03/20/15

パラ人、三号と四号のコラムについて

Parazine vol.3 and vol.4

パラ人がどんどん小さくなっています。
パラソフィアは近づき、ついに開幕し、パラ人も4号まで出ました。
さらに小さくなって5号がもうすこしで出るそうです。

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第3号、第4号に書かせていただいたエッセイについて少しお話したいと思います。

第3号:
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第3号のコラム「パラソフィア・デ・ファム・オ・コンバ」では、ウクライナのフェメン(ウクライナ語:Фемен)とカリシュ(ポーランド)生まれのアーティストアリーナ・シャポツニコフ(Alina Szapocznikow,1926~1973)について紹介しています。

フェメンは、2008年にウクライナの首都キエフで創設されたフェミニズム団体で、女性解放、民主主義支持、売春反対、女性権利を侵害するあらゆる宗教信仰反対を主張しています。

また、アーティスト、アリーナ・シャポツニコフ(Alina Szapocznikow)は、アウシュビッツの強制収容所で看護手伝いに従事しながらホロコーストを生き延びた経験をもつ。生き延びた肉体は後に癌に蝕まれるが、終生戦いながら肉体を直視する作品を創った。たとえば、唇や乳房のセクシーなオブジェは、シャポツニコフ自身の肉体を象ったものだ。顔や胸だけでなく、手・足や腹部・臀部にいたるまで、せっせと全身を鋳型にとり、複製した。1969年には乳がんを患い摘出手術を受け、その四年後、46歳で亡くなった。

第3号コラムのリード文を添付します。

TITRE :
パラソフィア・デ・ファム・オ・コンバ / Parasophia des FEMMES au COMBAT

私が今から書くのは、ひょっとすると、アートで世界が平和になると信じる人々の期待とはかけ離れた話なのかもしれない。しかし、人が殺し殺され、暴力を及ぼし及ぼされる「戦争」という環境の中で、生と向き合う一つの方法としてアートが存在するのだとすれば、それは、人々の傷ついた心を慰め、他者と嘆きを分かち、怒りのはけ口を提供しながら憎しみを鎮めるためだけの好都合な道具であるはずがない。そんな夢のような効能に悦び、感ずるべき痛みを放棄することは、つかの間の安堵と引き換えに、新たな「暴力」を招きすらする。あるいは他に、いったい生き延びる術があろうか?

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第4号:

また、2015年の年始に執筆した第四号のコラムではシャルリー・エブドの襲撃事件を経たパリのことについても言及しています。エッセイタイトルは、L’art pour « ici et maintenant »/「いま、ここ」のためのアート、です。
アートとはなにか、アートの意味、存在意義とは何か。非常事態において、アートは役に立たないのか。シャルリー以降の世界のこと、ポスト・フクシマのことについて書いています。

リード文を添付しておきます。

L’art pour « ici et maintenant » /「いま、ここ」のためのアート

リード文:パラソフィア開幕まで残すところ僅かである。ノッシノッシと歩んできた「パラ人」もついにその真の姿を現す時が来たのかもしれない。新年早々前期最終講義となるフランスで、非常時における芸術と表現の自由を喋っている途中、パリの街は非常時と化した。翌日、街中が緊張する中、グラン・パレでニキ・ドゥ=サンファルの回顧展を見る。父子関係にトラウマを持つニキが父への恨みを込めてライフル銃で発砲しまくる「暴力的」な作品も堂々と展示されたままだ。これが本当のリテラシーでなければ何だろう。このことは可能なのだ。
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また、特集コラムも執筆しました。これは、このサイトでも既に掲載した(大谷悠さんについての記事)、コンテンポラリーダンサーの大谷悠さんの作品、Solo Weddingに関する記事です。
タイトル「花嫁は憂うのか。:Solo Weddingのための3つの思索」は、大谷悠さん自信の作品ディスクリプション、樫田祐一郎さんの散文詩、そして私のパリ第8大学における彼女の公演についての文章にパリ第8大学写真学科のマノン・ジアコーヌさんの写真を加え、集作となりました。

リード文はこんな感じです。
リード文:奇妙な読みものがある。そこに奇妙な名前のダンスがあったからである。Solo Wedding /ソロ・ウェディング。「結婚」とは相手の在ることが前提であり、独り者は挙式しない。あるいは、ソロである者が挙式を執り行うためのあらゆる儀式を通じたならば、その素晴らしいウェディングドレスは日の目を見ることができるか? 憂える花嫁(I)。詩人がおぎなう「むこうがわ」の言葉(II)。作品は、おぼろげに説明される(III)。願わくは、思索を通して、悩める人々の様々な問題や異なる苦しみが、干上がり、枯渇し、どこかへ行ってしまうように。
parazine 4 haru

ダウンロードはここから!(Parasophia, Parazine)
もし可能でしたら、ぜひぜひホンモノをお手にお取りください!
紙媒体のパラ人、なんというか、ぬくぬくしますよ!

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なんとー!散文詩を書いてくれた樫田祐一郎さんが、こちらの記事について、パラ人について、散文詩についてSNS上に書いてくださった文章をこちらにも掲載させていただきました!文を書くのは対話的な作用があるから、楽しいのであります。以下は樫田祐一郎さんの書かれた文章です。。。
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大久保美紀(Miki Okubo)さんのはからいで、パラ人4号の特集記事「花嫁は憂うのか。:Solo Weddingのための3つの思索」の中の2つめの「思索」を担当させていただきました。
この記事は、ダンサーの大谷悠さんが11月のパリ第8大学で披露した作品「Solo Wedding」をめぐるレビューです。
タイトルにもあるようにこれは大久保さんによる前文と3つの「思索」から成っています。
1つめは、もともと大谷さんが上演に先立って公開していた文章を加筆修正したもの。
私が担当した2つめの「思索」はその実 »詩作 »(たはは…)でして、「控え室(ソロ・ウェディング)」と題した散文詩となっています。
ちょっと、一読しても何が何だかわからない文章かもしれませんが……。
種明かし(?)をしてしまうと、挙式前にソロ・ウェディングを夢想するソロ・ブライドの視点から、大谷さんのダンスの印象(3次元の言葉)を、紙上の、2次元の言葉に移し置いてみたもの…の、つもりです。
そして3つめは大久保さんによる論考です。大谷さんのダンスそのものについてはもちろん、はじめ「鑑賞者」であった私たちが、それぞれの思索――あるいは詩作、ともあれなんにせよある種の「作品」であり「表現」であるもの――によって応答することの意味をも、明かしてくれるすばらしいレビューになっています。
対話を生みえない作品を、しばしばそうされるように「ひとりよがり」と難ずるとき、私たちは対話というものがあたかも自然発生するもののように考えていないでしょうか。「鑑賞者」(表現を「享受する」ひとびと)が負う責任や能動性、つまり自分たちの言葉もまた他ならぬ私自身の「表現」であるということ――これは、たぶん往々にして忘れられてしまっていることです。
対話に開かれているべきなのは最初にそこにあった作品だけではなくて、私たちもまた自らを作品との対話に開いていなければいけない……あるいは開いていることが »できる »、開いていても »いい »と言うべきか。それとも開かれて »いる »という事実(「運命」?)だけがただ、あるのか。義務、可能、許可、断言、適切な命題のモードは私にはまだわからないけれど。
と、いうわけで私たちは表現しました。
いま、気になるのはこれもまたひとつのダンスでありえただろうかということ(私は踊っただろうか?)。
そしてこの表現はあらたに誰かを踊らせるだろうか。
「踊りは遍在する」(大久保美紀)。
…あ、そしてそして。この「3つの思索」にはパリ第8大学で学ぶ写真家マノン・ジアコーヌさんによって切り取られたソロ・ウェディングの3つの瞬間も、添えられています(これがなんとも素敵なのです!)。
というわけで、実際に作品を鑑賞した方にもしていない方にも、これら3+1つの「表現」を通じて踊る花嫁の姿が幻視されますように……。

03/19/15

Exposition « Sans Crayons » L’autre dessin:Juliette Mogenet, Keita Mori, Takeshi Sumi

Exposition « Sans Crayons » L’autre dessin

Juliette Mogenet, Keita Mori, Takeshi Sumi
Exposition du 16 au 21 mars 2015
Vitrine – 65, Paris
More info : ArtBridge Contemporary Website
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今週いっぱい開催中の展覧会Exposition « Sains Crayons » L’autre dessin (鉛筆をつかわないーもう一つのデッサン)を訪れた。展示作家は、Juliette Mogenet、Keita Mori、そしてTakeshi Sumiの三人の画家だ。彼らは展覧会タイトルが伝える通り、鉛筆を使用しない、異型のデッサンを提案する。

Juliette Mogenetの作品は、一枚の写真のような非常に具象的なイメージから、それに裂け目を入れたり、部分を取り去ってしまったり、あるいはカッターで出来る限りの細い糸のような彫刻に写真を部分的に分解してしまうことによって、元々のイメージにはなかったディメンションを創り出すものである。そこでは、新たな空間が開かれ、綴じられていたイメージの世界は空洞を包有し、こわされていると同時に産み出されている。
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Juliette Mogenet Website

 

Keita Moriの展示作品は、Bug reportと題されたシリーズで、糸とピストル型のノリを利用して、紙面にあたかも線を描くように造形して行くアーティスト固有の絵画方法を用いている。作品は小さなものから非常に大きなもの(例えば昨年の展覧会会期中に完成されたBug report « circuit »は500×570cmの大作である)に渡り、画面の造形の密度も様々である。ときにそれは具象絵画であり、在るときはまた幾何学的なイメージを表象する。技法(作品)タイトルが暗示しているように、作品は制作および完成後の時間においてもなお「バグ(Bug)」と共にある。バグは情報用語でエラーを指すが、もともとこの言葉には人間のコントロールの範疇を越えた霊的力による作用を意味した歴史もある。Keita Moriの作品ではこのエラーの要素が重要な役割を演じることが多い。
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Bug report (circuit), 2014 fil tendu avec pistolet à colle sur mur,500x570cm vue de l'exposition, «Voyageurs», Paris

Bug report (circuit), 2014
fil tendu avec pistolet à colle sur mur,500x570cm
vue de l’exposition, «Voyageurs», Paris

Keita Mori Website

 

Takeshi Sumiの作品も写真を異化することによって産み出された絵画だ。表面には思わず息をのむほど細かいカッターの線が無数に、そして精密につけられていて、その整列した軌跡のアンサンブルは、大海原を旅する小魚の大きな群れが一斉に海面に照り返した瞬間のようなきらめきを見せる。セーヌ川の上に鳥が舞う、その川面に影の映っている、そんな日常のイメージは、見たこともない一枚の絵画となって立ち現れる。また、作者自身の父のポートレートに無数の穴をつくり、それらが光を通すことによって産み出されたイメージは、そこに映し出された一人の男性が、アーティストの父親という個人に過ぎないにも関わらず、不思議にも既視的で普遍的な人物像のように現れる。
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Takeshi Sumi Website

 

Keita Moriの彫刻が有難い感じでギャラリー入り口に展示されている。会期中絶えず形状を変更することのできるインフィニティの作品だ。あまりに有難い様子なので、ついお賽銭をお供えさせていただきました。
展覧会は、21日までだそうです!
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03/17/15

chercher le garçon MAC VAL /展覧会「少年をさがせ」

Chercher le garçon
MAC VAL
7 mars – 30 août 2015
Commissariat : Frank Lamy
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MAC VAL の今回の企画展が「100人の男性アーティストの展覧会」だというのは、2009年にCentre Pompidouで行なわれた展覧会《ELLES》が200人の女性アーティストを集めた展覧会であったのを意識し、今度はそのカウンターとして男性性の再定義を試みる展覧会を行なおうとしたのだろうと思う。今日の世界で、男性性を再定義する…。最初の問いは、今日、男性性の再定義が必要なのか?である。このことは、例えば、後に紹介するし別の記事でもとりわけ論じようと思っているSteven Cohenのパフォーマンスなどを通じて、問わざるを得ないことが明らかになる。この展覧会の特徴は、男性性を問いながらも別の様々な社会問題と精神的問題、さらには一定の方法で政治問題にも鑑賞者の目を向けさせることを意図している。
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Saint Titre 2009, David Ancelin

Emilio Lopez-Mencheroはベルギー生まれのアーティストである。Trying to be Cindy(2010)は、1950-60年代のステレオタイプなアメリカ社会の女性表象に問いかけたシンディー・シャーマンの有名な作品のパロディである。この作家は、ピカソやフリーダ・カルロといった人物に成りすます作品も制作しており、男性的な顔や肉体をもつEmilio Lopez-Mencheroがシンディー・シャーマンの画面にあてはめられることによって、アイデンティティの問題に訴えかける。
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日本人現代美術家の森村泰昌の手法もEmilio Lopez-Mencheroと共通項を持つ。ブリジッド・バルドーに扮したアーティストは、明るすぎる光の中で、Emilio Lopez-Mencheroがしたのとは異なる方法で、対象のイコンをすり替えようとしている。
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John Coplansは2003年に亡くなったニューヨークを拠点に活動したアーティストだ。本作品は1993年のものである。拡大され過ぎて、毛穴も毛も皮膚のやや乾燥した質感も、ホクロも全てがさらけ出された脚のプロフィール。この写真は、どれだけ拡大して部分だけが提示されても、他には何の個人を特定するアイデンティティや全体のイメージがなくても、それが女性の肉体ではなく、男性の肉体であるということが分かってしまう。肉体の性的アイデンティティは、それが明確な差異と認められる性器などでないとしても、一部を認めるだけで、いとも簡単に識別できるほど、時には明らかなものである。そうかと思えばそれは別のコンテクストでは揺るがされて、識別不能に陥ることすらある掴みにくいものだ。
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Florent Matteiは1970年ニース生まれの写真家である。シリーズ《The World is Perfect》(2000-2001)では、ゴージャスなホテルで過ごす一組のカップルのある意味理想的で典型的なイメージを構成する。念入りに組み立てられた画面は、ステレオタイプな豪奢や愛のイメージに忠実にしたがっているものの、どこか重要な場所がすり替えられたりこわされたりすることによって、滑稽なイメージとして作り直される。なぜ小柄な男性の腰を後ろから抱く大きな女性という構図が違和感を想起させるのだろう。それは、我々がいかに日頃典型的イメージを刷り込まれているかを明らかにするばかりである。
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Denis Dailleuxのシリーズ《Mère et Fils》(母と息子)は、また異なる男性性の物語を我々に伝える。母と息子の結びつき、母の絶対的な愛とそれを受けた息子の母との関係性は、それぞれの写真を見ても人目で分かる、異なる歴史と物語がある。Denis Dailleuxは、このシリーズをカイロで撮り始め、のち、ガーナとブラジルでも撮影している。モデルとなるのはボディビルダーの息子とその母親である。磨き上げられたボディビルダーの肉体はおそらく、非常に「男らしい」はずであり、それは女である母親が彼らを産んだにも関わらず似ても似つかない形をしている。だが、その男性性の象徴であるようなボディビルダーの肉体もまた、何らかの成り行きによって創り出されたものなのだ。ボディビルダーのうちの一人が言う。「母親は自分の一部だ。子供の時学校でいじめられていた。そのとき、身体を鍛えなさい、自分を守れるように筋肉をつけなさい、と言ったのは母親だった」、と。男性性は産んだ子を守ろうとする女性性によっても創られることができる。
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子供が書いたような筆致で描かれたネオン、《Now I wanna be a Good Boy》(いい子になりたい)は、Claude Lévêqueの作品である。Claude Lévêqueは、ネオンという一般に街頭広告に用いるメディアを、個人的な声明やアイデンティティに関する問いなど、まったく異なる目的に使用することによって、その親密な問いを明るみに出す。いい子にならなければならない、子供時代に受け続けるそんなプレッシャーは、皆の目に触れるネオンとなることによって、異化されるだろうか。
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Steven Cohenは南アフリカ共和国生まれのアーティストで、ホモセクシュアル、ドラグクイーンである。2013年9月10日、トロカデロの人権広場にてパフォーマンスCOQを行なった。人権広場というのは、エッフェル塔をセーヌ川を挟んで臨むのに最適な観光スポットとして、いつも観光客で溢れている。15センチはあるのではないかというハイヒールに下半身を殆ど露出した白いコスチュームで、自らの性器にリボンを巻き、そのリボンは一羽の立派な鶏に結ばれている奇妙な姿で、悠々と観光客の前に登場し、エッフェル塔をバックにダンスする。人権広場は歴史的に、人々がありのままに存在する自由、それがホモセクシュアルであれ、外国人であれ、宗教を異にし、ドラグクイーンでも、人権を認められるべき空間である。そこで、Steven Cohenは下半身をほぼ露出し、性器をリボンで飾り立てたような格好で登場し、約10分ほどすると、二人の警官によって捉えられた。Steven Cohenの対峙したものは大きい。それは彼自身のセクシュアリティのみならず、民族や政治の問題に及んだのだから。
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このSteven Cohenのパフォーマンスの意味については次回のエッセイでより発展させたいと思う。

展覧会《Chercher le garçon》(少年をさがせ)は、男性性の再定義よりもむしろ、男性性のあり方の発見をアーティストの研究成果として見せる機会だったのかもしれない。

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03/16/15

Corps Étranger:Agata Kus, Kelly Sinnapah Mary, Dani Soter/ 「奇妙な肉体」展

Corps Étranger
Agata Kus, Kelly Sinnapah Mary, Dani Soter

13 Février – 14 Mars 2015
Maëlle Galerie
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アーティストたちは今日、割り当てられた性的役割を異化することが可能だ、ということを知っている。
これまで数多くの女性アーティストに焦点を当てた展覧会が、フェミニストや美術史家、批評家たちによって実現されてきた。女性のホもセクシュアリティへの着目もそのうちの比較的新しいもののひとつかもしれない。Centre Poupidou(ポンピドーセンター)では女性アーティスト200名を紹介した大規模な展覧会が2009年に既に開かれている。
本展覧会で選ばれた三人のアーティストAgata Kus, Kelly Sinnapah Mary, Dani Soterはこれまで一緒に展示したことはない。三人とも親密で独自の世界への視線を表現する作家である。
共通しているのはAgata Kus, Kelly Sinnapah Mary, Dani Soterの三人ともが、既存の性に対しての異なる身体のあり方を暴きだすことだ。自然としての性、本能的な身体、暴力の対象や主体あるいは破壊者となりうる肉体。これらはすべて、《Corps Étranger》(奇妙な肉体)であろう。
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Dani Soter:
Dani Soterはルイーズブルジョワに多くを学んだ女性アーティストである。個人的な世界観、家族の想い出やカップルの記憶。人間関係に蓄積した時間の形跡。彼女はブラジルで生まれ、ソルボンヌ大学でポルトガル語学と文学を学んだ後、現在も祖国で制作する。彼女はアーティストのフォーメーションは持っておらず、独学の作家だ。

彼女の作品《お入りください》(Entrez)は、家のような輪郭をもつシンプルな形がピンク色で塗られており、扉である場所、人々を受け入れるべき境界が男性器の形を成す。鉛筆で描かれた、Entrez(おはいりください)の文字があるだけの非常にシンプルな作品だ。鉛筆書きのEntrezの文字はとても頼りなくて、子供が書いたような、あるいは、人に聴こえないようにこっそりつぶやいたような、消えそうな言葉という印象を与える。もしかして、《お入りください》なんて、言いたくないのでは?と見る者を不安にするのだ。
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また、薄汚れたハンカチにさくらんぼの刺繍のある作品のシリーズ、これは近年Dani Soterが好んで取り組んでいるプロジェクトのうちの一つで、友人や家族の使い古しのハンカチを作品に用いる。ハンカチはしばしば酷く汚れたりカビていて、汚いのだが、それは個人の家に保存される中で生えたカビだとか、たまたま汚れを拭いたまま洗っても落ちなかったしみだとか、もしかして、食事の後に口を拭いたり、子供のよだれを拭ったりしたままながいことズボンの中に入れてわすれっぱなしになり、そのまま忘れられた布切れなのかもしれない。彼女はこれをキャンバスとして絵を描く。ハンカチは真っ暗な引き出しや物置からひっぱりだされて、眩しいギャラリーに展示される。
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Agata Kus:
Agata Kusは、1987年にポーランドのKrosnoで生まれ、クラコウで学んだのち、現在もポーランドで制作している。Agata Kusの作品ではしばしば、少女から大人の女性になる通過儀礼がテーマとなっており、少女としての自己が傷つけられる形で女性性を受け入れる《痛み》を繊細な方法で描くのが特徴だ。傷つけられながら大人になる少女も、生まれながらの女性であることに変わりない。傷つきやすく女性性の賛美が貫かれていることもAgata Kusの作品の特徴と言えよう。肉体はグロテスクなものである。

Agata Kusのデッサンの中に、内蔵をさらけ出して血を流して倒れている獣の赤い色と、白いワンピースを着た二人の少女の性器の部分が赤く塗られた作品がある。子供らしく可愛らしい真っ白なワンピースに保護された「肉体」は、地面に転がる非常に生々しい獣の死体と同様のコンポジションである。

一枚の布に、足を崩して座る少女。少女は床に散らばった赤いビーズで遊んでいるように見える。それは勿論、初潮以降毎月作られては流れ出される、月経の象徴なのだが、少女は小さかった頃と変わらない、笑顔を浮かべていて、その赤い粒を集めたりバラバラにしたり、独り遊びをしている。彼女はまだそれが何を意味するか分からず分かろうともしていないのだが、その粒が妙に赤いことだけが、何となく不穏で見ている者を心配させる役割を果たしている。
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Kelly Sinnapah Mary:
Kelly Sinnapah Maryは1981年にグアドループに生まれた。グアドループ(Guadeloupe)というのは、カリブ海の西インド諸島の島嶼群の中にある所謂フランスの海外県(Outre-mer français)である。紀元前30世紀ほどから現地文明がさかえ、ベネズエラとの交易や、Arawaksと呼ばれるインディアンの生活があったことが明らかになっている。この地は後に15世紀以降スペイン人が訪れるようになり、1635年以降フランス人によって支配され、フランス領植民地となる。以降、数世紀に渡って、砂糖の大規模農場、タバコ農園等で奴隷労働に従事させられた歴史を持つ。フランス革命後の1794年、一度奴隷制は廃止されるものの1802年にナポレオンが復活させてしまう。グアドループは、もう一つの大きな海外県マルティニークと同様に、歴史的要因から行政的・社会的な多くの問題を抱えている。
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Kelly Sinnapah Maryの作品は、フェミニンなオブジェを利用し、一見ポップ印象を与えるデザインを特徴とする軽やかで美しいイメージを描く。昔はどんな家にもあったような刺繍フレーム。典型的なお家にいる女性を思わせるオブジェを絵画は彼女のキャンバスとなる。中心には白い背景に衣服のはだけて下着姿の女性。女性の頭部は顔はなく、筒状の空洞が開いている。周りに散りばめられた無数のモチーフは中心に一人だけいる女を取り巻く男性器だ。女性の肉体を注意してもう一度見てみる。鎖骨の当たりのメッセージは »Ne pas toucher »(わたしに触れるな)とある。Ne pas toucher(Ne touchez pas)は、美術館でよく見かける。作品の前に気分を害する保護色のビニールテープが貼ってあって、《お手を触れないでください》と書いてある、あれだ。おそらくは既に傷つけられ、顔は内部に男性器を受け入れる筒の形状に変形してしまってもなお、その肉体はマニフェストする。《わたしに触れるな》と。
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Kelly Sinnapah Maryの顔のない女は、かなり直接的なファム・オブジェの表象である。セックスのオブジェとして利用されるだけの女というモチーフは作品に繰り返し描かれる。彼女自身の個人的な苦痛に満ちた性的体験に基づく表現は、作品や文化的背景を伴って、社会における現行の問題へと鑑賞者の関心を開く。デッサンの持つ軽やかな色彩とスタイルは、その苦痛を伴ってもなおあり得る、ある種の希望のようなものを感じさせてくれるのだが。

女性性への関心、少女から女性への通過儀礼の苦痛の表象、ファムオブジェのマニフェスト、これらは今日もなお人々の関心を捉えるだろうか。もちろん、それはある程度普遍的な問題なので、関心ごとであり続けることが出来る。あるいは、今日的な問題に訴えるなら、傷つきやすく対話不能な苦痛を内側に描くのではなく、演劇的な雄弁さとすこしだけハッピーな結論が求められているのかもしれない。

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01/4/15

Marcel Duchamp La peinture, même / マルセル・デュシャン ペインティング、さえも

du 24 septembre 2014 – au 5 janvier 2015
Centre Pompidou, Paris, France
Site web : pompidou exposition
9月24日から開催されていて始まった時、行かねば!と思ったのをハッキリ覚えているのに、すっかり3ヶ月が経過してしまったのにはちょっと驚いた。12月31日、2014年最後の展覧会はMarcel DuchampのLa peinture, mêmeです。

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01/4/15

Fondation Louis Vuitton, architecture et expositions / ルイ・ヴィトン財団美術館 

年の瀬、秋より新しくオープンしたFondation Louis Vuittonの美術館に行ってきました。
Bernard Arnaultがアメリカの建築家Frank Gehryに依頼して、2002年ころより昨年のオープンまで10年越しのプロジェクトになったのですね。
Frank GehryとLa Fondation Louis Vuittonのネゴシエーションやその歩みは、「I:50 Confirmation Model」が出来るまでのたくさんのアイディアやマケットの展示によって見て取ることができます。個人的には、下に掲載したモデルと原画が良かったですが。 

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そして、Olafur Eliasson の展覧会「Contact」です。この巨大なスペースにあまりに展示が少ないことで、「???」と思われるヴィジターもいるようなのですが、ファンデーションからの説明では、オープン初期は、何よりもFrank Gehryの建築を体験してもらうのを目的として、ギャラリー/美術館としての機能は後にとっておくそう。Olafur Eliassonは1967年生まれ、アイスランドとデンマークで育った現代アーティストです。絵画・彫刻・写真をあわせたインスタレーション作品で、独自の空間の使い方を模索しています。本展覧会でも、Fondation Louis Vuittonの建築から着想を得て、この特殊性と協働しながら、彼がこれまでテーマとしてきた空間における確からしさや、振動、光と影といった要素を展開させています。

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そして、コレクション(財団収蔵品)の部屋。
今回は15名ほどのアーティストによる作品の展示がありました。そのなかでも、Wolfgang Tillmansの植物の写真は、好きですね。生が勝手にあり、それを満たす光が射し込んで、広がる雰囲気がとてもいいです。
また、Ed Atkins の Us Dead Talk Love (2012)ですね。アバターのような人物が視角的・聴覚的にシュミレーションしながらあるテーマについてモノローグを繰り広げるという、近年の作品のうちのひとつ。
続いては、Rachel Harrison のZombie Rothko (2011)、そしてAnnette Messagerのコレクション展示です。

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新しいアキジションの作品、Cerith Wyn EvansのA=F=L=O=A=T (2014)は、1990年代から作家が取り組んでいる、オーディオ・ヴィジュアルのインスタレーションの試みの一つで、空間の持つ特殊性と空間を満たす音/静寂との関係によってインタラクティブな作品である。20本のフルートは、作家によって作曲された音楽を奏でているのだが、その音楽は、室内のコンポジッションが異なれば、別の方法で共鳴するのである。

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ブローニュの森からはちょうど、ラデファンスが見渡せる。
パリの、気球も。

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11/3/14

「死者のための和気あいあいとした儀式」/ Un rite convivial pour la mort

Un rite convivial pour la mort

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11月2日は死者の日でした。日本のお盆もそうですが、この日あるいはこの日が近くなると死者は生きている我々との距離を一時的に縮めるようです。生きている人々も普段の生活の中でなかなか彼らを訪れられないので、一年に一回お墓にお参りをして近況を伝えたり近況を聴いたりします。この日の数日前より今年は普段よりたいそう体調が悪くなったりもしました。もう11月3日になってしまったので、死者の日は終わりました。

9月29日から4日間、ルアーブルの美大での死についてのワークショップに自主Intervenantesみたいな感じで参加してきました。ルアーブルは歴史的な港町で、第一次世界大戦で街全体に壊滅的な打撃を受け、戦後に新しい街として造り直されました。パリからは電車で2時間半くらいです。ジャン=ノエル・ラファルグさんの企画したワークショップで、彼がこのために設置し、たびたび情報を更新し続けているブログLa Mortは充実しているので、関心のある方はご覧になってください。

このワークショップについての記事は、同じく彼のブログ:こちら(http://hyperbate.fr/dernier/?p=31586)に記載されています。参加した学生の作品やコンセプトがラファルグ氏によって解説されています。私は4日間は滞在できなかったのですが、最終日にもう一度参加し、数分のビデオを発表してきました。私のヴィジットについても記事内で触れてくださったので、ご覧ください。こちらに引用もしておきます。

ブログの引用はこちら。
Le dernier jour, Miki Okubo, qui a été en quelque sorte la marraine de cette semaine de travail, est venue nous montrer un petit film sur la mort de sa grand-mère et a nourri tout le monde avec des makis qu’elle a préparés et des cookies en forme de pièces de dix yens comme celles que l’on incinère avec les défunts pour qu’ils paient leur passage vers le monde de leurs ancêtres — un étudiant s’est intéressé à une tradition proche : dans l’antiquité gréco-romaine, on plaçait dans la bouche ou sur les yeux des défunts des pièces destinées à payer à Charon pour la traversée du Styx.

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写真をみると、おやつ食べてるみたいですが、ショートフィルムを見た後にそのストーリーを共有した皆でいっしょに食事を摂るという趣旨でした。タイトルのUn rite convivial pour la mortは、「死者のための和気あいあいとした儀式」という意味で、convivial(和気あいあい)はしばしば、皆で食事を楽しくとって打ち解けるような状態を現します。このビデオは、基本的に全て私の撮影した画像と家族によるイラストを素材とした、祖母の死に関わる、極めて私小説的なストーリーです。時間は8分くらいで、彼女の死をめぐっての一つの不思議な話と死の間接的原因になった食事時の出来事についてあわあわと語っています。10円玉が消えたこと、生きるための摂食は時に生を奪いうること、物語を共有すること、食を共有すること。ストーリーはこのような問題に焦点を当てています。

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Vimeoにアップロードしましたのでこちらでご覧ください。数日間ここに載せておきます。何せ家族が出演し過ぎているので、ご覧になっていただける際は、パスワード2222を入れていただければと思います、お願いします。ワークショップの折りに急いで作成したものなので、何かと無骨ですが、いずれ全体をまた作り直そうと思いますが。さしあたっては多くの方にご覧頂けますように。

2014年11月3日 大久保美紀

 

09/4/14

展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(3)

展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(3)

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キキ・スミスの作品をこんなにも集合的に見たことがなかったということに気がつく。彫刻、ファブリック・ワーク、コラージュ、ミクストメディアの作品。子どもと動物、動物と植物、鳥と星、人体と木、薔薇と虫。こんなにキキ・スミスの世界に長居したのは後にも先にもこれきりになるかもしれない。そんな気がした。キキ・スミスは、24歳の時アーティストとして生きることを決意し、それから今日まで、学び、創り続けている人だ。アートが生きるためになる力に確信を持って、表現を模索し続けている人である。

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キキ・スミスは1954年、ニュルンベルクに生まれる。オペラ歌手の母とミニマルアートの先駆者として知られるトニー・スミスを父に持つ。ニュージャージー州に移住し、父の影響下でアートに触れて精力的に彫刻を学んで行くが1980年、88年に相次いで父と双子の片割れであるベアトリスを失い、彼女にとって、生きることに関わり生命を宿す箱としての肉体の意味を考えることの転機が訪れる。90年代、分断された身体や死のイメージを数多く表現し、翻って、自らが誕生したことについて、生命の複製のシステムについて関心を抱くようになる。

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それまでのアート・ワールドでタブー視されていた生の複製を露骨に表現することや身体器官を露にした彫刻をつくることに集中した。

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彼女にとって、動物たちは我々の生命システムのほぼすべてを共有する存在だ。我々は虫の脆弱さ、鳥の歌声、ヒツジの従順さ、狼の獰猛さを併せ持ち、からすや蛇、フクロウたち、あらゆる生き物と同様に自らを複製する。

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彼女の多岐にわたる表現は、彼女のひとつのスタンスに由来する。
「文化的な方法、つまり、見て、学ぶという方法でアプローチできる経験を求めています。あらかじめそれがどんなものかを決めつけるのではなく、私の作品がそれに合った表現を見つけるのを受け入れるんです。」
彼女は、版画もするし、タペストリーもつくる。陶器もつくるし、ブロンズ彫刻も扱う。

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とりわけ、教皇庁の一室に展示された一連のタペストリーの描き出す世界は、中世のカトリック世界を体現し、それは同時に彼女が生まれ育ったカトリック文化でもあるのだが、それはいたるところでエンブレムがすり替えられ、意味を転覆し、厳格な神話的世界の平和はキキ・スミスの創り出す調和のなかで朽ち果てている。そのかわり、彼女は現代のイヴがどうやって産まれるか、我々に見せる。アダムのわきがどうして必要であろうか。イヴはほら、子鹿の腹から産まれるのだから。(Born, 2002)

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カミーユ・クローデルの一生が、ロダンとの関係のために悲劇的であったとか、ロダンの名声のために力を尽くしたのだが、自らは彫刻家として十分に評価されることをなくして、精神を病み、発狂してしまったために不幸な一生をおくった女だったということを、当たり前のこととして受け入れるのが疲れてしまうほどに、できすぎた不幸な女の物語が彼女を深く包み隠している。

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早くに才能を認められたカミーユ・クローデルは、弟子入りした作家の卵がしばしばそうであるように、ロダンの作品を助け、彼の名声に貢献し、そこで彼の強烈な表現を学んだために、彼女の作家としての独自性なぞ見いだすことはなかなか叶わず、苦しんだことは事実だろう。しかし、ロダンとの人間関係、家族との不理解、自分の作家としての追求の中で悩みながら、入院に至るまでの間、精力的に創り続けたカミーユ・クローデルという人は、やはり作家として凄いのではないかと思う。

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彼女の作品は、彼女が精神を病んだ際に、自分でかなりの数を破壊してしまったため、残っていないものも多いのだが、いずれにせよかなりの作品を制作し続けていたはずである。表現するエネルギー、それがどのような形であれ、今日の我々までそれが伝えられたことを有難く思わざるを得ない。

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人の幸福について語るのは難しい。人の不幸についても然りである。

しかし、表現する方法を知っていたということ、そのことは救いだったのではないだろうか。

これで、第三回に及んだパラ人二号のエッセイ『パラソフィア・ア・アヴィニョン』追記を終わりにします。