てて山を描き始める。描かれた山々はこれまで一度も見たことがない様子をしており、それはひとつには、彼がその山を自分の想像に任せて描いたからであり、もうひとつには、描かれるべきでない本のカバーに特別にもうけられた枠組みの中にその山々が描き込まれることで、それらはあたかもキャンバスの表面にゆらゆらと浮かび、そこから逸脱してしまいそうな印象を与えるからであると、Paul Chanは説明する。

次々と本を壊し、カバーをページから引き剥がして行くうちに、山のようなカバーのキャンバスがアトリエを埋め尽くしていく。このときに明らかになったのは、キャンバス(つまり、カバー)によって、表現主義的な絵画作品となったり、自然主義的であったり、モノクロームであったり、様々な表情が生み出されるという。

 

そして、彼はいう。「私はこれら私が引き裂いた本を、一度も読んだことがない。」

Paul Chanというアーティストは、近年むしろメディアアートの領域で活躍し(2009年 Biennale de Venise etc.)、今回のようなマテリアリスティックな作品制作と平行して、デジタル作品を多く制作していた。その彼のキャリアの中でも、「本」というオブジェクトに対する関心は特筆に値する。Paul Chanは2010年、Badlands Unlimitedというアート本としてのデジタルブックを発表した。(この作品についてのインタビューはこちらで読めます。)アーティストが、電子書籍として作品を発表するということについて、安価であること、インターネットアクセスさえあれば遍在的にダウンロードできるということ、ハードカバーの紙媒体の本よりも半永久的に保存されること、そして、紙の本よりも人々にシェアされ、保存される可能性をもっているということを明言した。

 

“the body as a reader, focus as space” and “time as a medium.”

この言葉は、これまでアートブックをe-book化することに取り組んできたアーティストが、本を読む行為の現代的な新たな可能性を含意して述べた言葉である。読書行為そのものが鑑賞者にとって、いまここではない潜在的な芸術体験をつくりだすアートブックは、今日、ページをスライドするような新たなジェスチャー、アニメーションや音声の挿入やウェブサイト的な重奏構造を構築することも可能となり、根本的に異なる経験をもたらす。たとえば、2010年に編集された »Wht is ? »は10冊のオリジナルブックのテクストをもとに写真とテクストがモンタージュされている。(iPad Kindleのデジタル版および、PDF版(無料)はこちらからダウンロードできる)

本はなるほど写真に見られるようにタテに平にしてキャンバスにして壁に貼られれば、哲学書も子どもの絵本もスタンダールの小説もフラットになり、ケイオスをつくりだすのかもしれない。このことは確かに、アーティストのe-bookへの関心を知る以前にも、今日のウェブ2.0の世界でショーペンハウアーと検索すれば、有名な先生によるありがたいご説明とwiki様による説明、そして誰かがブログにちょこっと書いた感想文がごちゃ混ぜに引っかかってくる状況を思い出させる。アーティストがこれらの本を決して読んだことなく、カバーからページを破り捨てて表紙だけになった本の中に、意味を失ってかさかさになってしまった皮膚のような幻想を見ながらこれをコレクションするのも、共感できなくはない。

 

 

さて、もう一人のアーティストは、Matias Faldbakken ( born in 1973, Hobro, Denmark, lives in Oslo)、本彫刻(Book Sculpture)を世界の至る所で作り続けるアーティストだ。もちろん、本彫刻パフォーマンスだけが彼の仕事ではないので、彼のコンセプトを以下に少しだけ見ることにしよう。彼も本や書かれたものの「意味」について問題を提起するがそのアプローチはPaul Chanのものとは大きく異なる。

 

Ecrire […] est la violence la plus grande car elle transgresse la loi, toute loi et sa propre loi. (書くこと、それは最も強力な暴力である。なぜなら、それは法に背く。あらゆる法に背く。ひいては、書くことそのものの法すらも無視する。)(Maurice Blanchot)

このブランショの書く行為に関する言及をもとに2001年から2008年にかけて »Scandinavian Misanthropy »という3部作を書いている。あるいは、「サイコロ一振りは決して偶然(不確定なもの)を排さないだろう」というマラルメの詩集において告白された不確定の非排除性に関して、言葉それ自体よりもむしろ言葉と言葉の間にあるものに注目するために、一貫性のないイメージとあらゆる読みやすさの考慮を排除した空間配置を追求した作品制作も行った。

 

さて、dOCUMENTA(13)では、グーグル検索の結果を利用してまとめた »notebook »、ここではあるテーマについてMatias Faldbakken自身の興味関心による検索がどのようなアルゴリズムを介して成し遂げられたかをたどることができる。

 

Matias Faldbakken, notebook, 2012

 

 

さいごに、ハプニング的な本彫刻のイメージを見てみよう。

私はこの作品が好きである。最初見たときはよくわからなかったが、そしてこのブランショとマラルメのコンセプトとの影響の説明に基づいてもなお理屈として腑に落ちない部分は残されているのだが、ただ純粋に、このパフォーマンスが好きなのである。せっかくなので、少しだけ言葉で説明を試みてみよう。図書館においてきちんと内容とタイトル順に整然と整理されていた本を本棚から根こそぎ引っ張りだして、あるスペースにぐちゃぐちゃに(見えるように)再配置するというのは、なるほど暴力的な行為だ。しかしこのとき起こっているのは、床の上に無造作に重ねられた本がカバーの色彩や厚みや埃っぽい質感や、本がこれまで置かれていたコンテクストや意味を破壊されて、紙やボール紙や布の山としてそこに塊になっているという状況だ。これらの書物は無意味であり読まれることができない。

 

なぜじわじわこの作品が心地よく感じられたかというと、それはひとえに梶井基次郎が短編小説『檸檬』で描写した、丸善に突如出現した「奇怪な幻想的な城」をとてもクリアーに想像させたためだ。このあと主人公はこの奇怪な城の上に、果物屋で買ったとても美しい紡錘形の檸檬を配置して、「黄金色に輝く恐ろしい爆弾」を完成させる。Matias Faldbakkenの作る本彫刻は、まさにこの檸檬を据えられる前のガチャガチャとした混沌とした色と意味の集積であると同時に、檸檬を仕掛けた主人公のもくろみが成功したならば大爆発を起こして吹っ飛んだはずの「気詰まりな丸善」の棚が粉葉みじんになった後に残された残骸のようにも見える。

 

この本彫刻を目にした鑑賞者の心も少なからず、『檸檬』の主人公が「何喰わぬ顔をして外へ出る」心境に似ている。棚からどさどさと落とされた本は、静謐な図書館の中で明らかに異質であり、本来ならば棚に丁寧に連れ戻されることが予期される。わたしたちは、それを何食わぬ顔で、あるいはこの調子でわたしたちが他の本を一冊二冊、そこに加えたとしても、いや、もっとやる気があるのなら別の棚で思い切り100冊くらい本を棚から引きずり落して逃げてきても、アートなのかと思うと、少しだけ、楽しい気分になるのではないか。

 

そして私は活動写真の看板がが奇体な趣で街を彩っている京極を下って行った。(梶井基次郎 『檸檬』)

(わたしの檸檬がすきなことはblog de mimi old postをご覧下さい)

09/29/12

Camille Henrot/カミーユ•アンロ, ジュエリーは押し花に敷かれて

どこの街にもきっとそういう場所があるのかもしれない、と思う。活気ある通りを一本中通りに入り、impasse(行き止り)に数歩入っていくだけで、周りの雑踏が消し去られて自分がどこにいるのか分からなくなってしまう、パリにもそういう場所がある。そこは、オペラ界隈の人の多さを横目にLaffayette通をまっすぐ東にメトロの駅2つ、3つ分進んで行くと辿り着く、東のパリの活気を感じさせるエリアだ。交通量もレストランも多く、とてもにぎやか。このギャラリー、ROSASCAPEは一見そのようなカルティエにある。impasseに一歩足を踏み入れると、とりあえず、正面の壁の時代錯誤ぶりに言葉を失うことができる。そうか、ここは21世紀ではない。19世紀後半とか20世紀の、古き良き時代のパリが息をひそめて隠れていたのだ!

ギャラリーの扉を開けると、そこにはテーブルにずらりと並んだ、押し花。いや、よく見ると、各々がホンモノである押し花は一つ一つ丁寧に何か文字がプリントされた紙の上に貼付けられている。色々な花がある。葉と茎だけのものもあれば、パンジーのような大きな花をもつ植物も押し花にされて、色の鮮やかさを失った代償として、花びらもがくもそのままに丁寧に保存されている。

展覧会のタイトルは、« Jewels from the Personal Collection of Princess Salimah Aga Khan »。押し花と宝石のコレクションを結ぶアーティスト、Camille Henrot / カミーユ•アンロ(1978生、パリ)の個展だ。こんなセレブ感溢れる素敵なギャラリーでのことだから、サリマー姫の世界のコレクターも目を見張るような素晴らしいジュエリーの数々が見られる、なんて勘違いしてはいけない。ここに展示される姫のジュエリーコレクションは、姫のジュエリーコレクションのリスト(活字として印刷されたもの)だけであり、Camille Henrot の展覧会はむしろ、ホンモノのジュエリーどころか、一欠片のダイヤモンドの押し付けがましい輝きすら必要としていない。

展覧会の解説を始める前に、まずこのプリンセスがどれくらいセレブなお方であるのかをざっと知識を得ておく必要があるだろう。Princess Salimah Aga Khanは、49代イマールのアーガーハーン4世の元妻である。1940年、ニューデリー生まれのPrincess Salimahは、ファッションモデルとしてモード界に名を轟かせ、1959年19歳の時、ひとり目の旦那と結婚、9年後離婚し、翌年アーガーハーン4世と再婚した。さて、26年に渡ったアガーハーン4世との結婚生活の間贈られ続けた彼女のジュエリーコレクションは世界でも有名である。ヴァリエーション、質の高さ、珍しさ、それに由来する価値(価格)の前には、もはや、ゼロが幾つあるか、幾つあるからどうなのかすらよくわからない。
1995年にハーンと離婚した後、宝石コレクションを次々売りに出すようになる。ハーンからのプレゼントである宝石は、ハーンの妻としてふさわしく美しい輝きを放つように、プレゼントされたものなのだから、彼から離れることになれば、それらはむしろ消えてしまった方がいい。あるウェブサイトで販売に出しされたジュエリーの例を見ることが出来るが、ざっと、数千万単位のジュエリーがポンポン売りに出されて、富めるコレクター達の手に渡って行った。このレベルのジュエリーを何百も番号を振り、数十ページのリストブックにするほどたくさん持っていた。離婚以来、ジュエリーを売りに出している彼女は、そのお金をもとに人道奉仕活動を展開している。

彼女は幾度となくフランスを訪れ、元夫は馬を持っており、二人でゴルフをしばしば楽しんでいたこともあり、フランスの国に縁あるプリンセスとして、フランスの人々親しまれているようだ。そういうわけで、Camille Henrotが、サリマー姫のJewels Collectionを自身の表現の出発点として、対照する目的で参照するのには以上のような文脈がある。

さて、そんな長い前置きをふまえて、Camille Henrotの作品を見てみよう。

彼女のコンセプトはとても明確である。一方、それが意味するものは、ゆっくりと絵の具が滲むようにして現れてくる。プリンセス•サルマーの売却用宝石リストは、上述したように、ほとんどのページが活字のみで表されている。ごくまれに写真でジュエリーイメージが添付されているが、一色刷りである。リストには何が記載されているかというと、ジュエリーの番号、どんな宝石の組み合わせで出来ているか、なんという名前か、おいくらなのか、である。それぞれページの上には押し花、押し草。ページの下部には、植物学者による植物名の同定が手書きの文字で書き込まれている。

彼女の植物コレクションは、お庭で手塩にかけて大切に育てた植物に由来するのではない。これら押し花と押し草はすべて、Camille HenrotがNew York滞在中の夜中に、道ばたのプランターや人様の庭先、窓の桟におかれた鉢植えなどのスポットから、「盗んで」きたものだ。窃盗行為を遂行するCamille Henrot のようすは、若い学生フォトグラファーによって撮影されたスナップショット的に犯行現場として、しっかりと記録されている。

彼女はその証拠写真と、盗んできた植物で大切に作った押し花を、惜しげもなく、遠慮なく、プリンセス•サリマーの宝石リストの上に貼付ける。重ねられた部分は、なんというジュエリーで、どのような宝石がちりばめられていたのか、記述事項が全く読めない。それぞれがホンモノであるところの押し花は、印刷物であるところのジュエリーリストなんか、注目に及ばないほどの存在感を放つ。この様子が、何かしらアーティストの挑戦的あるいは暴力的なまでの強い意志を感じさせる、と読む事はあながち間違いではない。

核心に及んでしまう前に、もう少しだけ、このインスタレーションを楽しむための鍵について説明しておこう。Camille Henrotは、ヴィデオアート、メディアアート、コンセプチュアル作品などの多様な表現で活動を展開しているアーティストであり、数年前日本に滞在した際、生け花に興味を持ち、講習を受けてこれを熱心に勉強している。彼女がこの作品を作るために手がかりにしたのは、花言葉である。どのジュエリーに対して、どの植物の押し花を選択するかというとても重要そうな問題に対して、アーティストは、宝石にも言葉があり、花にも彼女らを表現する詩的な言葉がある事を指摘する。花言葉そのものはヨーロッパにも日本にも古来存在したが、当てられた言葉やその意味は同じではない。彼女がどのような花言葉を採用したか、定かではない。しかし、彼女の花をマテリアルとした他の展示、« Est-il Possible d’être Revolutionnaire et d’aimer les Fleurs? » (Galerie Kamel Mennour, Paris)なども参照してみると、彼女が宝石と花の言語を結びつけると同時に、それらの「かたち」や「うごき」といったものに関心を示しているのがすぐに読み取れる。

あるいはもう一つのキーワードは、宝石と花が両方とも伝統的に女性性に結びつけられていた周知の事実を、新しい視線で着目しようとするアプローチである。たしかに、宝石も花もそれらは女性的なオブジェと性を断定されながらも、実は非常に異なる。宝石は歴史において、男性から女性にプレゼントされ、贈られた宝石がどれだけ素晴らしいかが、しばしば女の価値を象徴するものとなり、宝石は女が死んでも、保存され、売り渡され、再利用されて残り続ける。花はそうはいかない。花は宝石との対比で言えばむしろ女自身のように、ある時とても美しかったのが、すぐに枯れて朽ちてしまう。特別な技術を使わない限り、何百年も保存される事はなかなか難しい。しかし、押し花はある意味で儚い花でありながら、時を越え得る強さを持った花の姿であろう。それは石よりも生き生きとしており、そして美しい。

Camille Henrotがここで表現したものは「あるものが上になり、もう一方のものがそれの下敷きとなり、二つのものを重ね合わせて眺めること」に収斂する。紙に置かれたアーティスト自身の押し花コレクションは、それが盗まれたものであろうとなんであろうと、心を込めて作られた押し花という強かな媒体となり、もはやそこにないジュエリーコレクションを下敷きにして、階級の差を訴え富める人々のコレクションを足蹴に鑑賞者の目の前に提示される。だが、女による女の征服はいつもそこに曖昧さを包有する。ジュエリーを隠し、押しやるために選び抜かれた生きたコレクションである押し花は、そこにあったジュエリーと「言葉」によって結びつき、お互いの「かたち」と「うごき」で会話し始める。相異なる二つのコレクションは、それが女のコレクションであるという限りにおいて、それが二重にかさなりあいながら、それが実は戦えないということを鑑賞者に語るのではないか。


 

09/20/12

コムデギャルソン 2012春夏 /Comme des Garçons, de la collection 2012 été @Dock en Seine

Hors les murs du Musée Galliera
Exposition de Comme des Garçon
du 13 Avril 2012 au 07 Octobre 2012
34 quai d’Austerlitz
75013 Paris

Docks en Seine

セーヌ川に浮かぶ、緑色の奇妙な建造物。ここはパリの東南、リヨン駅やベルシー駅そしてオーステルリッツ駅というフランス国鉄主要駅が集まっている、パリの東の玄関的界隈である。さて、このキリギリスの腹部みたいな建築は、JAKOB+MACFARLANEというグループによって設計され、デザインとモードのクリエイティブな活動を盛り上げるために、展覧会スペースを提供したり、アートイヴェントの会場となるほか、Institut française de la Mode/パリ•モード研究所(IFM)の校舎がある。

couloir de la Cité de la mode et du design

Dock en Seineは2008年にオープンしたのだが、そういえば2010年の秋に一度、Chic Art Fairというアートの催しの際にアーティストの古市牧子さんと訪れている。その際には、アートフェア会場が完全に屋内に限られていたため、こんなに風通しがよい空間があったことなども知らずじまいだった。ここでは、アートフェアやモード、デザインに関係する展覧会が開かれて、現在とりわけ閉館中(改装工事のため)の世界最大級の服飾美術館であるパリ市立ガリエラ美術館の離れMusée Galliera hors les mursとしての役割を果たしている。

今回訪れたのは、コムデギャルソンの2012年春夏コレクション(ガリエラ美術館所蔵品より)である。バレンシアガ(Cristóbal Balenciaga)の展覧会も同時開催されており、どちらも訪れたのだが、今回、2012年春夏コレクションを一挙に見られるということで、ビニールに反射する光のせいで写真の撮りにくいことは甚だしかったが、プレゼンの仕方もなかなか素敵であったので、こちらの展覧会について紹介したい。

初めて目にしたものを解読したり、楽譜を初見することをフランス語でDéchiffrageというが、ときどき自分が何も知らないということに感謝することができ、それは、何かを読み砕いていくDéchiffrageの楽しみゆえなのだ。コムデギャルソンのデザイナー、川久保玲は新たなコレクションに取りかかる際にはまず、その類希なインスピレーションによって毎シーズンのテーマを紡ぎだしている。テーマあるいはタイトルとしての作品コンセプトは、知ってしまうのがよいこともあればつまらないこともある。幸か不幸か何も知らずに足を踏み入れた今回の展覧会は、今まで見てきた川久保玲作品をヒントにDéchiffrageを楽しむよい機会となった。

Show video here!(youtube)

 

 

白のドラマ »White Drama » が、2012年春夏のプレタポルテコレクションに川久保玲が与えたタイトルだ。薄暗いランウェイに現れる、白いドレスを纏ったマヌカンたちは、胸を張ることも、腕を振ることも、大きな歩幅で歩くということも、つまりは、まったく誇らしそうな様子を欠片ほども見せず、とぼとぼ、うつむき加減にすら見える様子で、こちら側に歩いてくる。一つの服は「作品」と呼ばれながらもそれ自身で独り立ちして語られることがおぼつかないアイテムだ。私が展覧会会場で目にした白いドレス達はマヌカンの身体を離れて沈黙しており、このドレスをまとう少女達がいったいどんな足取りでこちらへ向かって歩んでくるのか、何を想いこちらへ視線を投げ掛けているのか、その解釈は鑑賞者が自由な想像力にまかされる。しかし、その勝手な妄想の中で、自身の想像力の脆弱さを常に問い続けなければならないという点で見る者は不安から逃れられない。あるいは、そもそもショーが唯一の答えでないと主張するなら、もっとも気が楽になる。

 

ひとり目のマヌカンは少女らしいふわりとしたドレス、手元に大きなリボンがアクセントとなっている。しかしよく彼女の歩きを眺めていると、非常に歩きにくそうだ。実はスカートはタイトであり、バランスをとって歩くために十分足が開かないのではないかと思う。そして正面に結ばれた大きなリボン。浴衣や着物の前帯の結び目のようにも、西洋のドレスのリボンにもみえるこの結び目は、少女の両手の自由を奪っている。

 

あまりに長過ぎてそれを纏うマヌカンの肩から重そうにぶら下がるしっかりとした膝までの袖は、なるほど、振り袖のシルエットを彷彿とさせないこともない。もちろん、振り袖において長いのは、腕の長さ自体でなく袖の袂(たもと)である。いずれにせよ、男性的ジャケットのスタイルでありながら、なぜマヌカン達はなおも不自由を抱え込まなければならないのだろうか。

花飾りは女性性に結びつけられ、それをカッコいいジャケットに添えることによって、たちまち中途半端なものになってしまう。


パニエ型のシリーズが進むにつれて、現代アーティスト名和晃平とのコラボレーションにより実現したヘッドドレスも加速度を増してくる。ヘルメットのように顔面を半分、目の部分以外覆うような造形。このマチエールの質感は、骨折したことのある人なら自分の身体にぴったりと寄り添ったまま何週間も人生を共にしたことがあるだろう、あの忌々しい石膏の感触を思い出させる。この髪彫刻といべきものは、これを被り続けたまま長い間を生き続けていると、いつの日かこの石膏が生き物のように成長して、やがてこの可哀想な少女の身体を顔面をすっぽりと覆ってしまうのではないだろうか。石膏の型のように、いや、生きたまま、ミイラにされてしまうかのように。箱(パニエ)に入れられて、彼女は既に、自由を失っているのだから。

 

見るからに重そうで、非常に背が高く、ビニル素材でできた奇妙な帽子。一瞬顔のようにも見えて不気味だが、そのエレガンス漂うドレスと、ヘッドドレスのシルエットだけを見ていると、マリーアントワネット時代の超豪華な船飾りの帽子のように見えないことも無いが、内実はそんなにさらりとしていない。これはセクシュアルなオブジェに見えないこともなく造形されているのであり、むしろそのものでしかない。これをセックスドール的オブジェと気がつかないふりをする大人を私は信用しない(!)(つまり、本質的なことはアーティスト本人の意図というよりはむしろ、White Dramaシリーズにおいて白ドレスを纏う少女達が支配されている性的コンテクストを読み下すということなのだ。)

 

私が最も素晴らしいと思ったのは、『千と千尋の神隠し』の「かおなし」的なフォルムのドレスだ(上)。このドレスは形の無駄の無さが素晴らしい。人は美しいフォルムのなかに自由の不在を見る。美しいと思えることと自由であることは両立しないのだろうか。纏うことの本質に関わる問題のようにも思える。
我々はふだん、好きな服を着て、そのなかでも出来るだけ「着心地の良い」服を選ぶと言ったりする。着心地がいいというのは、サイズが合うことかもしれないし、素材のことかもしれないし、自身の身体的特徴にとりわけうまくいく、と自分が信じられることかもしれないし、周りの人から格好良く見られると定評があるシルエットのことかもしれない。そのことは、いくら自由なつもりでも、「私は何者にも縛られていない」と主張することの不可能性を意味する。似合う服を着なければならないなら、いつも限られたタイプの服を来ているのだろう。素材の良さを優先するゆえに、デザインの好みをいつも妥協しているのかもしれない。しかし、服を着る、というのはひょっとしてそういうことなのだ。

展覧会におけるファッションは鑑賞するべきものだけれども、どうやってみるか、という難問はその存在すらを左右する問いであるといってよい。ナイロンのバルーンの中に規則正しく並べられて、なぜだかわからないが白と黒のブーツを脱がされた、33着の白ドレスの集合、あるいは、名和晃平によるヘアドレスを纏い、ランウェイをとぼとぼと歩き回るマヌカンの身体性を伴って提示されるドレス。両者では、それが与える印象が大きく異なる。印象が異なるとは、まったく違った言い方で語られ、分析され、議論される可能性を孕んでいると言うことだ。

今回のコレクションに限らず、川久保玲のデザインにおいて、自由と不自由、少女と大人、女性的なものと男性的なもの、西洋と東洋という二項対立は、通奏低音的な主題であり、これらを一つの身体上に交差させる手法はもはや定石である。今回の白のドラマもまた、この例に漏れないのかもしれない。ただしそれは、「白」という色のテリトリーを逸脱することはないのだが、むしろ激しく混乱している問題提起を目の当たりに、これまで以上に暴力的なクリエーターの焦燥感を感じ取ってしまう、ということを除くならば、である。

07/3/12

畑田久美 大きなパレットで描く、色彩の画家 / Kumi Hatakeda, Peintre

畑田久美の絵は、前向きで強く、そして鮮やかだ。一目見たら忘れない、特徴あるかたちの捉え方と、明るく確信を持った色の配置。大阪で国際商学を学び大学を卒業した彼女が、絵を学び始めたのはフランス、パリにあるポール・ロワイヤル・アカデミー(Académie de Port-Royal)でのこと。2005年、若き画家の卵だった畑田久美は、力いっぱいアカデミーの扉を開けた。

学校の美術の時間、嬉々として熱心に絵を描いていたことを除けば、日本では一切美術のエチュードはしてこなかったそうだ。つまり、畑田久美という画家は、フランスのアカデミーで育まれ、認められながら日々進化し続けている一人の日本人アーティストなのだ。

Kumi HATAKEDA, Les échecs, 70×70cm

彼女がフランスに渡ってから、画家として6年間の日々を過ごしたアトリエにおじゃまさせていただいた。(Académie de Port-Royalのsite) 学長は、畑田久美の師匠であり、彼女が最も尊敬する画家であるジャン・マキシム・ルランジュ(Jean-Maxime RELANGE)。バカンス前の妙な時期の訪問と、ところ構わずの写真撮影を快く受け入れてくれた。若きアーティストとのツーショットにも快く応じてくれた。(二人でバラの花まで持って、ポーズをキメようとしている。チームワークは完璧そうだ。)
なるほど、師匠を心から尊敬でき、信頼出来るということは、真似たり参考にしたりしながら自分の型を作っていくようなワザモノを学ぶ際には特に重要なのだ。

Jean-Maxime RELANGE and Kumi HATAKEDA

以前、毎年グランパレで行われるFoire (siteはこちら) に彼女が出展したときにも一度お会いしているのだが、この師匠がいかに生徒たちを熱心に指導し、個人を尊重しながら芸術を教えてきたか、彼らの関係をちらりと見るだけで、とてもよく理解る。彼女自身は「最も信頼している師」と彼のことを語る。

昨年2010年、畑田久美はパリのポール・ロワイヤル・アカデミーでグランプリを受賞する。グランプリ受賞者の個展は、パリの中心、シテ島内のギャラリー、Galerie LeHalleにて2011年2月3日より行われ、間の会期中、多くの美術ファン、畑田久美ファン、フランスの美術コレクターたちが訪れた。会場に黒いドレスに身を包み現れた小柄な画家は、大きなキャンバスいっぱいに明るくはっきりとした沢山の色彩を楽しく踊らせることのできる、超パワフルなアーティストだ。(会場の様子はギャラリーのHPを御覧ください。)

Kumi HATAKEDA, La Belle, 55×46cm

私はこの画家の色の鮮やかさが大好きだ。目にしたことのある風景であるのに、画家の視線によって異化されていて、描かれた対象について一生懸命思いを巡らせる瞬間も好きだ。その瞬間こそがまさに鑑賞者が畑田久美ワールドに引き込まれる瞬間であるからだ。作品を見るものが、絵を前にして、それが何か、何を意味するか、何を伝えたいのか、じっと考えているとき、鑑賞者は文字通り芸術家の世界の虜になっている。見えているものに対し、いまだ解釈を与えられずにいるその瞬間だけは、私は私の言葉を持っていない。提示されたものに率直に対峙している幸福なひとときである。彼女の作品は、豊かな色彩を伴いながら、このしあわせな時間を私達に経験させてくれる。

Kumi HATAKEDA, Eclats d'Aulx, 100×100cm

Kumi HATAKEDA, Rythmes de legumes, 100×100cm

フランスに来て、ゼロから絵を学び始めたことには大きなメリットがあったと彼女は語る。子供の時から学びたかったことを毎日疲れきるまで真剣に取り組むことのできる、日常的だがかけがえのないしあわせ。
ここからは私の勝手な推測に過ぎないが、信頼出来る師匠や話のできる仲間に恵まれてすら、制作とはおそらく孤独な仕事であるのだろうし、表現者は葛藤と闘いながら彼らの表現活動を行なっているのだと思う。描きたいもの、描かれるべきもの、それをどのように描くべきかという問題をめぐる6年間という時間は、彼女が悩みまくるために十分長い期間であっただろうし、これからも沢山の鑑賞者と「しあわせ」を共有するために、畑田久美の表現は進化していくのだろう。

彼女はシャガールが好きなんだそうだ。シャガールはご存知のように「色彩の画家」とか「愛の画家」と呼ばれる。生涯ロシアとフランスを行き来しながら、生涯愛した妻をアメリカで亡くしたあと、フランスで晩年を過ごした画家である。たしかにシャガールはとても素敵な色で素敵な構図で絵を描く。
彼女の色彩の源であるパレットは、パレットの板の部分から20センチ以上盛り上がっており、もはや絵の具の彫刻とも言うべき代物である。このパレット、実は作品より高価だとの噂もきく。「いちいち洗わないの〜。」と笑顔で説明してくれたが、毎回洗わないこととパレットを彫刻作品にしてしまうことは別次元である。次回個展をされる際にはぜひとも一緒に展示していただきたい、彼女の制作の思い出がぎっしりと詰まったパレットだ。

artist's palette

パリで6年間、日本と異なる光の色や緑や人々を目にした彼女はこれから、もっと新しいものを見つけるために旅に出るのかもしれない。シャガールが晩年を過ごした南仏の光を体いっぱいに浴びるために。もし仮にそうだとしても、この色彩の画家はずっと、パリが育んだ画家でありつづけるだろうし、パリの光の色を忘れることはないに違いない。

彼女の恩師であるジャン・マキシム・ルランジュは、2010年の畑田久美グランプリ受賞に際し、以下の様な言葉を述べている。

   畑田久美の絵において、もっとも驚かされるもの。それは、熟考された、しかしこの上なく素直な表現。彼女が主題とする静物、裸体、あるいは風景は彼女の効果的な表象の仕方と天才的な構図のセンスによって、完全に捉えられ、従順なモデルとなっている。(中略) 豊かな色彩を使い、彼女が見捨てる色は一つもない。すべての色を知っており、そのすべてを愛している。キャンバスがすっかり色で覆われた時、色調への深い愛をもってこれらを完全に、そして思慮深い方法で調和させる。それは彼女にしかできないことだ。

謝意:バカンス前に無理を言ってお邪魔させていただきありがとうございました!
(インタビュー:2012年6月28日)

06/13/12

マネキン(パレ•ド•トーキョー)/Mannequins au Palais de Tokyo

マネキンが好きだ。ボディの質感も好きだし、マネキンのボディが結構精密に複数のパーツから構成されているところも(その関節具合も)大好きだ。こんなに好きなのに、マネキンの製造過程を見学したことがないのはつくづく残念なので、機会があったらぜひぜひ見学したいと日々思っている。

マネキンの身体は匿名的だと言われる。身体はおろか、彼らの顔も特徴というものが無い。マネキンというのは、誰でもありそうで誰でもないように作られた人形であり、もちろん洋服かっこうよく着こなす目的上、程よく謙虚なナイスプロポーションを誇っている。誰からしくて誰でもないというのは、ミステリーな感じがしてとても素敵である。

大きな人形だからといって、実物っぽいのは好きではないのだ。たとえば蝋人形館で有名な、パリのミュゼ•グレヴァンやロンドンのマダム•タッソー館は行ったことがないので、何がどれだけすばらしいか知らずにいい加減なことは言えないが、どうにも興味を持つことが出来ない。誰かをモデルにした人形というのは、それ以上の解釈の可能性は無いし、ミステリーも秘密も、何にもない。あるべき姿が決まっていて、それに似せられただけだと思うと魅力が半減してしまう。

とにかく、10代の頃からマネキンが好きで、見よう見まねでちょこっとミシンをかけて洋服を作るのも好きなので、トルソーも好きである。気になるマネキンがいたら写真を撮るし、ショーウィンドーで裸のまま放っておかれているマネキンのやりきれない感じもたまらなく愛おしい。(持っていないし、あまり関係ないけれど、サラサラした生地で作られた身長くらいある大きな抱き枕もきっと好きだと思う。)

mannequin au Bon Marché, Paris

そうそう、せっかくなので、マネキン人形の控えめな歴史をこの場をかりてお話ししよう。
何を隠そうマネキンはその昔、私が嫌いなセレブを集めた蝋人形館の人形達のように、蝋で作られていた。重くてどうしようもなく、熱に弱くて壊れやすい、蝋人形。制作のコストも大きいので、1928年、島津製作所(現在の七彩マネキン)が洋装マネキンをファイバーで制作するようになり、改良が進んだ。戦後の1950年代には、FRP製のマネキンが制作されるようになり、低コスト軽量化が実現。

日本のマネキン史の中で重要な役割を担ったのは、1968年に渋谷西武百貨店に導入された「ツイッギーモデル」である。ツイッギーは当時大流行したイギリスのカワイイアイドル歌手で、マネキン人形のボディラインを大きく変えた。日本人体型だったマネキンは輸入マネキンに取って代わられる。このことは、ファッションを纏う身体の形が、日本人のものから西洋人のものになったことを意味する。理想ボディイメージのシフトとそのイメージの徹底した普及はハイピッチでなされたといえよう。

マネキンのフォルムは歴史とともに進化してきた。身体自体の形の変化とマネキンの形の変化には密接な関係がある。とはいえ、身体自体の形の変化には長い時間を要するいっぽう、マネキンボディはもっと軽やかに自らを作り替えることができる。それはもちろん、彼らが人形だからであり、彼らの形は人によって作られるからだ。マネキンの高速なフォルムチェンジが表しているのは、人々の「なりたいからだのかたち」である。マネキンは、全ての人の理想をうけとめて変化し続ける、鏡のような存在であり、そこに映し出されているものは必ずしも捉えきれない矛盾を孕んだ、ミステリアスな存在だ。

Florence NIEF "REGARDS", Galerie haute, Palais de Tokyo

本当は、今回パレ•ド•トーキョーで三日間だけ行われたマネキンを使用した展示を紹介しようと思っていたのだが、前置きが甚だ長くなってしまった。(Florence NIEF « Regards » du 8 au 10 juin 2012) 会期中はアーティストから話を聞くことができた。マネキンをマテリアルとして使用するのは初めてと述べる彼女が表現したのは、我々の現代的日常生活のあり方。腸とも脳みそとも、あるいは糞のようなものとも見て取れる無数のひもに絡めとられて、身動きが取れないマネキン達。彼らはそれぞれヘッドフォンを付け、ケータイを持ち、その思索はタブレットにイメージとして映し出される。マネキンの中には部分的にパーツを失ったものがあり、別の場所には断片化されたパーツが同じくひものようなものに絡めとられている。

私たちはこれを彼女が言うように現代生活として解釈しながら、彼らの足下をがんじがらめにする腸のような存在を、ネットワークとして読むことができる。そして、その中に断片化された身体の破片を、納得しながらももがいて生きている現代の生として見なすことは行き過ぎた考えではないだろうと思う。

Florence NIEF, Palais de Tokyo ( du 8 au 10 juin 2012)