09/3/13

55th Biennale de Venezia part1/ 55th ヴェネチア•ビエンナーレ No.1

55th Biennale de Venezia part 1

Il Palazzo Enciclopedico / The Encyclopedic Palace

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今回アルセナーレ•ジャルディーニの両メイン会場で150人の作家が参加する企画展Il Palazzo Enciclopedico / The Encyclopedic Palaceのキュレーションを行ったのは、イタリアのMassimoliano Gioni(マッシミリアーノ•ジオーニ)である。1973年生れ、最年少でのヴェネチア•ビエンナーレ総合ディレクターだ。展示の共通テーマは百科事典的であること。作品のそれぞれが百科事典的な小宇宙を構成していると同時に、あまりにも異なる世界中の作家が一同に集うIl Palazzo Enciclopedico / The Encyclopedic Palaceの空間そのものが全体としての百科事典的な場となる。そこでは、芸術家とそうでない人の差を根本的に疑うような試みがあり、人類が表現とか芸術とか呼んできたものの起源にまで遡ろうとする試みがあり、現実や夢、目覚めていることと無意識であることの間をさまよう試みがあり、そもそも、形やイメージはなんであったのかを問うような試みすらある。
そのIl Palazzo Enciclopedicoのページを繰りながら、我々が思うのは、そのあまりにも巨大な百科事典に綴られた全ての知恵と知識を「身」に付けるのが大事なのではなくて、そこを、さまよってすり抜ける中で世界を目撃することこそが重要なのだということである。

パート1では、写真と映像作品に着目した。

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Camille Henrotは1978年パリ生まれの若手作家である。日本で生け花を学んだこともあるこの作家は、数々の植物を用いたインスタレーション作品を作ってきたほか、ドローイング、写真、映像作品も手がける。salon de mimiにおいては以前、パリのGalerie Rosascapeで行われた展覧会、“Jewels from the Personal Collection of Princess Salimah Aga Khan”についてレヴュー「Camille Henrot/カミーユ•アンロ, ジュエリーは押し花に敷かれて」と galerie kamel mennourでの展覧会「Est-il possible d’être révolutionnaire et d’aimer les fleurs ?」の写真をこちらに掲載している。今回ヴェネチア•ビエンナーレの百科事典的展示のために彼女が構想した作品はGrosse Fatigue(大いなる疲労)である。創世記の神話をもとにしたストーリーを、世界中の国立博物館のアーカイブを現代的な方法で提示する。多様な種が歴史の中でどのように変わって来たのか、あるいは人間もまた生物としてどのように歩んできたのか。地球の始まり、いや、宇宙の始まりにも遡って、そこから今日までの、人間の知っている全ての「知識」をコンピュータのスクリーン上にまとめあげようとする。だが、そこで気がつくのは、次々に開かれたたくさんのウィンドウの集積が表すのは客観的でただ一つの真理ではなくて、人々の思想が様々な角度から光を当てられた局面のようなものだということだ。

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Norbert Ghisolandが我々に見せるのは、第二次世界大戦中に彼のフォトスタジオで撮影されたこどもたちの記念写真である。こどもたちは今も昔も、誕生や入学や、あるいは様々な節句の折に、一人や他の兄弟姉妹と共に、非日常的で非現実的な衣装をまとわされて、カメラの前に立たされる。ここで作家は、親の夢を叶えるためにこの大変な仕事をまかされたこどもたちが、イメージの中でまったく不釣り合いな表情で立ち尽くしている様子。そこにある、ある種の滑稽さや不気味さを浮き彫りにしている。Norbert Ghisolandは1878年生れ、ベルギー出身の写真家である。10代から写真家として働き続けたGhisolandは生涯19000枚のイメージを残している。

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引き続き、子どもの記念写真にかかわる作品を見てみよう。広告写真やスナップショット、マジックランタンやタブロー•ヴィヴォンの写真など、19世紀から20世紀に渡る数々の写真のコレクターとして知られるLinda Fregni Naglerが今回展示した997枚の一連の写真には、思わず足を止め、その様子を一枚一枚確認したくなるような共通点がある。それは、隠された母親の存在である。The Hidden Mother (2006-2013)は、ご存知のように露光時間が長かったダゲレオタイプの写真撮影ならではの困難の結果しばしば見られた奇妙な習慣を伝える。撮影の際、非常に小さな子どもを動かずじっとさせておくことは難しく、子どもだけの記念写真を撮るのは至難の業だった。そこで考えられたのが、母親がすぐそばで支えていれば子どもはじっとしているという当たり前のアイディアであったのだが、写真をみてみると、「写る必要のない」母は、黒い布を被って自らを隠している。(写真 下)そこには明らかに誰かがおり、その存在は誰の目にも明白なのだが、それでも、母は姿を現してはいけないのである。この種類の写真には、子どもを安心させ、じっとさせるためのものと、子どもの「没後写真」の二種類がある。(上のように、子どもの背を後ろから支えているものは没後写真。) 写真が発明され、人々が肖像画を撮るようになった頃、写真が提示するまったく本物らしいイメージは、あたかも死んでしまった人が生き返ったかのように、あるいは、生き返ってくれたらいいとう人々の願いを喚起することになり、生前のような服と姿勢で撮影する没後写真が盛んに撮影されるようになる。生命力の強くない子どもはしばしば幼くして命を落とし、かれらもまた、可愛らしいドレスを着せられ、隠された母親に抱かれ、撮影されている。(展示写真は1840年代から1920年代にわたって撮影され、ダゲレオタイプ、アンブロタイプ、フェロタイプが混在している。)

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Nikolay Bakharevが撮影した家族写真や若い女やカップルの写真において、人々はすこしためらいを表情に浮かべながら、しかしどちらかといえば嬉しそうな様子を見せている。ソヴィエト抑圧下の厳しい統制があった時代、「裸」を写したイメージは厳しく禁止され、それを現像することも所有することも重大な犯罪とされていた。家族や恋人と、肌の露出を伴った写真を頑に禁じられていた当時、人々に唯一許されていた機会は、ビーチで撮影した水着姿くらいであった。人々はとても幸せそうに、唯一の自分の若かった身体、子どもである身体、年をとった肉体をBakharevの向けるレンズに見せてくれた。我々の今日の肉体は、今日しかそこにない。

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Laurie SimmonsAllan McCollumは共にアメリカのアーティストである。Laurie Simmonsは、1949年ニューヨーク生まれ、ユダヤ系の家庭に育ち、70年代より独自の主題をシリーズ化した写真を撮り続けている。人形の家を撮影した初期の作品から一貫して、人形や人形の家を使った状況設定はSimmonsの写真に繰り返し見られる。人形に様々なコスチュームを着せた作品や、人形が世界中の観光名所を旅しているようなシリーズ« tourism »もあれば、« Ballet »もやはり踊る人形がバレエの写真や絵画と重ね合わされている。さらにもっとも最近の作品The Love Doll(2009-2011)では、リアルドールが着物や鵜ウェディングドレスなどを纏って、化粧を施され、リアルな背景や家具の中に身をおかれた写真を撮影している。一方、McCollumは、30年間にわたって、物の公共性とプライベート性についての問題提起を、大量生産される日用品をインスタレーションとして提示することによって続けている。そもそもMcCollumは、俳優を目指し一度イギリスに渡り、帰国の後飲食店の経営やキッチン用品の産業に興味を持って技術系のカレッジに通っている。その後、航空会社で飲食関係の仕事についたが、フルクサスや初期構造主義に影響を受けてアーティストになることを決意する。このような経緯から、大量生産のプロセスとその産物が彼の一貫したテーマの一つなのである。さて、ここでは1984年にAllan McCollumの協力によって実現したActual Picture(1985)が展示された。さて、映し出された人形はしばしば目や鼻がなく、そもそも身体の形も不自然である。表面がざらざらしていたり、鼻のあるべきところがつるっとしていたりする。これらは全て、それは人々のポートレートと同じような一定の大きさの写真に提示されている。ところが実は、この人形のそれぞれは小さな消しゴムほどの大きさしかないフィギュアなのである。一つ一つ肖像画風に提示されるとそれぞれの「人形」は、奇妙な存在感を帯びる。

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Autur ZumijewskiBlindly(2010)において、集まってもらった全盲の人々が太陽を描くところをビデオに収めている。それぞれは筆は使わずに、指や足を使って絵を作って行く。そのうちの一人の男性は途中で、筆を使うことを選ぶ。なぜなら、彼が描きたい太陽の光線の一本一本が、指などを使っていては到底表すことが出来ないからだ。Zumijewskiはワルシャワに1966年に生まれた。ホロコーストの記憶や、Ability(できること)とDisability(できないこと)のボーダーに触れ、歴史的あるいは身体的なトラウマを描き出し、強い感情を引き起こすような表現を行っている。Sumijewskiの作品におけるDisabilityはそれが強い感情を引き起こすものの、それは単純な同情や見ることの拒絶ではなく、人々にそれに見入ることを促すように働く。

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次回は、彫刻とインスタレーションについて書きます。

09/1/13

Cheveux comme symbole de femme ? / 女たちの髪について

「髪は女の命」は、洋の東西を問わず、さらに古今も問わないらしい。だが、私自身、これまでの人生の中で「髪の毛」にはあまりいい想い出がなく、それをうまく手なずけたこともなければ、それを社会的•戦略的利用に成功したことも、それによって恩恵を受けたことも特にない。どちらかというとそれは、子どものときには「いい子だったら髪を伸ばしていい」とか「悪い子だからショートにしなさい」など、従属をコントロールさせるアイテムとしての役回りを果たし、あるいは思春期の時にはそれは、この世でお天気の次に手に負えないもの」として縮毛矯正だか脱色•染髪•トリートメントだかに金をつぎ込まされる。そして年齢を重ねてそんなことも全てどうでもよくなり、嫌いだった美容院にもついに殆ど赴かずに済むようになった現在ですら、社会生活におけるストレス(?)やおそらくは栄養状態に起因する過剰な抜け毛によって「いったいこんなに毛が抜けて、私は明日の朝にはどんな姿になってしまうのか」という脅迫に日々付きまとわれている。

私が述べたこれらの想い出や強迫など、過ぎ去った時代を生きた女性たちが経験した数えきれない暴力のまえにはゴミみたいなものだが、現代人が伴って生きている「髪の毛の意味」というのは、彼女らの生きた時代のそれとさほど変わらないのであり、なるほどたしかにそれは、人々が気にすれば気にするほど重要な意味を担い、皮肉なことに、それを転覆させようと執着すればするほど、決定的な存在となる。こうして髪の毛は現在もなお戦略的アイテムであり続けている。

セーヌ川沿いのプリミティブな美術を扱うケ•ブランリ美術館(Musée Quai Branly)は2006年に開館した新しい美術館で、アフリカ、アジア、オセアニア、ラテンアメリカの文化や芸術に関し、30万点にもおよぶコレクションを保持し、数々の企画展が行われている。そこで、2012年9月から2013年7月まで開催された展示『CHEVEUX CHERIS(愛しの髪の毛)』を見学した。Musée Quai Branlyが提示する「愛しの髪の毛」の意味はシンプルにカテゴリー分けされている。個人のアイデンティティとして、あるいは個人のスタイルを決めるものとしての髪型や髪の色は、人類学的な観点から重要である。個人主義の時代のオリジナリティの主張の役割を担うのはもちろんのこと、それは、日本のような民族的多様性に乏しい社会においてよりも、ヨーロッパやアメリカにおいてよりラディカルな意味を持ってきたのであり、現在もなお持っている。あるいは、それは時に、一人の人間が生の記憶として、長年にわたって遺族や恋人によって大切にされる。さらには、これらの意味を担った髪だからこそ、戦利品/トロフィー、あるいはその象徴として利用される運命に晒されてきたという事実もある。戦争でどれほどの敵を殺したかを量的にしめすこと、ある社会において女の重要なアイデンティティである髪を見せしめのために剃り落とすこと、さらに胸を悪くするのは、こうした意味を逆手に取った女性自身による自滅的なパフォーマンスを目の当たりにしたときである。

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さて、展示された「髪」のいくつかを見てみよう。一つ目は、有名なエクアドルのヒバロ族のShuar(ツァンツァ)。これは、首狩りの風習にしたがって、殺した敵の首級を持ち帰り、乾燥させる(乾首)にしたもの。ヒバロ族の乾首には本来的に宗教的意味があり、殺された人間の頭部を束縛することによって、霊魂を鎮め(復讐の霊はムシアクと呼ばれる)、ヒバロ族に服従させる意味を持っていたとされる。

Tête réduite Jivaro, Shuar, Equateur

Tête réduite Jivaro, Shuar, Equateur

Jean-Jacques LebelのコレクションであるEmma(1900年ころ)で、André Breton(アンドレ•ブルトン)がSaint-Ouenの蚤の市で購入し、友人のLebelにプレゼントされたものである。見も知らぬ一人の若い女Emmaが死んだ時(あるいは何かのきっかけで)、おそらくはその形見として彼女の家族に与えられたものであろう。髪はここでEmmaのヒトガタのように在る。

Emma, relique, circa 1900

Emma, relique, circa 1900

また、荒木経惟の『無題』(1940年)では、荒木の写真において女たちがしばしばそうであるように、あたかも我々の知る世界ではないような奇妙な様子で一人の女が提示されている。長く美しかったであろう黒髪は、湿ったまま容赦なく切り刻まれて、裸の女の体中にまとわりつき、女は表情をひとつ変えていないが、あるいはもはや生きていないかのように見える。一方で散らばった黒髪は、その塊が女の身体を這うようにしてうごめいているようにすら見える。

Nobuyoshi Araki, Untitled

Nobuyoshi Araki, Untitled

 

Robert Capa, 1944

Robert Capa, 1944

次の写真は、フォトジャーナリストであるRobert Capa(ロバート•キャパ, 1913-1954)の撮影した写真のうちでもっとも重要な仕事のひとつで、1944年8月18日、シャルトル(Chartres, France, パリ南西)における出来事の一部始終を収めたものである。赤ん坊を抱えた一人の若い女(当時22歳)が、軍人によって、多くの観衆が見つめる広場の方に連行されている。広場の地面には黒っぽい塊が、幾つも落ちているのが見える。この日ここで行われたのは、ドイツ軍人と関係を持ち、ドイツ軍人との子どもを出産した女たちの「剃頭」という「見せしめイベント」である。女たちはここで人々が残忍な好奇心で見つめる中、丸坊主にされて、彼女らの幼い子ども共にシャルトルを追われた。当時の女性たちにとっての髪がいかなる意味を持っており、それを人前に晒されて剃り落とされることがどれほどの辱めであるか、敢えて言うまでもない。二枚目の写真には、剃髪後、足早に歩く彼女を囲む、人間の残忍性が克明に写されている。ののしるもの、惨めな剃髪姿をあざ笑うもの、憐れな者を見て見ぬ振りしようとする者、その全てがこの一枚の写真に現れているのである。

Robert Capa, 1944

Robert Capa, 1944

この女性は、ドイツ軍人の子どもを産んだ罪によって二年間のシャルトル滞在権の剥奪ののち、この地に戻り、その20年後の1966年に亡くなった。女性は精神を病みアルコール中毒に苦しみ、44歳の若さで生涯を閉じた。女性が公衆の面前で受けた辱めは、ドイツ軍人の子どもを産んだことに由来する。それ以上でもそれ以下でもない。その妊娠が女性の望むものであったのか、社会はそのことを全く問わなかった。女は、誕生した新しい生命を中絶せずに産み落としたということによって殺されたのだ。

まだ記憶に新しいことだが、日本のアイドルグループAKBのうちの一人、峯岸みなみがグループの暗黙のルールである「恋愛禁止」に違反して、異性と関係を持っていたことについて、「坊主頭」によって「ファンや関係者にたいする謝罪」を行ったことがたいそうスキャンダルになった。断髪後に撮影されたビデオがyoutubeなどにアップロードされ、その様子はマスメディアを通じて報道された他、動画の再生回数は合わせると数十万回に及ぶと見られ、ウェブでもテレビでも多くの人がこれについて議論した。この「謝罪」が尋常でない拡散力をもっていたのは、上のシャルトルの女の最悪な「見せしめイベント」を、多くの観衆が残忍な好奇心によって見つめた人間の性質とまったく同じ構造をこの「謝罪」が利用しているからである。私はこの行為自体については、純粋に、戦略的であると思う。その一方で、Robert Capaがカメラに収めた「見せしめ」は言うまでもなく氷山の一角で、歴史上数えきれない。それを憐れに思うにせよ、無関心であると言うにせよ、こんな「謝罪」のビデオを見入るという行為はまさしく、おしなべて、そういったシステムに支配されているその証拠なのだ。

08/28/13

Day(s)dreaming @Galerie 59, Paris / 展覧会 « Day(s)dreaming » @ギャラリー59

Day(s) Dreaming
@Rivoli 59,

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Rivoli通にある見るからに奇怪なアーティストアトリエと併設してGalerie 59 がオープンしたのは記憶に新しい。59 Rivoliは1999年の死者の日にKalex, Gaspard, Brunoという3人のアーティストがCrédit Lyonnaisに放置された建物を発見し、そこをアーティストの拠点としようと決意したのがきっかけだった。« Chez Robert, électron libre »のもとにアーティストの居住およびアトリエと展覧会会場となる。2006年には一度パリ市の判断のもとに59 Rivoliは閉鎖され、工事を経た後の2009年、再びアーティストを受け入れ、パブリックへ門戸を開放することとなった。Rivoli 59 はルーブルから徒歩数分、ポンピドーセンターも勿論徒歩圏、コンコルド広場からサン•ポールまで続く(ルーブル周辺はアーケード街で有名)パリの目抜き通り沿いにある。この建物の一階(RDC)、Galerie 59で2013年8月20日~9月2日の予定で開催中の展覧会« Day(s)dreaming »(site on facebook here)を訪れた。

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参加アーティストは、5名:ポーランド出身の油彩画家であるZofia Blazko, ワコウ・ワークス・オブ・アートをはじめ東京のギャラリーやヨーロッパにおいて展覧会を行い、独自のアプローチで重層的イメージを描くTomohito Ishii, ソルボンヌ大学で学位を取得したのちパリを拠点に様々なマテリアルで彫刻作品を発表しているSouya Kim, パリ第8大学にて修士号を取得、フランス各地において、糸の妙が織りなす新しいスタイルの絵画 »Bug Report »を発表するKeita Mori, 日本の気候をテーマに写真作品を発表するLola Reboudというメンバーであった。(référence : http://www.59rivoli.org/gallery.html )

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展覧会タイトル「Day(s)dreaming/白昼夢」が意味するのは、昼間、目覚めたままで空想や想像をあたかも夢の映像ように見ることであり、起きたままでそのような非現実的幻想に耽ることである。展覧会を訪れる人が出会うのは、溢れる光の中ではっきりとした意識と光りに溶けていく意識が交差する瞬間に生まれる、白昼夢のイメージのそれぞれのアーティストによる表現である。

この、Day(s)dreamingの(s)はなかなか気になる。sは第一義的に名詞の複数性を示唆するし、それがカッコに入れられている場合には、単数であることと複数であること両方の可能性を暗示する。名詞に性があるような言語の場合には、男性名詞単数にはそれ以上の奥行きを持たないが、現行の多くの言語システムにおいては、男性複数では全ての可能性を包括できることになっている。この(s)のニュアンスを出展作家の一人である石井友人さんに尋ねたところ、タイトルDay(s)dreamingに寄せた解釈をお聞きすることが出来たのでここに掲載したいと思う。(一部略は筆者による)

展覧会タイトルとして採用された「Day Dreaming」とは、記憶の戯れからなるイメージの想像的な飛躍を体験する、という意味が込められています。参加アーティストの言葉に由れば、「Day Dreaming」とは、まるで緩やかな洪水の後の様な豊穣なイメージ郡を想定しており、全てが押し流され、既存の意味や時系列、あるいは所有関係を離れたイメージ群 (記憶)を再構成する、流動的な過程を含意しているようです。

この流動的な過程 において、集合しつつ離散するあらゆる不可避的イメージの遭遇が、我々の思い出/忘却とが幾重にも交差する場所を作り出し、そこにはひょっとすると記憶に対する物憂い空間(真夏の蜃気楼)が立ち上がっているのかもしれません。

あなたはこの真夏の白昼夢の空白の中にただ一人取り残され、想像することの能動的/受動的な経験に奇異な思いを馳せることでしょう。(石井友人)

Le titre de l’exposition, à savoir, « Day Dreaming », veut dire une expérience de l’association accidentelle, non-ordonnée, et non-maîtrisable des images à partir du jeu de mémoire. D’après les mots de l’un des artistes participants, ce titre suppose « une série des images comme un paysage, en quelque façon, “ dépaysé ” de l’après-inondation, où se rendrait possible la mise en relief des significations originelles de choses, qui sont pourtant à la fois cachée dans notre vie quotidienne et sédimentée dans notre mémoire. C’est à travers ce processus fluide et flottant, consistant à délibérer et à dégager l’« archi-sens » de choses à l’aide des images, que se crée un lieu où se croisent et se superposent la mémoire et l’oubli. Dans cette exposition souhaitons-nous ainsi vous offrir divers expériences de la rencontre inévitable, voire, passive des images qui se rassemblent tout en s’écartant dans le Day Dream. (Tomohito Ishii)

なるほど、Day(s)dreamingはその重層的な性質、記憶とイメージの重なり合い、さらには空間におけるアーティストたちの記憶とそれを見る人の白昼夢が混じり合うこと、それらを含む奥行きを意味しているのだ。

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ポーランドのZofia Blazkoは、数々の眠る女を描いている。彼女が表すのは特定の眠っている女というよりもイメージとしての眠る女である。眠る様子は自分自身で見ることができず、そこにどんな身体の動きや表情が浮かび上がっているのかを我々は知らない。穏やかで美しい眠り姿はやはり創り出されたもので、一つのイメージなのだろう。

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Tomohito Ishiiの絵画には複数のイメージが混在する。それは完全に混ざることなく微妙にずらされ、重なり合うことによって本来それらが持てる具体的意味を失って漂う。そこにあったはずの明確な風景、写真が留める遠い昔の記憶、抽出された断片といったものは、知らず知らずのうちに我々の白昼夢のフラグメントとなる。我々はしばしばそのことを意識化できず、そのことは実は、外在する記憶と内なるイメージの差異の本質的な無意味を暗示する。抽象画とは、本当はそういったことなのかもしれない。そしてそれをあくまで身体的な物として表現するこれらの絵画を前に、鑑賞者は自らのイメージを重ねる。

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ギャラリーに足を踏み入れるとSouya Kimの大きな3つの水滴が、床に表面張力によってそのまるさを保っている。奥へと歩を進めると、球面に映る我々の姿は突如ぐにゃりと様相を変える。現実に留まっていると信じるためには、水滴はあまりに透明で、大きい。彼女の作品は磨き上げられた巨大なアクリル樹脂の彫刻である。静かにそれを見つめるならば、作家により信じがたいほど繰り返されたプロセスの層の中に自己を見失うだろう。

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Keita Moriは、Pistolet à Colleと糸という独自のアプローチで、Bug Reportというシリーズを制作している。真っ白な紙面に浮かび上がってくるのは、ときに幾何学的なモチーフであり、またあるときはいつか夢のなかでみた迷宮の構造のようである。いずれのイメージも、我々の目にはっきりと知覚できる部分と、すでに失われたか隠されている部分、あるいは、世界の中に遍在するのは確かなのに、もはやその全体像は掴み得ないものを紡いでいる。我々は絵の前で、その見えないものを求め、そのさらに遠くまで行って気を失う。

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さて、当展覧会は、9月2日(月)までGalerie 59にて開催中である。Day(s)dreaming/白昼夢はそこに漂っている。

Zofia Blazko
http://www.zofiablazko.com/index.html
Tomohito Ishii
http://www.tomohitoishii.com
Keita Mori
http://keitamori.com

08/26/13

Mike Kelley @Galerie Sud, Pompidou / マイク•ケリー @ポンピドー

MIke KELLEY
2 mai 2013 – 5 août 2013
Galerie sud – Centre Pompidou, Paris

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Mike Kelly マイク•ケリーは、アメリカの現代美術家である。1954年にデトロイトで生まれた。1976年、ロサンゼルスのCalArts(California Institue of the Arts、カリフォルニア芸術大学:実験的で前衛的なアプローチとJohnMaldessariやLaurie Andersonなどの教員がおり、国際的に高い評価がある)にて学ぶ。また、カウンター•カルチャーの精神に基づき、パンクやパフォーマンスアートに興味を持つ。1977年、トニー・アウスラー(Tony Ousler)とThe Poeticsというグループを立ち上げる。1980年代以降、ぬいぐるみを利用したオブジェとインスタレーション、その後ビデオ作品で著名になり、ドクメンタ10(Documenta10, Kassel)に出展する。日本では、1996年には東京のワコウ・ワークス・オブ・アートで個展(新作展)が開催されたほか、2008年には横浜トリエンナーレにも招かれ、トニー・アウスラー(Tony Ousler)とのコラボレートによるインスタレーション The Poetics Projectを発表した。2000年代末以降Kandor 15(スーパーマンの空想都市)に関する作品を精力的に制作し続け、昨年、2012年1月、ロサンゼルスで57歳で亡くなった。

from Tony Oursler, The Poetics Project, 1977-1997

from Tony Oursler, The Poetics Project, 1977-1997

マイク•ケリーの表現手段は多様だった。彼のラディカルで時にスキャンダルであった表現はしばしば、彼なりの哲学的考察や心理学的な問い、文化的博識であったことに基づく。デッサン、絵画、彫刻、インスタレーション、パフォーマンス、オブジェやビデオ作品。そこに散りばめられたエッセンスははっきりとそれがマイク•ケリーのものと同定できる印象を与えながらも、一義的説明を拒絶するように、それらは混沌として立ち現れる。大衆文化と対抗文化が入り交じる。社会をブラックユーモアを通じて描き出す。子どもの世界におけるタブー、そして、セクシュアリティにおけるタブー、あるいは、既存の学校教育への強烈なアイロニー。記憶の片隅にあるトラウマ、抑圧された想い出は、断片化されて、文脈も秩序もなく提示される。それらはおそらく「不気味なもの」(Das Unheimliche)と呼ぶにふさわしい。なぜ人々は、彼が1980年代以降しきりに制作し始めた、使い古しのぬいぐるみをつかったオブジェやインスタレーションを、「フェティッシュ」あるいは倫理に反するといって批判したのか。その声は90年代にはスキャンダラスなまでに高まったのだ。ひとまずは、タブーを扱い続けるマイク•ケリーの表現に対して、目を当てることの出来ない偽善的市民の正直な声であったと言っても良いだろう。偽善的市民と言ったのは、現代社会がそれまでの社会とは異なるフェーズに直面していることを知っているにも関わらず、彼らの子どもを取り巻く世界に、まるでこれまで通りのルールが通用するかのように、それを押し付けたのが彼らだからである。しかし、彼らが血眼になってマイク•ケリーをバッシングした本当の理由は、隠すことによって噓の心の平安を得ていた「ひずみ」を彼がつぎつぎに浮き彫りにすることを恐れたからだ。その「ひずみ」は、彼らが子どもに見せたくなかったものでもあり、彼ら自身が子どもであった時分に親との関係の中で「タブー」として必死に見てみない振りをしてきたものだったのだ。人々は「不気味なもの」を恐れる。

Extracurricular Activity Projective Reconstruction #25 (Devil's Door), 2004-2005

Extracurricular Activity Projective Reconstruction #25 (Devil’s Door), 2004-2005

さて、本展覧会は大規模な回顧展であり、2012年に死んだアーティストに代わって、必ずしも時間軸を真っすぐ辿るのではなく、彼が関心を示したトピックに沿って、7つの章に分かれている。

-The langage of object/LES LANGAGES DES OBJETS
-A composite work/UNE OEUVRE COMPOSITE
-Rehabilitating « minor » histories/RÉHABILITER LES HISTOIRES « MINEURES »
-Of stuffed animals and men/DES PELUCHES ET DES HOMMES
-Education and ordinary traumas/EDUCATION ET TRAUMATISMES ORDINAIRES
-Energy and the formless/L’ÉNERGIE ET L’INFORME
-Representing the unrepresentable : Kandors/REPRÉSENTER L’IRREPRÉSENTABLE:KANDORS

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ぬいぐるみを使って作品を作る作家といえば、ルイーズ•ブルジョワやアネット•メサジェを思い出す。あるいはポール•マーキュリーの大きなぬいぐるみを思い出すかもしれない。ルイーズ•ブルジョワの作るぬいぐるみは、既製品のぬいぐるみを使っているのではなく、つぎはぎしながら最終的には大きな人間のボディに到達している点で、グロテスクな「人形」というべきものですらある。それを介して表現されるのは、セクシュアリティの問題であり、人間の生殖と誕生に関わることだ。あるいは、アネット•メサジェにおけるぬいぐるみは、擬人化されて、人間の記憶に関わるものとして提示されたり、個体を代替するものとして提示される。それらは可愛いオブジェとしてのぬいぐるみという存在から別の文脈に連れて行かれ、不穏な世界にいる。しばしば、ぬいぐるみは分断され、頭や腕、胴体に切り離されてしまったり、動物の剥製にぬいぐるみの頭部を持つか、ぬいぐるみの身体にロボットとしての部分を持つなど、それらは生き物としての境界を揺さぶるように、そこにいる。

Mike Kelley, Ahh… Youth!, 1991

Mike Kelley, Ahh… Youth!, 1991

マイク•ケリーにおけるぬいぐるみも、アネット•メサジェと同じではないにせよ、生物と非生物の意味を問いかけるような作品がある。 Ahh… Youth! (1991)では、8枚の写真がポートレイト風に並べられており、7枚はぬいぐるみで1枚が人である。ぬいぐるみはそれぞれ、古めかしく部分が壊れ、目が片方ないなどの憐れな姿を晒しており、それは彼らの遺影とすら言えるものである。右上の若い男は、思春期のころの繊細で若かったマイク•ケリー本人で、これも1991年当時もはや世界には存在しなかった過去の自己である。ここでは、ボロボロになって葬られるものとしての8枚の写真が、一見ポップで可愛らしく提示されるのだが、その様子はやはり不穏なものだ。一人人間であるマイク•ケリーはなんの違和感もなく捨てられる使い古しのぬいぐるみの中と共存し、画面は限りなく均一化されている。

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また、ぬいぐるみは多数合わさって人間の大きなボディになることもできるし、二つの頭部を持ったり、合体することができる。壁に立てかけられたぬいぐるみの集合は、お腹の中に収めるべきものを構成していたのだが、それらは全体として一つの個体に統合されているようで、内部において崩壊を始める。大きな蛇が導くのに付き従って、それらは母体を破壊しながら外の世界へ出てゆく。両性具有あるいは性倒錯のイメージも、マイク•ケリーが繰り返したテーマのひとつだ。デッサンにおいて、女性らしい身体には男性器があり、向かい合う男性らしい身体にはそれを受け入れる女性器が用意されている。倒錯や交換は、ここでも、差異の無化とヒエラルキーの均一化の手段である。

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オブジェの集合を埋め込んだ絵画は記憶の集合である。物には記憶がある。人が物に想い出を持っていることは、物が記憶することと同義だ。画面を眺めれば、誰もがどこかで目にしたことのあるような小さな物を発見する。マイク•ケリーは、教育の問題を語りながらしばしば、「自分自身が、自分固有のものと信じている文化的背景や個人的な記憶は、他の人間のそれとたいしてかわらない」ことを指摘する。「わたしの想い出」と信じているものは、しばしば、映画や雑誌、流行っている本だとか文化を共有する人が皆共通に持っている知識に由来している。それは所詮、そういったモデルにあわせて鋳造されたものでしかないのだ。それゆえ、マイク•ケリーの作るオブジェの集合は常に、純粋な個の記憶など存在せず、それが集合的な記憶であるというメッセージを発している。

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人々が彼の仕事によって気分を害したり、何やら良くないものと感じて遠ざけたり、あるいは批判したり、恐れるのは、つまりはそれがあなたにも関わる記憶のことに触れているためだ。あなた自身が見て見ぬ振りをしていること、忘れようとして、それが上手くいったはずの子どもの頃の心傷、考えても仕方ないものと納得してきたつもりであった様々な矛盾、露にすることは無益に思えて抑圧してきた心の隅にある欲望。それらを敢えて蒸し返したくはないからだ。マイク•ケリーは57歳の若さで死んだが、彼の思惑は、多岐にわたる表現にカムフラージュされて矛盾に満ちているかのように語られる一方で、非常に明確であったと考えられる。他によって、明るみに出すことの出来ない問題をそれによって露呈する試みを続けることこそ、アートの存在意義であると私は信じる。

Kandor 2B, 2011

Kandor 2B, 2011

08/25/13

ロイ•リキテンスタイン@ポンピドー/ Roy Lichtenstein @Centre Pompidou

Roy Lichtenstein
3 juillet 2013 – 4 novembre 2013
Centre Pompidou
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限定詞とは、便利で強力で、そして簡単だ。「”アメリカン・ポップアート”のロイ・リキテンスタイン」という説明は、一見疑いようなくわかりやすく、他にがんばって言葉を見つけるまでもない。当展覧会キュレータであるMnam/CcioとCamille Morineau が、この大規模な回顧展を通じて目指したのは、このあまりにもステレオタイプな限定詞を塗り替えることであった、といえばなるほど、アンビシャスでカッコイイ。しかし、私は彼らの説明に関わらず依然として、彼らがこの展覧会を通じて提示したのは、「アメリカン・ポップアートのキャパシティの重層性」に留まるのではないかと思う。

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さて、ロイ・リキテンスタインは、1923年、マンハッタンで生を受ける。両親はユダヤ系の上位中産階級の家庭。母親はピアニストで父親は不動産業を営む。子どもの頃とくに芸術教育を受けたことはないが、アポロシアターのコンサートに頻繁に通っており、ジャズに興味を持っていた。美術を専門的に学んだのは、高校卒業後にアートスクールに行ったころからで、オハイオ大学に進学するも1943年から3年間、第二次世界大戦下の兵役に服する。実はその間、ロンドンで幾つか展覧会を見ることが出来、フランス各地、ベルギー、ドイツ、ルクセンブルグと移動しながら描き続けた。1945年、終戦の際、パリで学ぼうとフランスに腰を落ち着けた矢先、父親が病に倒れ、翌年亡くなってしまう。それ以降、G.I.Bill(The Servicement’s Readjustment Act, 1944、つまり第二次世界大戦に従軍した軍人の兵役解放後の就職援助や学業継続援助を行うとりきめ)のおかげで、オハイオ大学の美術学科に復学し、1949年学位を取得した。その後教員等を経て、1960年代に、ポップアートの処女作としたのLook Mickeyやマンガ的手法、広告のエレメントへの関心を反映した作品を多数作るようになる。今回力点をおかれた静物画やキュビズム絵画やマチスのダンス等近代絵画の借用を始めたのは1970年代になってからである。そして、彫刻作品は1980年代を中心にブロンズやプラスチックで制作されている。1997年、肺炎をこじらせてニューヨークでなくなった。生涯にわたって制作した作品数は4500点にのぼる。

Look Mickey, 1961 oil on canvas

Look Mickey, 1961 oil on canvas

Look Mickeyは、リキテンスタインの息子たちの部屋にプロジェクションされたミッキーマウスとドナルドダックのイラストに着想を得て制作されたことはよく知られている。もちろんミッキーだけでなく、1950年代の終わり、リキテンスタインは消費社会の広告やバンド•デシネの手法に強い興味を抱き、1956年にはプレ•ポップアートとでも言えるリトグラフ作品Ten Dollar Billeを作っている。この頃、話し相手でありお互いに影響を与えてきたアラン•カプロー(Allan Kaprow,パフォーマンス•アートの先駆者)と、どうやって学生に色彩の意味を教えるかといった議論をしていた際、カプローが言い放った、「セザンヌの色彩を例にとるより、バゾッカ(Bazooka, アメリカのチューインガム)を例にとったほうがよっぽどよく伝わる」というのを聞き、リキテンスタインは自身の方向性に確信をもつ。今後は、主題を当時の日常の中に求めることが可能なのだ。たとえば、広告、日々目にする変哲のないモノ、そしてマンガといったものの中に。この会話を機に、リキテンスタインはいわゆるリキテンスタイン的なスタイルを立ち上げたと言われる。

Magnifying Class, 1963 oil on canvas

Magnifying Class, 1963 oil on canvas

1963年に描かれたMagnifying Classは、「手仕事によるものだというメッセージを極力隠す」というコンセプトのもとに制作された、完全にManualな絵画である。したがって「グラフィックとして最もシンプルに、かつ即効性のあるインパクトをもたらすミニマルな絵画」(Christophe Averty)と言われる。ポップアートの展覧会が世界中で大変賑わっている事実を耳にする際、そしてもちろん自分も足を運んでしまう際いつも思うのが、それなら写真や雑誌で見ればいいのではないか。しかしポップアート展は人気だ。それはもちろん、アメリカンアート界の影響力が非常に強いことや、ポップアートはなんていったってオシャレであること、ヴィジュアルがわかりやすく、楽しく眺められることなどの原因はある。しかし、人々はやはり、いくらシンプルだったりミニマルだと言われても、そこに覗く手作業の後が見たいのではないかと思う。そこにあった画家の手や画材がまだ乾いていなかったときのことをそれらの絵はイメージさせるために、人々はこの絵に歩み寄り、ドットのひとつひとつを眺めるのだと思う。そういったわけで、この絵はまさに、画家の手によって丁寧に描かれた素晴らしい油彩画である。

We rose up slowly, 1964 oil and magna on canvas

We rose up slowly, 1964 oil and magna on canvas

キャリアを通じて、リキテンスタインは女をたくさん描いてきた。ロマンチックなシチュエーションやロマンティックなワンシーンをリキテンスタイン的なスタイルでラインとドット化した絵画。80年代以降作られた2D的な彫刻にも女はたくさん登場する。アート•マーケットにおいて、彼の絵が高値で売れて人気を博したのも、彼が描いた美女たち(しばしばステレオタイプでB級映画くさく、涙を流したりけなげだったりする女たち)が鑑賞者の心をつかんだからである。その一方で、我々はこの美女たちをオシャレなイラストとか形として愛でることはできても、直接的な意味でのセクシーさや生々しさといったものは感じえないのではないだろうか。画家自身もこう述べている。
「私が描く女は基本的に黒いラインと赤いドットで構成されている。私は抽象的なやり方だと思っている。だから、私はそれらには誘惑されない。それらの生き物は私の目にはリアルでない存在なのだ。」(ロイ•リキテンスタイン)
興味深いのは、リアルでないので惚れてしまうことはあり得ない、と言い放たれた、黒いラインと赤いドットから成る女は、70年代からもう30年、40年経つ今日、マンガ的あるいは広告的表現が珍しくもなく、女の表象も多様化した現在においては実は、リアルさを増しているという現在の事態である。

Oh, Jeff...I Love You, Too...But..., 1964 oil and magna on canvas (zoom)

Oh, Jeff…I Love You, Too…But…, 1964 oil and magna on canvas (zoom)

Artist's Studio "The Danse", 1974 oil and magna on canvas

Artist’s Studio « The Danse », 1974 oil and magna on canvas

リキテンスタインがマチスのダンスを自身の絵画のなかに登場させたのは必然の共鳴であると感じられる。マチスの描く肉体はしばしば、彼がいうような輪郭で取り囲まれていた。
「私が創るもの、それは“かたち”である。マンガは、わたしが意味するところの“かたち”を持たない。マンガはたしかに輪郭を持っているが、描かれたものをひとつのものとして描き出すことに何の注意も払っていない。目的は違うところにある。マンガは、再現しようとしており、私は、ひとつにしようとしているのだ。」

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近代絵画からの借用、その際に複数の絵画を一枚の絵の中に共存させた。あるいは彫刻はしばしばイラスト的な2D世界をいかにして3Dに再現するかという試みとして面白い。いくつかの風景画の中に見られる異なるテクニックの混在は、その他の絵画とは全く別の印象を与える。既に述べたがこの展覧会では、すでに広告のデザインやマンガ的スタイルで知られてきたロイ•リキテンスタインの「アメリカン•ポップアートを超える」側面を浮き彫りにすることを狙っていた。ポップアートで何が悪いのか?ポップアートは素晴らしいのだ。むしろ、巨匠絵画をパスティーシュし、かつてなかった構造に挑戦し、平面の彫刻を創造し、生々しくない女を描いて世界を魅了したことによって、ポップアートの底力を見せつけてくれたことこそが、ロイ•リキテンスタインの面白さであると信じる。

Landscape with Philosopher, 1996 oil and magna on canvas

Landscape with Philosopher, 1996 oil and magna on canvas

08/14/13

アンリ•サラ, ラヴェル @ヴェネチア•ビエンナーレ/ Anri Sala, Ravel Ravel Unravel @French Pavilion, la Biennale di Venezia 2013

Artiste : Anri Sala
Curator : Christine Macel
Titre : Ravel Ravel Unravel @French Pavilion

(ヴィデオはこちらでご覧になれます)
dans la pavillon/ パビリオン訪問のビデオ
youtube : http://www.youtube.com/watch?v=k5oOSPIoiZg
interview/ アーティストインタビューのビデオ
youtube: http://www.youtube.com/watch?v=foBKIlq_fPU

55th la Biennale di Veneziaでは、フランスとドイツがパビリオンを交換しての異例の展示となった。オープニング期間中は長蛇の列を作り、1.5時間の待たなければならない人気展示であったらしい。全パビリオンの中でも最も高い天井をもつドイツ館(Germania)を利用してのソロ展示を行ったのはアルバニア出身のAnri Sala、1974年生れ、Ecole Nationale des Arts Décoratifsで映像を学び、現在もパリ在住の映像音響作家である。また、キュレーターはChristine Macel、ポンピドーセンターのキュレーターで、2008年にはGalerie SudにおけるAnri SalaのSolo Exhibition, « Titre Suspended »のキュレーションを手がけている。

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まず、このGermania館は3つのパートに分けられている。入り口と出口に面した二つの部屋ではUnravelの第一プロジェクションと第二プロジェクション、そして中心の最も大きな空間ではRavel Ravelのプロジェクションが見られる。この真ん中の部屋では、二つの画面が上下に重ねられ、二つのフィルムが同時的に上映されている。この作品の主題となっているのは、20世紀を代表するフランスの作曲家モーリス•ラヴェル(Ravel Maurice, 1875-1937)がほぼ同時期に作曲した二つのピアノ協奏曲のうちの一つ、『左手のためのピアノ協奏曲 ニ長調 op.82』(1930)である。(もう一つは1929年に作曲された『ピアノ協奏曲 ト長調』)有名な話であるが、この曲は、第一次世界大戦中にポーランド戦線で受けた戦傷により右腕を失ったピアニスト、パウル•ウィトゲンシュタイン(Paul Wittgenstein)が戦後になって左手のみで演奏活動を続ける事に決めた際、ブリテン、ヒンデミット、プロコフィエフらがしたように、Ravelも彼の要望に応じて作曲したのが、この『左手のためのピアノ協奏曲』である。実はこの曲、あまりに技巧上の難易度が高いため1931年の上演時、パウルは途中で演奏を断念(即興、変奏)してしまい、後にラヴェル自身が指名する形で、両腕のピアニスト、ジャック•フェヴリエ(Jacque Février)によりパリで上演されたのが完全な初演とされる。楽曲は一般的に3部構成でアナライズされる。おどろおどろしく始まる最初のパートは、徐々に加わって行く管楽器が高揚を極めたところで、突如ピアノのカデンツァに取って代わられる。二部はジャズライクな展開部で一部のテーマが随所に変奏として繰り返しちりばめられている。三部は超絶技巧のピアノのカデンツァを経て短いクライマックスが待っている。この曲では、非常にゆっくりなテンポと目もとまらぬ速いテンポ、それらを繋ぐムーブメントがもつリズムやエネルギーが重要な役割を果たしており、形を変えて繰り返されるモチーフが重なり合っていくことでそれはさらに強烈になる。ラヴェル自身の言葉では、死への思いや孤独への恐れを描いたとされているが、クライマックスに向けてパーカッションやオーケストラが高揚して行く様は没入的な興奮であり、暴力的なものすら感じさせる。

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さて、真ん中の部屋で上下に二つの画面を並べて上映されたRavel Ravelにおいて、この難曲を演じるのはLouis LortieとJean-Efflam Bvouzet、二人の両腕の名ピアニストである。(もちろんコンチェルトの演奏は左手のみにより行う。)オーケストラはOrchestre National de France、指揮はDidier Benettiによる。ここで目を鑑賞者の目をひくのは、飛ぶように動き回りテンポをとる左手の存在よりも、左手をしばしば隠すようにして不気味に画面に映り続ける右腕の存在である。「それぞれの映像では、鍵盤を網羅的にうごく左手とまったく動かない右手、という構図に焦点を当てるよう意図されています。」(アンリ•サラ) さらに興味深い事に、この映像はほぼ同時的に再生され、同じような部分を弾いているにも関わらず、意図的に一方が他方を追いかけるかのようにほんの僅かずらして上映されている。(これは、テンポの違いや解釈の違いと関係のない、意図的な「ずらし」である。)アーティストによれば、これはGermania館の音響効果を利用して、二つのパフォーマンスの時間的ギャップを持続的に実現するためであったという。つまり、空間の意味を破壊することなどがそれである。普通大きな空間で響き渡る音は、その残響を聴き、あるいは壁に反射するエコーを聴く事により、音と空間の関係は身体的に了解される。ここでは、残響とエコーが聴かれる前にもう一方の演奏がやってきて、そのもう一方の演奏の残響とエコーも、やはり他方の演奏によってキャンセルされることで、鑑賞者を包む環境を異化しようという試みであった。

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最初の部屋と出口へ続く最後の部屋で上映されたのは、Unravel(ラヴェルではない)である。ここでは、先ほどのように演奏シーンは見られず、一人の女性の顔のアップ、真剣に、時にヘッドフォンに手を当てて集中して音に耳を傾けている様子が見られるのみである。そこには音楽もなく、女性の表情があるのみである。出口のほうの部屋では、彼女の全身像がキャプチャーされて、彼女はDJを頼まれたChloéという女性で、二人のピアニストが演奏した二つの異なるラヴェルを、まさに会場となっているGerman Pavillonにおいてミキシングしていることが明らかとなる。さきほどのラヴェルの『左手のためのピアノ協奏曲』のフレーズのとぎれとぎれにDJのミキシングで作られるスクラッチ音が聴こえてくる。この3つの部屋を通じてアンリ•サラは、二人のピアニストに更に三人目の解釈者としてのDJChloéの存在を加え、三人によるラヴェルを一つの音響として創り上げ、パビリオンに奏でることを目指した。それが観客の身体を通じてさらに異なる経験として産み直される事を期待しながら。

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わたしはこの展示について感じた印象は、構想された事や計算された事、時間をかけて理解されるべき事や知られなければならない事が山のようにあるのだろうという臭いは明らかに香っているだけれども、数十分音響をこの会場で聴いただけではそこまでよくわからないだろうな、というものだった。個人的に主題となった楽曲については知っているし、3つの部屋に関するディスクリプションも読んだので作者とキュレーターが意図するストーリーは理解したが、描かれたストーリーと作品経験が満足に結びつかないと言うほうが適切かもしれない。面白かったかどうかと鑑賞直後に聴かれたら、迷いなく、面白くはなかったと答えた後に、よく分からなかった、と付け足すと思う。国際展に出展する展示なので難しいコンセプトがあり、簡単にはその表現を受け取る事ができないのは果たして当たり前なのだろうか。たしかに、作品にはコンセプトがあり、コンセプトや作者の目的や意図は、見る人が探しに行くものでもあるし、作者から渡されるものでもある。その両方であろうと思う。だから、見る人に興味がなくてもいけないし、作り手に見る人への興味が欠如していてもいけないのである。この作品が、会場での作品経験に関わらず依然として魅力的なのは、アルバニア出身のAnri Salaがこれまでも行ってきたような、異なるスタイルやカルチャーをぶつけて対話させ融合させるということを音楽において実践してきた基本的なアイディアが、この作品にも通底しており、それが面白いからである。田中功起の『A Piano Played by Five Pianists at Once』(5人で一台のピアノを弾く)と少しだけ類似しているけれども、Anri Salaがやろうとしたのは、むしろもう一次元スケールの大きな事で、演奏者によるミキシングだけではなく、観客を取り巻く空間で起こる出来事までをミキシングして、まったく別の環境を創り出すことであったと、私は思うのである。それをサウンドに集中して挑戦し続けているのがこの作家である。

このように考えてくると、一つの結論が見えてくる。必要なのは、もっとうまく説明したいという事で、それはアートのための配慮であり、人が表現するものを人が享受するのに必要なプロセスである。それが自分の部屋のデコレーションでもなく、それがアートであるかぎり、それは人が関係し、人を関係させる事に関わるべきなのである。

参考:other reference Moma Miami, about A Spurious Emission
参考インタビュー:interview about A Spurious Emission
参考インタビュー:Curator interview, Christine Macel, Titre Suspended, Pompidou

08/10/13

アートのエコノミクス展 / Economics in Art @Mocak, Poland

salon de mimi Economics in Art
@Mocak(click here, website)

Economics in Art @MOCAK
17.05.2013- 29.09.2013
Exhibition information here click

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Museum of Contemporary Art in Krakow(MOCAK)で開催中の展覧会 »Economics in Art »を訪れた。
この展覧会は、MOCAKが2011年より毎年テーマを決めて開催してきた長期展示の第三弾、アートと経済の関係を問う展覧会である。様々な文明の重要な領域とアートの関係に焦点を当てるこのシリーズは、これまで、歴史とスポーツが取り上げられ、今後、サイエンス、宗教などが予定されている。

第一弾は2011年の »History in Art »(アートにおける歴史展, http://en.mocak.pl/history-in-art, 参考:http://dailyserving.com/2011/09/history-in-art-at-mocak/) であり、ここではどのようにして歴史が社会と個人レベルのアイデンティティを確立してきたのか、そのプロセスをリサーチすることに焦点が当てられた。歴史的出来事に関する記述には不正確なものや虚実が常に存在してきた。アートを通じてこの問題を考えること、すなわち個人による解釈を与えることは、その問題に他の糸口を与えるかもしれない。
第二弾は2012年の »Sport in Art »(アートにおけるスポーツ展, http://en.mocak.pl/sport-in-art)で、こちらでは、アーティストたちが人々の日々の生活に関わる問題をどのように扱うかが焦点となっている。スポーツは動物である我々の運動能力と攻撃性を実際的な争いや被害を作り出さずに発散することが出来る点で、セラプティックな役割を持っている。アーティストが様々なメディアや切り口から取り組むスポーツのあり方は多様で興味深い。

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そして、第三弾としての »Economics in Art »は、エコノミクスとアートの関係性に切り込む。今日、アートマーケットやアートフェアーが以前より存在感を増し、芸術作品の価値について語ることは珍しくもないトピックスになってきているのだが、それでもなお、エコノミクスとアートを並べることはそれほど自明はない。一方は数値に基づく実践的な学問であり、もう一方は自由なイマジネーションの領域である。しかし、その二つの異なるドメインの出会いは、インスピレーションの契機を与えるだろうし、思ってもみなかった表現を創り出すだろう。さらには、今日の世界的な経済危機に際して、アーティストたちが提起する視点は注目に値するかもしれない。

ポーランドおよび世界各国の37人のアーティストにより構成されるこの展覧会は、以下の4つの観点で区切られている。

  • <価値>:どのように価値は創られるか。価値を象徴するものは何か。それはどのように操作されるか。
  • <マーケットアクティビティとメカニズムの倫理>:どの程度の経済的成功が倫理的に正当とみなされるか。富めるものは罪悪感を感じるべきなのか。
  • <エコノミクスの人道的側面>:経済的な事情と社会問題の結びつきはどのくらい強いのか。
  • <市場のパワーに依存するアート>:アートワークの価値はなにによって決まるか。どうやって市場のゲームがまわるのか。なぜアーティストの仕事に価値を与えなければならないか。作品の持ち主とは何か。

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さて、Liena Bondareのブラックボードの作品 »Art=Capital(Kunst = Kapital) »(2010)を見てみよう。この作品に置いて、アーティストは、「アートは日々のありふれた出来事以上のなにかである」と述べたヨーゼフ•ボイスの言葉を皮肉的解釈を示している。「アート=財」と書かれた等式は、黒板に子どもがチョークでいたずら書きをしたように綴られ、人々はこのブラックボードに芸術作品としての価値を見いだすことは難しい。経済的な観点からアートを取り巻く現象を考えてみたならば、その価値はその作品を形作る「物」にはないことが明らかなのである。このボードはチョークで自由に絵を描くことができ、なるほど物質としての作品は今日と明日で全く異なり、少女たちのいたずら書きがなされる前となされた後で異なるのである。

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Banksyのイギリスのポンド紙幣を用いた作品を見てみよう。この偽10ポンド札は2、3千枚印刷された。見ての通り、クイーン•エリザベスⅡがプリンセス•ダイアナによって置き換えられ、背面のチャールズ•ダーウィンの右下には »Trust no one »のメッセージが。英国銀行がBanksy銀行(アーティストの名)になっている。

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ルーマニア出身のDan Perjovschiの大きなドローイングの作品は、これもまた黒板風のチョークで書かれた作品で、壁一面にアートと金に関わるイラストが詰め込まれている。落書きの一つ一つはたしかに眺めていてもしばらく飽きることなく楽しめるのだが、アーティスト本人のインタビューにおける発言はもっとラディカルである。(Exhibition Opening Video, click here)つまり、これらは落書きだというのである。チョークで書いたり指で消して書き直したり、それ自体はシンプルな線や文字で描かれたこの黒板は、いったい誰がアートワークだと同定したのだろうか?あるいはその価値はいったいどこにあるのだろうか?52歳の美術家がチョークで描いたいたずら書きのようなイラストの集積をなぜ大きな美術館が受け入れ、展覧会で提示するのか?それらはまさにDan Perjovschi自身の問題意識である。

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プロスティテュションの広告。 »Why rent when you can buy »とはセンセーショナルなタイトルである。いや、本来経済活動において、とりわけ「シェア」とか「リサイクル」、「エコ」が流行っている今日のことなので、買えるけど借りて済ませるのは悪いことであるはずがない。ただし、売春や女性を買う/借りるという文脈ではその規範は成り立たない。無邪気に使われる、「買うより借りる」などというありふれたスローガンもオールマイティーではない。

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Laura KalauzとMartin Schickによるパフォーマンス作品 »Common Sense Project »である。Common Sense Projectは、観衆が参加する形でなりたつ、ソーシャル•パフォーマンスである。タイトルに臭わされている「コモン•センス」は実に馬鹿馬鹿しい経済活動のゲームを通じて実感されることになる。要するに、悪知恵を使いながら、感謝の気持ちを演じたり、でっちあげの信用を築きあげながら、契約に基づくのでないナマの社会関係を結んでいくゲームなのである。もっと経済がリベラルになれば、社会における人々の関係がもっと開かれるはずだというメッセージを表している。

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Charlotte Beaudry、無題。あたかもそこには纏うボディがあるかのように描かれた二枚の男性用アンダーウェア。

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Malgorzata Markiewiczの »Flowers »(2004-2007)は、遠目に見ると鮮やかな色彩や模様の布で作られた花のように見える。そして、その期待はかなり接近するまで裏切られることはない。しかし、その布の一つ一つの形状が認められるまで近づいたとき、それらが女性下着やスカート、スカーフ等で形作られていることを発見する。この作品は、見た目の美しさとその洗練された印象、よく選ばれて完璧に造形された布の彫刻である一方で、そこで行われたストリップティーズのパフォーマンスを見るものに思い起こさせるのである。

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美しいコスチュームに包まれた二つの身体がある。死の恐怖は身体を過剰に飾り立てることによって紛らわされているかのように思える。しかし、どれほどに努力しても、死はそこに有り、そのラグジュアリーなコスチュームすらも身体の生きていない状態を強調するのみである。

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さて、エコノミクス展によりコミットする作品に戻ろう。絞首自殺のためのロープである。ロープはドル札によって作られている。お金に殺されると考えることも出来るし、お金があっても人は死ぬと考えることも出来るし、アーティストによれば、「クレジット」は金を表すと同時に信用のことであるのだが、この「クレジット」が現在の経済危機のルーツである。

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アーティストゴリラの上に、キュレーター猿が乗り、その上に批評家小猿が乗っかっているというペインティング。ほんとかいな。あるいは、それがエコノミクスの点で、アートワークの価値言説を作っているのが批評家であるという意味にも理解することが出来るし、同時に、身体能力的に優れており強い力を持っているのは疑いもなくゴリラである点で、このヒエラルキーは様々に読むことができる。

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かの「働けば自由になる(ARBEIT MACHI FREI)」にネオンをつけた「アートで自由になる(KUNST MACHI FREI)」。アートそのものは自由なイマジネーションに開かれているものであることを文字通り表しながらも、「働けば自由になるARBEIT MACHI FREI」がまったくの虚言であったように、経済的基盤のないアートに自由はないことを、ネオンによるドリーミーな演出を加えてさらに辛辣に訴える作品である。

08/9/13

アウシュヴィッツ−ビルケナウを訪れること / Musée national Auschwitz-Birkenau

アウシュヴィッツ−ビルケナウを訪れること / Musée national Auschwitz-Birkenau

車窓より

車窓より

2013年7月27日、暑い日だった。クラコウでの学会が終わり申し込んでいた見学ツアーのバスに乗る。ホテルを通じて申し込んだ見学は現地で使用言語別の小グループに分散して、私はフランス語で説明を受けられるグループに混ざった。そのグループに説明を与えたフランス語バイリンガルのポーランド人の女性は、家系的にアウシュヴィッツ近郊に代々住む祖父母を持ち、この地で行われたことについて自ら研究してきたことを我々に述べ、私は彼女が語る言葉に何の努力もせずに耳を傾け続けた。それらの言葉は、勿論データとしての数字や客観的事実であったり、この地に来る以前に私が書物によって学んだ事でありもするが、彼女の印象や見解を述べる事もあった。それらには臭いも色もなく、不思議にも、情報であったのだ。

私は1984年生れで、末っ子である父は1949年生れ、親も戦後生の世代である。戦争に行った父方の祖父は私が学校に上がるか上がらない頃に死んだので、私にとっては父が私に話した祖父の話というのが自分におおよそ近い戦争体験のストーリーである。北海道における戦争体験は立て続けの空襲や深刻な本土被害があった本州の戦況とはたしかに別の次元であるのかもしれない。父はとことん、祖父の話したがらない様子について言葉を濁しながら語るのみであるが、その中でも無謀なシベリア出兵や戦後何年も続いたシベリア抑留中に受けた精神的苦痛の記憶は何度も耳にしており、生涯苦しんでいた様子は深く印象に残っている。

戦争とは、非常事態である。それまでアイデンティファイされていた人間がたちまち骨と肉からなる物体として匿名化される。全ては狂ったような信じがたいような事と突き放すことは、万人にとっておそらく可能な手段だが、そのことが紛れもなく繰り返されてきた歴史であり、進行中の現在である。違いを認識し、異物を恐れる営為それ自体は生命の保存のための本能的な防衛である。だが、そのことと、認識した自己と異なる個体を排除するために暴力に訴える事、それが如何なる種類の暴力であれ、その命を奪う事とは絶対的に無関係なのである。そのために毒ガスを用いる事も、核兵器を用いる事も、いかなる説明によっても説明されうる可能性はない。そのような言論は、始めから妄語である。

アウシュヴィッツ-ビルケナウを訪れることとそれについて書く事は、その非常事態の中でどのようなことが起こったかを知るためではなく、その非常事態全体を回避しなければならない必然性を理解するためであり、そうでないならば直ちに消してしまったほうがよっぽどマシであると私自身は考えている。

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働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)

働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)

「働けば自由になる(ARBEIT MACHT FREI)」と書かれた入り口の門。ユダヤ人は、「東の地に移住し、そこで働く」ことを信じて彼らの家を後にした。働いても、自由にはならない。働くために集められたのではない。

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オーケストラのコンサートが行われていた場所。収容されたユダヤ人にはプロの演奏家も含まれていた。彼らは飢えや病気で死んでゆく他のユダヤ人が運ばれて行くのを見ながら、美しいクラシック音楽を演奏した。それは一体誰のために。

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広域なヨーロッパの国々から人々が強制収容された。28カ国に及ぶ国々、ハンガリー、ポーランド、そしてフランスではDrancyというパリの北郊外の街が強制収容のトランジットの拠点となっていた。41年から始まった強制収容は実際には43年と戦況が絶望的に悪化していた44年にその収容の大部分が実行された。

IDに関わる資料

IDに関わる資料

収容された人々のID書類は敗戦時ほぼ廃棄されたが一部が発見されている。収容された人々の個人情報が完全に把握されていた。しかし「選別」を境に、それまでのアイデンティティを無に帰され、番号を身体の一部に黒インクで刻印されて、管理された。

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アウシュヴィッツまでの移動は狭い貨物列車の車両の中に荷物と共に限界まで詰め込まれ、座る事もできないまま一週間や十日にも及ぶ事がしばしばで、衛生的でなく肉体的負担の過剰な移動の途中で多くの年配者や子どもが亡くなった。

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生きて辿り着くと「選別」がある。女と子ども、老人や身体能力が重労働に耐えられぬものはガス室に送られた。青年であっても、傷ついた軍人や障害のあるものはガス室に送られた。たった一つだけ手にしてくる事が許された個人の大切なトランクは、下車と共に手放す事を余儀なくされ、それらは彼らが去った後、宝石は盗まれ、再利用可能な金属は戦争続行のために役立てられ、衣類や高価なものも奪われた。

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上は近年になって見つかった貴重な写真資料であり、ガス室で殺戮された人々の死体が撮影されている。チクロンBを大量に使用しての殺戮が実際に行われたことを証明する重要な資料である。

補助器具、義足、松葉杖など

補助器具、義足、松葉杖など

補助器具や義足、松葉杖が大量に残されている。これらを携えて貨物列車に詰め込まれた人々はすなわち、「選別」の際に働く事ができないと判断された人々である。

人形、おもちゃなど

人形、おもちゃなど

子どもは到着と同時に母親から引き離された。43年以前、14歳未満の子どもはガス室に送られた。収容所で生まれた子どもはビルケナウの16号棟で生活した。飢餓や病気で成長を妨げられていた。

生存者の写真

生存者の写真

7人の生存者の写真。赤子に見える子どもは2歳、小学生のような小柄な少年は14歳、殺されなかった女性は30キロを下回る危機的状況で発見された。

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アウシュヴィッツ第一収容所はその収容キャパシティーを上回るようになり、一階建てのバラックは建て増しされた。煉瓦の色の違いが明らかに見られる。(下)

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銃殺刑の壁と拷問器具のある空間。壁は後に人々がこれを忘れないために作り直されたものである。花を供える人々がいる。

銃殺に使われた壁(再現)

銃殺に使われた壁(再現)

ここに毎日10人の犠牲者が見せしめのために殺され、吊るされた。

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敗戦時証拠隠滅のため壊されたが当時の様子を再現されたガス室と火葬器具。

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ビルケナウの広大な敷地には今日緑が茂り、日光が注ぐ。バラックの中にあった機能していたのか定かではない暖炉と煙突の部分だけが残されている。

ビルケナウ、煙突が所々残る

ビルケナウ、煙突が所々残る

ここで人々は肉親と分たれ、たった一つの持ち物であったトランクを奪われ、「選別」され、殺された。

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列車は人々を乗せてここに停車し、人々を下ろし、また出発し、そしてまた別の人々を乗せてここに戻ってきて、また下し、そして出発した。

80人〜100人を運んだとされる車両

80人〜100人を運んだとされる車両

一つの車両には80人から100人もの人々が荷物と共に詰め込まれていたと言われる。

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各バラックには中央に暖房設備と両側に三段ベッドがある。三段ベッドは、個人用ではない。わざわざ三段ベッドを作った理由は、かぎられた面積に最も多くの人間を効率よく並べるためである。

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穴が空いただけのトイレ。人々は一日2回決められた時間に強制的に使用させられた。清掃はなされず、極めて非衛生的で病気が蔓延した。ここにあるのは当時使用されていたもので、今設置されたばかりであるかのように、きれいに掃除されている。

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この場所がこんなに無臭で、真夏でも風が流れてゆき、地面には雑草がびっしりと茂っていることなどは、最も拭いがたい一つの印象である。

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08/9/13

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise
June – September 2013

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)のことを書くのは緊張感がある。それは、他のアーティストや他の展覧会、あるいは社会問題や現象についてのエッセイを書くことと比較して「相対的」に緊張するのではなく、艾未未について書く行為そのものが「絶対的」にしんどいのである。それでも書こうと私が感じているのは、彼がこの第55回ヴェネチア•ビエンナーレで鑑賞者に提示した3つのストーリーを全て目の当たりにしたからであり、私にとってはこうすること以外に選択肢がないからである。

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)は1957年北京生まれの現代美術家、キュレーター、建築家でもある。世界各地で積極的に展覧会を行い、国際展に参加するほか、よく知られているように、多くの中国人に協力を仰ぎながら社会運動を繰り広げている。1980年代前衛芸術グループの活動に関わったが、政府圧力を受けて、ニューヨークに渡り、そこでコンセプチュアルアートの手法を学ぶことになった。艾未未は実に1981年から93年の12年間の間ニューヨークに滞在している。中国帰国後現在まで続くアトリエ•スタジオ「Real/Fake」を構える北京郊外の草場地芸術区(Caochangdi)を築いた。

艾未未の参加国際展は数多い。そしていつもセンセーショナルな評判を世界に轟かせた。とりわけ、2007年のドイツカッセルにおけるドクメンタ12では、 »Housing space for the visitors from China »という企画で会期中1001人の中国人をカッセルに招待し、会場に滞在させるというプロジェクトを行い、カッセルの街が中国人で溢れる事態を引き起こし、人々を驚かせた。あるいは同国際展の屋外展示であった »Template »という明時代の扉から成る建築が悪天候のため崩壊したのだが、自然現象の結果としてそのまま展示したことにより、人々は艾未未のコンセプトのスケールを理解した。

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2013年、現在会期中の第55回ヴェネチア•ビエンナーレでは、フランスパビリオンで行われているドイツ展(Susanne Gaensheimerのキュレーション)に招待され、 »Bang »というインスタレーション作品を出展している。文革後の何ものも顧みない超高速の近代化は、それまでの文化や歴史が一つ一つその足場を踏みしめるようにして築き上げてきたものを一瞬にしてゴミにした。インスタレーションは886台の三脚の木椅子からなっている。1966年に始まった文化革命は、この三脚の木椅子に代表される、どこの家庭にもあり、伝統的な物作りのマニュファクチュアー技術の賜物である家具や道具や物を、一夜にして時代遅れのみっともない代物におとしめた。家具はアルミやプラスチック製がオシャレで文化的な物だと画一的に信じさせられ、何世紀も渡り親から子へと引き継がれてきた年期の入った木椅子は「遅れの象徴」として追放された。艾未未は、このインスタレーションで、古い木椅子を再利用したのではない。今日では貴重となった木椅子の制作技術をもつ作り手に依頼して、この典型的オブジェをインスタレーションのために作ってもらったのだ。椅子は、大木の木の根が地中を繁茂するように広がって配置されており、それは目を見張る速さで広がったポストモダン世界の網の目と、その過剰な網の目の中に絡みとられて自由を失った「個人」の今日におけるあり方を象徴しているようでもある。

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「艾未未 (アイ•ウェイウェイ)はどこ?」という言葉が、ポスターやメッセージボード、インターネット上の記述が世界中を右往左往した2011年の4月から6月のことを記憶に留めている人も多いだろう。2010年11月より北京の自宅に軟禁されていた艾未未は、翌年4月3日、香港行きの飛行機に乗る手続き中に行方が分からなくなった。国際人権救護機構(Amnesty International)や、ドイツやイギリス、フランス外務省、さらにはアメリカの国務省もただちに艾未未を釈放することを求めたが、この拘留は81日にも及んだ。4月7日の中国外務省からの情報によると艾未未はスタジオ脱税容疑による経済犯であるとされたが、この原因が2008年5月に起こった四川大地震の被害の実態を明らかにし、犠牲の原因を明らかにする社会的活動を艾未未が主導していたことであるのは明らかであった。

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ヴェネチア•ビエンナーレでは、ビエンナーレメイン会場とは離れて二つの »Disposition »展が開催された。その一つがメディアでも話題になったが、81日の拘留生活の実態を再現した模型を教会で展示したS.A.C.R.E.Dである(2011−2013) 。彼が体験した81日間の監獄での「日常生活」の一部始終が6つのシーンとして再現されている。鑑賞者は、規則的に置かれた6つの大きな部屋を小さな窓穴から覗くか、あるいは上についているガラス窓越しに覗き見ることによって、艾未未の体験を知ることが出来る仕組みになっている。何もない部屋。薄汚いベッドや洗面所。食事、睡眠、排泄すべてにおける厳重な監視。

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もう一つの »Disposition »展の会場に行くためには船で本島の向こう岸に渡らなければならない。あるいはもちろんアカデミア橋を渡って迷いながらとぼとぼと歩くことも出来るだろう。とにかく、孤立した展示でなければならなかったのだ。その展示は、Chiesa di S.Antoninにある。150トンの鉄骨が真っすぐに整然と並べられて部屋一杯に敷き詰められている。長さもそろえられて、それは海の波にもオシロスコープで見る幾何学的な波にも見える。これは彼の2008年12月より様々な圧力にも屈せずに取り組み続けてきた艾未未とその協力者の一つの集大成とも言える。彼らの目的は、多くの子どもたちが人為的原因によってその命を落とすことになってしまった犠牲の全貌を明らかにし、その犠牲者名簿を明らかにして、被災者のために祈念することだ。命を落とした子どもたちはもはや彼の活動に関わらず戻ってこない。しかし、残された人々はもう一度このことが起こらないように、起こったことの原因を知り、そのことがこれからは起こらないよう世界を変えることが出来る。あるいは、そうすること以外に、死んだ人々に祈りを捧げる方法はない。

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当スペースで放映されるドキュメンタリービデオは、艾未未と彼らの協力者たちがどのようにしてこの150トンもの鉄骨を四川大地震に関わるモニュメントとして提示したかのプロセスとコンセプトを明らかにする。まず知らなければならないのは、このプロジェクトのせいで艾未未は脳内出血で手術を受けるまでの暴力行為を受けているし、上述したように81日の拘留に遭っている。アートは困難を越えて続ける必要のある行為であり、艾未未という個人を越えてその協力者と鑑賞者とそれに触れる者に影響を与えるべきものである。150トンのグニャグニャに曲がって折れた鉄骨は彼を支持する中国人たちの手作業によって、真っすぐに戻された。このめちゃめちゃに組み立てられて建物を支えるに至らなかった鉄骨こそが、子どもたちの命を奪った直接的原因であり、その苦しみの象徴である。鉄骨をいっぽんいっぽん真っすぐにする作業は何年もかかる。その間、どれほどにこの粗悪な鉄骨が地震で姿を変えたのか、その記憶を残すために曲がった状態でのレプリカも150トン全てについて制作された。

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4年に及ぶ年月は、原型を留めないほど曲がっていた全ての鉄骨をぴんと真っすぐにした。人間の一所懸命の作業は4年間を要したが、これを捻り曲げた震災の衝撃は一瞬のことであったのだ。

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鉄骨はその暴力性をもう我々の目の前に提示しない。4年間の艾未未とその仲間たちの仕事は、見る我々をただただ茫然とさせる。たしかに、生きることは繰り返すことで、人類の歴史は作って壊すことであった。しかし、それは、壊して、直すことでもあったのだ。

08/9/13

マーク•クイン展 / Marc Quinn @Giorgio Cini Foundation, Venice

Marc Quinn @Giorgio Cini Foundation, Venice

Solo Exhibition
29 May 2013 – 29 September 2013
@Fondazione Giorgio Cini, Venezia
Site of Cini Foundation click

The Giorgio Cini Foundation, Venice

The Giorgio Cini Foundation, Venice

55th la Biennale di Veneziaとほぼ会期をあわせて、Saint Marco広場のちょうど向かいのSan Giorgio Maggiore島のFondazione Giorgio Ciniでは、 »Marc Quinn »展が開催されている。キュレーションは、1988よりNYのグッゲンハイム美術館のキュレーターを務めGermano Celantによるものである。(Germano Celantは1967年、当時のイタリア前衛アートムーブメントを »Arte Povera »と命名したことで知られる。)Marc Quinnは1964年生れ(ロンドン)のアーティストであり、1988年の自主企画展覧会 »Freeze »を行ったことからその精力的な活動が世界に知られることとなる若手コンセプチュアルアーティストYoung British Artists(YBAs)の一人として数えられている。ケンブリッジのロビンソンカレッジで美術史を学び、これまでSolo Exhibitionでは、ロンドンのテイト•モダン(1995)、ミラノのプラダ財団(2000) テイト•リヴァプール(2002)、また国際展では、第50回ヴェネチア•ビエンナーレおよび2002年の光州ビエンナーレにも参加している。

Alison Lapper Pregnant, Breath(2013)

Alison Lapper Pregnant, Breath(2013)

夏のヴェニスの光は強い。空も海も底抜けに青く、褐色の煉瓦はカクテルのような色に輝く。あらゆる白っぽいものが真っすぐ目を当てられないほどに眩しい。そんな風景の中に、巨大な短髪の女の彫像がSan Giorgio Maggiore島の教会を守るかのようにして在る。あまりにも強いコントラストと強烈な色彩の中で、非常に意外なことなのだが、Alison Lapperが放つ薄紫色の表面は、世界にある全ての白いものより一層透き通り、我々の視線を捉えるのであった。11メートルもある両腕を持たず、極端に短い足を我々に投げ出して上体をすこし捻るようにして一点を見つめているその女性は、Alison Lapper、Marc Quinnと同世代の1940年生れのイギリス人アーティストである。彼女はPhocomediaつまりアザラシ肢症と呼ばれる身体的特性を持ってこの世に生まれてきた。彼女の両親も親戚もこれを奇形として遠ざけ、否定し、目をそらした。17歳の時、両親が人工四肢(義手、義足)を彼女に「表面的に普通の身体的外見を得るため」だけのために与えようとしたとき、彼女は家を出て独立することを決めた。運転免許を取得し、筆を口でくわえる方法でペインティングを学び、良い成績で美術学校を卒業した。33歳の時妊娠し、現在はもう中学生になっている息子と共に絵を描いている。

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Marc Quinnは、2005年、彼女の妊娠をテーマに »Alison Lapper Pregnant »(妊娠8ヶ月当時の彫像)をカララ大理石で制作し、2007年までロンドンのTrafalgar Squreに置かれた。さらにこの彫像は2012年ロンドン•パラリンピックにおいて、 »Disability »のイコンとして、彼女のメンタリティやポジティブシンキングを新しい一つの女性像と受け入れる多くの人々によって愛された。彼女は述べる。「子どもの時からあなたは一人で生きられないと言われた。すぐに障害者のための施設に入れられてまわりから可哀想な目で見られた。絶対に母親にもなれないと言われた。(略)私はどうやったら親が子どもを否定することができるのか分からない。私は自分の子どもをこんなにも愛しているから。」
San Giorgio Maggiore島のAlison Lapper像は、オリジナルのレプリカで »Breath »と呼ばれるヴァージョン作品で日の出と共に現れ日の入りと共に闇の中に消える。セキュリティー管理の事情から、膨らませるタイプの作品にしてあるそうだ。(参考ビデオがこちらに!click

"Self"

« Self »

Marc Quinnの表現のテーマはしばしば、Alison Lapperの像に見られるように人間の身体に関わるものや、生命の存続と死、生命の存続のシステムと我々の肉体との関係、もっと広くはアートとサイエンスの関係にまで及ぶ。著名な作品では、自身の血液を凍結させ一定温度環境の中で保存されている、 »Self »という血液による自己像の作品が有る。 »Self »はヴェネチアで今回展示されたもののほかにもいくつかバージョンが有り、かなり色鮮やかな赤を持つものもある。4.5リットルの血液を5年ほどかけて採血した。私の血液からなる私の頭部彫像が複数存在するという事態は興味深い。それはそのコンポジッションが実際にも血液から成るという客観的事実が有るからであろう。

Flesh Painting(2012)

Flesh Painting(2012)

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そして、2枚の大きな »Flesh Painting »(2012)は、遠くから見ると鮮やかな真っ赤な肉の写真にしか見えないのだが、近づくと、その赤い色がグラデーションされている様子や、脂肪や筋の部分にペインティングのタッチが見えることによって、それが絵画であることを認めざるを得ない。生肉は、我々のボディの一部分であり、血や皮膚と同じである。生肉にも美しさがある。それは、動物である我々が動物的本能で否応無しに知る直観であるところのもので、つまり、われわれは、くすんで脂肪部分が黄ばんだ生肉よりも、鮮やかな朱色とはっきりとした白い筋を見せる生肉を体内に取り込むことに魅力を感じ、それを喰らう。描かれたFleshはうっとりするほどに、美しい。 »The Way of All Flesh »(2013)は、モデルであるLara Stone(妊娠した女性)が生肉を背景に横たわっている絵である。その名前の通り、全ての生命の起源と運命を暗喩的に表している。

The Way of All Flesh (2013)

The Way of All Flesh (2013)

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10人の彫刻。タイトルがモデルの名前である。10人はそれぞれ、冒頭に言及したAlison Lapperの身体を彷彿とさせるように、身体の一部を欠いたり、大きすぎる乳房を持っていたり、男性的身体的特徴を有しながら妊娠している。

Thomas Beatie (2009)

Thomas Beatie (2009)

屋外のかつての船倉のスペースを利用して、 »Evolution »の展示がある。 »Evolution Series »(2005−2007)はさて、9体のピンクマーブルの彫刻および一つの巨大な岩石で構成される。9体の彫刻は、純粋なマテリアルとしての岩石の真向かいに置かれた人間の胎児と、8体の奇体な生き物。それら8体の生き物は時にはいつかバイオロジーのテクストで見た受精卵が数回分裂した後の胚や、は虫類の発生途中、種は分からないが何らかの動物の赤子のようにみえる。 »Evolution »は実は、われわれが世界に生まれるまでの初期胚から一ヶ月ごとの成長を10体の彫刻で表した作品である。つるっとした表面に一筋のくびれだけをもつ胚も、エイリアンのように見える胚も、かつての我々一人一人の姿だ。Alison Lapperもわたしたちも、一つの岩石が象徴する起源としての「母」から生れ、それは非常にシンプルな胚であった。

Evolution Series (2008)

Evolution Series (2008)

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« Evolution »というタイトルは明らかに今日では誰もが信じている「進化論」を連想させ、それは天地創造の世界観と共存しない。妊娠する女神像 »Alison Lapper Pregnant »は我々にとってリアルなものだが、San GIorgio Maggioreの教会周辺の保守的な人々の間には、この像の設置を批難する声もあるそうだ。Marc Quinnは言う。「歴史的に、障害者のDisability(不能性)は常にネガティブに表象されてきた。そうでないポジティブな表現をすることには意味が有ると信じる。」

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光の中にひときわ輝くAlison Lapper像は綺麗だ。人々は目を奪われる。ひとたび釘付けになった彼らの視線をみればわかる。それが哀れなものをなでるように見つめるような、あるいは恐れるような眼差しではなく、一つの命をそのおちついた腹部に伴って豊かで強い体躯のぬくもりを確かめるようにじっと見つめる眼差しであるということを。

われわれがそれを伴って生きる「身体」は、リアルにも潜在的にも、健かなのである。