04/27/14

パラ人 PARAZINE, 京都国際現代芸術祭 PARASOPHIAを盛り上げるヨ

きたーーーーー。

パラ人 PARAZINE  が 届いた!

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えっ?

 

この表紙、見るとビックリしませんか。ビックリするのわたしだけ?じゃないはず。

 

驚きのレイアウト、驚きの色彩、驚きのデザイン。

驚きは続く。

 

こんなにふんわししたデザインなのに、こんなにパステルな色使いなのに、巻頭の(この手のフリーペーパーのデザインに、巻頭というものがあるのかどうか知らないが)吉岡洋さんのお言葉は「歩き出した〈パラ人〉」と書いてある。怖すぎるじゃないか。いったい、誰なんだ、歩き出したパラ人って!そして、表紙と裏表紙ページの背景を支配している、ブレインストーミング・メモの形跡も、とても怪しい。天才科学者とか、神の声を聞いた予言者とかが、トランスミッションした筆跡みたいである。

 

眺め続けても仕方ないので、とりあえず開いてみる。何枚かあるので、驚きすぎないように、一枚だけピラッとめくってみる。

 

やっぱり貫かれたこの、気の抜ける水色、カッコつけないニュートラルなフォント、で、PARA – WHAT  ? ? って書いてある。書いてあるぞー。目を凝らすと、「パラソフィアに、悩む。」って書いてある。

 

あっ、そもそも、パラソフィアっていうのは、京都国際現代芸術祭 PARASOPHIA(2015年3月7日~5月10日に京都で開催されるアートの祭典)のことで、芸術祭組織委員会、京都府、京都市が主催して、河本信治さんがアーティスティック・ディレクターを務めているプロジェクトのことなのですが、最近参加アーティストも第一弾が発表されましたね。

 

蔡國強(ツァイ・グオチャン)

ヘフナー/ザックス(Hoefner/Sachs)

石橋義正(いしばし よしまさ)

ピピロッティ・リスト(Pipilotti Rist)

ウィリアム・ケントリッジ(William Kentridge)

スーザン・フィリップス(Susan Philipsz)

ドミニク・ゴンザレス=フォルステル(Dominique Gonzalez-Foerster)

やなぎみわ(やなぎ みわ)

参考ウェブサイト: http://www.parasophia.jp/news/

 

それで、そうそう、パラ人ですが、パラ人は2003年に「高速スローネス」をテーマに開催された京都ビエンナーレのアーティスティック・ディレクターを務めた吉岡洋さんが編集長となって、PARASOPHIAを盛り上げるための刊行物を2015年の3月まで、ボランティアの学生たちといっしょに発行しつづけるというプロジェクトなのですね。

 

そういうわけで、パラ人、は実はPARAZINEなのですよ。

 

しかし、彼らは悩みに悩み、悩み過ぎて、PARAZINEの特集が PARA – WHAT  ? ?  なる主題になってしまったのです。しかし、彼らの悩みは、それを読むだれかの悩み。彼らの議論は、それを受け取る誰かの解決を示す。彼らの対話は、それが届かないほど遠くにいる誰かの思考と繋がって、歩き始めたパラ人は、もっともっと、世界中に繁茂する植物のように、増えるのです。繋がって、大きくなる。

 

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私はここにエッセイを書いています。

PARASOPHIA AU MONDEっていうエッセイです。京都にいなくても、パラ人のエスプリを共有できるのか? 読んでみてのお楽しみということで。

 

パラ人は、京都を出発し、現在日本各地、世界各地に広がっています。

欲しい人! ぜひぜひ読んでください。 手に入れられるはずです。

どこにアクセスすればいいんですか?

すいません、わかり次第ここに載せます。

私にご連絡くださってももちろんオッケーです。

 

とりあえず、パラ人のことがもっともっとよくわかるインタビューをご紹介します。

http://www.ameet.jp/feature/feature_20140401/

それから、ニッシャ印刷文化振興財団さまから助成してもらえることが決まったころの記事!

http://www.parasophia.jp/contents/news/2014/03/08/763/

数日のうちに、ゲット方法も掲載するので、お見逃しなくです。

ぜひ5冊ぜんぶ集めてくださいね! ワクワク。

 

 

03/12/14

『異装』のモダリティ ー 充溢する意味, あるいは, ポスト•コスプレのファッション, Studies of « Post-Cosplay » Fashion

研究集会「コスプレの美学―コスプレ、ファッション、日本文化」

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日時:2014年3月16日(日)14時開場 14時30分開会 20時終了予定
会場:ウィンクあいち 1301会議室 http://www.winc-aichi.jp/(JR名古屋駅桜通口からミッドランドスクエア方面 徒歩5分)

内容:
第1セッション:コスプレ「コスプレの社会的意義と芸術的表現について」
座長:室井尚(横浜国立大学・教授)
講演:園田明日香(NPO法人コス援護会・理事長)

第2セッション:ファッション「『異装のモダリティ–充溢する意味、あるいは、ポスト・コスプレのファッション」
座長:吉岡洋(京都大学・教授)
講演:大久保美紀(パリ第8大学・非常勤講師・美学)

第3セッション:日本文化「コスプレをする・見る–オタク文化におけるパフォーマンスの記号と異文化」
座長:島本浣(京都精華大学・教授)
講演:ジュリアン・ブヴァール(リヨン第3大学・准教授・日本のポピュラーカルチャー研究)

入場無料、予約不要(定員80名)
主催:科学研究費基盤研究(A)ポピュラーカルチャーの美学構築のための基盤研究[研究代表者:室井尚(横浜国立大学教授)]

Facebook : https://www.facebook.com/events/409348502543982/?fref=ts

 こんにちは、大久保美紀です。さて、近づいて参りました、今週末は名古屋でお会いいたしましょう。〈コスプレの美学〉なのに、ポスト•コスプレなんて、一体どうなっちゃうんでしょう…。私の方からは、ファッションとしての「異装」にはどんなパワーがあるのか(歴史の中でどんなパワーがあったのか)、そして、これからのコスプレ実践はどんなもので有り得るのかを明らかにするため、「コスプレ」をスッパリ切り開きます!
 フランスのコスプレイヤーや研究者に行ったインタビューや対話の話もします。異装を通じたアート作品の分析もします。ぜひお越し下さい。

 さて、実はコスプレについてはこれまでも長ーいこと考えてきたのですが、長ーいトンネルを抜けて、この文化特有の“対話の難しさ”を越えて、これまでとは異なる考えに至りました。どうぞお楽しみに。

 

『異装』のモダリティ ー 充溢する意味, あるいは, ポスト•コスプレのファッション

(要旨)
本発表は、これまで多くの日本人および外国人が研究してきた「コスプレ」という現象を、人類の自己表現の手段の一つとして新たに捉え直し、「コスプレ」の行為者が「コスプレ」を介して何を実現し、その行為にどのような意味を与えているのかという問題を再考する。したがって、本発表では、「コスプレ」を、今日まで一貫して守ってきたコンテクスト:現代日本大衆文化(ポップカルチャー、しばしばクールジャパンと呼ばれる)から生まれたものであること、その代名詞であるアニメ•マンガのキャラクターを模倣したコスチュームを身につけた特定の集団がコミケやイベントに参加すること、という定義への固執を一度放棄する。これら固有の文脈から切り離された「コスプレ」とは何か。世界からも着目を集める奇異な文化現象としての「コスプレ」をという重苦しい仮装を脱いで、人類が今日まで、異なる文明、文化、国、宗教、社会の中で実践してきた、自己表現の行為の一つととらえたとき、抽出されるエッセンスは何だろうか。そこに残るのは、とてもシンプルだが、状況を逸脱した着衣行為である。私はこれを「異装」と呼ぶ。本発表では、「異装」のモダリティについて考えること―-つまり、「コスプレ」という行為の中核を担う「逸脱した着衣行為」がどのような目的でどのように実現されるのかを明らかにすること―-によって、日本的な「コスプレ」が蔓延し、希釈され、変容し、全く別のものとして生まれ直してしまう世界においても、なお楽しく逸脱した着衣を繰り返すことのできる「ポスト•コスプレのファッション」を提案したい。
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01/2/14

有毒女子通信 Vol.12 特集「食べないこと、とか」 Now On Sale / Toxic Girls Review vo.12

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有毒女子通信第12号が昨年12月20日に発行された。12号の特集は、「食べないこと、とか」である。

有毒女子通信とは、編集長の吉岡洋さんとMATSUO MEGUMI+VOICE GALLERYの松尾恵さんが作っておられる、そのタイトルの通りキュートで高貴な批評誌で、初刊の2010年8月より、「体毛•陰毛」「体液と人生」「ところで、愛はあるのか?」他、これまで読んだことも聞いたこともないスゴい特集を毎回を社会に送り出し続けている。

私自身も「<小さな幸福>をめぐる物語」というタイトルで、第10号より毎回特集に関連するエッセイを連載させていただいている。例えば、特集「少女たちの行方」の第11号では、グラビア付き(?)エッセイ「ぱんつを売る少女」を、第10号「ところで、愛はあるのか?」では、「愛と施錠の物語」を掲載して頂いた。

さて、第12号のテーマは「食べないこと、とか」。似非不景気ムードを吹き飛ばす、クリスマス、年末年始、お正月の色鮮やかな大饗宴のなかで、「食べないこと、とか」と聞くと、「そうよね、そろそろダイエットよね」あるいは「ビオよね、菜食よね」などのパブリシティ的フレーズが脳裏を駆け抜けてゆきそうだが、『有毒女子通信』は、国の歴史も小さな社会の枠組みもぶち抜いて、生き物にとっての食に焦点を当て、そもそも人間の欲望に関して、それを望むことと満たすことの意味を議論する。私たちの生きる今日の社会が、どんなマジックで日々我々を目眩しさせているのか、これを読むと、考える。

第12号
巻頭文
特集「食べないこと、とか」 吉岡洋
鼎談「食べないこと、とか?」吉岡洋×松尾恵
批評「『ありあまるごちそう』あるいは »Le Marché de la Faim »」大久保美紀
エッセイ「〈食べない女〉の物語」大久保美紀
エッセイ「食べられないこと、とか」松尾恵

定価250円で好評販売中です。ヴォイス•ギャラリーあるいは吉岡洋さん、または、こちらのブログを通じてご連絡いただいても転送いたします。第10号より装丁も一新し、触れにくいほどに洗練されております。ぜひお手に取ってください。

有毒女子通信
MEGUMI+VOICE GALLERY (click!)
TOXIC GIRLS REVIEW on Twitter (click!)
Media Shop (click!)(予定)

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12/30/13

映画『アイ•ウェイウェイは謝らない』/ Film « Ai Weiwei Never Sorry »

Salon de mimi
Ai Weiwei Never Sorry
アイ•ウェイウェイは謝らない
web site : http://www.aww-ayamaranai.com/index.html

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アイ•ウェイウェイというアーティストのことを知らなかったら、人間の多様に思われる活動における「創造的表現行為」というものについて、それが生き続けることに匹敵し、むしろ、生き続けることと同義であるとすら言いうるまでにパワーを持ちうることなどを、未だに信じるに至らなかったかもしれない。アイ•ウェイウェイは、ディメンションが完全にズレている。それでも、あるいはそれ故に、彼の積み重ねてきた出来事をスクリーンを通じて通り抜けた後では、世界の中で生き延びることに関する考えを、もとの軌道に戻すことは叶わない。

2013年11月末より上映が始まった『アイ•ウェイウェイは謝らない』を東京都渋谷のイメージフォーラムで見た。アーティストとしてのアイ•ウェイウェイの活動はおそらくよく知られているので、ここで改めて紹介するまでもないと思う。このSalon de mimiでは、今年、ヴェネツィア•ビエンナーレで発表された3つの作品について論じた記事が以下のリンクに掲載されているのでご覧頂ければと思う。

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise
http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2148

「アイ•ウェイウェイのことを書くのは緊張感がある。」上の記事の冒頭に吐露した私の本心は今も一向に変わらない。アイ•ウェイウェイは本気でシビアに見えて、楽しそうでもあり、警察に頭を殴打されて手術を受け、81日間も拘束されて身の自由を奪われ、普通に心配する母親を普通に慰め、作品制作には手を触れない、作品制作の作業者たちとホカホカの中華料理を食べまくり、強い口調で口論している際もちっとも怒り狂ってはいない。アイ•ウェイウェイは、体制や社会と戦いまくる一人のエネルギッシュなアクティヴィスト以上の存在である。メディアを介したパフォーマティブな振る舞いと扇動的態度も、あたかもそれが彼の特殊性であるかのようにまばゆく語られたりもするが、本質的にはさほど重要ではないのである。アイ•ウェイウェイは、発言する。アイ•ウェイウェイは、行動する。

自分が怖がりだから、行動すると言う。行動しないことが、行動することよりも恐ろしいので、行動するのだと言う。

我々は、色々なことを色々な方法で発言する。「言うは易し行うは難し」という言葉があるので、一般的にこの世界では、口先から言葉を唱えることは誰にでもできて、行動する者こそ偉いと刷り込まれている。だが実は、言うことも行うこともさほど偉くも凄くもなく、卑怯でも汚くもなく、全く変わりのないこということなのである。アイ•ウェイウェイは、四川大地震の犠牲となった子どもたちを忘れないために個人情報を集め、名簿を作成し、ブログに掲載し、小学校の手抜き工事でぐにゃぐにゃに折れ曲がった鉄鋼を集めて、それを大きな限りない地面のように丁寧に積み重ねてインスタレーション作品を創った。警察に殴打されて負傷した現場を撮影し、ツイッターで報告、3ヶ月に渡る拘束中の生活を忠実に模型によって再現し、それを世界の人々の目の下にさらけ出した。

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私たちは、言うことも行うことも恐れる。批難され、嫌われ、疲労し、空っぽになるのが面倒だから。だからこそ、ネット上で過激な発言をし、リアル世界で奇抜なパフォーマンスをし、意を決してデモをし、そこでおこる非日常的な出来事と程よい疲労感に陶酔し、恐るべきことに、「満足」してしまう。愚かなことである。感情的なエネルギーは一時的に民衆を駆り立て、叫ばせ、暴力的にし、重い扉をこじ開けることを可能にするかもしれない。しかし、表現者たる者はその出来事の起こりうる全ての世界をあらかじめ受け入れているべきなのである。

その方法が輝かしいからでも、それぞれの出来事がドラマチックだからでも、この世界のなかで彼が特別エネルギッシュだと思うからでもなく、『アイ•ウェイウェイは謝らない』の映画を見て、作品を知ることは良い。それは、生きることがよく思えるからである。

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10/4/13

ILYAURA The Window @The Window, Nuit Blanche Event

« ILYAURA The Window »

@The Window rue Gustave Goublier 75010 PARIS
2013年10月5日20時〜
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ニュイブランシュというのがある。10月5日パリは眠らない。一晩中続くアートイベント、アートの白夜祭だ。2002年に初めてパリで開催されて以来、翌年にはローマ、その翌年にはモントリオールで開催され、都市の文化事業として重要な役割を果たしている。日本では、2011年より京都で毎年の「ニュイブランシュ京都」の開催が始まり、今年で第3回目になる。日本のほうが7時間も早いので、パリの夜は日本の夜が更け始める頃、ようやく明かりを灯し始めるのだろうか。

突然だが、パリでアートアソシエーション »ILYAURA »が設立された。パリを拠点に活動するアート•アドバイザー、キュレータ、アーティスト、クリティックが、これからのフランスー日本、もっと国際的には、エイリアン(異邦人)としてある場所から発信しようとする表現者たちの、出会いの場となり交流の場となり、出発と発展の場となるような活動を繰り広げて行くのが目的だ。私は、このサイトでも行っているような批評活動や現代アートのアーティストたちとの交流の報告を通じて、縁があり、このアソシエーションのメンバーとして、上述したような活動や目的について考えることになった。

私たちは、アートについて一晩中時間が与えられている一年にたった一度の10月5日の夜、創立イベントを構想した。白雪姫のパフォーマンスで国際的に知られ、アーティストとしてフランス内外で活発にプロジェクトを展開している、Catherine Baÿさんの運営するスペースThe Windowにて行われる当イベントは、ILYAURAとThe Windowのパートナーシップのオープニングを飾る意味でも非常に重要である。

当イベントは二つのパフォーマンスによって構成される。一つはコラボレーションと食をテーマにした私自身の構想したパフォーマンス作品で、もう一つは、この20時から始まるイベントに空間的•時間的な意味を与え、それらが重なり合い交錯し合うILYAURAとThe Windowの共同パフォーマンスである。本パフォーマンスは明日の晩に初めての発表となり、アソシエーションのメンバーでありアーティストの石井友人とThe Windowに所属するアーティストであるManon Harroisの合作である。

彼らのパフォーマンスの次第は是非、明日The Windowにお越し頂いて目の当たりにしていただければと思う。あるいは後日展示やトークイベントの予定もある。以下に構想についてのメッセージを掲載したい。

アート・アソシエーションILYAURAとThe Windowによる、ニュイブランシュの共同プログラムは、石井友人・マノンハロワの合作”La réponse de la plante à l’œuf”(卵に対する植物の応答)を発表します。
今回ILYAURA設立イベントにて発表される本作は、石井とマノンの相互交差的なコミュニケーションを通じて構想が練られました。本作において、石井とマノンのパフォーマンスは異なる場所(パリーランス)を通じて行われ、The Windowの中で二人はその遠く離れた距離を対象化することで、積極的に作品を生成しようと考えています。
パフォーマンスの中で、石井はインターネットを通じて、様々な彼の親しい友人達と交信を図ります。それ等のコミュニケーションはパリを起点として、東京(青木豊・千葉正也)・京都(木坂あおい)・ストラスブルグ(平石晃樹)など多岐に渡り、石井と彼らによりアーティスティックな往復書簡的なやり取りがなされ、その過程・結果はThe Window内部において可視化されます。
同時にこの様な親密な交信は石井によりランスにいるマノンへと同時中継され、彼女はこの中継に触発されることにより、独自のパフォーマンスを展開することになります。マノンはこのパフォーマンスにおいて、他者と隔絶された状況であると同時に展覧会場の空間に能動的な働きかけを行う特殊な存在です。この様なマノンと石井、マノンと観客の複雑な関係性は、距離を隔てたバーチャルなもので在るにもかかわらず、石井によって再度媒介され、具体的な実存をともなった創作物として会場内に展開される事でしょう。
二人の想像力は””La réponse de la plante à l’œuf”(卵に対する植物の応答)というタイトルに暗喩的に込められており、会場内での二人のパフォーマンスは一つのあるいは複数の応答として存在します。彼/彼女等による応答はフランス・日本のアート文化の相互交流の出発地点として相応しいと思われます。それらは常に揺れ動き・移動し、あたかも風によって運ばれる、小さな植物の種達のようなものかもしれません。
あなたがたが彼/彼女等の作品を通じて、新たな想像力の種を持ち帰る事を我々は祈っております。

さて、ケーキのことはまたの機会に喋ることにしよう。と思ったが、キーワードだけ。明日の創立+コラボオープニングイベント、様々の物事の始まりにはお誕生日ケーキがよい。ケーキ作りは孤独な仕事である。一つ一つの所作は単純であるけれども、時間のなかにある身体のことやそれが一貫性を伴うことが望ましいからだ。出来上がった素晴らしいケーキを食べるのは分け合う喜びである。アソシエーションの根底にあるのは我々が異邦人であるという強烈な意識である。我々は敢えて、異邦の土地で生れ、祝われることを選んだ。ケーキはフランス人におなじみのおやつや食材、古く彼らが愛してきた食べ物によって構成されている。彼らのエネルギーとなってきた食べ物たちによって。我々はそれらによって祝福され、受け入れられ、異邦のままにそこに生まれようとしている。この「不思議なケーキ」はそのようなものである。

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more information ILYAURA The Window

07/9/13

受肉した少女 – 有毒女子通信 vol.11 now on sale

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有毒女子通信第11号が出た。

有毒女子通信とは、編集長の吉岡洋さんとMATSUO MEGUMI+VOICE GALLERYの松尾恵さんが作っておられる名前通り非常に可愛らしい雑誌で、私はデザインが一新された先号より「<小さな幸福>をめぐる物語」と称してピースフルなエッセイを連載させていただいている。

第10号は、愛と施錠についてのおはなし。愛と施錠と言えば、貞操帯(ていそうたい)という詩的なオブジェクトについて、書いた。(「愛と施錠の物語」/ PETITS RÉCITS SUR LE BONHEUR EPISODE 1 click!)まだお読みになられていない方!売り切れちゃうよ♡ お気軽にご連絡ください!

第11号は、特集が「少女たちの行方」であったので、「ぱんつを売る少女」について書いた。リクエストにこたえて、大サービスで三行だけマル秘公開。続きは、全国の書店(ルビ:ヴォイスギャラリーおよび編集長)でお買い求めください♪ グラビア付きだよ!!(ホントかいな…。真偽はご自身でお確かめください)

 

「ぱんつを売る少女」は本当にいた。しんしんと粉雪の舞う静かな夜、凍える小さな手を吐息で温め、燐寸はいりませんかー、と道行く人に声をかける燐寸売りの少女を尻目に、ぱんつを脱ぎ捨てそれを売り、彼女は生きた。少女はなぜ、大切なぱんつを脱いだのか。   (『有毒女子通信第11号』より)

 

さて、少女はぱんつを売っても売らなくても、肉体を売っても売らなくても、ものごとの本質は微動だにしない。生身の人間としての少女は、思い悩むひつようも、傷つけられるひつようもない。

いつの頃からこの国には、生身の少女とまったく関係のない、いたいけな一人の少女がたくましく育ち、やがてあらゆる人々の思考を蝕み尽くした。蝕まれた思考は蜘蛛が巣を広げてゆくように、ネットワークを拡大し、そこに迷い込んでくる哀れな蚊だと蛾だとかを一度捕まえたらもう二度と逃がさなかった。少女はあまりに印象深いので、世の中の人々はやがてどの女性を見ても、その少女と脳裏で重ね合わせるようにして、いや、むしろ、その少女のようにみることしか、できなくなってしまったのだ。

 
要するに、イメージの問題である。
我々は、たかだか、バーチャル少女の終わりなき遊びに翻弄されているだけなのである。
繰り返すが、要するに、イメージの問題なのだ。

 

女性の坊主がなぜそんなにスキャンダルなのか?なぜそれをウェブ上の動画で見ることが、某アイドルに対して同情をあおることにつながり、あるいはドラマチックな展開に胸を痛めたり、はたまたそれを見てしまったこと自体にばつの悪さや罪悪感を感じるのだろうか。女は、少女の遊びのために、自らの肉体を貸し与えたに過ぎないのに。

 

アイドルやスポーツ選手や子どもタレントだった少女が、煙草を吸ったり、外泊したり、ドラッグで捕まったり、予想外に妊娠したりすると世間から過剰なほど憤慨され、嫌われ、疎外されるのはなぜか?それくらいのことは、彼女らよりもずっとずっと身近な知り合いのあいだで絶えず繰り広げられている他愛もないことなのに。そもそも、そのナイーブで平凡な理想をかかげることは、あなたの思考があの少女に乗っ取られていることを暴露する以外のなにものでもないというのに。

 

少女が受肉し、楽しく遊ぶのはすばらしい。
自らの肉体を貸し与える女たちは勇敢である。
蜘蛛が編んでゆく精緻な巣の構造はあまりにうつくしい。

 

有毒女子通信
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05/26/13

Les Citrons, projets d’un livre numérique expérimental / 『檸檬』e-book作品の試み


Ensad Lab, Emeri (Ecran mobile et récit interactif)が中心になって計画してきた展覧会« Mobilisable 2013 »に二つの作品をだすことになりました。コンセプト自体は2年前くらいからずっと考えてきたもので、使用写真などのメディアも、かなり長い時間かかって作ってきました。たくさんの方々のご協力も得ました。本作品は、電子書籍の形をとっていますが公にダウンロードは出来ないので、展覧会にお越し頂くか、お会いした際にご覧頂ければと存じます。作品のイメージビデオは以下にあります。
(また、展覧会のサイトは こちら 、また詳細は こちら(salon de mimi内) にもございます。)

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大久保美紀
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2013年 iPad用デジタルブック作品として

写真:大久保美紀
コンセプト:大久保美紀
技術:ドミニク•キュナン

iPad、フォトアルバム、シュミレーションビデオ
本作品は、1901年生、31歳で夭折した大正文学界の鬼才、梶井基次郎の短編小説『檸檬』(1924年)の現代的で実験的な読書経験を追求した作品である。基次郎が21歳の時に書いたこの散文は、非常に奇妙で一貫性がなく、それでいて作家の鋭い感覚や世界への視線や直観的な解釈といったものが随所に浮かび上がるように表現されている。1920年頃より、肋膜炎にかかり、その肺尖カタルに苦しむ。退廃的な生活と母への贖罪という矛盾した感情に引き裂かれながら5年かけて高校を卒業した後、東京大学の英文学部に進学する。矛盾したように見える要素が共存する複雑だが豊かな文体、それは洗練されたセンスを予感させるもの、平和的でしかしメランコリックなものがそこにある。日本の伝統文学の当時の自然主義とも耽美主義ともつかぬ、あるいはまた西洋的な香りを感じさせる、私小説的でありながら独自のものである。

この作品を本プロジェクトで取り上げたのは、この作品が古びない芸術的価値たるものを感じさせるからに他ならない。一見すると、ある意味で時代的で社会的で文化的で個人的な主題をしかもかなり独自の言語、文体で綴られた(基次郎の文体は日本人から見ても特徴的である)文学作品が、全く別の言語システムの中でどのように独り立ちし、そしてどのように受け止められる可能性があるのか、そのとき、新しく生まれた翻訳文学と、オリジナルの文学の間にはどのような関係性とギャップが生まれ得るのかという、長きに渡る個人的な関心事項に深く触れる。
現代は、インターネットや翻訳システムの開発、目覚ましく進化する同時翻訳や、文章や小説の電子アーカイブ化のなかで、翻訳文学の持つ意味も変化しつつ在ると考えられる。
そのようにある作品はしばしばそれが生み出された言語と切り離された状態で味わわれ、評価され、愉しまれる。翻訳文学は、しかしながら、オリジナルとともにある。あるいはそこから遠く隔たって立ち現れたとしても、本質としてそれらは共にあり、共にあり続ける。

本作品では、そのことを、1においては重ね合わさせた異なる二カ国語のテクストによって表し、2においては音声とビジュアルがシンクロナイズされるという方法で表現した。

Le Citron 1においては、我々はぴたりと重ねられた異言語のテクストに戸惑い、その内の一つを選択しようと試みる。背景のイメージは、各々のページのテクストが表象する物語の場面と対応しているのだが、それを隠していたテクストが失われると鮮やかな色彩を取り戻す。さて、テクストを追いかけてそれらがあるはずの方向に場面を滑らせると、そこには非日本語話者にとって不可解な言語でしかない「日本語」で書かれたオリジナルのテクストだけが黒い背景の上にくっきりと浮かび上がる。そこを逃れようとして、画面上に指を滑らせても、そこからどこにも行くことは出来ない。読むことの出来ない本は、放棄されてしまうのだろうか。しばらくじっと待っていると、もう一つの『檸檬』がゆっくり浮かび上がってくる。

Le Citron 2においては、鑑賞者は一冊の写真アルバムを手渡される。全ての写真は白黒で、頁番号がふってある。そのイメージにぴたりと画面あわせると、白黒のイメージがぱっと鮮やかな色彩を帯びた同じイメージとして交換される。それが消えると、一本の糸のようにフランス語の檸檬のテクストが一定のスピードで流れてくる。同時に日本語で朗読する声が重なる。読者が読みたいリズムでストーリーを読み進めるという行為は、ここでは朗読者のリズムで物語が紡がれ、それにシンクロするテクストを追いかけるという行為にすり替えられてしまう。

本文の朗読は、吉岡洋さん、コンセプトアドバイスはジャン=ルイ•ボワシエさん、そしてプログラミングはドミニク•キュナンさん、そして京都写真の撮影協力で田中学さんにお世話になりました。ありがとうございました。

本作品のイメージビデオはこちらです。

Le lien video : ici
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Miki OKUBO

« Le Citron 1 » (développé sous Mobilizing, modèle le diorama)
« Le Citron 2 » (développé sous Vuforia, la réalité augmentée)
mai, 2013, pour les projets d’un livre numérique expérimental

Médias : Miki OKUBO
Concept : Miki OKUBO
Conseil : Jean-Louis BOISSIER
Programing : Dominique CUNIN
Voix : Hiroshi YOSHIOKA

iPad2, livret de l’album de photo, maquette 1, maquette 2

Dans le cadre de la recherche sur les livres numériques expérimentaux, ces deux projets jumeaux proposent une nouvelle forme de lecture de la nouvelle intitulée « Le Citron » (1924) de Motojiro Kajii, écrivain de génie à l’époque de Taishô. Motojiro Kajii naquit en 1901 et mourut d’une pneumonie en 1932 à l’âge de 31 ans. L’histoire « Le Citron » écrite quand Kajii avait 21 ans est un texte étrange. Il manque de cohérence et montre un air de décadence, toute fois, dévoile une vision sensible du monde, une sensibilité subtile, et des interprétations précises de l’auteur.
Il souffrit de la pleurésie ensuite de la catarrhe chronique, et décéda sans se guérir. Déchiré entre les sentiments contradictoires : une passion de la littérature qu’il n’atteignait qu’au travers d’une vie décadente, mêlé à un sentiment de rédemption apporté par sa mère qui le soutenait. Kajii finit ses cinq années d’étude au lycée et commença ses études de la littérature anglaise à l’Université de Tokyo (l’actuelle Todai). Son style d’écriture est complexe et riche par la coexistence de l’ensemble des traits antonymes, comme sophistiqué, paisible à la fois mélancolique. Il n’était pas écrivain naturaliste ni esthéticien. Ses ouvrages souvent influencés par l’esthétique occidentale semblent être une autofiction, cependant il est toujours impossible de les définir.

Le choix du texte s’est fait, d’une part pour sa valeur artistique impérissable de l’ouvrage « Le Citron », d’autre part pour certaines caractéristiques de style chez Kajii qui convenait à mes intérêts à propos de la littérature traduite. Employant un vocabulaire unique, son texte est basé fondamentalement sur une ambiance de l’époque et la culture, traitant des thèmes personnels. Que se passe-t-il dans la relation entre le texte original et traduit, quand ce texte sera traduit et deviendra autonome dans une autre langue complètement différente ? Je m’intéressais à ce point-là.
Dans la vie contemporaine, nous vivons en bénéficiant de développements impressionnants des systèmes de traduction, comme certains logiciels qui permettent de traduire des textes en temps réel. Cela modifie la signification et la position de la littérature traduite. En outre, l’accélération des techniques pour l’archivage numérique des livres bouleverserait aussi ses modalités.
Néanmoins, il va de soi que la littérature traduite n’existe qu’avec les textes originaux. Même si, grâce aux systèmes de traduction sur le réseau, on a l’impression que la littérature traduite soit parfaitement transparente et superposée sur le texte original, ces deux textes sont fondamentalement différents bien qu’ils n’existent qu’ensemble, et qu’ils ne s’oublient ni abandonnent jamais.

D’abord, dans « Le Citron 1 », deux textes de différentes langues superposées jouent un rôle important, dans « Le Citron 2 », les lecteurs auront deux informations différentes : média sonore et texte mobile.

Dans « Le Citron 1 », nous sommes embarrassés par l’illisibilité des textes et finirons par en choisir un. Les images de fond en tant qu’information visuel représentent une atmosphère ou bien une scène de pages. Quand nous glissons sur la page noire à droite, il n’y a qu’un texte japonais, sans possibilité d’obtenir un texte compréhensible pour les lecteurs francophone. La traduction est un travail du « temps » où le traducteur prend un moment suffisant pour s’immerger dans l’univers de cet auteur et retrouver petit à petit son récit dans un autre système linguistique. Nous, les lecteurs, partageons ce temps indispensable afin d’atteindre un autre ouvrage « Le Citron » qui viendrait de naître, devenu autonome.
Dans « Le Citron 2 », les lecteurs seront invités à faire une expérience de lecture consistant en deux différentes actions synchronisées. Quand les mêmes images de fond que « Le Citron 1 » seront captées par l’écran de l’iPad, ces images en noir et blanc se rendent en couleur, puis, la voix du déclamateur et le texte mobile simultanément commencent. Nous pourrions quitter la page commencée, cependant, il n’est pas possible de choisir une de ces deux actions, ni de revenir en arrière pour récupérer la partie déjà disparue de l’écran même si nous n’avons pas réussi à de le capter. Ce qu’il existe là est une histoire unique, « Le Citron » reconstitué différemment que l’original…

(Miki OKUBO)

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05/22/13

Mobilisable 2013 au Labo de l’édition, 30 et 31 mai 2013

Mobilisable 2013 au Labo de l’édition, 30 et 31 mai 2013

Mobilisable 2013, ouvrages expérimentaux pour écrans mobiles
Deux journées au Labo de l’édition*, jeudi 30 et vendredi 31 mai 2013, de 14h à 18h.
展覧会 « Mobilisable 2013 » @Labo de l’édition, 2013年5月30日、31日(14時−18時)
ラウンド•テーブル『モバイル•スクリーンのための実験的エクリチュール』、5月31日18—20時、同会場にて。入場自由。ぜひお越し下さい!

(texte cité de site « mobilisable 2013 »)
On le sait, en l’espace de peu de temps, l’écran est devenu fondamentalement mobile. S’il vient du téléphone, installé sur les réseaux, il est à la fois un ordinateur et une  page. Ce qu’il affiche, et ce sur quoi il permet d’agir à la fois intuitivement et selon nos habitudes culturelles, est aussi bien de l’ordre du livre et de la carte, du film et de la télévision, de l’outil et du jeu. Ne pourrait-on pas regarder ce que l’écran nous offre comme une entité qui serait plus ou moins tout cela à la fois, et même dans une version « augmentée » ? C’est ce type d’« ouvrage pour écran mobile » qu’il est passionnant d’explorer aujourd’hui, sans se poser nécessairement la question de sa nature ou de son destin. Ce sont un certain nombre de prototypes de ces ouvrages expérimentaux qu’expose « Mobilisable 2013 » au Labo de l’édition, sur une proposition du laboratoire EnsadLab de l’École nationale supérieure des Arts Décoratifs, associé à l’Université Paris 8 et à la Haute école d’art et de design-Genève. À l’exposition et à la démonstration s’adjoint bien sûr la discussion : des rencontres et une table ronde.

La table ronde « Une écriture expérimentale pour écrans mobiles » (jeudi 30 mai, de 18h à 20h) invite des designers et chercheurs à témoigner et à débattre des nouvelles formes de consultation et de lecture, mais d’abord des questions d’expérimentation et de formation attachées à une écriture propre aux ouvrages pour écrans mobiles.
Liste des intervenants :

Jean-Louis Boissier, chercheur à l’Université Paris 8 et à EnsadLab
Dominique Cunin, artiste, chercheur à EnsadLab
Jean-Michel Géridan, professeur de design graphique et interactif à l’ESAD-Le Havre
Anette Lenz, graphiste, professeur à la HEAD-Genève
Camille Pène (Labo de l’édition, modératrice)
Étienne Mineur, designer, professeur à l’EnsAD et à la HEAD-Genève
Daniel Sciboz, graphiste, professeur de design interactif à la HEAD-Genève
Douglas Edric Stanley, professeur de design interactif à la HEAD-Genève

* Labo de l’édition
http://www.labodeledition.com/
2, rue Saint-Médard, 75005 Paris
Tél : +33 1 83 64 89 00
contact@labodeledition.com

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05/11/13

書き散らかしの信仰 :「現代的ドラマツルギとその構造に基づく文学創作」/ Création des romans selon la nouvelle dramaturgie et structure littéraire

2013年パリ第8大学Arts Plastiquesの学部学生を対象とした授業で、後期(2月~5月)「création littéraire / 文学創作」と題された授業を行った。この授業は前期の講義形式とは異なる実習の授業である。パリ第8大学の芸術学科の特徴の一つは学生の幅広いポテンシャルと興味に応えるバラエティに富んだ授業である。実に前後期合わせれば300もの異なる授業が提供されている。さて、フランス語ネイティブ話者でない私が「création littéraire / 文学創作」などと題された授業をするのは、もちろん一般的な意味での文学作品の創作のスキルを学ぶためなどではない。しかし、実習という授業のスタイルを最大限に生かした制作(の嵐)を経験し、その行為ついていちいち考えるためである。
参考までに、シラバスに掲載した詳細は以下。

Titre : Création des romans selon la nouvelle dramaturgie et structure littéraire
Contenu : Dans la société informatique, les développements techniques des jeux vidéos et l’expérience généralisée de la vie virtuelle modifient radicalement la construction littéraire et la dramaturgie. À travers ce cours, on réalise des créations de romans (courts récits dont la forme sera à choisir) en se référant aux caractéristiques structurales, soit de “Keitai-Novel”, “Twitter Novel”, ou encore “Game Novel”. On les diffusera aux lecteurs sur le réseau en réfléchissant à la meilleure stratégie, ou bien on fabriquera un livre imprimé. Ce cours pratique sera conduit en relation avec le cours thétique “Exposition de soi et dispositifs mobiles”.

題目:「現代的ドラマツルギとその構造に基づく文学創作」
今日の情報化社会の中で、コンピュータゲームの技術発展やヴァーチャルリアリティーの日常的経験が我々のライティングやドラマツルギの構造にまで影響を及ぼしている。本実習では、このような変化したライティングの構造的特徴に基づいて様々な可能な形式を選択の上、短編を書く。ケータイ小説、ツイッター小説、ゲーム小説などもその選択肢に含まれる。ストラテジーを練り、最も効果的な方法でインターネット上で発表するか印刷して製本する。本演習は、前期講義「自己表象とモバイル•メディア」の関連授業である。

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本演習は、全12回(1回150分)を大きく3つの項目に分けた。
1、ミニブログを利用し、短編小説を書く
2、日記(ブログ)について考え、日記を書く
3、自由なメディアを用いて私小説を創る

第一部では、ケータイ小説、ライトノベルやゲーム小説(オンライン小説)といった、文学と非文学/プロの作品とアマチュアの作品の境界線を揺るがせながら存在するような作品群の物語構造に着目する。これらの新しい文学作品は経済的なインパクトを考えれば決して無視できない重要な傾向を示しているにも関わらず、クラシカルな意味での小説とこれらの創作は頑固なまでに隔たれがちである。しかし、このような物語に深く侵食された今日、実際に人々がものを書くそのありようは、レシの構造の変化の影響を否応なしに受けている。発話が断片化するだけでなく、その結果、テクスト自体の断片化はロジックの方法にも影響を及ぼす。ミニブログやソーシャルメディアにおいて日々何かを書くという経験を「小説を書く」ことと関係付けられるだろうか。
第一部では、シンプルなゲームのルールを共有し、梶井基次郎の『檸檬』をベースにした幾つかのライティングを実践した。プラットフォームはツイッターを使用した。
①リレー小説(タイトルと出だし、終わりを共有し、その間を参加者で繋ぐ。一つのエピソードはツイート1回分で書かれなければならない。)
②ツイッター小説 課題創作、自由創作(リアルタイムにエピソードごとツイートし、物語を紡いでいく。長さは自由。)
③紙に書くツイッター小説 (②と同じ構想の物語を紙に書く/タイプする。文章表現、物語の長さ、文体は全く異なるものとなる。)

第二部では、日記、自伝、自画像(セルフポートレート)、私小説をキーワードに、今日「私」について書くとはどんな意味を持つ行為なのか考える。日記帳それ自体に錠がついていることもあり、誰にも見られないようにコッソリ書き綴る日記と、赤裸々に綴られた日々の出来事や心境を写真を添えてリアルタイムで公開し続けるブログ。両者は共に、「私」について書く行為に違いないが、その目的も方法も異なる。読まれる事を意識して書かれるブログは、意識的にも無意識的にも、作者が演劇的に振る舞うように促す。演劇的振る舞いには誇張やでっち上げ、噓も含まれる。発表することを前提に書かれた日記は、それがもし物語的変形を含むのであれば、「私」を主人公に織られたオートフィクションと果たして違うものと言えるのだろうか。
第二部では、参加者それぞれに「私にかんする5つの話」を書いてもらった。全体を通じてのタイトルと、各々の話には個別のタイトルをつけ、それぞれの話は個人が選んだ何らかのメディア(写真や音楽、ヴィデオなど)を伴ってブログ記事として発表する。日記の枠組みの中で、どの程度本当の話を書き、あるいは演出するかはそれぞれにまかされている。蛇足であるが、本創作の一つのアイディアの例として、5つの話を写真を添えて授業ブログに掲載した。参加者の多くは、一例としてこれを参照している。(pdf.Les histoires ordinaires(en français), 日本語版はこちらにもあります→salon de mimi,尋常な話 1,2,3,4,5 )

第三部は、文学のみならず、現代アートの領域に目を向けたときにも私小説的なアプローチやテーマはクリティカルな位置を占めていることを認識した上で、私小説のさまざまな方法について模索する。さらには、小説創作のプラットフォームはウェブ上にも見られ、それは必ずしもプロになる事を目的とせずにアマチュアのライターにも広く門戸が開かれているように見える。私たちが「私」についての物語を創作し、それを授業サイトを通じて発表できてしまい、作品がインターネットを通じて誰かによって鑑賞されること、そのたやすさをどう考えれば良いか。あるいは、たやすさの反面、情報を発信してもそれが誰にも読まれないかもしれない可能性(現実)につきまとう空虚な手応えをどう生きればいいか。書き散らかされ、放置されたテクストの山は積み重なる一方であり、情報発信のたやすさはこの山の巨大化に協力するよう全ての個人を招待する。
第三部では、テクストに限らず、自由なメディアを選択の上、オートフィクションを完成させ、その内容を授業ブログに発表し、最終授業で参加者に紹介することにした。

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本演習ではレポート2回が課され、受講者はその問題について作成したレポートを同ブログに公開した。
Sujet du rapport 1
Réflexion sur la pratique de la création littéraire en diffusant les fragments en temps réel comme micro-récits.  Analysez aussi les nouvelles modalités de l’écritures fragmentée en comparant les 2 moyens différents de l’écrit  : sur Twitter et sur papier.
レポート課題1:ミクロブログを通じた短編のように断片的に拡散される文学創作の実践について考察する。断片化されたテクストのあり方についても分析する。

Sujet du rapport 2
Après avoir lu l’ensemble des journaux intimes publiés sur le blog…,
– Publier un journal intime sur le réseau et en tenir sur un carnet sont des expériences tout à fait  différentes, car, quand on le publie sur internet, il est indispensable d’être conscient du regard des autres. ( L’existence de lecteurs inconnus )  Comment cette prise de conscience et cette situation particulière influencent ou modifient l’écriture d’un journal intime ?
– Aujourd’hui, le blog ou bien les sites comme interfaces qui proposent de devenir “écrivain amateur” offrent une grande possibilité pour la création littéraire, comme s’il était désormais plus facile de vous exprimer dans l’écrit. Argumentez votre point de vue et vos remarques à propos de l’acte littéraire dans la société informatique.
レポート課題2:授業ブログ(Le cours)上に公開された作品(journal intime 2013とタグのあるもの)を読んだ上で…、
—インターネット上に日記を公開することと日記帳に綴ることは異なる実践である。インターネット上に公開する際には他者がそれを読む事が前提ととなっているのは言うまでもない。その読まれ得るという意識は日記を書く行為にどのような影響を及ぼすか。
—今日、ブログやアマチュアライターの活動を勇気づけるようなサイトは、文学創作の可能性を切り拓き、それはあたかも、これから人々は書くことによって容易く自己表現できるのだと主張しているようでもある。情報化社会の中で、ものを書くとはどのようにあるべきか。

昨年の9月に開設したこの授業ブログは、現在500もの記事が文字通り「散乱している」。各々の独立した情報が整理されたページと違い、ホームを覗けば、タグごとに検索しないかぎり、投稿された時間順にひたすら記事が現れる。書き手の殆どはソーシャルメディアを利用した経験があり、チャットやメールなどのデジタルテクストによるコミュニケーションに慣れており、中には個人ブログに日々日記を書いている。彼らはウェブで言葉を発することに何の恐れもなく、戸惑わない。さきほど「散乱している」と言ったが、私は故意にそれが散らかるように仕組んだのではないし、各々の記事にはタイトルもキーワードもタグもついており、カオティックな本棚よりも遥かに整然としているのかもしれない。それでもなお、この場所は何となく不穏である。ウェブリテラシーとか、ウェブ時代のルールのようなものがあり、繊細できちんとしていて情報リテラシーがある先生ならば、授業ブログは、各々の記事のクオリティーを高くしようとか、書き間違いや誤りは皆無にしようとか、生徒の書いたものを隅々までコントロールしてその内容を管理把握しようとか、せめて前のスメスターの記事は消そうとか、考えるのかもしれない。私は今のところそれをしていない。勿論、誤字脱字のレベルなら外国人の学生も多いパリ第8大学なので添削めいたことをするのは悪くない。その外で私は今のところ、全ての記事を残し、全ての書き手にも彼らが望むなら、いつでもログインして自分の記事を直したり消したり新たに書き加えたりする可能性を開き続けている。にもかかわらずその結果は、自分の書いた物がこんなにも閲覧可能に置き去りにされているのに、誰一人としてそのテクストを拾い集めに行かず、振り返って直そうともせず、あるいはすんだ事だからと言って処分したりもしない。大学生活では次々に課題が与えられ、論文やレポートやプレゼンが課され、それらを超高速でこなして、できるだけ良い点数で単位を取得しなければならない。したがって、授業で要求されたならレポートをウェブで公開するのも仕方ないし、済んだ事は基本的に振り返らない。この諦めの態度は、悪く言えば堕落であり、良く言えば、底抜けにいさぎよい。

私の行っていることは、いわゆる完璧志向の既存の情報リテラシーを信仰する人には最強の堕落と見なされるだろうし、授業のウェブサイトはそのように「あるべきでない」と否定されるだろう。私はそう思う人がたくさんいるだろうことと、その憤慨は理解した上でなお、この書き散らかしたものたちが何か大切なことを語っている気がしてならない。書き散らかしこそが本質的と思っている一面もある。そして本実習の結果は参加者に実験的書き散らかしを経験してもらう事でもあり、そのことについていちいちああでもないこうでもないと考えてもらうことであった。そしてその考えた事をウェブおよび物理的空間(授業中)の両方で緩やかにでもいいから共有するということが、このCréation des romans selon la nouvelle dramaturgie et structure littéraire(「現代的ドラマツルギとその構造に基づく文学創作」)と題された授業で目指したことである。

*Le Coursの今後のゆくえは未定である。個人的計画ではまだしばらく、「このまま」である。ちなみにどなたでも筆者としてメンバーになることができる。参加希望があればどうぞご連絡ください。(Le Cours :http://www.mrexhibition.net/cours/)

05/10/13

Conférence de Hiroshi YOSHIOKA / 吉岡洋 講演会 @Ensad, Paris

Conférence (en anglais) par Hiroshi YOSHIOKA

EnsadLab/EMeRI, en coopération avec l’Université Paris 8 — Cycle « Le Japon des nouveaux médias »
Mercredi 29 mai 2013, 18h30, amphi Rodin, EnsAD, 31 rue d’Ulm, Paris 5e (site d’Ensad, plan ici)

*Entrée libre, sans réservation! Vous êtes tous les bienvenus !!!

2013年5月29日、パリのエンサッド(Ensad)において、エンサッド•パリ第8大学主催、ジャン=ルイ•ボワシエの紹介による吉岡洋講演会を行います。入場自由、18時30分開始、是非お越し下さい。講演は英語、ディスカッションは英語、フランス語、日本語(など)可です。ご質問などございましたらこのブログを通じてご連絡ください。

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When Interaction Reaches the Critical Point
The development of media technology normally parallels with the sophistication of the artificial world. In my thought, however, the most potentially significant impact of media technology on our worldview is that it radically refreshes our understanding of « nature, »  by blurring a conventional borderline which seems to have been sharply drawn between the natural and the artificial. The use of the computer in the science of complex systems, for example, does not aim at creating the exact simulation of a natural phenomenon, but it means to lead us to a deeper understanding of nature by revealing limitations of the numerical simulation. The important thing is not to overcome limitations but to focus on an interaction between nature and our intelligence. This is also the case with artistic attempts employing media technology. What we usually call « interactivity » actually means an accelerated (or « real-time ») chain of actions and reactions, which specifically cannot be distinguished from traditional understanding of « (re)action. » How, then, can we describe what we should call truly « interactive, » a framework to understand a human activity merged with media technology?  In my presentation, I will try to describe such a conceptual framework in the context of contemporary Japanese society and culture after the Great Tohoku Earthquake and the Fukushima Nuclear Disaster.

 

Quand l’interaction atteint un point critique
Le développement de la technologie des médias est vu comme parallèle à la sophistication du monde artificiel. Selon moi, cependant, l’impact potentiellement le plus significatif de la technologie des médias sur notre vision du monde est qu’il renouvelle radicalement notre compréhension de la notion de « nature » en brouillant la limite conventionnelle qui semble nettement tracée entre naturel et artificiel. L’usage de l’ordinateur, notamment dans les sciences des systèmes complexes, ne vise pas à créer la simulation exacte des phénomènes naturels, mais nous conduit à une compréhension plus profonde de la nature en révélant des limites de la simulation numérique. La chose importante n’est pas de surmonter ces limitations mais de se concentrer sur une interaction entre la nature et notre intelligence. C’est aussi le cas des tentatives artistiques qui emploient les technologies des médias. Ce que l’on nomme ordinairement « interactivité » signifie une chaîne accélérée (ou « en temps réel ») d’actions et de réactions, qui ne peut pas être spécifiquement distinguée de la compréhension traditionnelle d’une (ré)action. Comment, dans ces conditions, décrire ce que nous pourrions véritablement nommer « interactif » ? Un cadre pour comprendre les activités humaines confondues avec la technologie des médias ? Il s’agit alors de tenter de décrire un tel cadre conceptuel dans le contexte contemporain de la société et de la culture japonaises, après le grand séisme du Tôhoku et le désastre nucléaire de Fukushima.

 

pastedGraphicHiroshi Yoshioka

Born in Kyoto in 1956. Professor of Aesthetics and Art Theory at the Graduate School of Letters, Kyoto University.  He is the president of Japanese Association of Semiotic Studies.  His books(Japanese) include The Present Tense of Thought: Complex Systems, Cyberspace, and Affordance Theory, Kodansha, 1997 and Information and Life: The Brain, Computers, and the Universe, with Hisashi Muroi, Shinyosha, 1993.  As well as being involved in the planning of exhibitions, such as Kyoto Biennale 2003 and Ogaki Biennale 2006, he has served as ICOMAG (The International Convention on Manga, Animation, Game and Media Art) Chair for three consecutive years.

Hiroshi Yoshioka
Né à Kyoto en 1956. Professeur d’esthétique et de théorie de l’art à l’École doctorale de la Faculté des lettres de l’Université de Kyoto. Il est président de l’Association japonaise d’Études sémiotiques. Ses ouvrages (en japonais) incluent : Le Temps présent de la pensée : Système complexe, cyberespace, et affordance, Kodansha, 1997 et L’Information et la vie : Cerveau, computers et univers avec Hisashi Muroi, Shinyosha, 1993. Il s’est occupé de divers projets d’expositions, comme la Biennale de Kyoto en 2003 et la Biennale d’Ogaki en 2006. Il a présidé trois années consécutives l’ICOMAG (Convention Internationale des mangas, animations, jeux et arts des médias) à Tokyo.