09/4/19

ホメオパシー(同種治療)について 3

ホメオパシー(同種治療)について 3 
(2019年9月5日)
ホメオパシー(homéopathie)の基本的な考え方とリメディーの生成について、今更だが言及しておきたい。これらの内容についてはより専門的で網羅的な情報を手にいれる手段があり、これから書くことは一応、私のような非専門家が端折ってまとめているに過ぎないとご理解いただいた上でお読みいただければと思う。

ホメオパシーは、同種治療つまり、病や症状を引き起こす原因となるもの(と似たもの)を微量摂取することによって、これを治療することができるとする考え方である。スルーしてはいけない。「え?待て待て、それってどういうこと?」とすかさずつっこむべきだ。病や症状を引き起こす原因を摂取することでなぜ病が良くなるの?と。ここにホメオパシー最大の仮説あるいは魅力的思想が横たわっていると思われる。それは、「身体は知っている」原則なのである。それは直ちに、ジャック・バンヴェニスト(Jacques Banveniste)が1988年にNatureに発表した論文のテーズ 「水の記憶」(« Mémoire de l’eau »)が言ってのけた、「水は憶えている」を思い起こさせる。バンヴェニストの「水の記憶」についても、のちの考察の過程で言及するつもりだが、この論文が発表された時、フランスの、いや世界のホメオパット(ホメオパシー専門家)たちは大変喜んでこれを支持したのはもっともなことだ。今回の話題に戻るが、ホメオパシーの最大のポイントは、私たちの身体が生まれながらに持っている自然治癒力たるものへの全面的な信頼(と信仰)なのである。
つまりこういうことだ。病や症状を引き起こす原因を摂取することでなぜ病が良くなる。なぜならば、身体はもともと病や不調が起こった時にそれを治癒する力を持ち合わせていて、しかし身体の不調においてはそれが忘れられているに過ぎない。それを思い起こさせてやるためには<適切な>刺激を与えることこそが必要であり、その刺激というのが、身体の不調の原因となった<毒>を超微量摂取することなのである。

次の図は、doctissimoというフランスの医療関係のウェブサイトにあるホメオパシーの原理を説明する記事から借用した。図は、絵を見ての通り、
<健康な人> + <希釈されていないホメオパシーのリメディー> = <不調がある人>
<不調がある人> + <適切に希釈され準備されたリメディー> = <健康な人>
という単純明快な方程式を表している。


また、以下の図も同様の記事から借用したものだが、ホメオパシーのリメディーに記されている「(数字)CH」「DH(数字)」という記号が、どのような希釈濃度を表していることを説明している。これはホメオパシーの創始者であるハーネマンの名にちなんでおり(ハーネマン式100分希釈、la dilution Centésimale Hahnemannienneあるいはハーネマン式10分希釈、la dilution Décimale Hahnemannienne)、1CH数字が上がるとそれは1/100に希釈される。リメディーにもよるが、処方されるリメディーでよく見るのは、7CHとか9CHとかが多く、5CHというのもあったが、それでも原液の100の5乗分の一の濃さなのでかなり希釈されていると言える。

ホメオパシーのリメディーの原材料は、植物、動物、ミネラル由来の三種類があり、そのうち60パーセントは植物由来のため、なんとなく身体に優しく自然なイメージがつきまとう。調べていくと、虫を丸まんますり潰したものとか、カエルとかイカスミとか、ウソ〜、希釈されててもなんだか摂取が憚られるよ?といった原料にも出会う。リメディーの原料と効果リストもかなり興味深いのでこの話題はまたのちにとっておきたい。今日のところは、ホメオパシーのリメディーがどのように作られているかごく簡単にまとめた。以下の図は同様のdoctissimoよりホメオパシー原料を説明する記事より引用した。お分かりのように、延々と希釈されたのちにそれはショ糖や乳糖と合わされて、あの色とりどりのプラスチックケースに入っている甘い小さなつぶつぶになるのだ。砂糖玉は舌下において溶けるまでゆっくり待つことによって摂取される。

さあ、この原材料から遠く遠く希釈されていく様子をご覧ください!原材料はすり潰したり濾されたりしたのち、アルコールに混ぜられる。三週間ほどアルコール漬けにされる。そして、濾されて、濾されて、ここでやっと上の希釈方法の図に出てきた原液が完成する。説明が前後してしまったが、材料となった物質が、リメディーには一分子も含まれていないのはどうやら本当で、この長い希釈の過程を経て、患者が摂取するリメディーが作られているのだ。

子供の時の薬が甘いシロップが多いからだろうか、この甘ったるい砂糖玉を舐めていると、嫌が応にも精神がリラックスして、この「優しい医療」(médecine douce)の毒?にあてられる気がする。この薬には恐るべきあるいは苦しむべき副作用もなく、苦くて嫌な味もなく、なんと私の身体に優しいことか!

09/2/19

ホメオパシー(同種治療)について 1

ホメオパシー(同種治療)について 1
2019年9月2日

ホメオパシー(homéopathie)は、同種療法、つまり、ある病や症状を起こしうる物質によってそれを治療することができるという考えに基づく治療法である。病や症状を起こしうる物質とは時に毒や身体に害のある物質のことであり、それを薬として利用することで心身の不調を治そうとする考え方だ。身体にとって毒となるような刺激によって病を防ぐという原理だけ聞くと、今日科学に基づく西洋医学に慣れている私たちは、「ワクチン」のことを思い出すかもしれない。しかしワクチンとホメオパシーのリメディ(ホメオパシーに使われる薬のこと)は決定的に異なる。ワクチンはご存知のように感染症の予防のために接種され、それは対象となる病の病原体から作られる抗原(弱毒化あるいは無毒化されている)を含んでおり、結果、身体は病原体に対する抗体を産生して感染症に対する免疫を獲得するというものだ。ここで、ワクチンの効果は医学的に証明されている。一方、ホメオパシーの効果は、現代の医学的見地から、プラセボ(偽薬、placebo)以上の効果はないとされ、それ自体に害はないがリメディーはただの砂糖玉に過ぎないとされている。

ホメオパシーは、用語としては18世紀末にドイツ人医師のサミュエル・ハーネマン(Samue Hhnemann, 1755-1845)によって用いられ、ヨーロッパにおいて各国で研究がなされた。ナチス・ドイツ時代にアドルフ・ヒトラーがホメオパシーを厚遇したことはよく知られているが、ユダヤ人強制収容所で行われた人体実験においてホメオパシーの偽薬以上の効果が検証されることはなかった。ドイツ以外の各国でも、今日までホメオパシーのリメディーによる治療が医学的見地から効果を認められたことはない。

にもかかわらず、戦後も、どころか今日においても、ホメオパシーは「代替医療」として普及し実用化されている。ヨーロッパの国々の中でもフランスはホメオパシー実践が今日もなお盛んな国の一つである。ホメオパシーのリメディーの処方は、30パーセントまで保険が適応される<オフィシャルな治療>と現行の医療ではみなされている。(ただし、昨年の医療関係者124名による署名運動を含め、医学的に効果が証明されていない療法に保険適応をすることや処方を認め続けることについて議論は尽きない)

ホメオパシーは、現代主流の医学的見地から偽薬以上の効果がないことは明らかであるのに、医学先進国であるフランスにおいて今尚実践されていることはとても奇妙な事象だと思うし、そもそも効果がないということが一般に理解されているのかどうかも微妙なところであり、その現状も非常に謎めいている。なんとなくだが、ただの砂糖玉だと気がついてはいる一方で、砂糖玉にすらすがりたいと思わせるような魅力がホメオパシーにはあるのではないか、あるいはホメオパシーという不明瞭な代替医療が確からしく科学的な現代医学に対して一般の人々が抱く不満のようなものを受け止める役割をしているのではないか、と感じられてならない。

これから、どのくらいゆっくり考えていくことができるかわからないが、このなんとなく不穏な問題について、そのありうる答えを探っていきたいと思う。なぜホメオパシーを現代人の我々が頼りにするのか考えることは、私たちが抱えている身体に関する問題、現代医療に対する問題、よりよく生きることに対峙する仕方について思考を深めることを可能にしてくれると直感するからだ。

議論したいことはたくさんあるのだが、ひとまずは私がなぜホメオパシーのことが大変気になっているのか、そのきっかけについて述べたい。
私は2015年より、フランスのナント(Nantes)を基盤に医療と環境の問題を提起する大変興味深いアート活動を続けているアーティスト、ジェレミー・セガール(Jérémy Segard)との協働プロジェクトをいくつか展開してきた。彼とのプロジェクト展開において、やがて、ファルマコン (Pharmakon)という、ある物質や出来事はしばしば毒と薬の両義的役割を持っている、という興味深い概念に出会い、これについて、研究及び展覧会を通じて探求してきた(展覧会ファルマコン )。2017年に京都と大阪で9名のアーティストによるコレクティブな展示を行い、その開幕に合わせて開催したシンポジウムにお越しいただいた埼玉大学の加藤有希子さんは、新印象派のプラグマティズムについて色彩とホメオパシーに焦点を当てた講演をしてくださり、ホメオパシーが19世紀ヨーロッパである種の怪しげな宗教的な信仰を受けて支持されていたという状況や、同種療法が毒を用いて行おうとしたことに関心を抱く。そして、強烈だったのは自分自身のホメオパシー実戦である。私は2018年12月に出産し、半年ほど経った6月頃から度々授乳時の痛みや乳腺炎の手前までいくような乳腺の炎症を経験し、助産師に三回、医者に二回かかった。助産師は私に複数のリメディーを処方し、医者はアルコールと抗生物質を処方した。強い痛みや熱が伴い、崖っぷちの状況で、処方されたリメディーは言われるままに正しく摂取し続けたが、症状が落ち着くにつれて、ホメオパシーについて冷静に色々考え直してみると、砂糖玉によりすがったことが馬鹿らしくも思えてくるが、いやまさか、ちょっとは効いたのではないか、など思いたくもなってくる。多少保険が効くとはいえ、一時期だいぶん調子が悪くなって大量のリメディーを処方され、それを購入して摂取したのだ。偽薬でしたと片付けるには、助産師の処方もたいそう公的に行われているし、なんだか腑に落ちない。そもそも、この代替医療はかなり多くの妊婦・産婦、子供、老人、自然的なイメージの代替医療を好む患者によってしぶとく実践されている。これだけ情報の入手が可能な今日、自分が服用する薬がどんなものかは知らない手段がないわけでもないし、それなのにこれほどまでにホメオパシーが根強いとしたら、無視しづらい。
さて、こう言ったことが私の関心の原点だ。

04/22/18

食生活について考えること1/ pensée sur la manière de vie « alimentaire » 1

最近とても考えていることがあって、最近考え始めたわけではなく遡ればとてもとても長いこと関心を持っているけれどもなかなかどのような形をとるのかが長いことわからなかったという感じです。それは食生活に関することであり、何をどのように摂取して日々暮らしていくかということであり、どのような選択をし、どのように振る舞い、どのような考えを貫くかということに関わります。
あまりに長いこと色々と考えてきた主題なので、一刀両断的なさっくりした物言いで何かを綴ることが今もまだできないのですが、とりあえず、今回はパンを作っていることについて書きます。

パンは私の常食でもあり、ヨーロッパでは日本のお米を頑張って食べようとするよりも美味しい小麦も手に入りやすいように思います。湿度の高い日本より保存に適していて、同様に手に入りやすい他の食材や料理に合うのはもちろんのことです。私は正真正銘のチーズ好きで、パンとチーズがあれば何日も文句を言わず食べ続けることができます、というのも大げさではなく私は14、5年前からほとんど肉を食べない生活をしていて、今でも実家の札幌に行ってあまりに美味しいお魚が食べらられるときとか、どこかに食事に行ってお魚のお店に行ったときとか、招待されてお魚のお料理が振る舞われたときとか、そういうときくらいしか魚の肉も食べません。ただしこれは、世の中の多くのエコ・ベジタリアンの人たちが「動物のため」と語る理由とはなんの関係もなくて、匂いと味が得意じゃないのとうまく消化できないことが多いからです。つまり好みの問題にすぎない。もちろん動物についてあるいは食肉の産業について思っていることはたくさんあって、それはまた別の時に書きます。

パンは古代エジプトの人々が偶然酵母の発酵を発見して以来、サイエンスとしてわからなくてもしゅわしゅわした液種(あるいはすでに粉と混ざった元種)を小麦粉と混ぜて焼いたら膨らんだので、遡ること遥か昔からいろいろなところで作られています。

私がやっているのは自然酵母と呼ばれるつまり野生の酵母を使う作り方で、ドライイーストを使ったりそのほかの膨らし粉的な粉を一切使わないパン作りです。

さらに、パンを作っている目的は色々あるのですが一つに家族の食育というかできるだけ良さそうなものを食べようとする努力があげられます。従って、私たちの満足中枢に訴えかけるありとあらゆる手段を使った美味しいパンはいくらでも作る手段はあるのですが(例えば、塩分の多目のパン、バターやクリームの入ったパン、卵の入ったブリオッシュのようなパン、砂糖の多いふわっとしたパンなどなど)、私はひたすら油脂ゼロで塩分は控えめ、糖分は砂糖を加えるのではなく小麦に任せるようなパンを作りたいと思っています。

私たちは、パン屋の十分にしょっぱくてフワッフワでクラストのパリパリっとしたバゲッドや、甘くてしっとりしたバターの香りのするパンに慣れきっていて、自然酵母の全粒粉の低温長時間発酵のじっくり育ったパンにはひょっとしたら慣れていません。時には味が薄い?と思うことすらあるでしょう。でもその点は妥協したくないと思う。自分が食べたくないものを作りたくないし、食べたくないものを家族や友人に食べさせたくないと思う。かといって、手作りパンというと膨らんでなかったりあるいは無理やり膨らんでいたり、所詮はパン屋のプロのパンより美味しいことはありえないというか、色々具を入れたり(おかずパンとか、揚げパンとか、カレーパンとか)することが多くて生地自体はそんなに追求されていないことが多い。でも先にも書いたけれども、毎日のパンは基本の食事で、それらが糖分塩分油分過多などありえないことですよね。生地自体がすごい美味しくて何も入っていないパンが美味しいというのが良いと思っています。

もう一つは時間のことです。私がパンをある意味で実験的な関心を持って作り始めたのはきっかけは少しまとまった時間を家で見出すことができたからです。色々やってみてうまく行ったり行かなかったり、種類の違う実験を同時に行うにはまとまった時間が必要でした。だからこの機会に感謝しています。ですが、それはそれ。私の食糧に関する実験は同時に芸術的な活動のコンセプトにも繋がっていて、かねてからやりたかったことの一つです。だから実験と経験には時間が必要です。でもそれはそれとして、毎日の食事のパンを作ることとは違う問題です。私は料理を日常的にやっていますが、段取りには気をつけています。特に、同時に多くのことをするように訓練してきたし、パンも同じです。パン作りは、発酵の時間や捏ねの行程などのせいで、すんごい時間がかかってめんどくさいと定評があります。例えば、冷凍食品をチンするより簡単だというつもりはないけど、正直、そんなめんどくさいこともありません。家にいなきゃできないんでしょう、外で働いてたらそんなことできんわ、ということも実はない。発酵は冷蔵庫の中で静かに放っておいたらでき、捏ねの行程もパンによって様々だから、時間のない時のパンを選べば、全く問題にならない。

パン屋でパンを全く買わなくなってしばらく経つのですが、今の所しばらくこのまま続いていくと思っているし、そのことが自分自身の食糧についての考え方にも矛盾のないことが良いことだと思っています。

またこのテーマで記事を書いていこうと思います。

ちなみに、ページ:expérimentation culinaireに写真を少しまとめて載せたのでよかったらご覧ください。

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09/29/17

今日から1週間「自然」に関する写真を公開します

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À la demande d’Hélène Fleckinger, 1er jour du défi nature. J’invite Miki Gadenne Okubo. Si elle le veut bien, Miki postera elle aussi chaque jour pendant une semaine des photos de nature en invitant chaque fois quelqu’un-e à faire de même…
#DéfiNature #CEstReparti #EffetBoomerang #HaHaHa #AQuiLeTour

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ある友人からfacebook上で、一週間一日一ポストずつ「自然」に関する投稿をするプロジェクトに招待された。私は普段から写真をたくさん撮影しているが、その中でも大多数を占めるのは植物の写真だ。「自然」といって「植物」を思うのはなんだかな、と思ったりする。うだうだ考える前に提案を引き受けて毎日一ポスト投稿してみようと決めた。よい機会とも思うので、このブログでも連日の投稿についてまとめ、付すべきことばがあれば加えて行きたい。
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プロジェクト参加一日目(2017/09/29)
さて、このイメージは私が今年の8月に東京に数日滞在した際に撮影したものである。植物と動物と分解者が強めのコントラストの中に共存する一枚の写真は、上述したように自然と言えば植物を選んでしまいそうになる思考から少し説明可能になったと言う点で少しは気持ちがいい。蝉が菌類によって分解されて行く、その時間が早くすぎるのか、どれほどゆっくりなのか、十分な知識がなく分からない。蝉は成虫となってから短くしか生きないことはよく知られているし、長く生きないので食物を摂取しないことも知られている。長い間かかって少しずつ作られた身体はヴォリュームがあり、重たく、分解するべきあるいは食べられるべき幾ばくかの養分を他者に与える。

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プロジェクト参加二日目(2017/09/30)

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プロジェクト参加三日目(2017/10/01)

08/18/17

paysage de tokyo urban – vert, visuel -sonore 2017

 

 

 

 

 

 

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07/14/17

arbres parfaits

quand je ne trouve rien à écrire, décrire et reproduire, c’est un instant que je découvre une figure parfaite.

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01/10/17

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年末2016年12月29日に愛宕山にお邪魔しました。雪がふわふわに積もって、すれ違う人々はスカートと普通の靴で斜め掛けの鞄を持って山を歩く私にしきりに上のほうは寒いからと注意を促し、愛宕山に登るのは三回目でしたが久しぶりでとても嬉しくて、何よりも真っ白な山が嬉しくて。

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神護寺を訪れたのは2016年12月28日、到着の次の日です。神護寺は私は夏と冬に時間をゆっくり過ごすのが好きです。シダ植物やコケ植物、地衣類の素晴らしい様子は、秋の色鮮やかな赤色や黄色よりも私にとって大切です。緑色の多様性のことなど。生命の形の面白い事など。

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01/1/17

ことしもよろしくお願いします meilleure année 2017

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今年もみなさんとみなさんの大切な人に素敵なことと幸せが溢れますように。これからもどうぞよろしくお願いします。
年末より帰国し、大阪でたくさんの方にお世話になり、パートナーと共に活動を紹介するイベントを行なわせていただいたのち、故郷札幌で年を越しました。上の写真は三歳まで住んでいた生家で撮影されたもので、このたびの帰省で初めて目にしました。下の写真は愛宕山の4分の3地点くらいまで登った際にあまりに美しかったので撮影したものです。元旦は人生初めてスノーボードを手稲ハイランドで滑りました。滑っていると言うよりは、人生にこれほど短時間でこんなに激しく転ぶ(転がる、飛ぶ、落ちる、打つ、滑る)経験がこの先にもあろうかいやあるまい。という素晴らしい経験で幕を開けました。もうしばらく滞在したのちまたフランスに戻ります。どうか楽しく幸せなお休みをお過ごしください。

Happy new year to dear my friends. I hope your smiles, happiness and chances for this new year 2017 and hope your and your dears’ healths and peaceful lives.
Returned in my country several days ago, realized small conferences in Osaka with my partner about our activities thanks to kind friends help. We climbed up Mt. Atago and encountered this beautiful landscape covered with snow… For starting new year, I experienced for the first time snowboarding in Mt. Teine. In fact, not exactly snowboarding but rather sliding, falling, rolling on the New Year’s Eve, we arrived in Sapporo. For starting new year, I experienced for the first time snowboarding in Mt. Teine. In fact, not exactly snowboarding but rather sliding, falling, rolling on the ski slopes. I had never fallen so many times in a short time in my life!
Before returning in France, we will stay extra some days here.
This picture above was taken in the house where I was born and lived until 3 years old, that I had never seen before this visit with my parents 🙂
I hope your excellent holidays and peaceful moments!
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08/15/16

『ありあまるごちそう』あるいはLe Marché de la Faim

本テクストは、『有毒女子通信』第12号 特集:「食べないこととか」(2013年刊行)のために執筆・掲載した食と産業についてのエッセイです。庭で赤くなるまで太陽を浴びたトマトがなぜこんなにも美味しいのかと反芻することは、グロテスクな口紅のようなピンク色のトマトの、それらもまた食べられるべくしてそれらを基盤として生計を立てる人々の関係から関係を通って、我々のフォークを突き立てるその皿にスライスされて登場するにいたっているということを了解した上でもなお、それを摂取することへの苦痛を催すきっかけとなる。あるいは、食物がクリーンであることへのオブセッションや、それが肉体に与えうる恩恵や損害を思うとき、ひょっとするともう何ものも摂取することができないのではないかという恐れと、いっそのこと一切の執着を捨てるのが良かろうとする相反する二つのアイディアの板挟みになるかもしれない。

環境においてのみ生きる我々が、それを望むエッセンスのみに収斂することなど叶わず、同時に思うことを放棄することもまた叶わないことを、どこかで直観しているにも関わらず。

『ありあまるごちそう』あるいはLe Marché de la Faim
大久保美紀

We Feed the Worldは、オーストリアの作家・映画監督のエルヴィン・ヴァーゲンホーファー(Erwin Wagenhofer, 1961-)の撮影による長編ドキュメンタリーである。2005年の初上映以来、ドイツ、フランスを始め、ヨーロッパ諸国で反響を呼び、日本でも字幕を伴って 『ありあまるごちそう』 というタイトルで上映された。映画は、食糧生産やその廃棄に携わる人々の日々をありのままに伝え、彼らの率直な言葉と労働の現状を淡々と映す。あるいは、 「世界は120億人を養えるだけの食料を生産しながら、今この瞬間にも飢餓で死ぬ者がいる。この現実は、殺人としか言いようがない」と 当時国連の食糧の権利特別報告官であったJean Zieglerが憤慨し、他方、遺伝子組み換えの種子開発の最先端を行き、世界の食糧大量生産を支えるネスレの元ディレクター、Peter Brabeckがこの世界の行く先を語る。

 この映画を見て震え上がり、明日の食卓をゼロからの見直し決意し、スーパーの安価な魚や鶏を貪るのを断念し、最小限の消費と廃棄を誓って、貧しい国で今も飢える幼子の苦しみに心を痛める、ナイーブで心優しい鑑賞者を前に、「この偽善者め!」と言い放って彼らの気を悪くするつもりはない。しかし、その程度のインパクトに留まるのなら、このフィルムは所詮、これまで幾度となくマスメディアが特集し、ドキュメンタリー化し、国際社会が早急に取り組むべきだと声高に叫ぶその問題を描く無数の試みの水準を逸することなく、今日の世界を変えはしないだろう。我々は、もはや聞き飽きてしまった問題を別の方法で聴く努力をするべきなのだ。そのことより他に、不理解という現状を乗り越える術はない。

 さて、We Feed the Worldはヨーロッパの食糧問題に焦点を当てたドキュメンタリーである。ヴァーゲンホーファーはまず、最重要の食糧であるパンの生産と廃棄に携わる人々の声を聴く。十年以上の間毎晩同じルートを往復し、トラック一杯のパンを廃棄場に運ぶ男は、時折、年配者の厳しい批難に遭う。彼が廃棄するのは、少なくともあと二日は食べられるパンである。年間に捨てられる何千トンのパンで救える飢餓民を想像せよという憤りは勿論理解可能だが、豊かな国で過剰生産されたパンはいずれにせよ廃棄される。そこに在るのは、「 あなたはこのパンを買うか、買わないか」という問いのみだ。我々の無駄な消費の有無に関わらず、店には常に品物が溢れて大量のパンが捨てら、そのことはもはや、我々の行為と直接的因果関係を持たない。
 トマトを始めとするヨーロッパ産の野菜の多くは、その生産をアフリカ人移民の低賃金労働力に頼っている。国産の三分の一という破格で農産物を売りつけるヨーロッパ諸国のダンピングはアフリカの農業を破綻に追い込み、彼らを不安定な移民労働者にする。
 ついさっき生まれたばかりのひな鳥が養鶏場から屠殺・加工工場へ送られて行くシーンは、このドキュメンタリーのクライマックスと言える。にもかかわらず、一切の付加的演出がないどころか、ブロイラーと加工場労働者は、短期間・低コストで若鶏を生産し、効率的に加工するメカニズムの情報を我々に与えるのみである。詰め混まれた雌鳥の中に数羽の発情期の鶏が放り込まれ、たった数秒で雌と交尾を済ませる。産み落とされた卵は大きなマシンに回収され、40℃の温かい構造の中で数日保存された後、数十日後の屠殺を予め運命づけられた雛が殻を突き破る。雛鳥の小さな足ですら足の踏み場がない場所にどんどん詰め込まれ、飼料を頬張って成長する。「鶏には暗闇に感じられ、動物のパニックを避けることが出来る」と屠殺業者が説明する青い光の中で、鶏は撲殺から鶏肉パックになるまでのベルトコンベアーに乗る。ハンガーのような機械に両脚を引っ掛けて宙づりされ、撲殺、脱羽機をくぐり抜け、頭と両脚を失ってパックされる。

 ある日理科の授業で眼球の構造を学ぶため、少し生臭くなった牛の目の解剖をし、子どもたちの多くがその日の給食で「もう肉は食べられない」と言って残した。ならば一生食べなければよろしい。そう心の中で呟いた。
 フランスでは年に一度、ヨーロッパ最大の農業国としてのこの国のパワーを眩しすぎるほど誇示するイベント、国際農業見本市 が開催される。食肉業者も数多く出展し、1600キロもある巨大な肉牛や可愛らしい子豚などの食用動物が日頃動物など目にすることのないパリジャンの大人と子どものアイドルとなる。見本市は商品販売を同時に行っており、立派な食用動物がちやほやされているすぐ隣には、おぞましい様子で飾り立てられた最高品質の肉が販売されている。(写真1)フランスは飽食の国である。さすがは食糧自給率が120%の国だ。マルシェがたたまれた後の午後は大量の野菜や貝などが置き去りにされ、レストランで大盛りの御馳走を平らげることを皆あっさりと諦め、食べ物は余るくらいで丁度良く、食べ物のケチは悪徳である。
 日本人は、「もったいない」の精神を歌い、食べ物を粗末にしたがらず、ビュッフェレストランですら余分にサーブしないよう注意され、生ゴミを極力出さない食材使いを提案する料理をオシャレで「粋」と見なす。ひょっとすると、世界の他の先進国と比較しても食物の扱いに敏感だ。だからこそ、それが全くの事実であるにも関わらず、一人当たりの食糧廃棄量が世界一と批難されても全くピンと来ない。背景には問題の根本的な不理解がある。なぜ、日本語のタイトルは『ありあまるごちそう』なのか。わざわざ平仮名表記し、飢えるアフリカの子どもをキュートなイラスト化して、かわいらしい演出で「食の社会見学」と銘打つのはなぜか。態度の端々に滲むもの全てが、問題に対する我々の無関心と、世界現状の因果に自分が無関係だという認識を暴露する。(写真2)我々は、表層的なエコの賛美歌を熱唱し、欺瞞に満ちた「地球に優しい市民」を演じるのを直ちにやめ、それが途方もない狡猾な悪であるために、皆がこぞって我々の認識から乖離させようと必死になっている巨大なメカニズム、産業構造そのものを凝視せねばならない。食糧廃棄の構造的カムフラージュに甘んじる時代は終わった。
 ちなみに、フランス語タイトルはLe Marché de la Faim(飢餓市場)、世界全体が飢餓を生産する巨大な歯車の部品である。それは、我々が日々恩恵を受ける構造そのものへの懐疑であり、ハイブリッド野菜が地力を貪り尽くした畑に立つ男は、引き過ぎた手綱を緩めることを我々に問う。「ヒヨコが可哀想」などと戯言を言っているヒマは、本当はない。

“We Feed the World”(2005) by Erwin Wagenhofer, 96分, Allegro Film
http://www.we-feed-the-world.at/index.htm

写真1
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写真2 『ありあまるごちそう』チラシ(2011)
ありあまるごちそう1

01/7/16

« Super Premium Soft Double Vanilla Rich » スーパープレミアムソフトダブルバニラリッチ, チェルフィッチュ

« Super Premium Soft Double Vanilla Rich »(スーパープレミアムソフトダブルバニラリッチ)を観てからモゴモゴ口からでそうで出てこないことがあるので、しかしそれは口からぽろりと出してもいいのだけれどもそれを言ってはお仕舞でしょみたいなことかもしれんと思って遠慮して言わなかっただけかもしれないので、もう1ヶ月半ほど経過したこともあり、そろそろ書いてみたいと思います。

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スーパープレミアムソフトダブルバニラリッチは、日本のコンビニ文化を舞台とした物語です。岡田利規主宰の演劇カンパニー、チェルフィッチュによる公演はパリ日本文化会館において行なわれました。コンビニをめぐる話ですが、勿論、日本の社会問題である若者の失業あるいはニート問題とか、貧困・格差の問題、働き方の変化や生き方の変化、都市生活の不穏や孤独、現代社会の隙間なく行き届いた「光」がもうそれ以上届くところはないようなある種の絶望感、といった主題を鋭く適確に表現していると思います。

所謂「日本人らしさ」も随所で浮き彫りになります。無論カリカチュアですから、ああ、これやるよね、ああ、こういう態度するよね、という必ずしも観ていて嬉しくはならない「典型的な仕草」などで「日本人らしさ」は描き出されていきます。たとえば、ドングリの背比べ状態のなかで制裁し合う若い従業員の姿とか、目を合わせることなくしかしながら丁寧に話す対人関係とか、我慢は極限に達して「怒って」いるのにちっとも声を荒げも行動にも出すことなく言葉だけ非常に暴力的なことを録音テープが再生されているように繰り返す姿だとか。

この公演中非常に不快だったことが一点あります。それは数列前で観劇していた日本人でないマダムが公演の間中声高らかに爆笑し続けていたことであります。どういったツボで爆笑しているかと言うと、それはまさに面白いだろうな!と狙われたタイミング、非常に正しい箇所において、彼女は模範的に爆笑しつづけていました。その楽しそうな様子を見ながら、ふと、このコンビニを巡る日本社会の心の問題や社会の問題、経済の問題や日本人らしさの問題を描く作品が、どうしてわざわざパリだとか、他の国の都市において上演されて、共有されて、いったいそれが求めていることあるいは残しうるものって一体何なんだろう?とナイーブな疑念に取り憑かれてしまいました。

このマダムが爆笑するように、まあ確かに滑稽だし、コンビニもオカシイのかもしれないし、誇張されてはいるもののしかし真実であるところの日本人らしい対人態度や働き方や喋り方や所作や我慢の限界の越え方も可笑しいのだろうけれども、そもそもなんの期待を込めて、あるいは価値を認めて、この、言ってみれば「ミクロ問題」を世界にさらしているのだろう?と。

つまり、これらの問題は重要な問題で、指摘の仕方は適確だし、問題提起も素晴らしいと思っているけれども、それらにたいして何かするのは海外において問題提起して種をばらまかれた先に期待するのではないだろうし、日本の問題であるに違いないと思ったためで、より分かりやすく言えば、なぜこれを海外で見せるのか、見せて何がしたいのか、あるいは何ができるのかを疑っているのだと理解しています。見せるだけでいいじゃん、という風には思いません。見せるからには見せる意味がないと行けないと思います、意味のある、目的が少なくともあってほしいしあるべきだと信じます。そして、それは、放り投げるとか共有するだけでなく、それよりも先にあるものを見据えてほしいとも思います。

演劇そのものからは外れた話になってしまったのですが、書かなければいけないと心に残り続けていたことを書きました。

最後に、もっとも感動的なのは最後に店長がおキレになるシーンです。あれは見事です。今日人々はたしかにあのようにキレます。呟くように、節度を持って、しかし溢れ出すように、それはホンモノのカセットデッキのように。