08/30/14

INVITATION – 浮遊する意識 –

INVITATION – 浮遊する意識 –
2014.8.9 – 8.24 @KCUA
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8月24日まで@KCUAにて開催されていた本展覧会は、京都市芸術大学芸術学研究室の学生が企画・実施する展覧会「Colors of KCUA」シリーズの第4回で、「INVITATION = 招き」をコンセプトとして構成されている。日本語の「招き」は古語「招し」(おもしろい、好ましい、美しい)に関わるという本来の意味に着目したコンセプトだそうだ。
なるほど、INVITATION=招きの展覧会は、おもしろい経験へと鑑賞者(あるいは参加者、体験者)を招いてくれるダイナミックな空間であるようだ。

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展覧会会場に赴くと、まず迎えてくれるのは、東谷俊哉の作品《「私」の観測法》のベイビーだ。ちょっと怖いが近寄ると、やっぱり更に怖いのだが、長いへその緒で向こう側に繋がっている。そうか、このベイビーはまだ産み落とされておらず、母の肉体と接続している存在として一時的にこの場に置かれているのだろう。体験者は、ベイビーの向こう側に居る母親の体内を思わせる着物の中に潜り込むように招待される。その内部では赤ん坊の視野が転写される一方、着物の内部に包まれて声を持たない「内側」の者の発言は赤ん坊によって媒介されて「外側」に向けて発せられる。身体を用いた体験を通じて、自他の境界に関わる問題を扱うこの作品が、へその緒で結びついたままの赤ん坊とそれを宿すものを「自」「他」の表象として用いたのは、ロジックであるが同時に奇妙なことでもある。産まれる私はそれを宿した個体とは根本的に異なる個体であるにもかかわらず、その両者は曖昧に接続されており、その内部ではたしかに、思考や感覚の転写や媒介ということが起こっても不思議ではない。あるいはもっと自他の境界が曖昧な世界では、そもそも、赤子とそれを包むもの両方が、自分という個体の異なる現れ方であると認識することも可能かもしれない。ここで、世界からやってきて知覚されることと、世界に向けて作用することという二つの距離が近づいたり離れたりするのだ。

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映像を映し出す複数の画面が一面の背景のように設置され、その前には赤い布がかぶせられた背の高い台がある。台の上には古代の宗教儀式を思わせる五体の埴輪のようなものが置かれており、赤い布が広げられたその地面はというと、無数の埴輪の欠片が散らばっている。黒木結の《consum(ed)er》は、資本主義経済において消費される「アイドルという生身の少女のイメージ」についての作家の思考を表しているそうだ。画面には断片的に、いわゆる「アイドルらしい」少女が、フェミニンなワンピースを着て現れ、少年と仲睦まじくしている様子などが映し出される。そして、埴輪が振り落とされた金槌によって破片と化すプロセスが繰り返される。
モノを破壊するという行為は、それがたとえ小さな規模であっても、そこに暴力が介在するという点で、その破壊行為そのものが強い印象をもつ。それが映像として表現されたときは殊のほか強烈である。それが繰り返されればさらにその効果は補強される。それゆえ、物語全体は破壊行為に煙に巻かれない意味を持つことが必要になるだろう。
「アイドル」というのはもちろんテレビに登場するアイドルだけでなく、「アイドル的存在」といった表現によって想起されるイメージも含めて「アイドル」と作家は呼んでいるのだろう。イコンを壊し続けることによってなされることはなんなのか。消費され続けるイメージを新たにしうるのかどうか。こわしてもこわしても、映像はループし、おわりなく、アイドルは現れるのである。そのことがむしろ真理のようでもある。

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横内朝の繊細で内省的な物語を表現するインスタレーションは、小鳥をモチーフにして恋愛を表現した作品である。過剰に演出されたナイーブなテクストやオブジェは、「恋」や「恋愛」がしばしばそのように作り込まれていること、作り込まれた虚構の物語を反復するように導かれていることなどを十分に戦略的で強かに暴きだしていると言えるだろう。

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鈴木孝平の映像と写真作品は、我々が普段見ているはずのものや、感じているはずの感覚を提示する。たとえばビニール袋がくしゃくしゃになった状態からどのように広がり、どこまで広がれば動き続けるのをやめるのか。小さくまとまったコードがどのように元の形に戻ろうとして、しかしどの時点でもう動けなくなるのか。我々はそのことを知らない。これらのビデオを見ながら、我々はそうか、普段は意識していないけど、こんなふうに世界は営まれているのだな、などと、無垢なことを思うかもしれない。しかしふと考えて見ると、我々は普段あまりにも不注意で、そのことが本当に起こっているのか、あるいはどのように、いつまで起こっているのか、そのことを全く知らないのだから、それらがたとえば真実でも虚実でも、結局の所、我々はそれを判断できない。知らない我々はそれを信じるのは自由だが、信じなくても別に良いのではないか、ひょっとしたら、信じられないようなおかしな方法で世界が動いているかもしれず、それはそれで、そのほうが面白いのではないか、などと世界に関心を与えてくれる作品である。

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08/29/14

アート・スコープ 2012-2014 旅の後もしくは痕 / Art Scope – Remains of Their Journeys

「アート・スコープ 2012-2014 旅の後もしくは痕」

原美術館:http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html
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原美術館では、2014年7月12日から10月13日より、四名のアーティスト:今村遼佑、大野智史、リタ・ヘンゼン(Rita Hensen)、ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)による「アート・スコープ2012-2014」展が開催されている。本展覧会は、Daimler Foundation Japanの文化・芸術支援活動 »Art Scope »の一貫で海外での経験を経た四名のアーティストが、その交換プログラムの成果を、それぞれの異国での経験をもとに制作した新作によって発表する展覧会である。2012年、リタ・ヘンゼン(Rita Hensen)、ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)はドイツより日本に召還され、今村遼佑、大野智史は2013年、日本より派遣された。

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大野智史の絵画には、具象的に描かれた植物の葉や実、それを取り巻く自然の景色を認めることができるが、そこに強烈な色彩の幾何学的で抽象的なフラグメントが挿入されている。背景の色もオレンジや白が用いられ、それはおよそ描かれた植物が生きる世界とは異次元であるにもかかわらず、時にカオティックに配置されるそれらは、飛び交い混ざり合う幾何学的欠片を通じて結びつきを持っている。
大野智史の絵画には21世紀のデジタル技術と絵画の融合の可能性を探る態度が見られる。デジタルイメージの転用、複数のイメージのレイヤーを重ねるということ、そういった表現は今日多くの表現者によって新たな可能性の追求が行なわれており、既視感とは恐ろしく、ときに我々の鑑賞を妨げ、瞬時に行なわれるステレオタイプな判断で我々を盲目にすらする。大野智史の大きな画面を何度も見つめながら、私は、現在のようにデジタルイメージで溢れ返る時代に、わたしたちがなお、絵画作品に向かい合う意味があるとすれば?という問題について考えていた。(もちろんその意味があると思っているから見るのだし、表現者が描き続けるのも同じ理由だと信じているのだが。)
画家の創り出す「表面」が非常に触覚的なものであるということが、これに向かう一つの理由になり得るだろう。どれほどデジタルイメージの解像度が上がり、3Dの再現性も進化したとしても、それでもなお、近づいて凝視する価値のある絵画であると私は呼ぶだろう。

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お盆を過ぎ、晩夏の蝉が力を振り絞って鳴き尽くし、原美術館は懸命な喧噪に取り巻かれていたのが、今村遼佑のインスタレーション作品が置かれた展示室に足を踏み入れると、そのような世界とはついにぷっつり切り離されてしまったかと一瞬思われたほどだった。「一瞬」と言ったのは、実際には彼の作品は、窓際の外界の雰囲気や、光や空気の射し込む様子とダイナミックに関係をもつものであり、その空間に身を置いて経過する時間を感ずることによって、切り離されたかのように感ぜられた外側の世界と内側の世界は再び一つに統合されることに気がつく仕組みになっている。
それにしても、一歩足を踏み入れたときの、鑑賞者を暖かく守るような繊細なで整然とした空間は、そのような強烈な印象を私に与えたのであった。
曖昧で奇妙な言い方だが、今村遼佑のインスタレーションを経験して感じたのは、それらのインスタレーションに取り巻かれている磁場と、それと無関係に存在し/存在した/存在し続けるところの外界との距離が揺らぎ、その中で持続的な眩暈を起こすような感じだ。その距離はゼロでも無限でもなく可変的で、そのメタ的な眩暈すら時と場所を変えても思い出される不思議な感覚なのである。ひとつの手がかりとして、映し出された映像はベルリンで撮影されたものであり、異なる場所に我々を接続するということと、それが加工を経ることによって虚構性を増すことがあげられるだろう。

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リタ・ヘンゼン(Rita Hensen)の「八丁堀」は結びついた和紙にフェルトペンによるドローイングであり、とても素敵な作品であった。絵画のそれぞれは糸で結びつけられていて、それはスッキリ解かれて離れているものもあれば、緩やかに絡まり繋がっているものもある。糸によって物理的に結びつけられるだけでなく、そもそもそれらは重ね合わされた和紙に滲みやすいフェルトペンで描かれており、一枚二枚下の紙にも同じ軌跡が認められるのは、そういったわけである。あるドローイングは、その下に置かれた数枚の和紙に浸透する。重なり合った和紙が同じ痕を共有し、それがたとえ旅のあとにバラバラになり、世界の離れた場所に散らばっても、彼らはその痕跡を留める。それはマテリアルである全てのものが持てる能力である。

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ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)のビデオ作品「つかのまの記念」は、彼が日本滞在した2012−2013年の経験(日本という国の震災の傷痕とフクシマをめぐる国際社会情勢)を主題にしている。作品は、何かドラマチックなストーリーを展開するわけではない。25分間のビデオのなかに認めることが出来るのは、フクシマの原子力発電所の作業員のイメージを表すという真っ白のユニフォームを着た一人の人が、東京の人混みや交差点、様々な場所に立ち尽くしているの姿である。そこには何もおこらない。そのひとは非常に目立っているのに誰もが通り過ぎ、見られているのにそこに軋轢は起こらない。存在していないかのようであり、不穏でもある。ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)が表現したのはその違和感かもしれない。

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08/28/14

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会 / NEW INTIMACIES

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会 / NEW INTIMACIES

ホテルアンテルーム:http://hotel-anteroom.com/gallery/

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「インティマシー(親密さ)」という類いのテーマが、美術の展覧会においてとりあげられるとき、それがとても魅力的に思えるのはなぜだろう。展覧会だけではない。作品がなにか「親密さ」に関わる主題をめぐって作られたとき、たとえば、美術作品や文学作品、演劇や音楽、あるいはパフォーマンス。様々な形をとって行なわれる表現が、人々の非常に個人的な部分に触れると知るとき、そのようは表現は「繊細で脆く小さな世界」を捉えたに過ぎないと一蹴されうるいっぽうで、同時に、隠された脆弱なそれを垣間みたくてたまらないという欲望に人々は駆り立てられるかもしれない。
そのような状況は、「親密さを表現する」行為それ自体が、ア・プリオリ、見られるべきでない親密な瞬間を他者の目の前で暴露するという自己矛盾の遊びであることに端を発する。

そもそも、芸術の主題は古来より親密な主題に溢れている。親密な主題、それが追求されるのは、異なる人生を生きる個人の非常に違った人生のフラグメントが他者にとってもの珍しい対象として受容されるからではなく、それがユングの元型(archetype)のような普遍的表象の領域に触れうることを人々が直観的に知っているからである。そのことが脆弱な個人をインティムな領域から解放し、大きな世界に関係することを許すのだ。この意味で、一般に普遍性の芸術と呼ばれているものも実は、脆くて小さな個人の表象と表裏一体である。

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さて、「親密すぎる展覧会」の「親密すぎる」とはどういうことだろう。
人はいったい、親密すぎることが出来るのだろうか。恋人同士はいったい、ほんとうに親密すぎる関係なのだろうか?
多様である個体間の関係において、「過剰に親密である」状況を定義するのは難しい。人はどれだけ交わりをもち、共振し合っても、おそらく過剰に親密であることができない。この点では、恋人同士よりも思考の奥深くまでを共有する双子のような個体のほうがずっと親密であると言えるかもしれない。この展覧会タイトルは、冒頭にも述べた、我々の親密なるものへの抗いがたい興味を刺激する戦略的なものだ。私たちは、逆説的にも普遍的である「アンティム」なものを垣間みたくてたまらないように運命付けられている。

本展覧会は、ホテルアンテルーム京都 Gallery 9.5で開催された。8組のカップル(アーティストだけではなく、ギャラリスト、学芸員も含まれる)が、協働で作品を制作し発表している。

〈手をつなぐこと〉のためのドローイング

〈手をつなぐこと〉のためのドローイング

「〈手をつなぐこと〉のためのドローイング」と「〈手をつなぐこと〉のためのインストラクション」は井上文雄+永田絢子により構想され、異なる時間と場所で実践されたイベントである。非常にシンプルなインストラクションは以下の通りだ。

0 待ち合わせ場所に集まってください(トランプを持参すること)
1 トランプの数字を使ってくじ引きをして2人組をつくります
2 それぞれ決まった相手と手をつないで、自由に過ごしてください(90分)
3 最初の場所に集まり、どのように過ごしたかを全員で話し合います(90分)

よっぽどの人好きでない限り、知り合いでも友人でもない他者と手をつないで90分を過ごすのは心理的に抵抗を伴う。苦痛を感じる人もあれば、時間を持て余すかもしれず、あるいはひょっとすると繋いだ手のぬくもりと共有した時間が相手への愛着に転じることもあるかもしれない。こういった「イベント」は日常生活で訪れることない奇妙な事態である。非常事態であるからこそ、新しい関係性の経験をもたらしうる。人々が、奇妙で常軌を逸したこのようなパフォーマンスに、しばしばすすんで身を投じてしまうのは、そのような非常事態の可能的意味を察知する能力があらかじめ備わっているからに他ならない。

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高木瑞希+竹崎和征の作品は、何枚かの異なるドローイングが切り刻まれて、一つの画面を再構成している。細く切り取られた各々の欠片は描かれていたものを垣間見せるものもあれば、全く分からないものもある。目の粗い織物のように再度合成された性質の異なるフラグメントの集合体はまるで、恋人同士という一般的に非常に強く結びつき、互いの深い部分まで踏み込んでいるように思える関係性において、その二つの個体は、混ざり合って中和するのでなく、依然として異物としての存在を保ちながら、しかし分離不可であるつよい結びつきとして存在していることを明らかにしているように思える。

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菅かおる+田中和人の「before flowers are blooming on canvas」は消えかけているような、目を凝らしてもその細部を認めることのできない、独特な表面が印象的な一連の絵画である。

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斎木克裕+西脇エミの作品「CURRENT」はドローイングの下に形而的に水を受けるためのコップが用意されているマンホールを表したものと、イメージの上に水が入ったコップを置くことによりカナル・ストリートを表した二つのインスタレーションから成る。私が展覧会を訪れた日は、九条駅から5分歩くのもままならぬ大雨だったのだが、窓際に設置されたインスタレーションである点在するコップが暗示する「CURRENT」(流れ)が外界とのつながりを強く認識させた。「流れ」は8組のカップルが提案するそれぞれの表現を繋ぐのみならず、それが建物の外へと溢れて行くように促しているようである。

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会は、8月31日まで開催されている。

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08/5/14

関係のないことを攻撃しない

関係のないことを攻撃しない

« On s’en fout. » という言い方がある。フランス語の代名動詞「s’en foutre(Sは◯◯に関心がない)」を含むフレーズであり、敢えて日本語にするなら「私には関係ね〜!」という感じである。ただし「私には関係ね~」は厳密には正しくなくて、なぜなら »On s’en fout. »の主語である「On」は、人一般を指すからである。 »On s’en fout. » はしたがって、誰にとっても当てはまる一般的事態として何かについて、「(んなもん)関係ね〜!」という感じなのである。

日本人は »On s’en fout. »と言わないように育てられ、社会生活でもそのようにあるように訓練され、さらには次世代もそのようにあるように教育している人々であると思う。「関係ね〜!」で済めばいいものが、「関係ね~!」とならない。「関係ね~!」などと言うことは無責任でデリカシーに欠けており、何かから逃れようとしており、社会生活を逸脱しており、したがって信用がおけない個体であると糾弾されかねない勢いである。とりわけ、多くの人がマス・メディアによって駆り立てられ、興奮させられているような状況下に置いて、「関係ね~!」などと口走ることは、生命を危険に晒しかねない暴挙にすらなりうる。
厄介に思われるこの集団的特質は、時と場合を選び、国際社会において驚きと賞賛を以て迎え入れられることもあるだろう。マナーのよい、ニコニコした、優しく気配りのできる日本人、という風に。数年前「KY(ケーワイ)」という言葉が一躍流行語となったが、言葉そのものはさておき、「空気を読む」ことの重要性の信仰は伝統的なものだ。「空気を読む力」は、しばしば、コミュニケーション不全の現代を批判的に論じるような文脈で、あたかも世界中でも類を見ないほどに日本人が卓越している持つ美しき能力のように崇められるが、この素敵な「国民性」と自滅的な暴力性は、一枚のコインの裏と面である。

「空気を読む」ことは特定の水準において美徳であれど、普遍的な善ではない。少なくとも、読まない個体を攻撃することは、善で有り得ない。それは、嫉妬と呼ばれるものである。

私たちの日常は、愛で溢れているという以前あるいは同時に、人々の緑の目の攻撃性に満ちあふれている。攻撃的な態度、攻撃的な行為、攻撃的な言葉、そして絶えず攻撃的であるように押しすすめる攻撃的な思考。攻撃が生み出すのは次なる攻撃であり、その暴力は他者に向かうか、さもなければ自己に向かう。それは消滅せず、どこかに向けられる。せいせいした矢先には弾を受けて苦しむことの繰り返しである。

だが、緑の目の攻撃者が無心に矢を放つその対象は、じつはさほど、彼らの大切なことに「関係ない」ことが多いのである。(大切なこと、というのは本質的に大切なこと、という意味だ。)

関係ないことは、攻撃しないでよろしい。暴力の威力は、世界をよくはしない。すなわち、個体を楽しくもしない。人々を生きやすくもしない。
私たちは、生きやすくても生きやすくなくても、ドロップアウトはしないのだから。

04/28/14

驚くべきリアル / The Marvelous Real @東京都現代美術館

驚くべきリアル ー スペイン、ラテンアメリカの現代アート ーMUSACコレクション
THE MARVELOUS REAL@東京都現代美術館( http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/musac.html)
2014年2月15日ー5月11日
* http://www.musac.es/# (MUSAC)

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東京都現代美術館で開催中の「驚くべきリアル」はカスティーリャ・イ・レオン現代美術館(MUSAC)のコレクションより、スペインとラテンアメリカ諸国の27人のアーティストの作品で構成される。MOTチーフキュレーターである長谷川裕子さんが企画した展覧会だ。この展覧会はずば抜けて面白いので、2014年5月11日まで開催されているので、東京に行かれることがあったらぜひともお薦めしたいのである。
本展覧会カタログによせた文章の冒頭で長谷川さんは、グレナダの詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカ(Federico Garcia Lorca)の一節を引用している。

「スペインでは、他のどの国よりも死者が生き生きとしている。」(En España, los muertos están más vivos que en cualquier otro país del mundo.)

――∑(゚Д゚)アァ!?
マンガ的に反応すればこんな感じである。スペインでは他の国よりも死者が生き生きしている、死は生よりも活気をもっていると言われても、どうピンと来ていいか分からないだろう。確かにスペインという国は、歴史の中で独特のストーリーを紡いできた。宗教的なものの伝統は現代も生活の随所を支配し、彼らが経験した政治的問題は一目置かれるべきだ。1968年にこぞって「春」を経験したヨーロッパ諸国を横目に眺めながら、フランコ政権が倒れたのは実に1975年のことである。1939年に国家元首となったこの人は第二次世界大戦後の1946年から10年近くにわたって国際社会からスペインを孤立させ、75年に死ぬまで独裁を続けたのだ。スペインだけではない。この展覧会では、このようなスペインの影響を色濃く受け続けたラテンアメリカ諸国のアーティストの表現も目撃させてくれる。

さて、スペインでは生者より死者が生きている話に戻ろう。ガルシア・ロルカのこの命題への違和感は実は、生きているスペイン人がそもそも元気すぎるという一つのイメージに端を発する。彼らは高速・多忙な現代社会にあっても、シエスタの伝統を貫き、朝早く起きてまでお昼寝を確保し、夜な夜な夕食をとったあげく夜更かしをし、熱い夏は更に夜行性になり、情熱的なフラメンコを踊る女を口説くギターのうますぎる男と、赤ワインは果てしなく濃厚で、だからこそそのサングリアは最高…。彼らの突き抜ける明るさはしかし、彼らの奏でる音楽を耳にし、暗い色彩で塗り籠められた彼らの絵画を目にした瞬間、深い心配に変わる。彼らの救いようのない悲哀、絶望的な現世への嘆きのようなもの、そんなものを彼らは現世に存在する我々が決して手の届かない存在に語りかける。あるいは、死者が彼らに語りかけているのかもしれない。我々が生きている世界では、通常明確に隔絶していると信じられている二つのものの境目が曖昧になることがある。例えば生ける者の世界と、死せる者の世界の往来がそれだ。スペインの生ける者たちが見せる表現においては、それらが行き交い、その軌跡を時々可視化しながら、本当はそこに境界が存在しないことを向こう側の世界の声を介して我々に語りかける。

ガルシア•ロルカは38歳のとき1936年フランコ軍に銃殺された。
En España, los muertos están más vivos que en cualquier otro país del mundo.
死んでいることと生きていることの間が溶解する。
生と死に支配されない彼らは、強い。

 

前置きが長くなってしまったので、早速作品を見ていこう。

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Lara Almarcegui ララ・アルマルセーギの《穴掘り》(1988年)は、アムステルダムの空き地で毎日穴を掘り続ける様子を写真によって記録した作品である。ララ・アルマルセーギは、1972年スペインに生まれ、ロッテルダムで制作するアーティストだ。昨年は第55回ヴェネチア・ビエンナーレに参加し、スペイン館にて大量の石が部屋からこぼれ出ている未曾有のインスタレーション《廃墟》(Ruins)を発表し、鑑賞者を困惑させた。ストイックだがラディカルな方法はなるほど、ゴードン・マッタ=クラークの影響を彷彿とさせる。穴掘りで見られる見捨てられた/日常見向きもされない場所を人目に晒しだす手法は彼の一貫したテーマとして引き継がれる。

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Sergio Belinchon セルヒオ・ベリンチョンの《なだれ込む》(2007年)は、三枚のスクリーンが夜明け前の薄暗い森の中で行われる怪しげな出来事の始終を映し出すヴィデオ・インスタレーションである。静寂の森にふと我々と同じような普通の衣服を着て、子どもであったり老人であったり若者である人々が群れになって疾走している。それだけの人の群れが全速力で走り抜けているというだけで異常さに目が釘付けになるのだが、彼らの幾人かはハシゴのような物を抱えていて、こちら側と向こう側を仕切り分けるフェンスを力づくで乗り越えていく。Sergio Belinchonはヴァレンシア生れ、現在はベルリンで制作を行い、見つめるとハッとするような写真作品を発表してきている。柵を飛び越えてその向こう側へ行くというイベントは、具体的現実としての移民問題や差別問題を越えて人々の潜在的欲望を可視化するような試みにすら思える。

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Joan Fontcuberta ジョアン・フォンクベルタの表現は驚きに満ちていて、その物語の虚構性やアーティストの目論みは厳しく批判的である。ついこの間パリのヨーロッパ写真美術館ではジョアン・フォンクベルタの回顧展として、メディアや科学の信憑性を問うたFaunaシリーズに加え、彼がキュレータを務めた「スプートニク」展も部分的に再現された。フォンクベルタの表現に関しては、Faunaシリーズを再考することは必ず価値があるだろう。さて、作品《移民》(2005年)は、2003年にジブラルタル海峡近くの浜辺で殺された二人の移民の写真を一万枚のイメージで再構成した作品である。

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1962年生れの女性写真家、Carmela Garcia カルメラ・ガルシアによる《無題》(2002年)は、三部作オフィーリアシリーズ(http://www.carmelagarcia.com/ofelias-3)の内のワンシーンである。オフィーリアは言うまでもなく、シェークスピアの《ハムレット》に登場するハムレットの恋人の美少女で、父ポローニアスを殺害されたのち、正気を失って両手いっぱいの花を抱え、野原を彷徨うようになり、ついに川で溺れて死んでしまう。オフィーリアは身を投げたのか、それとも足を滑らせて溺れ死んだのか? カルメラ・ガルシアの想像力は、そんな月並みな終着点を持たず、さらに問いかける。オフィーリアが水の中でもし突如正気に戻って、やはり生きるために世界に戻ってきたら? ハムレットなんかもはやどうでも良く、父も死んだがそれでも生きるために戻ってきたとしたら? 人は生きることを決められる。その逆も然り。世界はこのようにある。いや、それは結果としてオフィーリアが溺れ死んだとしても同じことなのだ。

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Anthony Goicolea アンソニー•ゴイコレアのショート•フィルム作品《両生類》(2002年, Amphibians : video here)にはドキモを抜かれる。赤ずきん風マントを被った男が、原っぱから森の中へ駆け抜けている。虫の羽音に混じって苦しそうな呼吸が響く。彼らは次第に集まって、木の幹に足を取られて時々転びながら、起き上がり、再び駆け、ついには水辺を発見する。いっせいに水の中を泳ぎ回り、そこではもう赤ずきんマントや重々しいブーツは不要となり、彼らは身一つでやっと地上の息苦しさから解放されたという風に、水の中で生命を取り戻す。彼らの泳ぎは魚達のそれよりずっと醜く不効率で、彼らの四肢は水を掻くには脆弱すぎる。それでも彼らは喜びきらめき、境目を越境することに成功する。

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《彼を内に守る山》(1989年)は1993年に36歳の若さで夭折したLeonilson レオニルソンが残した、心に残る一枚の絵である。サンパウロで学んだ画家は、政治的・社会的弾圧や差別に対する個人の生のあり方を見つめる作品を発表した。彼は同性愛者であったが、91年にエイズ感染が発覚してその二年後に亡くなった。

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Enrique Marty エンリケ・マルティの大作《家族》(1999年)は、それがリアリズムを越えたある主の強調であり、フィクションの要素を含むと理解した上でなお恐ろしい。それは確かに強調でありながら、同時に依然として現実を描いているためだ。本作品は、スナップ風の家族写真群である。よく見ると、女の顔は狂気に満ちていて、赤ん坊を可愛がる大人達はその性器に何かしている。あどけない少女は顔から出血しており、鼻は奇形化し、のどかな午後を思わせるワンシーンでは男が発狂し、病院のベッドに横たわる女の表情は既に死者が混じっている。これらがスナップ写真の「いたずら」で終わらずに、繰り返し我々の脳裏に蘇って来るのはなぜだろう。それは実は我々にとって全て、ある意味での既視イメージだからなのである。それを否定しても、受け入れても、我々はこのことを知っているのだ。

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Marina Nunez マリナ・ヌニェスの《モンスター》シリーズ(1998年)では、こちらを見つめる女の身体の一部がロボットやアンドロイドのボディの一部のように変容している。そしてそのストーリーの続きは、この異変はやがて女の身体全体を蝕んで、彼女をモンスターに変えてしまうことを約束しているのだ。映画《もののけ姫》でアシタカの身体を蝕む自然界からの呪いとは異なり、彼女らの異変は、彼女らが社会の中で抑圧された苦しみに由来する内的なものであるように見える。だからこそ彼女らはそれを受け入れて共にあるのだろうか。

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Javier Tellez ハビエル・テジェスが精神衛生施設のメンバーとのコラボレーションで実現した《保安官オイディプス》(2006年)は、想像力の天井をぶちぬいている。基本的に、ソポクレスのおなじみのギリシャ悲劇オイディプスを基礎としてストーリーが展開されるこの作品では、統合失調症のオイディプスは始終能面を付けて役を演じる。行く先のない、逃げ道のない、この古代悲劇を取り上げることに何の意味があるのだろう。鑑賞者は、能面を身につけているにもかかわらず構わず演じられる残酷なシーン、オイディプスが目をえぐるクライマックスシーンなどにまゆをひそめる。だが、物語は思いもよらず崩壊を向かえる。オイディプスは能面を外し、窒息するはずであった小さな世界の壁紙を破って、清々しく深呼吸し、物語を終えるのだ。何を悩んでいたんだろう? とでも言わんばかりに。

展覧会は5月11日まで。東京都現代美術館にて開催中である。

04/27/14

パラ人 PARAZINE, 京都国際現代芸術祭 PARASOPHIAを盛り上げるヨ

きたーーーーー。

パラ人 PARAZINE  が 届いた!

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えっ?

 

この表紙、見るとビックリしませんか。ビックリするのわたしだけ?じゃないはず。

 

驚きのレイアウト、驚きの色彩、驚きのデザイン。

驚きは続く。

 

こんなにふんわししたデザインなのに、こんなにパステルな色使いなのに、巻頭の(この手のフリーペーパーのデザインに、巻頭というものがあるのかどうか知らないが)吉岡洋さんのお言葉は「歩き出した〈パラ人〉」と書いてある。怖すぎるじゃないか。いったい、誰なんだ、歩き出したパラ人って!そして、表紙と裏表紙ページの背景を支配している、ブレインストーミング・メモの形跡も、とても怪しい。天才科学者とか、神の声を聞いた予言者とかが、トランスミッションした筆跡みたいである。

 

眺め続けても仕方ないので、とりあえず開いてみる。何枚かあるので、驚きすぎないように、一枚だけピラッとめくってみる。

 

やっぱり貫かれたこの、気の抜ける水色、カッコつけないニュートラルなフォント、で、PARA – WHAT  ? ? って書いてある。書いてあるぞー。目を凝らすと、「パラソフィアに、悩む。」って書いてある。

 

あっ、そもそも、パラソフィアっていうのは、京都国際現代芸術祭 PARASOPHIA(2015年3月7日~5月10日に京都で開催されるアートの祭典)のことで、芸術祭組織委員会、京都府、京都市が主催して、河本信治さんがアーティスティック・ディレクターを務めているプロジェクトのことなのですが、最近参加アーティストも第一弾が発表されましたね。

 

蔡國強(ツァイ・グオチャン)

ヘフナー/ザックス(Hoefner/Sachs)

石橋義正(いしばし よしまさ)

ピピロッティ・リスト(Pipilotti Rist)

ウィリアム・ケントリッジ(William Kentridge)

スーザン・フィリップス(Susan Philipsz)

ドミニク・ゴンザレス=フォルステル(Dominique Gonzalez-Foerster)

やなぎみわ(やなぎ みわ)

参考ウェブサイト: http://www.parasophia.jp/news/

 

それで、そうそう、パラ人ですが、パラ人は2003年に「高速スローネス」をテーマに開催された京都ビエンナーレのアーティスティック・ディレクターを務めた吉岡洋さんが編集長となって、PARASOPHIAを盛り上げるための刊行物を2015年の3月まで、ボランティアの学生たちといっしょに発行しつづけるというプロジェクトなのですね。

 

そういうわけで、パラ人、は実はPARAZINEなのですよ。

 

しかし、彼らは悩みに悩み、悩み過ぎて、PARAZINEの特集が PARA – WHAT  ? ?  なる主題になってしまったのです。しかし、彼らの悩みは、それを読むだれかの悩み。彼らの議論は、それを受け取る誰かの解決を示す。彼らの対話は、それが届かないほど遠くにいる誰かの思考と繋がって、歩き始めたパラ人は、もっともっと、世界中に繁茂する植物のように、増えるのです。繋がって、大きくなる。

 

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私はここにエッセイを書いています。

PARASOPHIA AU MONDEっていうエッセイです。京都にいなくても、パラ人のエスプリを共有できるのか? 読んでみてのお楽しみということで。

 

パラ人は、京都を出発し、現在日本各地、世界各地に広がっています。

欲しい人! ぜひぜひ読んでください。 手に入れられるはずです。

どこにアクセスすればいいんですか?

すいません、わかり次第ここに載せます。

私にご連絡くださってももちろんオッケーです。

 

とりあえず、パラ人のことがもっともっとよくわかるインタビューをご紹介します。

http://www.ameet.jp/feature/feature_20140401/

それから、ニッシャ印刷文化振興財団さまから助成してもらえることが決まったころの記事!

http://www.parasophia.jp/contents/news/2014/03/08/763/

数日のうちに、ゲット方法も掲載するので、お見逃しなくです。

ぜひ5冊ぜんぶ集めてくださいね! ワクワク。

 

 

04/13/14

ミヒャエル ボレマンス:アドバンテージ ー 生きることの潜在的なかたち/ Michaël Borremans : The Advantage @Hara Museum

ミヒャエル・ボレマンス:アドバンテージ
Michaël Borremans : The Advantage

2014年1月11日(土) - 3月30日(日)
原美術館

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東京品川の原美術館で開催されているミヒャエル・ボレマンスの展示をどうにか間に合って見に行くことができたのは幸運である。東京滞在が短かったので実はちょっと迷っていた。むしろ、殆ど行けない様子であった…が、東京在住の友人が薦めてくれたことに感謝している。決して作品数の多くないボレマンスの絵画を集合的に見たのは初めてだったし、部分的印象でしかなかったボレマンスの世界観の奇妙さというものが、言ってみれば理解可能な奇妙さとして立ち現れてくれたような気がする。そのことは、気持ちの良いことだ。

さて、ミヒャエル・ボレマンスは、1963年生れ、ブリュッセルのアートカレッジで学び、現在ゲントで制作をしている。彼が1990年代半ばを機にこれまでの写真家としての活動から歴史的絵画の手法を組み入れた油彩に転向したことは知られている。彼がその伝統的な手法を模倣し、彼の画法に統一的で繊細な印象を与えているのは、ベラスケスやマネ、ドガの世界観であり、奇妙さと不穏なオーラを醸し出させているのは、なるほどシュールレアリスム的主題に似ているものである。ボレマンスは一般的にこのような二つの要素で語られるが、それがなぜあたかも語り得ないような不気味なものとして、あまりにもデリケートに説明されるのかは一度正面から考えてみなければならない。

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たしかに、ボレマンスの絵画は深く物語的である。彼の絵画の中に登場するモチーフは、幾つかの典型的なものを挙げることができるのだが、たとえば、今回の原美術館での展覧会「アドバンテージ」の扉を飾っている作品「Mombakkes II」(2007年, 36 x 30 cm、カンヴァスに油彩)では、白い衣服を纏い、横分けの髪を撫で付けたような一人の人物の表情の奇妙さに目を奪われる。男性とも女性とも見えるこの人物の顔はあたかもピエロのそれのように、強すぎる眉と青いアイシャドウ、艶やかでこぼれそうな頬と真っ赤な口紅に彩られているが、その表面はところどころが光を反射し過ぎており、視線を全体にすべらせるうちに、この鮮やかな顔は作り物であるということが明らかになる。撫で付けられた髪の額と生え際を見てみればそれは、透明な膜のような材質のマスクであることに気づく。そう、ボレマンスの作品には、この透明なマスクの要素、そして、シュルレアルである半透明性による層の重ね合わせと透視が頻繁に顔を見せる。当「Mombakkes II」の脱ぎ捨てられたマスクもボレマンスは描いている。その偽の皮膚は、人間の顔を覆ったときにはこぼれるほどの笑顔を見せたにも関わらず、脱ぎ捨てられて輪郭を失った今、もうちっとも楽しそうではない。マスクは言うまでもなく、覆われた顔の本当の表情を包み隠すのであり、そのことが象徴的に表現するメッセージを現代性へと結びつけるのは容易だ。

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また、先ほど述べた、シュルレアルな半透明性は、世界のレイヤーの重層性を描くような、つまり、有り得たはずの物語と実際に行われた行為の間を我々に想起させる。それは、常に様々な可能性の中から、一つの世界が分岐していくのだが、それは一つが残されて他が消えてしまうという方法ではなく、全てを置き去りに無数に分岐しながら、我々はいまここにあることしか知り得ないという運命を認識させる。あるいは、現在ある世界がそのように見えており我々はそのあり方を目にしているのだが、それが過去や未来において「リアルに」このようではなかったのだという誰一人知らなかったことを暴露する。彼の作品にしばしば見られる、透明な身体や透き通った人物と別の存在の重なりは、このようなインスピレーションに関わる。そして、さらには肉体の一部を欠いたり、テーブルの上に上半身や腰上だけ存在するように描かれた人物像たちもまた、可能な一つの現れ方を提示している。

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劇場としての社会や人間の生を描き出すような試みはボレマンスの作品に連続してみられる。箱のような空間に並べられた人間とそれを見物する存在。その二者は通常何らかの方法で描き分けられていて、例えば巨人と小人、囚われた人間と自由な人間、オブジェ化された存在と権力を誇示する存在など、明確に描き分けられている。今回の展覧会「アドバンテージ」でも公開されたビデオ作品 »The German »(2004-2007)などはその構造はさらに拡張されていて、つまり、画面に大きすぎて写りきらないドイツ人の身振りが映し出される様子を箱の中の鑑賞者が眺めており、その様子を見られるドイツ人と対面するように我々が見つめることになる。

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最近東京で訪れた東京都現代美術館での「驚くべきリアル」展でご覧になった方もいらっしゃるかもしれないが、スナップショット風のコレクティブな絵画の作品である『家族』(The familly, 1999)でエルティ・マルティは、一見すると日常的な家族団らんの一コマや何の変哲もない日々の生活の中に浮かび上がる狂気のようなものを描き出した。私はこの作品はとても面白く或る意味でポジティブに感じたのだが、ボレマンスのそのシュルレアルで不穏な感じというのも、実はそれほど暗闇の中に不可思議なものでもないのではないか、という直観を持っている。なるほど、繰り返される身振りや、非社会的な儀式的なもの、空間や時間の常識に逆らい、それを破壊するようなもの、それらはボレマンスの人間を見る視線を、しばしばフラグメントとして、また或るときはもっと全体的に媒介する。だがそれもまた、一つの実験的な行為であり、描くことはその世界に形を与え、外側にいる私たちをそれを結びつける。ちょうど、箱の中のスクリーンを眺める小人を私たちが目撃し、その時間を共有するかのように。

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コード化された儀式はしばしば意味を失うが、実は、個体の行為や営みにも意味はない。ボレマンスの絵画は、生きることの潜在的な形が、物語る人が言葉を途中でぴたりととめながら、またとめては続くように語られ、とても興味深い。

04/8/14

The Act of FLIRTING, Stephanie Comilang / フラーティング, ステファニー・コミラン @京都芸術センター

The Act of FLIRTING
Stephanie Comilang
2014年3月15日 (土) – 2014年4月6日 (日)、京都芸術センター

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京都芸術センターでつい数日前まで展示されていた映像作品「The Act of FLIRTING」を二回見た。「KACアーティスト・イン・レジデンス・プログラム」という若手アーティストや研究者に向けたプログラムで選出されたトロント出身のアーティストStephanie Comilangによる3ヶ月にわたるレジデンス滞在の集大成としての作品である。アーティストは、タイトルにもあるように「flirting」という行為をひとつの手がかりとして選び、この言葉の意味するところやこの行為が日本的な文脈でどのように受け取られ、実践されているのかに光を当てようとした。

芸術センターのサイトには次のようにある。
「flirting」(気になる相手の気をひく方法)をキーワードに、京都での滞在中にさまざまなリサーチを行いました。本展では、それらのリサーチを基に制作した映像作品を発表します。そこには、少しずつ日本と外国の文化や感覚の違いを理解しながら、彼女自身の肌で感じ取った「日本」が描かれています。この作品との出会いによって、人と人との距離感や人間関係を築いていく過程などにまつわる、私 たちが普段は特に気に留めることのないような日本人特有の感覚や意識について、改めて考えさせられることになるでしょう。(引用:https://www.kac.or.jp/events/11103/)

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彼女がリサーチを始めたきっかけは、日本語にはフラーティングという言葉にピタリと該当する表現が見つからないという気づきであり、そこから、気になる相手の気を引くときの態度が、日本と西欧では異なるのではないかと予想したことにあるようだ。これは恋人や好きな人の気を引くだけでなく、子どもが親の気を引く、友だちの気を引く、といった広義のフラーティングを含める。その問題意識から、インタビューに出演する、年齢や仕事の異なる日本人に、フラーティングの方法とフラーティングされたことについて質問し、彼らが語ったことを映し出して行く。シナリオの中心に置かれるのは、祇園で舞妓の格好をしてホステスとして働いているという一人の若い女性で、彼女がどのようにお客さんに接し、お客さんの欲するサービスを提供するか、対人関係の中でどのように自分を演出するか、といったことを語りながら、「仕草」「勘違い」「話を聞いて、するべき反応をしてあげる」といったキーワードを散りばめる。そして、ホステスという仕事において期待される典型的なやり取りを演じてみせる。

フラーティングに関わらず、翻訳不可能であったり翻訳することによってニュアンスが変わってしまう言葉などハッキリ言って数えきれない。その発見は何も新しくなく、言うまでもないことであり、その点でこの作品がアイディアとして優れているとは思わない。さらに、インタビューされて語られることの多くは、言い古されたことや誰もがうなづくであろうこと、あるいは、聞き飽きている故につい反論してしまいたくなるようなことである。日本人と西洋人の人間関係の距離感が異なるというのも何ら斬新な気づきではないし、我々日本人にとっては耳にタコができるほど(?)語り尽くされた「日本人論」の外側にでることのないパロールではないだろうか?

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ではなぜこの作品を二回見てしまうのか? いや、実は一人で二回見て、そのあと別の日に一回見たので、全部で三回も見たことになる。シナリオもセリフの一部もリフレインできそうだ。とりわけ、この偽の舞妓ホステスがガラリと広い畳の間で蛍光灯を真っ白に浴びながら歌う一曲の歌は節回しや音程が微妙に低かった瞬間まで克明に覚えている。つまり、この映像はともあれ私を魅了した。言ってみればこの作品をフラーティングの解釈と日本文化におけるあり方として見ることに、私はさほど興味を持たなかったのだが、むしろ、そのように予定して構成されたシナリオと偽舞妓ホステスの証言と演技が、他者との会話に我々が見いだす欲望たるものを鮮やかに描き出す様に魅了されたのだと思う。我々は日々他者と言葉を交わしながら生きている。それも、様々な方法で。言葉を発するに至らない何かであることすらある。ホステスの言い放つ「聞いてあげる」「驚いてあげる」「笑ってあげる」、「ーしてあげる」という言い方に込められたニュアンスや、その実践を演じてみせる様。それらは分かりやすいように強調されているけれども、つまりは私たちの他者との交わりに等しいのである。そしてそれは「空気を読む」「まわりとの関係で自分のキャラクターを作る」など、いわゆる日本人的な特色を規定する言葉が添えられるが、本質的には、どんな異なる二つの個体の接触にも関わる作業の断片であるように思える。この作品の面白かった所は実は、日本文化と西洋文化の比較でもそのいずれの特殊化でもなく、逆説的にそこに見え隠れした変わらないものの存在である。

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04/2/14

Young Pioneer’s Presentation vol.3

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Young Pioneer’s Presentation (YPP):Facebook YPP page

2014年3月22日、Young Pioneer’s Presentationに発表者として呼んでいただいた。この会は、京都大学交響楽団に所属していた折りお世話になっていた阿曽沼くんがオーガナイズしているこの会で、毎回複数の発表者(今回は二人)が自信の研究分野について話をし、共通ディスカッションを行っているそうだ。今回は、現代アートのコンセプトについて喋る私と、同期のヴァイオリニスト大谷くんの化学と折り紙の発表。阿曽沼くんが会の冒頭にも言っているように、私たちはなるほど、予想されている共通知識みたいなものを全く共有しない聞き手を前に話す機会にはそう恵まれてはいない。研究会も学会も、たとえば私のトピックでいえば、「芸術とは何か」、「作品とは何か」という問題そのものを話すことは稀であるし、それについて語るときにはそれに集中するかもしれない。しかし、具体的な作品について語りながら、それを捉える様々なシステムについても語るということはあまりない。感じると言うのがどういうことかそのものをあるレベルで定義しながら、ある特定の対象をどのように解釈するかを展開するのは、なるほど、七色に輝く小魚だらけの浅瀬の海の景色を3色の太いペンだけで描こうとするような、そんな思いがした。つまりは、相当悩んだ果てに、現代アートにおけるコンセプトと作品の鑑賞というトピックに関して、仕組みそのものを展開するよりは、普段わたしがこのブログを通じてお話しているようなことを、喋ることにした。

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さて、事前にFacebookのイベントページに掲載された私たちの発表内容は以下である。

【発表者】
・大久保美紀
パリ第8大学非常勤講師。美学。同大学大学院芸術学科博士後期課程、ニューメディア美学専修。批評のウェブサイト »salon de mimi »に展評•作家評•エッセイを多数掲載。研究テーマは現代の自己表象。ソーシャルメディアにおける自己語りと日記の関係性、現代アート、ファッションにおける身体意識・身体的表象に着目する。

・大谷亮
京都大学大学院工学研究科合成・生物化学専攻北川進研究室博士後期課程三回生。日本学術振興会特別研究員(DC1)。錯体化学、超分子化学。趣味は折り紙とヴァイオリン。餃子と寿司が好き。最近はピザも好き。前向き。小さじ1杯の悪意。笑う門には福来たるのかをこの人生で検証中。「何とかなると思うんだけどなー」が口癖らしい。

【発表内容】
大久保美紀
「コンセプチュアルなアートとその鑑賞 ー つくる人、みる人、かたる人」
皆さんは現代アートが好きですか?
現代アートは難しくて分からない、一体何がアートなの? ――私にもはっきりとは分かりません。
それらの疑問は、現代アートがしばしば概念的(コンセプチュアル)であることに由来します。
展覧会や作品のコンセプトは一般に、作品を理解するためのカギとして重要視されますが、 »提示された作品それ自体 »と »説明された複雑怪奇なコンセプト »があまりに隔たっている場合には、鑑賞者は困ってしまうでしょう。一方で、そんなふうに鑑賞者を煙に巻かない素敵な作品も必ずあります。本発表では、「難しくて分からない現代アート」のその不親切さを前に肩を落とさず、楽しく現代アートを体験する方法についてお話したいと思います。そこではつくる人とみる人、かたる人が相互に関わります。今日注目されている美術家の活動にも触れながら、現代アートについて一緒に考えてみましょう。

大谷亮
「趣味から始まるChemistry~折り紙と錯体化学、と私~」
皆さん、鶴は折れますか?
日本の文化、折り紙。小さい頃に遊びつつも次第に忘れられてしまう折り紙。しかし、現在「超複雑系」と呼ばれる折り紙が発展しています。知る人ぞ知る現代”折り紙”の一端に触れて頂きます。
更に、本発表者の専門である”錯体化学”とは。錯体は、ユニット折り紙のように構成分子を自在にくみ上げることで作られる物質群です。どのようなコンセプトから錯体化学研究が行われているのか、錯体化学研究の基礎から最新トピックスまで、ものすごーーーーくざっくりと分かりやすく説明します。

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紹介した作品は、ソフィ•カルの作品より『Les Dormeurs』『Prenez soins de vous』。ここでは、コンセプチュアルなアートの一つの例として、アーティストのつくるゲームのルールのようなものを第三者がパフォーマンスとして遂行した結果を、テキストや写真、ヴィデオなどの記録を通じて鑑賞者に総合的に追体験させるようなものを紹介した。(参考:添い寝がなぜ気になるのか)あるいは、作品としての「モノ」を作っているにも関わらずその主題や問題提起によってしばしば「なぜこれがアートなのか?」という問いを投げかけられる会田誠さんの作品『シリーズ:犬』について、私自身の解釈を提示し、『自殺未遂マシーン』についても考えた。(参考:会田誠「天才でごめんなさい」)最後に、1980年代をニューヨークで過ごし、コンセプチュアルアートの手法を研究したアイウェイウェイの最近の作品、ヴェネチアビエンナーレで公開された二つの『Dispositions』について論じた。(参考:アイウェイウェイ3つのストーリー、映画『アイウェイウェイは謝らない』)

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アイウェイウェイの作品を紹介するのは、Young Pioneer’s Presentationのように「現代アートとは何か?」という問題意識を持って話を聞きにきてくださった人の中には、現代アートは単に「コンセプチュアルで難しい」というだけでなく「奇異なもの」「突拍子のないもの」、更に、そうあらなければならない、と感じている人もおられたからである。現代アートは勿論複雑でなくていいし、分かり易くて構わないし、ヘンでなくてよろしい。つまり、力のある現代アートは眩しくないかもしれない、大切なことを伝える表現は必ずしも複雑怪奇な暗号に自らを隠してない。世界を良くするようなメッセージがミラーボールのような輝きを放っている義務などない。それは、くすんでさびていても、重苦しく目立たなくても、それらが現代アートというからには、現代の社会、現代の世界の問題に関わり、それに出会う私たちに何かを考えさせ、あわよくば勇気づけたり、生きることは良いと感じさせる。その意味で、表現をすることは意味があり、それを享受することにも意味があるのだと思う。私が考えていたのは、そのようなことである。

04/2/14

Images du printemps 2014

Quelques images du printemps 2014.
Le Kitano Tenman-gû, un sanctuaire shinto, situé à Kyoto.
Fondé en 947, il est voué au culte du dieu Tenjin.

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Une fille fait sa pose pour la prise de photo.

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Umés, fleurs de pruniers fleurissent plutôt que Sakura.
Sa couleur plus foncée et son bourgeon plus ferme que celui de Sakura.

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Comme on le voit dans cette image.

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Nous, les Japonais, prions pour tout, pour la réussite, la paix, la famille et la vie.

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En effet, prier quelque chose à Dieu fonctionne
pour organiser et réorganiser notre esprit.

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Une fille qui prie pour remercier à la grâce de Dieu.
Et innombrable de souhaits de l’être humain.

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La grande vache qui nous écoute depuis sa naissance.

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Le cimetière à côté d’où j’habite.

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Les cerisiers fleurissent magnifiquement.
La brise du printemps souffle doucement.

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Si magnifique que je suis inquiète.

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Les pétales de fleurs de cerisiers couvrent le terrain
jusqu’à ce que nous ne voyons plus rien
ce qui est dessous.

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Ces belles couleurs et la touche douce jouissent nos ancêtres.

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