02/4/15

心の平和のために書いた文章

海外は治安がわるいからと、時々心配される。外国は恐ろしい事件とかあって、銃による事件とか、薬物の事件とか、宗教や民族の問題とかあって、あぶないんじゃないの、と心配される。

たしかに、1月7日の事件は、それがあまりに近くで起こったということや、多くの人々と同じようにそのとき外出中で、「気をつけて!犯人は逃走中よ!」と言われてもどう気をつけたらいいのか気をつけようがないという事情から、数日間とても治安のわるい感じ、ではあった。

だがハッキリ言うが、それは、道を歩いていたら危ないとか、周りの人が怖いとか、銃撃される危険とか、突然捕らえられるかもしれない危機とは、似ても似つかないものだ。世界には、戦争状態の非常事態としての日常が実在しており、あやまってもそういった非常事態の日常とは比べ物にならないほどに、パリの1月7日以降の世界は平和である。

なるほど、たしかにそれは日本の平和感とは全く違う。誤って電車でウトウトしたり、鞄やズボンのポケットからスマホやお財布をペロリとしたまま優雅に歩いたのでは、一瞬にしてそれらは失われてしまうかもしれないし、本当は楽しくとも悲しくともある程度つねに戦々恐々とした雰囲気だけ演じて歩かないと、体力のなさそうで優しそうな日本人はしばしば金銭的価値ある物を盗まれる標的になってしまう。そういった意味で、めんどくさいといえばめんどくさく、ぴりっとしてなければならないといえばその通りだ。でも、平和だ。

そんな平和に対して日本のほうが心穏やかに過ごせるし、危険もすくないし、安心だ、とも思わない。むしろ、こちらでは思いのよらないことが日本にいると日常的に起こる。「キレる大人」を見ることはかなり印象的な出来事のうちのひとつだ。いや、誤解を避けて先に言っておくが、フランス人もかなりキレる。かなりのキレキャラであるし、突然怒って喧嘩して、見事なスペクタクルが繰り広げられる。が、わりとすぐにおさまる。キレたあと、言い尽くしたあと、20秒くらいしてから追いかけて行って殴ったりしないし、今生に渡って人々に悪行を言い継ぎながら引きずったりもなかなかしない。あくまでも印象だが、ノーコントロールでキレるというよりは普通に怒って静まる、という、ふつうの怒った人、なのである。そこにきて、日本社会での「キレる大人」はキレ方が本気である。コントロールがないのはもちろんのこと、ほとんどがキレている内容ではなくて、外的要因についてのストレスが限界で、なにかのキッカケでキレるのである。たぶんこのキレ方は、日本社会だけでなくて、先進国の、大都会の、ストレス過多の、どうしようも忙しくてイライラしてしまうような日常生活の、中にしゅっと起こりやすい。これからの世界はこんな「キレる大人」が増えるんだろうか。

約束か仕事に遅れそうなのか、それとも疾走したい気分なのか、ゆーっくり歩くおばちゃん二人のスレスレを豪速のチャリンコ男性が走り抜けた。たのしく歩いていたのにあんまり暴力的な出来事だったので、おばちゃんは思わず「危ないじゃない!」と口走ってしまいました。チャリンコ男性は、急いでいたなら走り抜けたらよさそうであるのに、止まって、折り返してきて、口汚い言葉でさんざんおばちゃんを怒鳴りつけました。男の人の怒鳴っているのって、子どもでなくても怖いと思うよね。それも、急に近づいてきて、感情的に制御無しに怒鳴っているのはとても怖いと思うよね。このおばちゃんたちは、この経験を一生忘れることはなく、ずっと、怖かったなって、思い続けるのですよ。

ある日飛行機が少し遅れて、そういうときは搭乗口の近くで、ボーディングタイムが更新されるのを待ちます。放送もかかるし、どっちにしても、チェックインしていたら、最悪たとえトイレに行ってて一人だけ搭乗しそこねていたりなんかしても、かなりしつこく探してくれるから、空港に取り残されるなんてことは殆ど有り得ません。数十分機材の整備などで搭乗時間が押していて、なんどか放送がかかったし、やれやれみんな、どんどん機内に流れ込んで行く。60歳くらいの男性が、ゲートの女の子二人に怒鳴りつけている。いつ放送がかかったんだ!(だから、今だよ…)とか、いつお客様を呼んだんだ!(だから、今だってば…)とか、失礼じゃないか!(なんでだよ…)とか、こんなんで分かるか!ふざけるな!(じゃあ他にどうするアイディアがあるかね…)とか。とにかく怒鳴り続けて、女の子たちは、ほかのお客さんのチェックをしながら、泣きそうになりながら、すいません、とか言っている。どう見ても、そのおじさんがキレているのは、アナウンスの仕方や飛行機の遅延についてじゃないよね、人はその程度のことでは本気で憤ることなどできないものだよ。ただの、八つ当たりだし、別のイライラの放出だよね。でもねー、係の子たちは本気で怖い思いをして、怒鳴られて、近くで汚い言葉を浴びせられて、しかも縁もゆかりもない怒りによって。この子たちはこのことをずっと忘れられないくらい、怖い思いをするのだよ。

「キレる大人」はいけないんです。なぜなら、本当に人を傷つけるから。本当に怖い思いをさせるから。傷ついたたくさんの心がこれ以上傷つけられませんように。こんなくだらない経験が、世界に増えませんように。
friends

11/12/14

授業とは何か:伝える人と伝わる人とのあいだ(1)/ le cours : la signification de la transmission et de la réception

授業とは何か:伝える人と伝わる人とのあいだ(1)

 漢字が書けないなあと、以前はよく思っていたのに、最近では漢字が書けないことにすら気がつかなくなった。多分書けないのだが、書く機会がないので気がつかないのである。漢字はとても好きなのに、残念なことだ。書かなくなったのは、むろん漢字だけではない。私は文通が好きだ。筆跡というのが、愛しい人も、生意気を言う人も、賢そうな人も、何を考えているのか分からない人も、その距離という距離を吹っ飛ばして、「その人が手を動かして書いている感じ」を直接的に伝えるからである。いまここにはいないその人が、ペンや鉛筆を握って紙をぐいぐい押しながら、まるっぽい動きや角張った動きによって、そこに記号の集積をデッサンしている様が、なんとも温かく感じられるのである。思い返せば小中学校では書道の授業もあったし、文字を「綺麗」に書くことが、読めるように書く以上の付加的意味をもっていたからこそ、手で書くのが好きになったり、嫌いになったり、文通が好きになったり、筆無精になったりしたのだろう。

 手書き原稿を破り捨てつつ、つぎつぎ新しい原稿用紙にペンを走らせるような歴史的典型的小説家でもないかぎり、我々の経験において「文字をたくさん書いたなあ」というのは、学校の授業や課題、作文やレポートであるような気がする。とりわけ、大学はその限りではないが、小中高の教育において「板書」はなかなかシンボリックな身体的鍛錬であるように思える。個人的には、書いたから覚えるとも、書きまくれば覚えられるとも思わない一方で、日本風の板書授業がダメで、反復や暗記よりも一度の理解が重要とも一概に言えないと思う。

 ただひとつ確信しているのは、スマートフォンなどのディヴァイスで板書やプレゼンを撮影するという記録の取り方は、記述をせずに書かれた内容を眺めるのとも、書かれた内容を無心に書き写すのとも異なる記録の方法であり、したがって内容の把握の仕方と把握されたものの質は自ずと異なったものとなるということだ。だが、次のように思う人もいるだろう。無心で書き写すのと、カメラで写真を撮るのとは、結果はよく似ている、と。それは間違ってはいない。その二つの行為はつまり、書かれたものを自分の持ち物、自分にとってアヴェイラブルである物(ノート、記録媒体)に保存するということなのだから。

 では、何が異なるのか。物が手の動きを通じて書き写される際、とくに内容が膨大である時、そこには筆記者による取捨選択が行われている。筆記する者は、数十秒あるいは数分ではコピーしきれない「書かれた情報」のなかから、必要なもの自分に関係あると思われるもの魅力的に感じられるものなどを選び取っているのだ。この点で、この行為における認識には奥行きがあり、捨てられるものと選ばれるもの、その判断をするための内容への介入が存在している。
 また、板書をとらずに書かれたものを眺めるという行為においてはどうだろう。実感を持って多くの人が気がつくであろうが、我々は何かを眺めている時、その全体を均一に見ているということはない。そのどこかを見ているし、どこかしか見ていない。板書を眺める人もまた、無意識的であれ、内容の選別を行い、限られたメッセージをキャッチしているだろう。

では、カメラで書かれたものを撮影する人々の行為はどのように解釈できるだろう。手がかりとして、彼らの意識がどこにあるか考えてみよう。彼らは素早く「撮影すべき対象」をカメラのフレーム内におさめ、シャッターをきる(といっても画面にタッチするだけだが)という一連の行為を素早くて企画に行なうことに集中している。実はここでは「書かれたもの」の意味も部分もいっさい浮き上がることなく、解かれてバラバラにされることもなく、完成した一枚のイメージとしてキャッチされるのである。写真を取り損ねた撮影者は、手によって板書がとり終わらなかった筆記者さながらに悔しがる。彼らは、的確にフレームのなかに「撮影されるべき対象」をおさめて焦点を合わせて撮影する、という一連の動きが時間内にできなかったことが悔しいのだ。

さて、2時間半も授業をすれば、撮影されたイメージはさぞ膨大だろう。それを丁寧に見直す手間を考えると頭が下がる。だが感心する必要もない。なぜなら、ここから始まるのは他の記録の仕方によって既に行なわれていたがこの三つ目の記録方法においてはすっかり後回しにされていた「解読」と「選択」が遅ればせに始まるだけなのだから。この途方もない遅れと膨大な必要時間と労力は、私が以前、「書き散らかしの信仰」で論じたウェブに書き捨てられる言葉の塊や、ウェブカメラや監視カメラが記録し続ける時間の記録と深く関連があるのである。

様々な要因が次のような結果を生む。
リアルタイムの「授業」という場で撮影に集中し、後時的な「解読」と「選択」によって掘り起こされ再構築された「結果」はあまり遠くに行けないのである。一方、それがたとえ部分的でも誤解を孕んでいても、リアルタイムの場で得られたアイディアに基づいて書かれたものには、筆圧がその人の存在をありありと思い浮かばせるのと同様に、生き生きとして元気な考えや着眼を目にすることが多い。
今後、伝えるひとと伝わる人の間の対話がどのようになるか、記録という手段がどのように実践されていくのかわからないにせよ、上のようなことは、自身の書く目的によっては思い出して無駄のないことではないだろうか。

(2)では、伝える人の側の問題に焦点を当ててみたい。

lettre intime

10/28/14

書くことと話すことのモダリティ / Modalités d’ « écrire » et « raconter »

書くことと話すことのモダリティ

かつては「口頭」のみで行なわれた人々の様々な発話は、物語の伝承がそうであったように、だれかが語り、それを聴いた誰かがまた別の誰かに語ることを続けて、そうやって伝わってきた言葉がのこって、いつの日にか、文字でそれを記そうと思いついた人々の手によって、あたかもそれが「オリジナル」のお話であったように魔法をかけられて、それが書かれたことによって何らかの特権的で絶対的な存在様態を獲得したかのようにして、大切にされてきたし、現在でも非常に貴重な資料として大切にされている。しかし、あるときに突如、書く事によって切り出された「それ」は、それ以前どんな形であったかはもはや分からない。たまたま、発話が持っていた時間軸とは寄り添わない別の時間軸「書くこと」が現れて、発話の時間軸をある時点でつっつくことによって、そこに「偶然」あったものを取り出したのだ。

今日既に様々な言い方で気づかれてきているように、新しいメディアの登場は、そこにあった方法を置き換えるのではなく、相互に影響し合ってその両方が変化することを通じて時間を重ねていく。たとえば、話すことの刹那的な性質に嘆き、これを保存することに可能にする魅力的な手段として、書くことは実践され、もてはやされ、普及し、世界を覆ってきた。このキャパシティを追求し、まるでまわしっぱなしのウェブカメラが生きている時間を全て記憶する夢を叶えるように、書くことのメモリーも拡張され続け、考えが言語化されるのかタイプする指がそれを具体化するのか、といった疑問がふと脳裏をよぎるほど、私たちは身体的にも訓練されている。

現在私たちが経験しているのは、書くことが話すことにある意味で近づくという、運命的な変遷である。逆説的なことに、書くことのキャパシティが途方もなく広がったとき、それは、結果的には無に帰されてしまう。つまり、私たちの行動を24時間監視し続けるウェブカムが収録した24時間分の映像を、我々は同時に進む時間を生きながら追体験することが出来ないという当然の結果と同じことが、途方もないメモリーによって収められた書かれたものを見直すことが出来ないという結果に認めることができるのだ。

書かれたものが話されたものに近づいていく事態。それは様々な点で本質的な差異を含む。また、歴史が不可逆であるのと同様に、この変遷も不可逆であった。そして、これは「書かれたものが話されたものに近づいていく事態」であって決して、「戻っていく」でも「再び近づいていく」でもない。

そのように考える時、それでも、敢えて、ていねいに選ばれた言葉によって語られた発話や、素敵なことばによって紡がれた文章と言うものの有難さや輝きみたいなものの存在を嬉しく思う。

ecrire raconter

10/28/14

着ること/脱ぐことの記号論 / Sémiotics de s’habiller et se déshabiller

着ること/脱ぐことの記号論

私が学会員として活動させていただいている日本記号学会編のセミオトポス⑨
「着ること/脱ぐことの記号論」が出ました!
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表紙はどどーん。2012年5月神戸ファッションミュージアムでの記号学会に来て、学会員を新聞まみれ、会長に落書きと新聞ジャケットを贈呈、素敵なお話をしてくれた新聞女がクレーンで釣られている所です。あ、見えないですか?じゃあ要望にお応えして!
semiotopos9_2
この方は時々クレーンで釣られています。本の中には、彼女についてのテクスト「新聞女―アートは精神の解放」が収録されています!私が書きました。どうか読んでみてください。この記事を書くために、日々大忙しの新聞女に遠方からインタビューもさせていただいて、彼女の師匠である嶋本昭三先生のお話などもお聞きして、彼女がどうやって新聞女になったのか、これから新聞で世界をどうしていくのか、いろいろお聴きしました。ヤマモトヨシコさんの素敵な写真もご好意でたくさん掲載していただきました。心を込めて書きました。読んでね。

また、人はなぜ外国のファッションに憧れるのか?という問いをめぐる「ガールズ・トーク」を目指した第二部「「憧れ」を纏うこと」では、ファッションをめぐる表象や欲望の構造に着目し、文化や国を越境するファッションはどのように人間の衣服を纏う行為と関わるのかが問われ、高馬さんのファッションとエキゾチズム論、池田さんの大正昭和の映画に見られる「モガ」論、杉本ジェシカさんのゴシック・ロリータ論が面白いです!私は、「キャラ的身体とファッション」という議論で、私たちとアニメキャラの歩み寄り?!について書きました。この論考のために酒出とおるさんに素敵なイラストを書いてもらったんですよ。お礼の気持ちをこめて、ここに掲載しておきますね。ありがとう!

酒出とおる、とりあい、2013

酒出とおる、とりあい、2013

それから、会長の吉岡さんのテクストも冒頭掲載します。会長吉岡さんの落書きされて嬉しそうな写真なども、新聞女論の中でご覧ください!また、目次も以下に添付させていただきます。また、昨年逝去された山口昌男先生の追悼特集では、吉岡 洋さん、室井 尚さん、立花義遼さん、岡本慶一さんが珠玉のエピソードを寄せておられます。

新曜社 web page

着ること/脱ぐことの記号論 刊行によせて

日本記号学会会長 吉岡 洋

服を着るのは必要なことだろうか? そんなの当たり前じゃないかと、ほとんどの人は答えるだろう。もしも服を着ないで外を歩いたら、たちまち好奇の眼にさらされ、たぶん警察を呼ばれるだろうし、悪くするとテレビや新聞で晒しものになる。だいいち、寒くて風邪をひくではないか。服は必要にきまっている。

でも、ちょっと考えてみてほしい。服が必要不可欠にみえるのは、服を着ることが当たり前とされる社会に私たちが生きているからである。動物は服を着ないし、私たちの遠い祖先も服を着ていなかった。根本的な意味においては、服を着るのは必要ではなく、生きるためには本来しなくてもいいこと、ひとつの「過剰」にほかならないのである。

(… つづきは新曜社HPでどうぞ!)

 

着ること/脱ぐことの記号論 目次


刊行によせて 吉岡 洋



第一部 着ることを脱ぎ捨てること
〈脱ぐこと〉の哲学と美学 鷲田清一 vs 吉岡 洋

新聞女―アートは精神の解放 大久保美紀



第二部 「憧れ」を纏うこと
「なぜ外国のファッションに「憧れ」るのか」を問うということ 高馬京子

表象としての外国のファッション―エキゾチシズムをめぐって 高馬京子

日本映画に見る「モガ」の表象―洋装とアイデンティティ 池田淑子

キャラ的身体のためのファッション 大久保美紀

ヨーロッパの輸入、再生産、そして逆輸入と再々生産
―ゴスロリ・ファッションをめぐって 杉本バウエンス・ジェシカ
「憧れ」とともに生きる―シンポジウムを終えて 大久保美紀



第三部 (人を)着る(という)こと
袈裟とファッション 小野原教子
音を着る―フルクサスの場合 塩見允枝子
ギー・ドゥボールとその「作品」
―映画『サドのための叫び』における「芸術の乗り越え」と「状況の構築」 木下 誠
(人を)着る(という)こと 小野原教子



第四部 日本記号学会と山口昌男

山口昌男先生を偲んで 吉岡 洋・室井 尚・立花義遼・岡本慶一



第五部 記号論の諸相
研究論文
究極的な論理的解釈項としての「習慣」とパースにおける「共感」 佐古仁志
研究報告
家族関係修復のセミオシス─発達記号論ケース・スタディ 外山知徳
ペルシャの青─ホイチン(回青)の壺に現われた形而上の諸々 木戸敏郎

08/5/14

関係のないことを攻撃しない

関係のないことを攻撃しない

« On s’en fout. » という言い方がある。フランス語の代名動詞「s’en foutre(Sは◯◯に関心がない)」を含むフレーズであり、敢えて日本語にするなら「私には関係ね〜!」という感じである。ただし「私には関係ね~」は厳密には正しくなくて、なぜなら »On s’en fout. »の主語である「On」は、人一般を指すからである。 »On s’en fout. » はしたがって、誰にとっても当てはまる一般的事態として何かについて、「(んなもん)関係ね〜!」という感じなのである。

日本人は »On s’en fout. »と言わないように育てられ、社会生活でもそのようにあるように訓練され、さらには次世代もそのようにあるように教育している人々であると思う。「関係ね〜!」で済めばいいものが、「関係ね~!」とならない。「関係ね~!」などと言うことは無責任でデリカシーに欠けており、何かから逃れようとしており、社会生活を逸脱しており、したがって信用がおけない個体であると糾弾されかねない勢いである。とりわけ、多くの人がマス・メディアによって駆り立てられ、興奮させられているような状況下に置いて、「関係ね~!」などと口走ることは、生命を危険に晒しかねない暴挙にすらなりうる。
厄介に思われるこの集団的特質は、時と場合を選び、国際社会において驚きと賞賛を以て迎え入れられることもあるだろう。マナーのよい、ニコニコした、優しく気配りのできる日本人、という風に。数年前「KY(ケーワイ)」という言葉が一躍流行語となったが、言葉そのものはさておき、「空気を読む」ことの重要性の信仰は伝統的なものだ。「空気を読む力」は、しばしば、コミュニケーション不全の現代を批判的に論じるような文脈で、あたかも世界中でも類を見ないほどに日本人が卓越している持つ美しき能力のように崇められるが、この素敵な「国民性」と自滅的な暴力性は、一枚のコインの裏と面である。

「空気を読む」ことは特定の水準において美徳であれど、普遍的な善ではない。少なくとも、読まない個体を攻撃することは、善で有り得ない。それは、嫉妬と呼ばれるものである。

私たちの日常は、愛で溢れているという以前あるいは同時に、人々の緑の目の攻撃性に満ちあふれている。攻撃的な態度、攻撃的な行為、攻撃的な言葉、そして絶えず攻撃的であるように押しすすめる攻撃的な思考。攻撃が生み出すのは次なる攻撃であり、その暴力は他者に向かうか、さもなければ自己に向かう。それは消滅せず、どこかに向けられる。せいせいした矢先には弾を受けて苦しむことの繰り返しである。

だが、緑の目の攻撃者が無心に矢を放つその対象は、じつはさほど、彼らの大切なことに「関係ない」ことが多いのである。(大切なこと、というのは本質的に大切なこと、という意味だ。)

関係ないことは、攻撃しないでよろしい。暴力の威力は、世界をよくはしない。すなわち、個体を楽しくもしない。人々を生きやすくもしない。
私たちは、生きやすくても生きやすくなくても、ドロップアウトはしないのだから。

04/8/14

「とりいそぎ」について, Expression « Toriisogi »

「とりいそぎ」について

「とりいそぎ」という言葉が嫌いだ。

いや、ちょっと待てよ。ある物事について突如「嫌いだ」なんて書き出す記事にろくな文章がない。好きとか嫌いというのはそもそも書き手の関心にあまりに密着した言い方であって、つまりその後に続くのが、書き手の言いたい放題・書きたい放題ですよ、ということを瞬時に明らかにする、なんとも魅力のない言い方なのだ。筆者の語彙のなさを暴露するような、むしろ恥ずかしい書き出しではないか。それならば、こう言ってみよう。

「とりいそぎ」という言葉はよくない。

このほうがいい。昔学校の先生で、作文を否定形で書くのをやめなさいという人がいた。あるいは、文句を言い人を否定するのは簡単だが、じゃあどうしたらいいか解決策を言って見なさい!なんて教育的な人もいた。あるいはまた、ネガティブは何の役にも立たないのだから、人生常にポジティブに考えなさい!なんて理想主義者もいた。数々の箴言は、それぞれがある文脈において最大限の価値を発揮することを謹んで受け入れた上で、それでも、よいものはよく、よくないものはよくない。そのこともまた本当である。

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「とりいそぎ」という言葉は、家族や恋人、友だちとの間では殆ど使われない。当たり前である。べつに、とりいそぐ必要がないからである。あるいは、とりいそぐ意味もないからだ。「とりいそぎ」という言葉は、文字通り、ある事柄についてだけとりあえずいそいでお返事いたします、とか、他にも色々あるのですがいま時間がないのでとにかく「はい/いいえ」だけ急いでお伝えします、などをひらがな五字の簡潔な表現で置き換えることのできる便利な表現だ。そして、社会生活の中で、つまり仕事における連絡のなかで慣習的に利用されているために、ひょっとしたら違和感なく、礼を欠くことないビジネス表現として、好まれて用いられているのかもしれない。

ことばというのは往々にして、使用される中で慣用的な言葉になるので、「とりいそぎ」という言葉の「取り急ぐ」という意味に戻って、何やら今日的な言葉の使用を批判したいという気はまったくない。言葉というのはそういうものだ。しかしながら、「とりいそぎ」と言ったときには前提として、とりあえず何かをすぐに伝えるけれども他にも何か補うことがある、という含みや、とりあえず急いでイエス・ノーの返答だけするけれどもあとで詳しく連絡をする、などのニュアンスを持っているのは否定できない。この言葉の今日的使用が気持ち悪いのは、その「とりいそぎ」の後にくるべきものが決して補われることなく、補われないことを前提に、それでも「とりいそが」なければならないという状況に人々が置かれているという事実に由来する。先にも述べたように、家族や恋人の間で、とりいそぎ、は必要ない。あまりに仕事的語録に訓練されすぎた人はひょっとしたら家族への連絡でも「わかりました、とりいそぎ」なんてメッセージを書くのかもしれないが、まあ驚きに値する。所詮とりあえずの内容にすぎない、不完全な返事であるにもかかわらず、人々はそれでも即座に返答し、そのことが誠実さや対応の早さ、几帳面さや仕事の速さを計る指標となる。サッサとイエス・ノーを返答しないのは、無礼で愚鈍なのだ。

そして人々は「とりいそぎ」の言葉を発し続ける。「とりいそぎ」のあとに続くのもまた「とりいそぎ」であり、その取り急がれた性急な返答の周辺に置き去りにされたものは、二度と補われることも、二度と振り返られることもない。私たちは、いつも追い立てられていて、うしろをみるために割く時間などもちあわせていないからである。それはそれでいいのかもしれない。なぜなら、置き去りにできる程度のことは、ひょっとして本当はどうでもよかったかもしれないのだから。

どうでもよくないのだとしたら? そこではおそらく、物事に向かう、その各々のときに「とりいそぎ」という言葉で筆を置かないための、ほんの一瞬の躊躇をすればいい。それだけのことである。

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02/10/14

「リアル」になる「おしゃべり」

ツイッターやフェイスブック、あるいはブログやチャットに至るまで、ソーシャルメディアは、人々がある程度気が済むまで嘆き、怒り、語り、喧嘩し、捨て台詞や負け惜しみ、思い切りペシミスティックなレトリックを言い放つための、プラットフォームを与えることによって我々の心を穏やかにしてしまう最も恐るべき装置である。その覇気に満ちた言葉を発する「前」と発した「後」で世界は全体として何ひとつ変わっていない。我々がその充実したプラットフォームで繰り広げているのは、その程度の「おしゃべり」に過ぎないことを忘れてはならないのだ。

 誤解を避けて断っておけば、私は「おしゃべり」が世界を変えないなどとは一言も言っていない。むしろ、おしゃべりは世界を創りかえる。私たちの活動の多くはおしゃべりだ。私はよく何かを書き、大学や学校で様々な人と喋り、メールも電話もする。ブログも書くし、フェイスブックも使う。そのおしゃべりが無駄だとは思っていないし、喋ること、おしゃべりによって物事を解決すること(=和平)は、戦争の対義語として教えられており、そこまでの敬意をこめて、人間のおしゃべりは価値があると我々は生まれてからずっと教えられている。

 では何がよろしくないのか? それは、おしゃべりによって得られる予定された「満足」である。人はある程度言葉を吐き出してしまうと、それが、書いた物であれ、語りであれ、やり取りの有無や他者の反応を問わず、満足してしまう愚かで幸せな習性をもっている。

 江戸時代、8代将軍の徳川吉宗の治世に「目安箱」が設置されたことは小学生も歴史の授業で習う。将軍様が民衆の声に耳を傾けた、画期的な仕組みであり、町人や百姓の要望や訴えを真摯に検討するためのすばらしいシステムだった、などと教える学校の先生があるかもしれない。あれも一種のプラットフォームであろうか? などと考えては大間違いである。目安箱に投函されるのは訴状であり、現代のカスタマーサービスについてのアンケートなどとは緊張感が違う。江戸時代の町人や百姓の識字率は、寺子屋が本格的に普及するのが天保年間(1830年代)であったことからわかるように、その100年前に、百姓が身の回りで生じた困ったことについて、訴えることなどできなかったはずである。当然のことながらこの起訴は、住所•氏名を明記する記名制で、将軍が直接目を通して対応したと言われていることから分かるように、よほどの決意とリスクを背負う覚悟なしには使用されなかった。目安箱は一方で、「民衆の意思を汲む幕府」というプロパガンダには一役買ったに違いない。

 そのように、発言することが死の恐怖と隣り合わせであり、そもそも何かを書いたり語ったりするために伝播力あるメディアをもたなかった人たちに比べれば、現代の私たちは、自由である。いくらでも思ったままの荒削りの言葉を、それがどこに飛んで行くか見定めることなく放ることができる。ある大統領の顔写真を偽札に貼付けて、その紙幣の金額が示されるべき場所に「ゼロ」と記してソーシャルメディア上で拡散しても、翌朝獄中で手記を綴る危険などを覚悟する必要が全くないほどに、私たちは奔放だ。

 奔放な我々は激しく怒り、暴言を吐き、悲観し、慰め、勇気づけ、分かり合う。現実世界のそれと変わらず、インターネット上での他者との交わりもまた、抵抗を伴う。異なる意見、批判、議論、応答。人はこれらのことに疲労する。疲労はやがて充実感となってその人の、不満と怒りに満ちていたはずの心に穏やかさをもたらし、魔の満足は、忘れることを望まない心象を永遠に麻痺させる。本当に変えたかったそのものには何一つ届いておらず、現実世界はまだ変わっていないのに、勢いあった心象は突如希釈されてしまう。これが、プラットフォームの力だ。

 繰り返される衝動の麻痺と、現実世界で実現される結果への違和感。私たちは、このプラットフォームを、自分自身を慰めるためでなく、それが現実世界を震動させるエネルギーとなるよう、新たに考え認識するべきだ。サイバースペースが「ひみつ」を共有する、閉じられて匿名的な温室であったのは昔の話だ。我々は、ミクシーに飽きてフェイスブックやツイッターを始めたとき、「ひみつ」も同時に放棄したのだ。我々は、ソーシャルメディアには「アラブの春」を勇気づけるようなリアルなエネルギーへのキャパシティがあることを知っている。どれほどのフィジカルな動きが、それを介したかということを。

 我々のそれが、依然としてヴァーチャル(潜在的)なのだとすれば、それは、まだ我々が未だそれを使いあぐねているからである。それを利己的で繊細で虚飾的な道具としてしか使えていないからである。ネットは「リアル」に繋がる。傷つきやすく自己防御的なディスクールと、ドラッグに似た機械的満足感で、小さな世界を慰めようとするのを諦め、ほんとうのおしゃべりに身を乗り出すとき、ネットは「リアル」になるのだ。

02/7/14

創作の自由と暴力のこと, Free Expression or Violence

自由で暴力的な創作、あるいは創作の自由と暴力のこと

私は男尊女卑を支持しない。無論その逆も支持しない。
平等主義はシンプルで聞こえがいい。ただし、それは不可触な理想に似ている。
世界の人々が様々な理由から均質でないのと同じように、性差は、その他の個体差よりも遥かに大きな違いである。

『抑圧された人々ー男と女の役割が入れ代わる日』(Majorité opprimé : quand les rôles masculins et féminins sont inversés)という短編映画のリンクを数日前ソーシャルメディアでシェアした。10分ほどの短いストーリーで、そこに描かれるのはあからさまに不自然で、しかし有りそうもないかというと、かろうじて信じられる程度のリアリティが漂う日常世界だ。フランス語だが状況はヴィジュアルから十分に解釈することが可能なので、もし興味がある方はこちらのリンクをご覧になっていただいてもよいかもしれない。
http://www.lidd.fr/lidd/9252-majorite-opprimee-quand-roles-masculins-et-feminins-sont-inverses

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『男と女の役割が入れ代わる…』というタイトルを聞いて誰もがすぐに思い浮かべるのは、育児や家事をする男のことだが、この映画もその単純な想像力の例に漏れず、ベビーカーを押して細々した日常の所用を済ませる父親が主人公に設定されている。一歩外に出れば世界は陰鬱な嫌がらせで満ちている。偉そうな大家の年寄りの女が嫌みを言う、道を歩けばホームレスの女が口汚い言葉で軟弱な男を罵倒する。「笑顔見せてみろよ!」というのは現在もなおリアリティのある女への捨て台詞であり、「〈女なんだから〉しかめっ面してないで、愛想振りまいて、にっこりしてみろよ」という常套文句をこの映画の制作者が男女をひっくり返したのである。また、最終的に彼は細い路地で柄の悪い女のグループに出会い、勇気を振り絞って、女達の嘲笑に、一言二言、言い返すことに成功する。その態度にキレた若い女達のグループは、男を細い道に連れ込んで、脅し、ついには暴力を振るう。それは、「尊厳」という言葉を使うならば、その人の「尊厳」を踏みにじるような行為であり、性的な暴力であり、精神的な暴力であり、理解の余地のない暴力である。そもそも、暴力には理解の余地がもともとないのだが。警察での事情聴取、上司の女は若い男の部下にコーヒーを頼む。今日もなお、多くの「上司」が女性社員にお茶やコーヒーを入れさせるように。放心状態の旦那を迎えにきた妻は、たいそう可哀想に、と酷い目に遭った旦那を抱きしめる。だがその次の瞬間、この男がその妻のいたわりにも関わらずいつまでもぐずぐずとやり切れなさを口にしていると、妻は急に、「疲れてるんだからいい加減にしてよ!」というのである。私は外で働いて疲れてるんだから、家事してるあんたがこれ以上グダグダいうんじゃねえよ、というわけである。さて、重要なのはここからだ。

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しょうもない旦那を見放したキャリアウーマンの妻は、真っすぐ続く大きな道を闊歩する。足取りは次第に軽く楽しくなり、今にも飛び立ってしまうことができそうだ。でもどこに? だらしのない、身のこなしもぱっとしない、女々しい男を突き放して、ぐんぐん歩いて行く。彼女の開放感はクライマックスを迎え、私たちはそれが彼女の夢であったことを知る。夢、あるいは、妄想、彼女がもっとも望む世界。彼女の楽しさは増して行くが、私たちはそれが悲しいかな夢であることをはっきり知っている。彼女がどれほどそこから醒めて、戻ってきたくないとしても。

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表現の自由の前に、束の間の幸せを求めて暴力的な作品を作ることもまた、自由と呼ばれるのかもしれない。
ただし、この作品は、鑑賞者の中の何人かがあるいは潜在的にたくさんの人が、「いい気味!」「すっきりした!」「その通り!よくあるこういうこと!」「一度なってみたらいいのよ、逆に!」と、ひと時の勝利を手にする喜びに酔いしれるだけであって、その先に道はなく、どこにも行くことができない。このビデオを創ることも、それを目撃して十分間満足することも、つまりは、ビデオの中のあの女、本当は「抑圧」され、その苦しみのあまり男女の役割が入れ代わって男が女に暴力を振るわれる、という妄想を作り上げてしまった女の行き場のない夢を共有することに過ぎないのである。

仕返し、で世界が変わらないことは、あまりに明らかなことであり、仕返し、がなくならないこともまた事実だ。

少なくとも意識的でなければならない。違う者は平等ではない。役割を入れ替える発想そのものが妄想である。
創ることは自由であり、言葉を発することや同意を求めること、結びつこうとすることや、想像することは自由である。
ただし、私たちは、戻ってこなければならない。
たとえ遠くに飛んで行っても、まわりに何も見えないくらい離れて行っても、とても楽しくて何がなんだかよくわからなくなっても、私たちは、戻ってこなければならない。
生き続けるために、夢から醒めなければならない。

夢はなるほど、殺伐とした現実よりもまろやかな方が良い。
しかし、醒めてしまったことを、醒めている間じゅうずっと後悔する夢でないほうが、はるかに見たいと思えるのだ。

自由で暴力的な想像力は、目の前の壁を越えることができず、表現する意味を感じさせてくれる創作は、別のところにあると信じる。

01/2/14

有毒女子通信 Vol.12 特集「食べないこと、とか」 Now On Sale / Toxic Girls Review vo.12

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有毒女子通信第12号が昨年12月20日に発行された。12号の特集は、「食べないこと、とか」である。

有毒女子通信とは、編集長の吉岡洋さんとMATSUO MEGUMI+VOICE GALLERYの松尾恵さんが作っておられる、そのタイトルの通りキュートで高貴な批評誌で、初刊の2010年8月より、「体毛•陰毛」「体液と人生」「ところで、愛はあるのか?」他、これまで読んだことも聞いたこともないスゴい特集を毎回を社会に送り出し続けている。

私自身も「<小さな幸福>をめぐる物語」というタイトルで、第10号より毎回特集に関連するエッセイを連載させていただいている。例えば、特集「少女たちの行方」の第11号では、グラビア付き(?)エッセイ「ぱんつを売る少女」を、第10号「ところで、愛はあるのか?」では、「愛と施錠の物語」を掲載して頂いた。

さて、第12号のテーマは「食べないこと、とか」。似非不景気ムードを吹き飛ばす、クリスマス、年末年始、お正月の色鮮やかな大饗宴のなかで、「食べないこと、とか」と聞くと、「そうよね、そろそろダイエットよね」あるいは「ビオよね、菜食よね」などのパブリシティ的フレーズが脳裏を駆け抜けてゆきそうだが、『有毒女子通信』は、国の歴史も小さな社会の枠組みもぶち抜いて、生き物にとっての食に焦点を当て、そもそも人間の欲望に関して、それを望むことと満たすことの意味を議論する。私たちの生きる今日の社会が、どんなマジックで日々我々を目眩しさせているのか、これを読むと、考える。

第12号
巻頭文
特集「食べないこと、とか」 吉岡洋
鼎談「食べないこと、とか?」吉岡洋×松尾恵
批評「『ありあまるごちそう』あるいは »Le Marché de la Faim »」大久保美紀
エッセイ「〈食べない女〉の物語」大久保美紀
エッセイ「食べられないこと、とか」松尾恵

定価250円で好評販売中です。ヴォイス•ギャラリーあるいは吉岡洋さん、または、こちらのブログを通じてご連絡いただいても転送いたします。第10号より装丁も一新し、触れにくいほどに洗練されております。ぜひお手に取ってください。

有毒女子通信
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Media Shop (click!)(予定)

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12/30/13

映画『アイ•ウェイウェイは謝らない』/ Film « Ai Weiwei Never Sorry »

Salon de mimi
Ai Weiwei Never Sorry
アイ•ウェイウェイは謝らない
web site : http://www.aww-ayamaranai.com/index.html

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アイ•ウェイウェイというアーティストのことを知らなかったら、人間の多様に思われる活動における「創造的表現行為」というものについて、それが生き続けることに匹敵し、むしろ、生き続けることと同義であるとすら言いうるまでにパワーを持ちうることなどを、未だに信じるに至らなかったかもしれない。アイ•ウェイウェイは、ディメンションが完全にズレている。それでも、あるいはそれ故に、彼の積み重ねてきた出来事をスクリーンを通じて通り抜けた後では、世界の中で生き延びることに関する考えを、もとの軌道に戻すことは叶わない。

2013年11月末より上映が始まった『アイ•ウェイウェイは謝らない』を東京都渋谷のイメージフォーラムで見た。アーティストとしてのアイ•ウェイウェイの活動はおそらくよく知られているので、ここで改めて紹介するまでもないと思う。このSalon de mimiでは、今年、ヴェネツィア•ビエンナーレで発表された3つの作品について論じた記事が以下のリンクに掲載されているのでご覧頂ければと思う。

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise
http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2148

「アイ•ウェイウェイのことを書くのは緊張感がある。」上の記事の冒頭に吐露した私の本心は今も一向に変わらない。アイ•ウェイウェイは本気でシビアに見えて、楽しそうでもあり、警察に頭を殴打されて手術を受け、81日間も拘束されて身の自由を奪われ、普通に心配する母親を普通に慰め、作品制作には手を触れない、作品制作の作業者たちとホカホカの中華料理を食べまくり、強い口調で口論している際もちっとも怒り狂ってはいない。アイ•ウェイウェイは、体制や社会と戦いまくる一人のエネルギッシュなアクティヴィスト以上の存在である。メディアを介したパフォーマティブな振る舞いと扇動的態度も、あたかもそれが彼の特殊性であるかのようにまばゆく語られたりもするが、本質的にはさほど重要ではないのである。アイ•ウェイウェイは、発言する。アイ•ウェイウェイは、行動する。

自分が怖がりだから、行動すると言う。行動しないことが、行動することよりも恐ろしいので、行動するのだと言う。

我々は、色々なことを色々な方法で発言する。「言うは易し行うは難し」という言葉があるので、一般的にこの世界では、口先から言葉を唱えることは誰にでもできて、行動する者こそ偉いと刷り込まれている。だが実は、言うことも行うこともさほど偉くも凄くもなく、卑怯でも汚くもなく、全く変わりのないこということなのである。アイ•ウェイウェイは、四川大地震の犠牲となった子どもたちを忘れないために個人情報を集め、名簿を作成し、ブログに掲載し、小学校の手抜き工事でぐにゃぐにゃに折れ曲がった鉄鋼を集めて、それを大きな限りない地面のように丁寧に積み重ねてインスタレーション作品を創った。警察に殴打されて負傷した現場を撮影し、ツイッターで報告、3ヶ月に渡る拘束中の生活を忠実に模型によって再現し、それを世界の人々の目の下にさらけ出した。

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私たちは、言うことも行うことも恐れる。批難され、嫌われ、疲労し、空っぽになるのが面倒だから。だからこそ、ネット上で過激な発言をし、リアル世界で奇抜なパフォーマンスをし、意を決してデモをし、そこでおこる非日常的な出来事と程よい疲労感に陶酔し、恐るべきことに、「満足」してしまう。愚かなことである。感情的なエネルギーは一時的に民衆を駆り立て、叫ばせ、暴力的にし、重い扉をこじ開けることを可能にするかもしれない。しかし、表現者たる者はその出来事の起こりうる全ての世界をあらかじめ受け入れているべきなのである。

その方法が輝かしいからでも、それぞれの出来事がドラマチックだからでも、この世界のなかで彼が特別エネルギッシュだと思うからでもなく、『アイ•ウェイウェイは謝らない』の映画を見て、作品を知ることは良い。それは、生きることがよく思えるからである。

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