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Conférence par Hiroshi Yoshioka : ENJEUX de PARASOPHIA (Université Paris 8, TEAMeD × MCJP)
7月1日(水)にパリ日本文化会館にて吉岡洋さん(パラソフィア・アドバイザリーボード)のパラソフィア報告会が行なわれました。企画はパリ第8大学+パリ日本文化会館、パリ第8大学名誉教授であるジャン=ルイ・ボワシエを迎えてのセッションとなりました。私は通訳+モデレータとして講演会を企画させていただきました。
本講演は、吉岡さんからのご講演(逐次通訳、パラソフィア報告・京都の街の歴史・銭湯芸術祭)に続いてボワシエさんからの大覚寺で2011年7月に開催された展覧会「Les Vigilambules」(« Les Vigilambules »はジル•ドゥルーズの「覚醒した状態」を意味するvigilambuleから着想を得た作品で大きな目を見開いて、決して眠ることなく、強く覚醒した状態を意味します。プロジェクトの詳細ははボワシエさんのサイト:http://www.vigilambule.net/blog/?page_id=2でご覧になれます)に関するご発表、そしてお越し頂いた皆さんとのディスカッションとなりました。
ここには吉岡さんのカンファレンス内容とパラソフィア事務局からご協力いただいた画像、パリ日本文化会館から頂いた講演会風景を掲載いたします。
LES ENJEUX de PARASOPHIA
PARASOPHIAとの関わり
吉岡: »PARASOPHIA: International Festival of Contemporary Culture”というのは、今年(2015年)3月7日~5月10日に京都で開催された、現代美術の展示を中心とする催しです。京都府と京都市の財界人が後ろ盾となりました。会期は約2ヶ月ですが、この催しに関連したイベント、小規模なプレ展示、講演会、ワークショップなどは、オープニングの1年以上前から京都を中心に積み重ねられてきました。ぼく自身とこの催しとの関わりは、2年ほど前に、この展覧会のアーティスティックディレクターである河本信治さんから、Professional Advisory Boardの委員となるように依頼されたのがきっかけです。河本さんがぼくにそれを依頼した主な理由は、ぼくが今から13年前の2003年、「京都ビエンナーレ」という芸術祭のディレクターをしたからです。この催しはPARASOPHIAよりは小規模なもので、主として京都市がバックアップしたものですが、残念ながら1回だけで終わってしまいました。この内容については後で少し述べます。Professional Advisory Boardの第1回の会合で、河本さんから、”PARASOPHIA”という名称について聞きました。アートの介入によって現在の支配的な知(Sophia)とは別の知のあり方を求める、という基本的なコンセプトには共感しましたが、同時に日本語において”PARASOPHIA”という名称はその意味が直観的につかみにくく、難解なものとして敬遠されるのではないか?とも言いました。ではどうしたらしいのか?と聞かれたので、1年前から雑誌やペーパーを発刊して、PARASOPHIAという言葉やコンセプトを広めていけばいいのではないか?とアドバイスしました。「では吉岡さん、やってください。」ということになったので、学生たちと一緒に『パラ人』というフリーペーパーを5回発刊してきました。
『パラ人』について À propos de PARAZINE
この出版物に関しては、印刷のための経費はフェスティバルから出ていますが、編集スタッフの学生たちはもちろん、執筆者も(いま通訳をしてくれている大久保美紀さんも執筆者の一人です)、編集長であるぼくも全員ボランティアで、謝礼は受けとっていません。このことは重要で、私たちはPARASOPHIAの宣伝をする義務はなかったのです。ソフィアとパラソフィアについて、幸福について、戦争について、そして京都について、気の向くままに話し合いました。こうした出版物を許容することは »PARASOPHIA »というコンセプトに合致しており、その意味で間接的にはフェスティバルのためになったと思います。これはPARASOPHIAの公式出版物ですか? という質問には、「半公式」であると答えました。「半」というのが重要な部分でした。
『パラ人』というのはPARASOPHIAの(MAGA)ZINEということですが、 »ZINE”という音は日本語で「人」という意味もあるので、モノやお金が中心に回っているかのような今の世界で、あえて人を中心にするという意味でこのように名付けました。また内容も、PARASOPHIAという美術展の紹介をするのではなく、集まった学生たちと、今の世界についての様々な議論をするということを中心に編集しました。現在の日本の大学は、学生に対するサービスという点では完備していますが、学生と教員がカリキュラムという枠組を離れて様々なことを話し合う場はほとんどありません。だから『パラ人』の編集部はまるでもうひとつの、オルタナティブな大学のようになりました。
京都という場所(1)
吉岡:京都の経済界と行政がなぜ現代美術のフェスティバルに関心を持ったかというと、それはひとつには、京都という都市の将来についての心配があったからだと思います。ご存じのように、京都は平安時代以来の日本の古都であり、夥しい文化遺産や芸術文化の豊富な伝統を持っています。大学も多く、様々な領域の国際会議も頻繁に開かれる他、国内外から年間5千万人以上の観光客が訪れます。したがって、さらなる集客のために今さら新たな文化的プロジェクトを開始する必要はないようにも思えます。けれども京都の世界的な魅力の大半は、主としてその伝統文化に集中しています。もちろんそれは重要なものですが、伝統的文化というのは、ただ形を変えずに保存してゆけば存続するものではありません。伝統というのは、常に新しい世代によって受け継がれ、常に形を変えることを通じて存続してゆくものです。その意味で、伝統的な文化と革新的な文化とは単純に対立しているのではなく、互いに刺激しあいながら発展してゆくものです。
日本では2000年代以降、横浜トリエンナーレ、新潟の田園地帯に展開する越後妻有アートトリエンナーレ、愛知トリエンナーレ、瀬戸内芸術祭などの大規模な現代美術祭が開催される中で、京都にも新しい文化のイメージが必要だ、という判断があったと思います。さらに、ぼくの考えでは、京都には歴史の明るい側面ばかりではなく、行政や観光業界がふつうは眼を向けたがらない過去の歴史もあり、それが比較的眼にみえる形で現れており、このことは、京都で芸術祭を行う際の障害ではなく、むしろ利点となりうると思っています。ツーリズム的な京都のイメージでは隠されている、この都市の多様な側面をみることができるからです。 その意味で、表層的・産業的な文化商品としてだけではなく、より深い普遍的なレベルにおいて世界や人間のあり方について考察するためにも、京都という場所でアートプロジェクトを行うことには可能性があると考えています。
さまざまな意味で、PARASOPHIAの”Enjeux”とは、たんに日本にさらにひとつの国際美術展を増やすということではなくて、京都という場所とその歴史といかに関わるか、またそれを通して日本全体の問題や、近代社会全体の問題といかに関わるかという点にあると考えています。
京都という場所(2)
日本がかつて巨大な破壊行為の犠牲となった場所として、世界中の人々が広島・長崎を訪れます。それに対して、京都には貴重な文化的・芸術的遺産が数多く存在するので、アメリカは京都に大きな攻撃を加えなかったのだという「伝説」が今でも信じられています。しかしこれは作り話です。太平洋戦争の末期、京都は原爆投下の第一目標とされていたことが、アメリカ自身が1990年代に公開した軍事資料によって分かっています。その理由は、京都が日本の象徴的な中心であること、盆地なので核攻撃の破壊力が効果的であること、この破壊の威力を正しく認識し戦争継続を諦めるよう政府に進言できる知識層が住んでいること、などです。この計画は最終的に実行されませんでしたが、それは京都を破壊すると日本人への心的ダメージが大きすぎて、戦後反米的な感情が持続することを怖れたためだと推測されています。京都を、もっぱら伝統文化に守られた古都として想像するのは一面的だとぼくは思います。京都の文化とは70年前、戦略的な計算によってぎりぎりのところで存続を許された存在、もしかしたら消滅していたかもしれない、危うい存在なのです。
京都には日本の近代化に伴う様々な問題が現れています。京都の中心には巨大な御所がありますが、これは1868年の明治維新によって、天皇が首都である東京に移ったため、居所としては不在になったものです。都市の中心に巨大な空虚があるという構造になっています。保守的な政治家たちは日本が「単一民族国家である」(だから団結心が強い)ことを強調してきましたが、それは作り話です。たとえば京都には、朝鮮半島から移住した人々も住んでいます。また人間の平等性という近代的理想とは異なり、歴史的に差別され続けて来た部落の人々もいます。ぼくはたまたまそうした人々の居住区のすぐ近くで育ってきましたが、多くの場合そうした問題に触れることは、怖れられタブー視されてきました。
京都ビエンナーレ2003
吉岡:2003年の秋、「京都ビエンナーレ」という国際芸術祭のディレクターをしました。そこでも、京都という都市の歴史に関わることが重要だと考えました。この2003年の展覧会のテーマは「Slowness」というものですが、その背景には、その2年前に起きた「9.11」とその後のイラク戦争があり、グローバル化と電子的な同時性というテクノロジー的環境や、その中で遂行される巨大な破壊行為に対して、何らかの抵抗意識を持つことを考えました。たんに速度に対立する「遅さ」ではなく、速度それ自体の中に遅さを見出して行く技術として、アートを考えられないだろうかと思いました。こうした問題に関わるアートの試みとして、2003年の京都ビエンナーレにおける例をひとつだけ紹介するなら、日本の美術家である高嶺格が行った「在日の恋人」という作品があります。これは京都の北にある、廃坑になったマンガン採掘抗で作品を制作・展示するものですが、この鉱山にはかつて、朝鮮半島出身の労働者たちが過酷な条件化で働かされていました。作品はそうした歴史を、現在はアーティストの妻である在日韓国人の恋人との和解という個人的なストーリーと重ね合わせて表現するものです。政治や歴史の重要な問題をあるがままに提示するのではなく、また避けるのでもなく、多くの人が想像力を駆使してそれを新しい角度から眺め、真剣に、しかし楽しく対話する可能性を模索することは、アートの重要な役割であると思います。
京都市美術館
吉岡:PARASOPHIAにおいても、京都の歴史との関わりという点は明確に現れていると思います。まず、メイン会場となった京都市美術館という空間を、作品展示を通して新鮮な形で体験することができました。この美術館はもともと1933年に昭和天皇の即位を記念して建造された施設です。太平洋戦争が終了し、日本がアメリカの占領下にあった時代には、この建物はアメリカ軍によって接収されました。それは1952年まで続きました。この美術館の地下にはまだ占領時代の靴磨きの部屋などが残っています。吹き抜けのもっとも大きな展示室はバスケットボールのコートになりました。蔡國強はこの空間に7層の竹の塔を設置し、彼が行ってきたワークショップ「子供ダヴィンチ」や「農民ダヴィンチ」の作品を展示しました。ジャクソン・ポロックのように絵の具を飛び散らせてロボットが描いた「作品」が、飛ぶように売れて行くというやや皮肉とも思える現象も起こりました。日本のアーティスト田中巧起は、京都市美術館というこの場所の歴史そのものに関心を抱き、それをテーマにしたワークショップを行いました。1970年、この美術館には当時活躍していた評論家の中原裕介が企画した「人間と物質」という国際展が巡回します。これは海外から27名、国内から13名のアーティストを招いた日本最初の国際的現代美術展と言えるものでしたが、同じ年に開催された大阪万国博が6400万人という空前の入場者数を記録したのに対して、入場者数は伸びず興行的には赤字となり、これ以降日本における現代美術の大規模な国際展は、2001年の横浜トリエンナーレまで30年間行われませんでした。
堀川団地
吉岡:さてPARASOPHIAでは、「堀川団地」と呼ばれる場所にも作品が展示されました。この場所もまた、日本の近代史を象徴的に示す地域のひとつです。「堀川」というのは京都の堀川通という道路の名前ですが、ここは太平洋戦争の前には、きわめて賑わった繁華街であり、様々な店舗が密集していました。戦争末期、アメリカ軍の空爆による火災が広がるのを防ぐための防火帯を作るため、多くの建物がとり壊されました。実際、東京や大阪をはじめ日本の大都市の多くが、戦争末期には空襲によって焼け野原になりましだか、皮肉なことに、京都は先ほど述べたように原子爆弾の投下目標になっていたので、その威力を測定するために大規模な空襲はなく、そのために古い建築物が残る結果になりました。戦争が終わり1950年代になると、住宅不足と商店街の復興を目指して新しい集合住宅を備えた店舗が建設されました。これが堀川団地です。一階が店舗で、2階以上は個室に水洗トイレと都市ガスが完備された、1950年代においては最新の集合住宅です。まだ個別の浴室はなく、銭湯が利用されていました。けれどもそれ以前の集合住宅はトイレと台所が共同のものも多かったので、きわめてモダンで個人主義的な住宅設備でした。けれどもそれも1980~90年代になると老朽化が進み、また新しい耐震基準からも問題があるので、この住宅をどうするかが議論されてきました。その過程で、この団地をテーマとするアートプロジェクトも参加しています。
崇仁地区
吉岡:崇仁地区というのは、JR京都駅のすぐ近くにあるエリアで、周囲はきわめて賑やかな繁華街ですが、この場所だけ空き地のような場所が点在しています。それは、この地区が大規模な被差別部落だったからです。近代以前、処刑や屠殺などに従事する身分の低い階層がありました。近代に入ると、彼らは公式には平等な市民として認定されましたが、現実には依然として差別的な扱いは続き、行政がその場所を特別に配慮が必要な地区として指定したために、かえって差別的な構造は存続することになりました。それは現在でもまだ続いています。ぼくはたまたまこの近くで育ち、公立の学校に通っていたので、そこにはこの地区出身の生徒や職員の人たちがいて、それがどんな雰囲気であったか、大人たちがどんな態度をとり、それを子供に伝達していったかを、ある程度経験してきました。差別は日常生活のさまざまな細部まで入り込んでいるので、単純な正義や同情では解決できません。解決には広い意味での教育がきわめて重要であり、しかも長い時間がかかると思います。だから、アートプロジェクトがこの場所を積極的に利用するというだけでも、それが継続していくなら意味があると思います。それは、これまでこの歴史について知らなかった人も、そこを訪れるようになるからです。
銭湯芸術祭
吉岡:最後に、PARASOPHIAそのものではなくて、PARASOPHIAと並行して開催された催しの中から、ぼくが直接関わった「京都銭湯芸術祭」という活動を紹介して、おしまいにしたいと思います。このプロジェクトもまた、別な仕方で場所とその歴史に関わる試みであると言えます。まず日本における入浴の考え方と、銭湯とは何かということについて、簡単に説明します。日本人の多くは入浴を非常に大切な生活の一部とみなしています。そこには、たんに身体を清潔に保つという純粋な必要性以外の要素があります。人類全体として考えてみると、入浴はけっして必要不可欠なものではありません。まったく入浴をしない文化は現在も存在するし、歴史的にも入浴をしない時代が存在しました。むしろ、日本のような入浴習慣や入浴についての考え方こそ、世界的にみてもきわめて独特なものであると言えます。日本のサブカルチャーが「クールジャパン」と言われるのなら、お風呂こそ「ホットジャパン」として売り出すべきなのかもしれません。日本の入浴習慣と言っているのは、お湯に身体を浸けるという行為を中心に考えるという意味です。身体を洗うという、清潔のために必要な行為は中心ではありません。入浴はお湯のぬくもりや圧力を全身で感じること、その場所と自分とが一体化しているという精神的な満足感があります。日本の共同浴場の歴史はそれ自体きわめて興味深いものですが、時間がないのでここでは近代の銭湯だけに話を限定します。それは、たいていは個人によって経営され、大人3ユーロ程度の料金を払って入る施設です。もちろん男女に分かれていますが、完全に仕切られているわけではなく、仕切りの壁の上方は開いているので、声は聞こえるし家族の間で石鹸などを受け渡しすることもできます。だいたい昼の3時頃から深夜まで開店しているものが多いです。脱衣場にはテレビや雑誌なども置かれ、冷たい飲み物を飲むこともできます。浴室は現代では複数の浴槽——ジャクジのように気泡を発生するものや薬草の入ったもの、弱い電気が通っているもの、サウナ、水風呂など——が用意されています。
銭湯は日本の都市生活において、1970年代まではきわめて一般的なものでした。先ほど「堀川団地」の話でも触れましたが、多くの庶民の住宅には個人用の入浴施設がなかったからです。したがって当時は、それは地域の人々のコミュニケーションの場としても機能していました。まあ、カフェのような役割を果たしていたわけですが、互いに裸であることが大きく異なっています。1980年代に入って、日本の住宅に内風呂が普及してくると、銭湯はどんどん減少してゆきました。けれども京都には比較的まだ残っています。「京都銭湯芸術祭」は、若いアーティストたちがこの銭湯に興味を持ち、そこにアート作品の展示やイベントを持ち込むことによって、そうした地域的なコミュニティのあり方を、それに属さない人々にも経験してもらおうという試みです。ぼくがなぜ「京都銭湯芸術祭」のようなプロジェクトに関わるようになったかというと、それは過去約30年間において、日本の歴史が一回転したと思うからです。銭湯が減少していったのは日本人の居住環境や生活様式が大きく変化したからですが、それはたんに豊かになったということではなく、地域の経済生活が破壊されたということでもあります。銭湯がなくなったことは、銭湯を含む商店街や地域の様相が一変したということです。つまり銭湯だけが問題なのではなくて、銭湯を含む生活や社会のあり方の変化が問題なのであり、銭湯の減少はそのことをはっきりと示す指標のひとつなのです。
粗っぽい言葉で言えば社会・経済のグローバル化ということですが、それが今、もうどうにもならない瀬戸際まで来ているということです。けれども、たんに昔に戻るということが重要なのではありません。アートを通じて関わることにより、たんなるノスタルジーとかエキゾティシズムではない形で、銭湯をより多くの人に経験してもらえることを目指しています。
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Ceci est le compte-rendu de la conférence par Hiroshi Yoshioka qui a eu lieu le 1 juillet 2015 à la Maison de la Culture du Japon à Paris grâce à la collaboration de l’Université Paris 8, l’AI-AC l’équipe de TEAMeD (Théorie Expérimentation Arts Médias et Design) et la MCJP. Voici le contenu de sa conférence. (En raison du temps, cet article n’a pas été corrigé. Merci beaucoup de signaler les erreurs et de proposer les corrections en français pour améliorer l’article.)
ENJEUX de PARASOPHIA
PARASOPHIA et moi
HY: PARASOPHIA: festival international de la culture contemporaine est un événement qui a eu lieu à Kyoto du 7 mars au 10 mai 2015, qui a consacré aux expositions de l’art contemporain. Les sponsors principaux étaient la ville de Kyoto et les représentants des milieux économiques. Cet événement durait donc deux mois mais en anticipant plus d’un an, avant son ouverture, il y a eu des pré-expositions, des conférences, des workshops et d’autres pré-événements dans la ville de Kyoto. L’occasion de travailler pour ce projet était le fait que Monsieur Shinji Komoto qui est le directeur artistique de cet événement m’a proposé d’être membre du comité de conseils professionnels il y a 2 ans. La raison pour laquelle Monsieur Komoto me l’a proposé, c’est parce qu’il y a 13 ans en 2003 c’était moi-même qui ai été le directeur artistique de la Biennale de Kyoto qui est aussi un festival international de l’art contemporain. Cet événement, la Biennale de Kyoto était moins grand par rapport à Parasophia, financé par la ville de Kyoto, mais malheureusement nous n’avons pas pu faire la deuxième fois. Je reviendrai plus tard sur cette histoire. Lors du premier comité de conseils professionnels, Monsieur Komoto nous a expliqué la signification du « PARASOPIA » comme nom d’un événement. Explorer une nouvelle modalité de l’intellect (voire SOPHIA), qui est différent de celle qui domine notre société d’aujourd’hui, à travers l’intervention de l’art. J’ai été d’accord avec son opinion en principe, mais je lui a également dit qu’il était probablement difficile de populariser ce nom car le mot même « PARASOPHIA » ne dit rien, et difficile de faire comprendre au public. « Alors, qu’est-ce qu’on peut faire », m’a demandé Komoto. C’est à ce moment-là où j’ai proposé la publication d’un magazine gratuit afin de populariser le nom de PARASOPHIA et son concept pendant 1 an. Comme ça, on m’a nommé l’éditeur responsable de ce magazine qui s’appelle « PARAZINE » dont j’ai travaillé avec les jeunes étudiants pour les 5 publications.
À propos de PARAZINE
HY: « PARAZINE » est donc le magazine de PARASOPHIA. Mais « ZINE » (jin) signifie la personne en japonais. Dans ce monde actuel, on a l’impression que c’est des produits industriels et l’argent qui sont dominants, j’ai trouvé que ce n’est pas mal de donner à l’être humain une place importante en nommant ce magazine « PARAZINE ». Ce magazine ne présentait pas les expositions des beaux-arts, mais montrait de nombreuses discussions sur l’actualité avec les jeunes étudiants. Les universités japonaises d’aujourd’hui donnent à leurs étudiants de nombreux services très pratiques, mais il n’y a pas d’occasion qui permet aux enseignants et étudiants de discuter ensemble divers sujets en dehors des cours et du cursus. Par conséquent, la réunion de comité de rédaction de PARAZINE est devenue une sorte d’université alternative.
La publication de PARAZINE a été financé par ce festival mais les membres de comité de réduction, étudiants, moi, et Miki OKUBO qui est l’un des essayistes de ce magazine, personne n’a été payé. Nous sommes bénévoles. Le fait que notre activité a été bénévole est important, car grâce à cette condition non payée, nous avons pu rester libres de l’obligation de faire la publicité de PARASOPHIA. Ce que nous avons réalisé est parler librement des sujets variés tels le bonheur, la guère, la ville de Kyoto, etc. À mon avis, soutenir ce type de publications étranges convient parfaitement au concept de cet événement « PARASOPHIA » et je pense que ce magazine a pu quand-même contribuer au festivald’une façon indirecte. Quand quelqu’un nous demandait si PARAZINE est une publication « officielle » de PARASOPHIA, on lui a répondu « moitié-officielle ». Cette expression « moitié » est importante.
Kyoto, comme lieu 1
HY: Pourquoi les milieux économiques et politiques de Kyoto sont-ils intéressées à tel festival de l’art contemporain? C’est d’une part parce qu’ils sont inquiets pour l’avenir de la ville de Kyoto. Comme vous le savez, Kyoto était la capital japonaise pendant plus de 1000 ans depuis l’ère Heian le 8 ème siècle. Cette ville embrasse de nombreux patrimoines culturels, industries et artisanats traditionnels et artistiques. Beaucoup d’universités y existent, attirant fréquemment des conventions internationales de différents domaines. Le nombre de touristes atteint plus 50 000 000 par an, soit du Japon, soit des autres pays. En constant ce chiffre, on peut penser qu’il n’est pas nécessaire de lancer de nouveaux projets culturels pour accueillir encore des visiteurs. Toutefois, l’attrait majeur de Kyoto du point de vue international se limite à sa culture traditionnelle. Certes elle est importante, mais la culture traditionnelle ne pourra pas continuer à être appréciée avec sa simple conservation. La tradition peut être conservée quand elle est héritée par la nouvelle génération, en ayant la modification incessante. À mon sens, la culture traditionnelle n’est pas opposée à la culture innovante mais elles se développent en se stimulant réciproquement.
Depuis 2000, le Japon a expérimenté de nombreux grands festivals internationaux tels la Triennale de Yokohama, la Triennale de l’art de Echigotumari réalisée en profitant la régions rizière de Nigata, la Triennale d’Aichi et le festival de l’art de Setouchi. Dans cette ambiance, la ville de Kyoto a été convaincu de la nécessité d’une nouvelle image culture pour le futur de Kyoto. Kyoto garde sa mémoire historique non seulement « positive » mais « négative », voire même « triste » qui est assez visible mais qu’en général le milieu politique et l’industrie touristique ne souhaitent pas trop montrer. À mon avis, ces traces historiques ne sont pas un obstacle pour organiser un festival de l’art mais ça peut être plutôt un atout. On s’intéressera à d’autres aspects cachés par les images stéréotypes montrés par le tourisme. Je crois, réaliser un projet artistique dans la ville de Kyoto possède une possibilité pour qu’on puisse réfléchir profondément sur la modalité de notre monde, la nouvelle relation humaine, allant au-delà de la compréhension superficielle fondée sur la société de la consommation.
Je pense que les Enjeux de PARASOPHIA, comme le titre de cette conférence, est non pas simplement de réaliser encore un festival international de l’art au Japon, mais de trouver une intervention possible de l’art contemporain dans cette ville, afin de réfléchir sérieusement sur des problèmes concernant tout le Japon ou concernant la société moderne.
Kyoto, comme le lieu 2
HY: Les deux villes, Hiroshima et Nagasaki, sont connues dans le monde entier comme lieux symboliques car ces deux villes ont été victimes des bombes nucléaire. En revanche, à propos de Kyoto, il existe une explication légendaire comme celle-ci : les Etats-Unis n’ont pas choisi Kyoto pour leur cible du bombardement grâce à leurs héritages culturels existant dans cette ville. C’est un mensonge total. Les documents militaires des Etats-Unis qui ont dévoilés dans les années 1990 montrent qu’à la fin de la Seconde Guère Mondiale (dit la Guère Pacifique au Japon), Kyoto était leur première cible pour la jetée des bombes atomiques. La raison de leur choix est variée : puisque Kyoto était le centre symbolique du Japon, puisque Kyoto est géographiquement une cuvette qui leur permettrait de mesurer clairement l’efficacité de la bombe atomique, puisque les intelligentsias qui jugeraient correctement la gravité de sa force destructrice pour conseillerait au gouvernement de capituler en renonçant la continuation de la guère, etc. La raison pour laquelle les Américains n’ont pas finalement réalisé ce projet est expliquée par la crainte, c’est-à-dire, si la ville de Kyoto était totalement démolie par les Etats-Unis, les Japonais garderaient leur sentiment d’anti-américa pendant une longue période. C’est pourquoi je ne suis pas d’accord avec une image typique de Kyoto comme ancienne capitale toujours protégée grâce à sa culture traditionnelle extraordinaire. En effet, il y a 70 ans, cette culture a risqué son existence. Sa disparition totale a été possible.
Kyoto montre les problèmes divers causés par la modernisation du Japon. Gosyo, l’habitation de l’empereur, se situe dans le centre de Kyoto, mais depuis la Restauration de Meiji en 1868, c’est-à-dire depuis que l’empereur a déménagé de Kyoto à Tokyo, la nouvelle capitale du Japon, cet espace Gosyo est un énorme vide du centre-ville. Les hommes politiques conservateurs insistent souvent le Japon comme nation constituée d’un seul peuple homogène, c’est pourquoi les Japonais partagent le sentiment de solidarité, mais c’est une fiction. Les immigrants de la péninsule coréenne aussi y habitent. Ou encore, malgré la belle idée moderne pour l’égalité des hommes, il existe historiquement un quartier des habitants discriminés. Dans mon enfance, j’ai habité près de ce hameau, et j’ai compris que parler de ce type de problèmes en haute voix était considéré comme tabou.
La Biennale de Kyoto 2003
HY: Comme je l’ai dit tout à l’heure, en 2003 j’étais le directeur artistique d’un festival international de l’art appelé « La Biennale de Kyoto ». J’ai déjà considéré qu’il était important de mettre en lumière l’histoire de la ville de Kyoto. Le thème de cette manifestation de 2003, « Slowness » (la lenteur en français) a été fondé sur la réflexion sur le choc du 11 septembre et de la guère d’Iraq et sur le globalisme et le développement technologique qui ont amené par conséquent une sorte de violence catastrophique. Il faut opposer une résistance à cette situation violente. Non pas la lenteur contre la vitesse qui domine notre monde, mais je voulais que l’art soit considéré comme sorte de façon de vivre pour trouver la lenteur dans la vitesse elle-même.
Pour vous montre un exemple concret, Je voudrais présenter juste une oeuvre de Tadasu Takamine conçue pour cette Biennale de Kyoto, intitulée « Mon amoureux de Zainichi » (Zainichi est ici coréens résidant au Japon). Cette oeuvre est été créée et exposée dans la mine du manganèse se situant au nord de Kyoto qui est abandonnée aujourd’hui. Dans le passé, c’était les ouvriers coréens qui ont travaillé pour l’extraction du manganèse dans des conditions misérables. L’artiste superpose ce qui s’est passé dans l’histoire sur son expérience personnelle telle la réconciliation avec sa femme qui est Zainichi, c’est-à-dire la deuxième génération d’immigrant coréen.
Je considère que le rôle important de l’art est non pas de montrer les problèmes politique ou historique tels quels, ni d’éviter de les traiter, mais de trouver des moyens possibles qui nous permettent de regarder ces problèmes sérieusement pour que nous puissions en parler et les discuter librement grâce à l’art.
Musée municipal de la ville de Kyoto
HY: À mon avis, PARASOPHIA met en lumière l’histoire de la ville de Kyoto. Tout d’abord, les visiteurs peuvent découvrir l’espace du musée municipal de la ville de Kyoto d’une manière originale qui est le lieu d’exposition le plus important. Son bâtiment date de la cérémonie d’intronisation de l’empereur Showa en 1933. Après la Seconde Guère Mondiale, pendant l’occupation des États-Unis, ce bâtiment a été réquisitionné par les soldats américains jusqu’en 1952. Le mur se situant au sous-sol de ce musée garde toujours les traces de cette période. Par exemple, il y a un coin pour le cirage des chausseurs pour les soldats américains. La plus grande salle d’exposition a été utilisé en tant que cours de basketball. Un artiste chinois, Cai Guo-Qiang a présenté ses deux oeuvres « De Vinci des enfants » et « De Vinci des fermiers » réalisés par les workshops, sur une énorme structure des bambous construite dans ce grand espace. Mais parmi ses oeuvres, celle qui est la plus appréciée était « Robot dessine comme Jackson Pollock ». Les tableaux fait par le robot se sont vendus comme des petits pains, c’était ironique.
Koki Tanaka, artiste japonais, s’est intéressé à l’histoire du lieu du musée municipal de la ville de Kyoto et il a réalisé un workshop sur ce sujet. Lorsque l’exposition international intitulée « entre homme et matériel » (Between man and matter, 1970) est arrivée au Japon, Yusuke Nakahara, critique d’art actif à cette époque, a organisé la première exposition internationale de l’art contemporain du Japon accueillant 27 artistes étrangers et 13 artistes japonais. Mais malheureusement par rapport à l’Expo universelle d’Osaka qui a eu lieu dans la même année qui a accueilli 64 000 000, bien sûr le résultat sans précédent, cette première exposition internationale est gravement en déficit si bien qu’au Japon pendant 30 ans il n’y avait aucune exposition internationale de l’art avant la Triennale de Yokohama en 2001.
Horikawa Danchi
HY: PARASOPHIA a utilisé aussi Horikawa Danchi, habitation collective de Horikawa. Ce lieu est aussi important car il montre la mémoire de la vie moderne du Japon. Horikawa est le nom d’un boulevard Horikawa-Dori. Avant la Guère Pacifique, Horikawa était le quartier fréquent avec beaucoup de magasins. À la fin de la guère, pour construire des murs protecteurs contre l’incendie en cas des bombardements, on a démoli de nombreux bâtiments. C’est vrai que Tokyo, Osaka et d’autres grandes villes ont subi des attaques aériennes et ont été réduit en cendres, mais comme je l’ai dit tout à l’heure, Kyoto a été l’une des cibles pour la jetée de la bombe atomique, il n’y a pas eu d’attaques importantes, par conséquent, les anciens bâtiments sont conservés.
Après-guerre, dans les années 1950, pour résoudre le manque des habitations et pour reconstruire la rue commerçante, la nouvelle construction a été commencée. C’est Horikawa-Danchi, l’habitation collective de Horikawa qui existe aujourd’hui. Les magasins au rez-de-chaussé et les habitations aux étages équipés des toilettes à chasse d’eau et du gaz de ville, c’était l’habitation collective la plus moderne dans les années 1950. Il n’y avait pas de salle de bain individuelle mais on allait au bain commun appelé « Sento ». Mais en tout cas, par rapport aux habitations plus anciennes où on partageait la salle de bain et la cuisine, l’habitation collective de Horikawa est un exemple symbolisant la vie moderne et individualisme. Le temps passé, dans les années 1980 et 1990, le problème structural des bâtiments telle résistance aux tremblements de terre s’est levé. De nouveau, Horikawa-Danchi est devenu l’objet problématique. Quelques projets artistiques traitent cette habitation collective de Horikawa dans ce contexte-là.
Sûjin-chiku
HY: Le quartier Suijin est près de la Gare de Kyoto. Autour de ce quartier, l’ambiance est très animée mais seul dans ce quartier il reste quelques terrains vides. C’est parce que ce quartier a été un important hameau discriminé. Avant la modernisation, il existait des classes sociales basses discriminées constituées des gens qui travaillaient pour l’exécution ou l’abattage. Depuis la modernisation du pays, ils ont été officiellement admis en tant que citoyens comme les autres mais en réalité ils étaient toujours discriminés. C’était l’administration qui a décidé ce quartier Sujin comme quartier pour ces gens discriminés pour leur sécurité mais cette décision a finalement mis en relief ce problème structural, qui dure d’ailleurs même aujourd’hui. J’ai grandi près de ce quartier et j’allais à l’école publique, donc j’ai témoigné l’ambiance autour de ce quartier, l’attitude des élèves, des personnels des écoles, comment les adultes l’expliquaient à leurs enfants, etc. La simple justice ou la pitié ne résout pas ce problème car la discrimination est quelque chose qui est présente partout dans la vie quotidienne. Ça prend beaucoup de temps, mais il est important d’éduquer dans le sens « profond ». Donc si les projets artistiques continuent avoir lieu à cet endroit régulièrement, ce sera significatif car ce type d’événements peuvent amener les gens qui ne connaissent pas l’histoire de ce lieu.
« Festival de l’art de bains communs »
HY: Pour finir, en s’éloignant un peu de PARASOPHIA, je voudrais vous présenter un autre festival de l’art « festival de l’art de bains communs » sur lequel j’ai travaillé. Ce projet essaie également de mettre en lumière le lieu et son histoire.
D’abord, je vous explique la notion japonaise « se baigner » et ce qui est Sento, le bain commun. La plus part de Japonais considèrent que prendre un bain est une habitude très importante dans la vie quotidienne. Les Japonais donnent une signification beaucoup plus importante qu’un simple acte pour la propreté du corps. Quand on regarde le monde entier, prendre un bain n’est pas une coutume indispensable. Il existe des cultures où les gens ne prennent pas de bain, et il existait aussi la période où on se baignait pas. La coutume japonaise et l’idée obsessive à propos du bain sont plutôt originales selon les normes internationales. Si la pop-culture japonaise appelée « Cool Japan » tels Manga ou Japan-animé est très appréciée, il faudra lancer cette coutume du bain comme « Hot Japan » en tant que nouvelle culture compétitive. Cette coutume japonaise « prendre un bain » signifie « se baigner », « mettre notre corps dans l’eau chaude » et « se laver » ou l’acte pour la propreté du corps n’est pas très importante. Dans l’acte de « Prendre un bain », sentir le volume de l’eau qui permet de nous rassurer mentalement car on est couvert et soutenu par l’eau. L’histoire de bains communs au Japon est un sujet très intéressant, mais aujourd’hui, comme nous n’avons pas suffisamment de temps pour cela, je parlerai du bain commun du temps moderne. C’est des particuliers qui tiennent en générale la maison de bains communs et on peut prendre un bain en payant à peu près 3 euros. Le bain est bien sûr séparé pour les hommes et pour les femmes mais la séparation n’est pas complète. Il y a un mur au milieu mais au-dessus de ce mur il y a un espace ouvert continu. On peut entendre la voix de chaque côté et on peut prêter ou récupérer le savon entre les familles etc. Cet établissement est ouvert du 15h au soir tard. Dans la salle de déshabillage, il y a la TV, les magazines, et on peut boire un boisson frais. Dans la salle de bains, aujourd’hui, il y a des bains différents tels bains bouillonnant (jacuzzi), bain de plantes médicinales, bain électrique, sauna, bain froid etc.
Sento, le bain commun était très courant dans la vie urbaine jusque dans les années 1970. Comme j’ai parlé de l’exemple de Horikawa Danchi, la plus part des gens ne possédaient pas une salle de bain dans leur habitation individuelle. C’est donc le bain commun Sento qui a joué un rôle important d’un lieu de la communication. On peut dire que c’est un type de café mais un café où on est tout nu, évidemment. Dans les années 1980, la salle de bain individuel ont commencé à généraliser, cela signifie le déclin de la culture de Sento. Mais Kyoto garde relativement beaucoup de bains communs. Le festival de Sento, « festival de l’art de bains communs » est un événement créé par les jeunes artistes qui sont intéressés par cette culture. Ces jeunes artistes souhaitent d’apporter leur contribution à l’exposition des oeuvres d’art dans les bains qui permet aux amateurs l’art qui ne connaissent pas la culture de Sento d’expérimenter cette culture. L’une des raisons pour laquelle je travaille pour ce projet, « festival de l’art de bains communs » est fondée sur l’importance de cette culture et la signification du déclin de Sento. Je considère que ces trente ans l’histoire japonaise a fait un tour complet. La disparition de bains communs en ville signifie le changement radical de l’environnement résidentiel et du style de vie au Japon. Cela signifie également la destruction de l’économie et de la vie locale. La disparition de Sento dévoile aussi le changement du paysage de l’ensemble des rues commerçantes comme environnement local. Autrement dit, ce n’est pas seul le problème de Sento, mais cela révèle le changement de la société.
Résumer cette situation comme globalisation sociale et économique est sans doute un peu violent, mais la situation atteint un point critique aujourd’hui. Toutefois, je ne crois pas qu’il faille revenir au passé. À travers l’art, ne pas tomber dans la nostalgie ou l’exotisme, les organisateurs visent à offrir une expérience de la culture de Sento aux nouvelles générations.
(En raison du temps, cet article n’a pas été corrigé. Merci beaucoup de signaler les erreurs et de proposer les corrections en français pour améliorer l’article.)
パラ人、三号と四号のコラムについて
Parazine vol.3 and vol.4
パラ人がどんどん小さくなっています。
パラソフィアは近づき、ついに開幕し、パラ人も4号まで出ました。
さらに小さくなって5号がもうすこしで出るそうです。
第3号、第4号に書かせていただいたエッセイについて少しお話したいと思います。
第3号:
第3号のコラム「パラソフィア・デ・ファム・オ・コンバ」では、ウクライナのフェメン(ウクライナ語:Фемен)とカリシュ(ポーランド)生まれのアーティストアリーナ・シャポツニコフ(Alina Szapocznikow,1926~1973)について紹介しています。
フェメンは、2008年にウクライナの首都キエフで創設されたフェミニズム団体で、女性解放、民主主義支持、売春反対、女性権利を侵害するあらゆる宗教信仰反対を主張しています。
また、アーティスト、アリーナ・シャポツニコフ(Alina Szapocznikow)は、アウシュビッツの強制収容所で看護手伝いに従事しながらホロコーストを生き延びた経験をもつ。生き延びた肉体は後に癌に蝕まれるが、終生戦いながら肉体を直視する作品を創った。たとえば、唇や乳房のセクシーなオブジェは、シャポツニコフ自身の肉体を象ったものだ。顔や胸だけでなく、手・足や腹部・臀部にいたるまで、せっせと全身を鋳型にとり、複製した。1969年には乳がんを患い摘出手術を受け、その四年後、46歳で亡くなった。
第3号コラムのリード文を添付します。
TITRE :
パラソフィア・デ・ファム・オ・コンバ / Parasophia des FEMMES au COMBAT
私が今から書くのは、ひょっとすると、アートで世界が平和になると信じる人々の期待とはかけ離れた話なのかもしれない。しかし、人が殺し殺され、暴力を及ぼし及ぼされる「戦争」という環境の中で、生と向き合う一つの方法としてアートが存在するのだとすれば、それは、人々の傷ついた心を慰め、他者と嘆きを分かち、怒りのはけ口を提供しながら憎しみを鎮めるためだけの好都合な道具であるはずがない。そんな夢のような効能に悦び、感ずるべき痛みを放棄することは、つかの間の安堵と引き換えに、新たな「暴力」を招きすらする。あるいは他に、いったい生き延びる術があろうか?
第4号:
また、2015年の年始に執筆した第四号のコラムではシャルリー・エブドの襲撃事件を経たパリのことについても言及しています。エッセイタイトルは、L’art pour « ici et maintenant »/「いま、ここ」のためのアート、です。
アートとはなにか、アートの意味、存在意義とは何か。非常事態において、アートは役に立たないのか。シャルリー以降の世界のこと、ポスト・フクシマのことについて書いています。
リード文を添付しておきます。
L’art pour « ici et maintenant » /「いま、ここ」のためのアート
リード文:パラソフィア開幕まで残すところ僅かである。ノッシノッシと歩んできた「パラ人」もついにその真の姿を現す時が来たのかもしれない。新年早々前期最終講義となるフランスで、非常時における芸術と表現の自由を喋っている途中、パリの街は非常時と化した。翌日、街中が緊張する中、グラン・パレでニキ・ドゥ=サンファルの回顧展を見る。父子関係にトラウマを持つニキが父への恨みを込めてライフル銃で発砲しまくる「暴力的」な作品も堂々と展示されたままだ。これが本当のリテラシーでなければ何だろう。このことは可能なのだ。
また、特集コラムも執筆しました。これは、このサイトでも既に掲載した(大谷悠さんについての記事)、コンテンポラリーダンサーの大谷悠さんの作品、Solo Weddingに関する記事です。
タイトル「花嫁は憂うのか。:Solo Weddingのための3つの思索」は、大谷悠さん自信の作品ディスクリプション、樫田祐一郎さんの散文詩、そして私のパリ第8大学における彼女の公演についての文章にパリ第8大学写真学科のマノン・ジアコーヌさんの写真を加え、集作となりました。
リード文はこんな感じです。
リード文:奇妙な読みものがある。そこに奇妙な名前のダンスがあったからである。Solo Wedding /ソロ・ウェディング。「結婚」とは相手の在ることが前提であり、独り者は挙式しない。あるいは、ソロである者が挙式を執り行うためのあらゆる儀式を通じたならば、その素晴らしいウェディングドレスは日の目を見ることができるか? 憂える花嫁(I)。詩人がおぎなう「むこうがわ」の言葉(II)。作品は、おぼろげに説明される(III)。願わくは、思索を通して、悩める人々の様々な問題や異なる苦しみが、干上がり、枯渇し、どこかへ行ってしまうように。
ダウンロードはここから!(Parasophia, Parazine)
もし可能でしたら、ぜひぜひホンモノをお手にお取りください!
紙媒体のパラ人、なんというか、ぬくぬくしますよ!
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なんとー!散文詩を書いてくれた樫田祐一郎さんが、こちらの記事について、パラ人について、散文詩についてSNS上に書いてくださった文章をこちらにも掲載させていただきました!文を書くのは対話的な作用があるから、楽しいのであります。以下は樫田祐一郎さんの書かれた文章です。。。
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大久保美紀(Miki Okubo)さんのはからいで、パラ人4号の特集記事「花嫁は憂うのか。:Solo Weddingのための3つの思索」の中の2つめの「思索」を担当させていただきました。
この記事は、ダンサーの大谷悠さんが11月のパリ第8大学で披露した作品「Solo Wedding」をめぐるレビューです。
タイトルにもあるようにこれは大久保さんによる前文と3つの「思索」から成っています。
1つめは、もともと大谷さんが上演に先立って公開していた文章を加筆修正したもの。
私が担当した2つめの「思索」はその実 »詩作 »(たはは…)でして、「控え室(ソロ・ウェディング)」と題した散文詩となっています。
ちょっと、一読しても何が何だかわからない文章かもしれませんが……。
種明かし(?)をしてしまうと、挙式前にソロ・ウェディングを夢想するソロ・ブライドの視点から、大谷さんのダンスの印象(3次元の言葉)を、紙上の、2次元の言葉に移し置いてみたもの…の、つもりです。
そして3つめは大久保さんによる論考です。大谷さんのダンスそのものについてはもちろん、はじめ「鑑賞者」であった私たちが、それぞれの思索――あるいは詩作、ともあれなんにせよある種の「作品」であり「表現」であるもの――によって応答することの意味をも、明かしてくれるすばらしいレビューになっています。
対話を生みえない作品を、しばしばそうされるように「ひとりよがり」と難ずるとき、私たちは対話というものがあたかも自然発生するもののように考えていないでしょうか。「鑑賞者」(表現を「享受する」ひとびと)が負う責任や能動性、つまり自分たちの言葉もまた他ならぬ私自身の「表現」であるということ――これは、たぶん往々にして忘れられてしまっていることです。
対話に開かれているべきなのは最初にそこにあった作品だけではなくて、私たちもまた自らを作品との対話に開いていなければいけない……あるいは開いていることが »できる »、開いていても »いい »と言うべきか。それとも開かれて »いる »という事実(「運命」?)だけがただ、あるのか。義務、可能、許可、断言、適切な命題のモードは私にはまだわからないけれど。
と、いうわけで私たちは表現しました。
いま、気になるのはこれもまたひとつのダンスでありえただろうかということ(私は踊っただろうか?)。
そしてこの表現はあらたに誰かを踊らせるだろうか。
「踊りは遍在する」(大久保美紀)。
…あ、そしてそして。この「3つの思索」にはパリ第8大学で学ぶ写真家マノン・ジアコーヌさんによって切り取られたソロ・ウェディングの3つの瞬間も、添えられています(これがなんとも素敵なのです!)。
というわけで、実際に作品を鑑賞した方にもしていない方にも、これら3+1つの「表現」を通じて踊る花嫁の姿が幻視されますように……。
パラ人 PARAZINE, 京都国際現代芸術祭 PARASOPHIAを盛り上げるヨ
きたーーーーー。
パラ人 PARAZINE が 届いた!
えっ?
この表紙、見るとビックリしませんか。ビックリするのわたしだけ?じゃないはず。
驚きのレイアウト、驚きの色彩、驚きのデザイン。
驚きは続く。
こんなにふんわししたデザインなのに、こんなにパステルな色使いなのに、巻頭の(この手のフリーペーパーのデザインに、巻頭というものがあるのかどうか知らないが)吉岡洋さんのお言葉は「歩き出した〈パラ人〉」と書いてある。怖すぎるじゃないか。いったい、誰なんだ、歩き出したパラ人って!そして、表紙と裏表紙ページの背景を支配している、ブレインストーミング・メモの形跡も、とても怪しい。天才科学者とか、神の声を聞いた予言者とかが、トランスミッションした筆跡みたいである。
眺め続けても仕方ないので、とりあえず開いてみる。何枚かあるので、驚きすぎないように、一枚だけピラッとめくってみる。
やっぱり貫かれたこの、気の抜ける水色、カッコつけないニュートラルなフォント、で、PARA – WHAT ? ? って書いてある。書いてあるぞー。目を凝らすと、「パラソフィアに、悩む。」って書いてある。
あっ、そもそも、パラソフィアっていうのは、京都国際現代芸術祭 PARASOPHIA(2015年3月7日~5月10日に京都で開催されるアートの祭典)のことで、芸術祭組織委員会、京都府、京都市が主催して、河本信治さんがアーティスティック・ディレクターを務めているプロジェクトのことなのですが、最近参加アーティストも第一弾が発表されましたね。
蔡國強(ツァイ・グオチャン)
ヘフナー/ザックス(Hoefner/Sachs)
石橋義正(いしばし よしまさ)
ピピロッティ・リスト(Pipilotti Rist)
ウィリアム・ケントリッジ(William Kentridge)
スーザン・フィリップス(Susan Philipsz)
ドミニク・ゴンザレス=フォルステル(Dominique Gonzalez-Foerster)
やなぎみわ(やなぎ みわ)
参考ウェブサイト: http://www.parasophia.jp/news/
それで、そうそう、パラ人ですが、パラ人は2003年に「高速スローネス」をテーマに開催された京都ビエンナーレのアーティスティック・ディレクターを務めた吉岡洋さんが編集長となって、PARASOPHIAを盛り上げるための刊行物を2015年の3月まで、ボランティアの学生たちといっしょに発行しつづけるというプロジェクトなのですね。
そういうわけで、パラ人、は実はPARAZINEなのですよ。
しかし、彼らは悩みに悩み、悩み過ぎて、PARAZINEの特集が PARA – WHAT ? ? なる主題になってしまったのです。しかし、彼らの悩みは、それを読むだれかの悩み。彼らの議論は、それを受け取る誰かの解決を示す。彼らの対話は、それが届かないほど遠くにいる誰かの思考と繋がって、歩き始めたパラ人は、もっともっと、世界中に繁茂する植物のように、増えるのです。繋がって、大きくなる。
私はここにエッセイを書いています。
PARASOPHIA AU MONDEっていうエッセイです。京都にいなくても、パラ人のエスプリを共有できるのか? 読んでみてのお楽しみということで。
パラ人は、京都を出発し、現在日本各地、世界各地に広がっています。
欲しい人! ぜひぜひ読んでください。 手に入れられるはずです。
どこにアクセスすればいいんですか?
すいません、わかり次第ここに載せます。
私にご連絡くださってももちろんオッケーです。
とりあえず、パラ人のことがもっともっとよくわかるインタビューをご紹介します。
http://www.ameet.jp/feature/feature_20140401/
それから、ニッシャ印刷文化振興財団さまから助成してもらえることが決まったころの記事!
http://www.parasophia.jp/contents/news/2014/03/08/763/
数日のうちに、ゲット方法も掲載するので、お見逃しなくです。
ぜひ5冊ぜんぶ集めてくださいね! ワクワク。