01/10/15

粒はほころぶ。 粒の存ることは、糾弾されない。

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「粒はほころぶ。粒の存ることは、糾弾されない。」

 

どこまでも具体的にあるいは抽象的に、
かぎりなく実践的にあるいは観念的に、
ひとは生きることができるだろう。
極と極のあいだで、折衷しながら生きることも。

積年の、個別の生の積み重なりの、
「連続」と見なされる歴史、文化あるいは叡智。
あたかも織られた絹糸のように物語られているのは、
僅かに互いを引き寄せたり突き放したりする、
独立した粒のようなものである。

かぞく、ムラ、クニ、世界、宇宙に
触れ、関わり、包まれ、育まれ、
マテリアルである肉体のマテリアルとしての限界まで、
世界を浮遊し時間を潰す、
粒のようなものである。

ミズナラの木は地面を覆うほどのドングリを与え、
蝉は夜明けまでじっと羽のパリっとした乾燥を待つ。
食べ物がなければ在る場所を探す他なく、
それでもなければ施しを乞うしかない。
凍えて生きられないほど寒いなら智惠をしぼって暖まるか、
他者の恩恵に与って温めてもらうしかない。

そこに選択の余地はなく、
生はつまり粒のように、
マテリアルがほころびて、運動をやめるまで、
そっとされるだけである。

意味を創り、詩を書き、音を奏で、ダンスする。
食欲を満たし、性欲を分け合い、睡眠し排泄する。

生そのものは、そっとされるだけである。

粒はほころぶ。
粒の存在は、糾弾されない。
創られた意味の糖衣がたとえ失われても、
そこに在り、生きることは、
ひたすらに明らかである。

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01/4/15

Reiko Nonaka « Double Vie » : la gémellité d’une vie double / 野中玲子「ダブル・ライフ」: 双子性

Intervention de Reiko Nonaka, artiste photographe

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Reiko Nonakaさんは、フランス、パリを拠点に創作・発表をされている写真家でおられ、今回パリ第8大学造形芸術学科の授業 »Exposition de soi »の12月3日の講義にいらっしゃっていただき、ご自身の最近の作品のコンセプトや制作のお話をしていただいた。

主に紹介していただいた作品は「Double vie」(ダブル・ライフ)で、双子のコンストラクティド・ポートレートのシリーズである。モデルは、全て本物の双子である。ご存知のように、双子には、一卵性双生児と二卵性のものがある。(と思ったら、胎盤が融合するパタンなどもあるのですね… というわけで説明はこちらを:site baby twins)野中さんは2013年10月にパリで本作品「Double vie」の展覧会をされている。

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野中さんがモデルとして主に依頼する双子は、一卵性の双子、文字通りの「Double vie」を共有する人々の存在に関心を抱いている。アーティストが関心を抱くのは「双子性」(gémellité)と呼ばれる、双子間の共感や共鳴、同じ家族に産まれるのだから、生後の環境のシェアや教育のシェアは無論言うまでもないが、それ以上の結びつきを証明する「なにか」の存在である。

彼らはしばしば、殆どの時間を共に過ごす子ども時代が終わり、それぞれの道を歩む学生時代、そして、成人してもなお、精神的・身体的な影響の感覚を持ち続けている。それは、もともと一つの細胞から全ての遺伝情報を共有し「ダブル」になったのだから、と想像するのはたやすくロマンティックであるのだが、非双子である人々には経験することのないものが、ダブル・ライフの中には流れているようなのである。そのことを、野中さんの写真は、ある意味で可視化しようと試みる。

Double vie

野中さんは依頼するモデルに出会い、撮影まで、十分な対話の時間をとる。どのようなエピソードがあるか、彼らの双子としての人生の特徴は何か、それぞれの共通点・相違点はなにか、面と向かった彼らから読み取るもの、それら全てを、画面の中に再構成する。作品内のコンポジションは、物や家具、ポーズ、衣服を含め、アーティストが彼らとのやり取りのなかで着想し、構築したものだ。

「双子性」(gémellité)の探求は続く。100組ほどの双子を撮影したいと語るアーティストは、我々に自伝的なヴィデオを紹介した。赤いずきんと青いずきん、お気に入りの絵本を手にしている二人の幼い女の子が並んで座っている写真。
「Double vie」の作者であるReiko Nonakaは自身が一卵性の双子として生まれ、「双子性」(gémellité)について問いながら生きてきた張本人である。

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奇しくも講義受講者内にも双子が二人いた。あるいは皆さんの知る双子もいつか彼女のモデルとなるのかもしれない。

双子としてのダブル・ライフに関わらず、我々は誰一人として自分の人生以外の人生を経験することの出来ない身である。双子同士は双子としての経験を互いに予想するものの、別の双子の人生は経験不可能である。しかし、モデルと語り合い、彼らの双子性を再現するアーティストの試みはなかなかに面白く、それは言わば双子性という不可触のものを世界に開いてみようとする勇敢な試みであるようにすら思える。

Interventionに感謝をこめて。
Reiko Nonaka : website http://www.reikononaka.com

01/4/15

Manger, Boris Charmatz / 「食べること」をダンスする

Manger 

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2014年12月3日にThéâtre de la Ville, Parisでダンス作品「Manger」を鑑賞した。Boris CHARMATSによって構想された作品「Manger」(フランス語の動詞:「食べる」)は、そのタイトルの宣言する通り、人間の「食べる」行為に真正面から焦点を当てた作品だ。今日、非常事態を除いては飢餓による生命の危険に直面しない平和な食生活を送る人々にとって「食べる」とは、日常的で身近で、あえてとるに足らない行為と感じられるかもしれない。もちろん、食事を自由にとれない病気と共に生きている人、アレルギーのある人、止む負えず食事制限している人、その他あらゆる食のトラブルに出会ったことのある人々にとっては、「食べる」行為は自ずとグロテスクでつかみどころのない、奇妙な行為として立ちのぼるかもしれない。

だがじつは、そもそも、口からも異物を摂取し、内部に一時的にであれ一定の時間内包し、それを様々な消化酵素で消化し、吸収して、抽出されたものを自らの肉体の一部と成し、さらには、口から摂食したけれども不必要であり、廃棄できる内容を液体や固体として排泄するという一連のプロセスは、たとえば、植物が、道管と師管から水分や養分を吸収し、日光や二酸化炭素を利用して養分を生成していることに比べると、遥かに生々しく、インパクトある行為ではないだろうか。

異物を体内に受け入れたり、それを内部に同化しようとするのは、たとえば生殖行為にも通じる出来事であるし、つまり「食べる」行為は、よく見ると奇妙であり、もちろんとるに足らずつまらなく、それでもやはり分かりにくい行為なのである。

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「Manger」(2014) は、Boris CHARMATS(Dance Museumのdirector)によって構想された作品で、人間の口が持てる可能性を追求した作品である。口がかなでる音、それを作家は、噛むときのメロディーと表現する。食べものがすりつぶされるときの音や、それらが肌と奏でる音、そして食らう人の声。それらがダンサーの身体を通じて、彼らの感覚を経て、総合的な表現となって、舞台全体で動きのインスタレーションとして提示される。「食べる」人間の肉体と食べられる物との限りなく狭い境界線を具体化しようとしている。

舞台上で繰り広げられるのは、もはやなぜ舞台上でそれを見せ、見せられる観客は硬直してそれを見守らねばならないのか、わけの分からない出来事の塊である。10数名の演技者たちは、破れる際にいちいちよい音のする「白い紙」のようなものを何枚も手にもって、唇や歯、手で破り、それを口の中に含むことを繰り返す。繰り返される咀嚼、次々と破られた紙は口の中に送り込まれる。演技者たちは、異なる音をたて、異なる形でそれを食べ、異なる表情を浮かべて咀嚼する。やがて孤立していた演技者は、歩み寄り、絡み合ったり、影響し合い、食べることを続ける。ちぎりまくられて、口に入れられなかった白い紙は床に散らばり、それを舐めるように拾い集め、あるいは咀嚼の末をれを体外に放り出し、そしてまた、体内に送り込むことを繰り返す演技者がいる。

演技者の行為は、我々の「食べる」行為のあり得べき姿、あるいはあり得る姿をひとつずつ具現化しているようでもあり、しかし単に実験的であるようでもある。そのカオティックな様子は、なるほどリアルである一方、表現として理解されることを期待してもいないようだ。

この作品は、「食べる」行為の多様なesquisse(素描)として、非常によく表現されており、研究されているけれど、ならば「食べる」我々をもっとあるままに肯定するアクションを、私は観劇中ずっと探していたのかもしれない。

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01/4/15

Marcel Duchamp La peinture, même / マルセル・デュシャン ペインティング、さえも

du 24 septembre 2014 – au 5 janvier 2015
Centre Pompidou, Paris, France
Site web : pompidou exposition
9月24日から開催されていて始まった時、行かねば!と思ったのをハッキリ覚えているのに、すっかり3ヶ月が経過してしまったのにはちょっと驚いた。12月31日、2014年最後の展覧会はMarcel DuchampのLa peinture, mêmeです。

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01/4/15

Fondation Louis Vuitton, architecture et expositions / ルイ・ヴィトン財団美術館 

年の瀬、秋より新しくオープンしたFondation Louis Vuittonの美術館に行ってきました。
Bernard Arnaultがアメリカの建築家Frank Gehryに依頼して、2002年ころより昨年のオープンまで10年越しのプロジェクトになったのですね。
Frank GehryとLa Fondation Louis Vuittonのネゴシエーションやその歩みは、「I:50 Confirmation Model」が出来るまでのたくさんのアイディアやマケットの展示によって見て取ることができます。個人的には、下に掲載したモデルと原画が良かったですが。 

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そして、Olafur Eliasson の展覧会「Contact」です。この巨大なスペースにあまりに展示が少ないことで、「???」と思われるヴィジターもいるようなのですが、ファンデーションからの説明では、オープン初期は、何よりもFrank Gehryの建築を体験してもらうのを目的として、ギャラリー/美術館としての機能は後にとっておくそう。Olafur Eliassonは1967年生まれ、アイスランドとデンマークで育った現代アーティストです。絵画・彫刻・写真をあわせたインスタレーション作品で、独自の空間の使い方を模索しています。本展覧会でも、Fondation Louis Vuittonの建築から着想を得て、この特殊性と協働しながら、彼がこれまでテーマとしてきた空間における確からしさや、振動、光と影といった要素を展開させています。

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そして、コレクション(財団収蔵品)の部屋。
今回は15名ほどのアーティストによる作品の展示がありました。そのなかでも、Wolfgang Tillmansの植物の写真は、好きですね。生が勝手にあり、それを満たす光が射し込んで、広がる雰囲気がとてもいいです。
また、Ed Atkins の Us Dead Talk Love (2012)ですね。アバターのような人物が視角的・聴覚的にシュミレーションしながらあるテーマについてモノローグを繰り広げるという、近年の作品のうちのひとつ。
続いては、Rachel Harrison のZombie Rothko (2011)、そしてAnnette Messagerのコレクション展示です。

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新しいアキジションの作品、Cerith Wyn EvansのA=F=L=O=A=T (2014)は、1990年代から作家が取り組んでいる、オーディオ・ヴィジュアルのインスタレーションの試みの一つで、空間の持つ特殊性と空間を満たす音/静寂との関係によってインタラクティブな作品である。20本のフルートは、作家によって作曲された音楽を奏でているのだが、その音楽は、室内のコンポジッションが異なれば、別の方法で共鳴するのである。

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ブローニュの森からはちょうど、ラデファンスが見渡せる。
パリの、気球も。

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01/1/15

Jardin gelé, le 1 janvier 2015

Le matin du 1er janvier 2015,
dans un jardin était bien gelé,
l’air froid, le rayon du soleil calme,
les oiseaux qui sifflent sur les arbres,
je respire du fond de mes poumons,
afin que je me rappelle l’hiver de mon pays,
celui qui me réveille,
celui qui éveille mon corps et esprit…

Je vous souhaite une année heureuse et paisible.

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12/25/14

大谷悠:ソロ・ウエディング, Solo Wedding: HARU OTANI / 「独り挙式の意味と無意味」 

「独り挙式の意味と無意味」

Solo Wedding
結婚はしていません。
したこともないし、する予定もありません。
それでも無関心でいられないのはなぜなのか。

ウエディングドレス屋のショーウインドウにヘレン・ケラーの無数の指紋(穂村弘)

考えながらブルーになってきたとき、そのブルーをこの短歌に肯定された気がして、自分でやってしまおうと思いました。
王子様を待ってない。
結婚したら負けだとも思ってない。
どちらにせよ、私はソロで、ここにいる。
(大谷悠)

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2014年11月26日、パリの北郊外はサン・ドニ、パリ第8大学までお越し頂いて、大谷悠さんに作品 »Solo Wedding« を披露していただいた。公演が行なわれたのは、私の教えている »Exposition de soi »(自己表象)の講義内であったが、宣伝内容をご存知の方もいらっしゃるように(salon de mimi past article)、講義受講者に限らず、一般の方、学外の方にも一部お越し頂くことが出来たのは幸いであった。この場をおかりし、本公演のために遠方までお越し頂いた方々に感謝の意を表したい。

Photo par Manon Giacone

Photo par Manon Giacone

さて、Solo Weddingは、コンテンポラリー・ダンサーの大谷悠さんの自作自演の作品で、かの著名な結婚行進曲(メンデルスゾーン)に乗り、ウェディングドレス風の白い衣装を纏った大谷が踊るソロダンス作品である。2014年に構想されたばかりの本作品は、国内の発表会で初演され、フランスのパリ第8大学造形芸術学部の学生達に向けての公演は二度目の発表となった。すでにこの作品はつい12月22日に京都大学にて吉岡洋さんのオーガナイズしたエルキ・フータモさんの特殊講義後、三度目の公演が行なわれ、さらには明日、横浜での公演も予定されていると言う。極寒の中薄っぺらいウエディングドレスで舞う花嫁の姿は、冬が深まるほどにそのソロ感を増すのではないかと想像し、思わず楽しくなってしまう。

Photo par Manon Giacone

Photo par Manon Giacone

パリ公演が行われたのは、大学正門から造形芸術学部の建物入り口に進む手前の広い吹き抜けの空間で、真っ白な壁にガラス張りの明るい素敵な〈隙間〉である。大谷からこっそり届いた練習ヴィデオと衣装写真を目にし、即座に目星を付けていた場所。此処でないと嫌というほどイメージにぴったりだった。通りすがりの学生や職員もつい足を止める。視線の先には、真っ白なドレスとスニーカーの黒い短髪の花嫁。音楽が鳴る。1980年よりヴァンセンヌに移転してから一貫して若い表現者の自由を擁護してきたパリ第8大学だからこそできる公認のゲリラ公演。若い観客は、初めての海外公演に望む踊り手の熱意に敬意を払う。真剣なまなざしがこの異名のダンス〈Solo Wedding〉に注がれた。

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大谷悠は、幼少よりバレエ、ジャズ、タップ、コンテンポラリーと様々なダンスを学び、在学中より自身で振り付けも行なってきた。写真家として活動する傍ら、演劇作品にも参加している。大谷の表現は、時に象徴的で、時に概念的であるのだが、彼女の表現にしばしば見いだされる「自然の流れを自ら遮断するもの」の存在は、作品全体の中にある種の抵抗と予定調和しない意味を創り出すす。一貫した「意味」をなし崩しに理解されることを拒み、それなのに、なおも寄り添って共に考えるように我々を繋ぎ留めるつよい意志が伝わってくる。

Solo Weddingは、孤高の花嫁が、自らの憂いを誰に訴えるというのでもなく淡々と独白する作品である。作品中には明白な孤独の描写、つまり、花婿の不在や、不在を補完する花嫁自身の花婿化の動作が表されるが、それらは全体として、世界の中の孤独という直接感情からは遠く距離をとる花嫁の夢幻の遊びの中に収斂されてしまっている。無邪気に遊ぶ花嫁は、時々現実世界に引き戻されそうになりながらも、やはり象徴的な宙空を彷徨う。

独り挙式の意味を読み取ろうとすること、あるいはその無意味を受け入れること。
二つのチャレンジに大きな違いはなく、いずれの出会いを選ぼうとも、花嫁は我々にたたみかけ、そして遠ざかるだろう。我々もまた、問いながら遊びに没頭すればいいのだろうか?

それは花嫁に出会ってから考えても良い。

*** 作品 »Solo Wedding »をCourt-métrage作品にする予定で、悠さんと撮影に行きました。完成をお楽しみにー!photo

11/12/14

授業とは何か:伝える人と伝わる人とのあいだ(1)/ le cours : la signification de la transmission et de la réception

授業とは何か:伝える人と伝わる人とのあいだ(1)

 漢字が書けないなあと、以前はよく思っていたのに、最近では漢字が書けないことにすら気がつかなくなった。多分書けないのだが、書く機会がないので気がつかないのである。漢字はとても好きなのに、残念なことだ。書かなくなったのは、むろん漢字だけではない。私は文通が好きだ。筆跡というのが、愛しい人も、生意気を言う人も、賢そうな人も、何を考えているのか分からない人も、その距離という距離を吹っ飛ばして、「その人が手を動かして書いている感じ」を直接的に伝えるからである。いまここにはいないその人が、ペンや鉛筆を握って紙をぐいぐい押しながら、まるっぽい動きや角張った動きによって、そこに記号の集積をデッサンしている様が、なんとも温かく感じられるのである。思い返せば小中学校では書道の授業もあったし、文字を「綺麗」に書くことが、読めるように書く以上の付加的意味をもっていたからこそ、手で書くのが好きになったり、嫌いになったり、文通が好きになったり、筆無精になったりしたのだろう。

 手書き原稿を破り捨てつつ、つぎつぎ新しい原稿用紙にペンを走らせるような歴史的典型的小説家でもないかぎり、我々の経験において「文字をたくさん書いたなあ」というのは、学校の授業や課題、作文やレポートであるような気がする。とりわけ、大学はその限りではないが、小中高の教育において「板書」はなかなかシンボリックな身体的鍛錬であるように思える。個人的には、書いたから覚えるとも、書きまくれば覚えられるとも思わない一方で、日本風の板書授業がダメで、反復や暗記よりも一度の理解が重要とも一概に言えないと思う。

 ただひとつ確信しているのは、スマートフォンなどのディヴァイスで板書やプレゼンを撮影するという記録の取り方は、記述をせずに書かれた内容を眺めるのとも、書かれた内容を無心に書き写すのとも異なる記録の方法であり、したがって内容の把握の仕方と把握されたものの質は自ずと異なったものとなるということだ。だが、次のように思う人もいるだろう。無心で書き写すのと、カメラで写真を撮るのとは、結果はよく似ている、と。それは間違ってはいない。その二つの行為はつまり、書かれたものを自分の持ち物、自分にとってアヴェイラブルである物(ノート、記録媒体)に保存するということなのだから。

 では、何が異なるのか。物が手の動きを通じて書き写される際、とくに内容が膨大である時、そこには筆記者による取捨選択が行われている。筆記する者は、数十秒あるいは数分ではコピーしきれない「書かれた情報」のなかから、必要なもの自分に関係あると思われるもの魅力的に感じられるものなどを選び取っているのだ。この点で、この行為における認識には奥行きがあり、捨てられるものと選ばれるもの、その判断をするための内容への介入が存在している。
 また、板書をとらずに書かれたものを眺めるという行為においてはどうだろう。実感を持って多くの人が気がつくであろうが、我々は何かを眺めている時、その全体を均一に見ているということはない。そのどこかを見ているし、どこかしか見ていない。板書を眺める人もまた、無意識的であれ、内容の選別を行い、限られたメッセージをキャッチしているだろう。

では、カメラで書かれたものを撮影する人々の行為はどのように解釈できるだろう。手がかりとして、彼らの意識がどこにあるか考えてみよう。彼らは素早く「撮影すべき対象」をカメラのフレーム内におさめ、シャッターをきる(といっても画面にタッチするだけだが)という一連の行為を素早くて企画に行なうことに集中している。実はここでは「書かれたもの」の意味も部分もいっさい浮き上がることなく、解かれてバラバラにされることもなく、完成した一枚のイメージとしてキャッチされるのである。写真を取り損ねた撮影者は、手によって板書がとり終わらなかった筆記者さながらに悔しがる。彼らは、的確にフレームのなかに「撮影されるべき対象」をおさめて焦点を合わせて撮影する、という一連の動きが時間内にできなかったことが悔しいのだ。

さて、2時間半も授業をすれば、撮影されたイメージはさぞ膨大だろう。それを丁寧に見直す手間を考えると頭が下がる。だが感心する必要もない。なぜなら、ここから始まるのは他の記録の仕方によって既に行なわれていたがこの三つ目の記録方法においてはすっかり後回しにされていた「解読」と「選択」が遅ればせに始まるだけなのだから。この途方もない遅れと膨大な必要時間と労力は、私が以前、「書き散らかしの信仰」で論じたウェブに書き捨てられる言葉の塊や、ウェブカメラや監視カメラが記録し続ける時間の記録と深く関連があるのである。

様々な要因が次のような結果を生む。
リアルタイムの「授業」という場で撮影に集中し、後時的な「解読」と「選択」によって掘り起こされ再構築された「結果」はあまり遠くに行けないのである。一方、それがたとえ部分的でも誤解を孕んでいても、リアルタイムの場で得られたアイディアに基づいて書かれたものには、筆圧がその人の存在をありありと思い浮かばせるのと同様に、生き生きとして元気な考えや着眼を目にすることが多い。
今後、伝えるひとと伝わる人の間の対話がどのようになるか、記録という手段がどのように実践されていくのかわからないにせよ、上のようなことは、自身の書く目的によっては思い出して無駄のないことではないだろうか。

(2)では、伝える人の側の問題に焦点を当ててみたい。

lettre intime

11/3/14

「死者のための和気あいあいとした儀式」/ Un rite convivial pour la mort

Un rite convivial pour la mort

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11月2日は死者の日でした。日本のお盆もそうですが、この日あるいはこの日が近くなると死者は生きている我々との距離を一時的に縮めるようです。生きている人々も普段の生活の中でなかなか彼らを訪れられないので、一年に一回お墓にお参りをして近況を伝えたり近況を聴いたりします。この日の数日前より今年は普段よりたいそう体調が悪くなったりもしました。もう11月3日になってしまったので、死者の日は終わりました。

9月29日から4日間、ルアーブルの美大での死についてのワークショップに自主Intervenantesみたいな感じで参加してきました。ルアーブルは歴史的な港町で、第一次世界大戦で街全体に壊滅的な打撃を受け、戦後に新しい街として造り直されました。パリからは電車で2時間半くらいです。ジャン=ノエル・ラファルグさんの企画したワークショップで、彼がこのために設置し、たびたび情報を更新し続けているブログLa Mortは充実しているので、関心のある方はご覧になってください。

このワークショップについての記事は、同じく彼のブログ:こちら(http://hyperbate.fr/dernier/?p=31586)に記載されています。参加した学生の作品やコンセプトがラファルグ氏によって解説されています。私は4日間は滞在できなかったのですが、最終日にもう一度参加し、数分のビデオを発表してきました。私のヴィジットについても記事内で触れてくださったので、ご覧ください。こちらに引用もしておきます。

ブログの引用はこちら。
Le dernier jour, Miki Okubo, qui a été en quelque sorte la marraine de cette semaine de travail, est venue nous montrer un petit film sur la mort de sa grand-mère et a nourri tout le monde avec des makis qu’elle a préparés et des cookies en forme de pièces de dix yens comme celles que l’on incinère avec les défunts pour qu’ils paient leur passage vers le monde de leurs ancêtres — un étudiant s’est intéressé à une tradition proche : dans l’antiquité gréco-romaine, on plaçait dans la bouche ou sur les yeux des défunts des pièces destinées à payer à Charon pour la traversée du Styx.

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写真をみると、おやつ食べてるみたいですが、ショートフィルムを見た後にそのストーリーを共有した皆でいっしょに食事を摂るという趣旨でした。タイトルのUn rite convivial pour la mortは、「死者のための和気あいあいとした儀式」という意味で、convivial(和気あいあい)はしばしば、皆で食事を楽しくとって打ち解けるような状態を現します。このビデオは、基本的に全て私の撮影した画像と家族によるイラストを素材とした、祖母の死に関わる、極めて私小説的なストーリーです。時間は8分くらいで、彼女の死をめぐっての一つの不思議な話と死の間接的原因になった食事時の出来事についてあわあわと語っています。10円玉が消えたこと、生きるための摂食は時に生を奪いうること、物語を共有すること、食を共有すること。ストーリーはこのような問題に焦点を当てています。

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Vimeoにアップロードしましたのでこちらでご覧ください。数日間ここに載せておきます。何せ家族が出演し過ぎているので、ご覧になっていただける際は、パスワード2222を入れていただければと思います、お願いします。ワークショップの折りに急いで作成したものなので、何かと無骨ですが、いずれ全体をまた作り直そうと思いますが。さしあたっては多くの方にご覧頂けますように。

2014年11月3日 大久保美紀