11/3/14

生きることを置き換えるという意味 / compter à la place de vivre

生きることを置き換えるという意味

三輪眞弘氏の作品「59049年カウンター ――2人の詠人、10人の桁人と音具を奏でる傍観者たちのための―」に関して吉岡洋さんが記したテキスト「生きるかわりに、数をかぞえる」(chez nous tanukinohirune)について、このごろ反復的に考えていたことについて書こうと思う。テキストの中で言及された、三輪さんの作品「59049年カウンター 」は、10人の桁人たち、二人の詠み人、そして一人の悪魔の13人によって上演される作品で、舞台上手側の5人で構成される「LST」チーム、下手側の「MST」チーム、それぞれが下位の5桁、上位の5桁を現し、10桁の三進法の数字をカウントしていく。この数値の最大値は「2222222222」、つまり十進法で「59049」(タイトルの数)になるのである。パフォーマーは防護服を思わせるレインコートのような衣装を纏っており、「フクシマ」のイメージを想起させる。
上述した吉岡さんのテクスト「生きるかわりに、数をかぞえる」は、この作品における二つの行為「生きること」と「数を数えること」の関係性に着目する。テキストでは二つの行為は以下のように関係付けられる。


(前略)
なぜなら、生きることと、数をかぞえることとは、同時に行なうことができないからである。そして人は、もう生きることができないと感じた時、数をかぞえるしかないからである。

もちろん数をかぞえている最中だって、私たちは生きている。そうでなければ、数えることすらできない。けれども、数をかぞえることに集中している時、生は、どこか彼方に追いやられている。
なぜか? 数というのは、どこかこの世界ではないところから、やって来たものだからだ。数は私たちのように形を持たず、私たちのように歳をとらない。
(中略)
生きることと、数をかぞえることとは、いっしょに行なうことができない。もう生きることができないと思える時は、数をかぞえるしかないのだ。数をかぞえることで私たちは、滅亡からわずかに逸れた場所にとどまり続ける。
数をかぞえることは、生を担保に入れることである。 

なぜ数えることなのか?それは、我々人間のように、経過する時間のなかでいつしか持てる肉体が衰えて死んでいく物質的存在が時間に切り離しがたく関わらざるをえない一方で、数とは時間軸から解放された普遍的な存在であり、宇宙的な絶対法則に関わるのではないかと我々を信じさせてくれるような、異次元や永遠の象徴存在であるということだ。だから、数を数えるという行為は、あたかも永遠的な何かに触れる行為であるかのように、表現者たちによって、「生きることと置き換えられるためのひとつの行為」に選び取られる。

「生きる代わりに」と表現されている二つの行為は実際に勿論並立している。ここで「生を置き換える」と表現されているのは、つまり、「生きること」そのものを忘れるように何かに没頭する、ということである。「没入(absorption)」はひとつの恩寵である。なぜなら、何かに没頭することができたとき、人は「生きること」について直に考え、それについて苦悩し、正面から取り組んで解決し得ない哲学的な問答を苦悩の中で繰り返すことから、逸脱することが出来る。「生を置き換える」とか「生を担保にいれる」と言われているのは、そういった事態を意味するのだろう。

このように考えた時、あるひとつの奇妙な気づき、あるいは深淵な心配に戸惑う。つまり、そのことが成し遂げられるのは、「人がもう生きられないと思った時」「生きることを諦める時」、生きることを正面から取り組んでいくことがもう出来ないから、そこから脱落する時なのである。このような文脈において、表現者たちは「生を担保に入れる」手段として「数を数えることに没頭する」。46年間をかけて1から5607249までをキャンバスに綴り続けた画家ロマン•オウパカ(Roman Opalka, 1931-2011)は、「数えることをしなかったら、私はもう生きられなかったでしょう」、といった言い方でこのことを証言する。

ロマン•オウパカは、1965年、ワルシャワのアトリエで《1965 / 1 – ∞》と題された終わりなき作品を思いつき、79歳まで続けた表現者である。この作品は二百枚以上のタブローに別れているが、ただひとつのタイトルをもつ《1965 / 1 – ∞》全体がひとつのタブローであり、ひとつの行為であり、1965年から2011年までの数える行為を物質化してそこに体現したものなのである。

数を数えることは、生きることとから脱落し、それでも死なないための行為なのだ。絶望とそう遠くない場所にあってすら、さしあたりこの世界に留まり、しかし生きることを別の行為に置き換えるということを、はたしてどのように理解したら良いのだろうか。それは単に、逃げることなのか。彼らは世界における世捨て人であり、彼の表現行為は顧みられるに値しないものなのか?

わたしには、むしろ逆であるかのように思われる。彼の表現行為は顧みられる価値のあるべきものだと直観する。絶望しながら絶望から出発し、異なるヴィジョンを通じて世界を見るような行為は、力のある行為なのだ。そのことは彼らが世界における世捨て人であることを肯定するかもしれないが、世捨て人でも良いのである。

「生きることを置き換える」とはなかなかいい得て妙であり、し得て妙である。前述したように、没入は恩寵であり、世捨て人はその肯定者であると解ることが、絶望を理解するひとつの鍵である気がする。

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10/28/14

書くことと話すことのモダリティ / Modalités d’ « écrire » et « raconter »

書くことと話すことのモダリティ

かつては「口頭」のみで行なわれた人々の様々な発話は、物語の伝承がそうであったように、だれかが語り、それを聴いた誰かがまた別の誰かに語ることを続けて、そうやって伝わってきた言葉がのこって、いつの日にか、文字でそれを記そうと思いついた人々の手によって、あたかもそれが「オリジナル」のお話であったように魔法をかけられて、それが書かれたことによって何らかの特権的で絶対的な存在様態を獲得したかのようにして、大切にされてきたし、現在でも非常に貴重な資料として大切にされている。しかし、あるときに突如、書く事によって切り出された「それ」は、それ以前どんな形であったかはもはや分からない。たまたま、発話が持っていた時間軸とは寄り添わない別の時間軸「書くこと」が現れて、発話の時間軸をある時点でつっつくことによって、そこに「偶然」あったものを取り出したのだ。

今日既に様々な言い方で気づかれてきているように、新しいメディアの登場は、そこにあった方法を置き換えるのではなく、相互に影響し合ってその両方が変化することを通じて時間を重ねていく。たとえば、話すことの刹那的な性質に嘆き、これを保存することに可能にする魅力的な手段として、書くことは実践され、もてはやされ、普及し、世界を覆ってきた。このキャパシティを追求し、まるでまわしっぱなしのウェブカメラが生きている時間を全て記憶する夢を叶えるように、書くことのメモリーも拡張され続け、考えが言語化されるのかタイプする指がそれを具体化するのか、といった疑問がふと脳裏をよぎるほど、私たちは身体的にも訓練されている。

現在私たちが経験しているのは、書くことが話すことにある意味で近づくという、運命的な変遷である。逆説的なことに、書くことのキャパシティが途方もなく広がったとき、それは、結果的には無に帰されてしまう。つまり、私たちの行動を24時間監視し続けるウェブカムが収録した24時間分の映像を、我々は同時に進む時間を生きながら追体験することが出来ないという当然の結果と同じことが、途方もないメモリーによって収められた書かれたものを見直すことが出来ないという結果に認めることができるのだ。

書かれたものが話されたものに近づいていく事態。それは様々な点で本質的な差異を含む。また、歴史が不可逆であるのと同様に、この変遷も不可逆であった。そして、これは「書かれたものが話されたものに近づいていく事態」であって決して、「戻っていく」でも「再び近づいていく」でもない。

そのように考える時、それでも、敢えて、ていねいに選ばれた言葉によって語られた発話や、素敵なことばによって紡がれた文章と言うものの有難さや輝きみたいなものの存在を嬉しく思う。

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10/28/14

着ること/脱ぐことの記号論 / Sémiotics de s’habiller et se déshabiller

着ること/脱ぐことの記号論

私が学会員として活動させていただいている日本記号学会編のセミオトポス⑨
「着ること/脱ぐことの記号論」が出ました!
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表紙はどどーん。2012年5月神戸ファッションミュージアムでの記号学会に来て、学会員を新聞まみれ、会長に落書きと新聞ジャケットを贈呈、素敵なお話をしてくれた新聞女がクレーンで釣られている所です。あ、見えないですか?じゃあ要望にお応えして!
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この方は時々クレーンで釣られています。本の中には、彼女についてのテクスト「新聞女―アートは精神の解放」が収録されています!私が書きました。どうか読んでみてください。この記事を書くために、日々大忙しの新聞女に遠方からインタビューもさせていただいて、彼女の師匠である嶋本昭三先生のお話などもお聞きして、彼女がどうやって新聞女になったのか、これから新聞で世界をどうしていくのか、いろいろお聴きしました。ヤマモトヨシコさんの素敵な写真もご好意でたくさん掲載していただきました。心を込めて書きました。読んでね。

また、人はなぜ外国のファッションに憧れるのか?という問いをめぐる「ガールズ・トーク」を目指した第二部「「憧れ」を纏うこと」では、ファッションをめぐる表象や欲望の構造に着目し、文化や国を越境するファッションはどのように人間の衣服を纏う行為と関わるのかが問われ、高馬さんのファッションとエキゾチズム論、池田さんの大正昭和の映画に見られる「モガ」論、杉本ジェシカさんのゴシック・ロリータ論が面白いです!私は、「キャラ的身体とファッション」という議論で、私たちとアニメキャラの歩み寄り?!について書きました。この論考のために酒出とおるさんに素敵なイラストを書いてもらったんですよ。お礼の気持ちをこめて、ここに掲載しておきますね。ありがとう!

酒出とおる、とりあい、2013

酒出とおる、とりあい、2013

それから、会長の吉岡さんのテクストも冒頭掲載します。会長吉岡さんの落書きされて嬉しそうな写真なども、新聞女論の中でご覧ください!また、目次も以下に添付させていただきます。また、昨年逝去された山口昌男先生の追悼特集では、吉岡 洋さん、室井 尚さん、立花義遼さん、岡本慶一さんが珠玉のエピソードを寄せておられます。

新曜社 web page

着ること/脱ぐことの記号論 刊行によせて

日本記号学会会長 吉岡 洋

服を着るのは必要なことだろうか? そんなの当たり前じゃないかと、ほとんどの人は答えるだろう。もしも服を着ないで外を歩いたら、たちまち好奇の眼にさらされ、たぶん警察を呼ばれるだろうし、悪くするとテレビや新聞で晒しものになる。だいいち、寒くて風邪をひくではないか。服は必要にきまっている。

でも、ちょっと考えてみてほしい。服が必要不可欠にみえるのは、服を着ることが当たり前とされる社会に私たちが生きているからである。動物は服を着ないし、私たちの遠い祖先も服を着ていなかった。根本的な意味においては、服を着るのは必要ではなく、生きるためには本来しなくてもいいこと、ひとつの「過剰」にほかならないのである。

(… つづきは新曜社HPでどうぞ!)

 

着ること/脱ぐことの記号論 目次


刊行によせて 吉岡 洋



第一部 着ることを脱ぎ捨てること
〈脱ぐこと〉の哲学と美学 鷲田清一 vs 吉岡 洋

新聞女―アートは精神の解放 大久保美紀



第二部 「憧れ」を纏うこと
「なぜ外国のファッションに「憧れ」るのか」を問うということ 高馬京子

表象としての外国のファッション―エキゾチシズムをめぐって 高馬京子

日本映画に見る「モガ」の表象―洋装とアイデンティティ 池田淑子

キャラ的身体のためのファッション 大久保美紀

ヨーロッパの輸入、再生産、そして逆輸入と再々生産
―ゴスロリ・ファッションをめぐって 杉本バウエンス・ジェシカ
「憧れ」とともに生きる―シンポジウムを終えて 大久保美紀



第三部 (人を)着る(という)こと
袈裟とファッション 小野原教子
音を着る―フルクサスの場合 塩見允枝子
ギー・ドゥボールとその「作品」
―映画『サドのための叫び』における「芸術の乗り越え」と「状況の構築」 木下 誠
(人を)着る(という)こと 小野原教子



第四部 日本記号学会と山口昌男

山口昌男先生を偲んで 吉岡 洋・室井 尚・立花義遼・岡本慶一



第五部 記号論の諸相
研究論文
究極的な論理的解釈項としての「習慣」とパースにおける「共感」 佐古仁志
研究報告
家族関係修復のセミオシス─発達記号論ケース・スタディ 外山知徳
ペルシャの青─ホイチン(回青)の壺に現われた形而上の諸々 木戸敏郎

10/24/14

Intervention d’Haru Otani, le 26 novembre 2014

Intervention d’Haru Otani

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J’ai le plaisir de vous annoncer que dans le cadre du cours « Exposition de soi et dispositifs mobiles » j’invite Haru Otani, danseuse contemporaine, qui viendra du Japon et présentera son oeuvre-danse intitulée « Solo Wedding ».
Vous découvrez ci-dessous le message d’Haru Otani.
Sa performance se tiendra le 26 novembre à l’Université Paris 8 dans le cadre du cours de Miki OKUBO, vers 14h. Merci de me contacter pour tous les renseignements. Je sera ravie de vous voir afin de partager ce moment splendide.
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Solo Wedding

Je ne suis pas mariée.
Je n’étais jamais mariée et je ne me marierai peut-être jamais.
Mais pourquoi le mariage m’attire si fortement comme toujours ?

 

 La vitrine du magasin de robes de mariées fut couverte par les empreintes des mains de ceux qui cherchèrent à en toucher le contenu comme Helen Adams Keller chercha à toucher le monde. (Hiroshi Homura)

 
Déprimée en pensant au mariage, j’ai compris que c’est ce poème qui m’accepte telle que je suis.
Je n’attends personne.
Je n’attends pas le prince.
Rester toute seule ne signifie pas que je suis perdante.
De tout de façon, je suis seule ici et maintenant.

 
Je rêvais longtemps d’aller danser un jour mon œuvre à l’étranger. Je suis ravie d’avoir cette opportunité, impatiente de vous rencontrer bientôt.

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来月、2014年11月26日、パリ第8大学での私の担当講義『自己表象とモバイルメディア』の授業の一貫で、コンテンポラリー・ダンサーである大谷悠さんをお招きし、フランス初演となるSolo Weddingを披露していただくことになりました。パリ第8大学で午後2時頃より予定しております、会場などの詳細につきましては、大久保美紀までご連絡いただけましたら幸いです。お誘い合わせの上どうぞお越し下さい!皆様にお会いできますのを楽しみにしています!以下に、大谷悠さんに書いていただいたテクストを添付いたします。
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Solo Wedding

結婚はしていません。
したこともないし、する予定もありません。
それでも無関心でいられないのはなぜなのか。

 

ウエディングドレス屋のショーウインドウにヘレン・ケラーの無数の指紋   

穂村弘

考えながらブルーになってきたとき、そのブルーをこの短歌に肯定された気がして、自分でやってしまおうと思いました。
王子様を待ってない。
結婚したら負けだとも思ってない。
どちらにせよ私はここでソロでした。

いつか作品を踊りに海外へ来られたらいいなと長年思っていました。それが思わぬかたちで実現できそうで身震いしています。皆さまとお会いできることを楽しみにしております。

Haru Otani (大谷悠)

Biographie :
Étudié depuis l’enfance la danse contemporaine, ballet, danse jazz et danse à claquettes, elle pratique divers genres. Depuis ses études universitaires, elle travaille comme chorégraphe, créant les œuvres originales. Diplômée à l’Université Obirin, elle a fini ses études en master à l’École supérieure de l’Université Kyoto des Arts et Designs. Née à Tokyo, vit et travaille à Kyoto.
モダンダンス、バレエ、ジャズ、タップといくつかのジャンルや教室を渡り歩きながら幼少より踊る。大学在学中より創作も始め、ソロ自作自演、作品演出振付を行なう。
桜美林大学卒業、京都造形芸術大学大学院・修士課程修了。東京生まれ育ち。京都在住。
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09/26/14

やなぎみわ「寓話」の世界観をめぐって

2008年に書いたやなぎみわさんの寓話とmy grandmothersについての考察、リンクを貼っておくことにしましたー。
http://avcs.web.fc2.com/contents/okubo.pdf

やなぎみわ「寓話」の世界観をめぐって

はじめに
1 2つの先行作品と「寓話」の主題
2 「寓話」の世界観
3 少女と老女,老少女
おわりに

はじめに

1970 年代以降今日に至るまで、「消費される身体」というテーマは芸術表象行為における一つのモチーフとし て繰り返し表現されてきた。巨大な消費構造のなかに放り込まれた人間像という主題は、90 年代後半からの高 度情報化社会においては、ボードリヤールがそれもまた消費構造の中にあると指摘したように、「情報記号とし て消費される身体」という変形を経て、表現され続けた。そこでは、それまでの「モノや機械によって疎外され た空虚な身体」という表象に「純粋記号的で虚構的な身体」という視点を加えつつ、世界における人間存在のあ り方を問い続けるものであったと言える。
こういった傾向に注目し、1996 年には「身体と表現 1920-1980」展が東京と京都で行われ、「消費される身 体」あるいは「虚構の身体」の表現であると解釈される作品として、匿名的なアサンブラージュとも言えるレイ ス・マルシアルの「マダムV.D.Kの肖像」や抜け殻のような人間存在を表現したヨーゼフ・ボイスの「皮膚」 といった作品が紹介された。
松井みどりが著書『芸術が終わった後のアート』において指摘しているように、90 年代後半の芸術的傾向は すでにこういった「消費社会の虚構を模倣することによって批判する」という方法はあまりにも蔓延してドグマ 的になってしまっている。しかし、今日であってもなお「身体疎外」あるいは「身体の喪失」という言説(語り i)が繰り返され、世界と身体との関係を再編しようとする試みは「今まさに表現されるべき主題」としての位置 を占め続けている。
このような傾向のなかで、私はとりわけ 1980 年代以降の写真において「女性による女性の身体」がどのよう に表現されてきたかということに着目して研究を行ってきた。今回とりあげる「寓話」の作者であるやなぎみわの 作品は、これまでも「案内嬢」や「エレベーターガール」のインスタレーションにおいて顕著であったように、 消費社会における女性のステレオタイプに対する批判や風刺と解釈されてきた。現代の我々という存在が世界に どのように位置づけられているか、ということを主題のひとつとして制作を行ってきた作家である。その大きな 問いの中でさまよい、一つの視座を模索しているとも言えるような、彼女の足取りをたどり、そのような文脈で 「寓話」を解釈することを通して、アクチュアルな問題としての情報消費構造の世界と身体表象との関係を考察 してみたい。

09/13/14

「未熟性」のジャパン・ポップ : 海外における受容について / Development of Japanese-pop infantilism abroad – Observation of contemporary fashion and specialized makeup

「カワイイ」カルチャーで知られる日本現代大衆文化は、これまで、それらのあまりに目を引く流行現象としてのロリータ、コスプレ、ギャル文化についてはしばしば注目をあつめ、研究されて来ました。でも、今回はそのような誰が見ても特出した現象ではなく、「大衆文化」の「大衆」に立ち戻って、もっと一般的に受け入れられているスタイル(ファッションとメイク)について、そこに既に見られる未熟性への憧れと中途半端な大人っぽ願望に着目し、その背後にある、まさに「カワイイ・カルチャー」を流行に導くものについて考えてみることにしました。

9月17日に、ブルガリアの国際記号学会で、室井尚さんがチェアをするこちらのラウンドテーブル »SEMIOTICS OF POP-CULTURE Focusing on the analysis and effects of the JAPAN POP« で、参加されるみなさんといっしょに発表します。わくわく。
http://semio2014.org/en/semiotics-of-pop-culture-japan-pop

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Development of Japanese-pop infantilism abroad – Observation of contemporary fashion and specialized makeup

Introduction:
I will analyze Japanese contemporary fashion and makeup observed among today’s youth, especially on girls. Japanese-pop fashion characterized as « Kawaii » (“very cute” in Japanese) embraces an infantilism, or babyishness. Its influence has taken a profound hold in some European countries. I will present a theory of universal characteristics in Japanese contemporary fashion.

I am especially interested in the remarkable crossing over of bizarre Japanese pop culture into western populations who don’t share any cultural background. Foreigners who take special interest in this original culture have brought attention to it in their own countries, where it takes hold progressively and develops in different manners in different places. European countries have a completely different geological context in comparison to Japan. Japan is an isolated island while European countries are loosely connected to one other. This geological difference affects cultural issues. The surpassing of cultural frontiers and international acceptance of the specialized universe of Japanese pop means the potential to become something universal and ubiquitous.

Several years ago, in my class of Univesrity Paris 8 (France), I introduced emoticons (Kaomoji, in Japanese, ex.o(^-^)o ) along with a sociological analysis of the effect of frequent emoticon usage. I suggested that these typographic representations of human facial expressions meant to imitate real human expression and portray emotion could, in turn, affect human gesture and behaviour. To my surprise, at that time, European people found my suggestion ridiculous, declaring these effects relevant only to Japanese people, not to Westerners. However, today, I can point out clear influences from Japanese animations and mangas on various behaviours including gesture, facial expression and onomatopoeia. Emoticons have become very familiar and young people are influenced by their appearance throughout their activities on social medias.

In general, socio-cultural studies focusing on Kawaii culture and the infantility of Japanese contemporary fashion deal with extreme style such as Lolita or Gothique Lolita. Then there are studies of radical or eccentric cultures such as Cosplay. In my opinion, Japanese pop culture is something like “air” surrounding us daily and its penetration into foreign cultures is absolutely significant. In my report, I attempt to theorize a study of traversing cultural borders, focusing not only on extreme style but also a fashion loosely accepted and appreciated by ordinary people.

09/13/14

ジャン=ポール・ゴルチエのファッション / Aesthetic consideration of virtuality and physicality of human body With reference to the fashion designs of Jean-Paul Gaultier

 ジャン=ポール・ゴルチエ(Jean-Paul Gaultier, 1952-)のファションについて、とりわけ身体表象におけるヴァーチャル性とフィジカル性について発表します。9月19日のお昼の発表です!ぜひ聞きに来てください!マドンナ(Madonna)も身につけた歴史的なコーンブラ(Cone Bra)や裸に裸を纏うドレスについて考察します。 

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詳しくはこちら:http://semio2014.org 

Aesthetic consideration of virtuality and physicality of human body
With reference to the fashion designs of Jean-Paul Gaultier

Jean-Paul Gaultier, born in 1952, French Haute Couture and Pret-a-Porter couturier, never received formal training for his profession. His diverse, innovative, provoking fashion, radically explores critical issues like sexuality when putting up against conventional Haut Couture. Unfortunately his works have not been correctly evaluated partly because of an excessively provocative slogan. People lose sight of the most interesting aspects of Gaultier’s expression. What I attempt to revaluate is his designs concerns his manner of representing the human body as a way to radically influence our body consciousness.

In his work, the human body is often both abstracted and concretized. These strong, opposite expressions are present simultaneously. “Abstraction” means human body represented as numerical/digital information while “concretization” means vivid existence in a real, physical sense. Today, the human body seems to be becoming an increasingly informational object. People have very detailed numerical knowledge about the body. In addition, technological developments allow us to construct our body image in a way similar to androids or robots.Virtual images settle progressively in our mind. “Skin Series”, where Gaultier used three identical models, illustrate clearly this observation. Each piece represents muscle, blood vessels and bones. His illustration shows a kind of simplification to figure these organs and everyone will understand what he represents. However, in spite of their closeness, these organs will never be visually familiar to us. Our awareness is drawn to them only during specific occasions like an accident or an injury. Advanced medical knowledge and detailed anatomical knowledge have given us a typical human body image. In short, a reconstructed body through new technologies is very different from a real body, accompanied with smell, perspiration and weight.

Furthermore, Gaultier is one of the first couturier to appoint atypical/untraditional fashion models. Today, the an unusual body seen on the catwalk no longer causes sensation because we have become accustomed to this kind of surprise, seeing various models, large, small and different. However, at the time Gaultier first introduced this idea, it caused a scandal amongst the conservative realm of Haut Couture.

What I attempt to theorize in my presentation is the modern relationship between virtual image and the true, physical human body in order to understand the reality of contemporary fashion concerning body consciousness and physical perception.

09/13/14

エルヴェ・ギベールの文学創作について / Autofiction ou parler du « moi » : enjeux esthétiques pour la nouvelle création littéraire – les recherches à travers l’analyse des ouvres d’Hervé Guibert

フランス人のジャーナリスト/写真家/日記作家/小説家であるエルヴェ・ギベール(Hervé Guibert, 1955-1991)の文学について、現代の電子テキストによる私たちの書く行為を視野に入れて、日記を基軸にして私小説を書くという彼の文学創作の方法について、その着想や意味を考察します。9月18日に発表します!ぜひ聞きにきてください〜。

詳しくは:http://semio2014.org

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Autofiction ou parler du « moi » : enjeux esthétiques pour la nouvelle création littéraire – les recherches à travers l’analyse des ouvres d’Hervé Guibert

Quant à l’écriture contemporaine, nous sommes fréquemment témoins d’une attitude audacieuse de ceux qui écrivent, même plutôt exhibitionniste pour dévoiler leur vie personnelle, la confidentialité et l’intimité. Non seulement dans le domaine de la littérature mais aussi dans les activités des amateurs, cette tendance est très présente. Ce constat serait issu de la nouvelle situation environnementale dans notre société de l’information. Concrètement dit, nous avons souvent des moyens pour publier un texte sur un espace virtuel tels le blog et les réseaux sociaux, grâce à l’accès internet. Cette possibilité d’exposition de soi nous encourage de nous engager passionnément dans une activité à la fois ludique à la fois sérieuse : écrire sur le moi, ma vie et mon histoire intime.
Comme genres littéraires, le terme d’« autofiction » n’existait pas avant les années 1970. Ce fut Serge Doubrovsky, écrivain français, qui inventa ce nouveau genre littéraire pour définir sa propre œuvre, intitulée Fils (1977) dans laquelle l’auteur désira distinguer la fiction autobiographique d’avec l’autobiographie. Sa définition simple est celle-ci : l’auteur est aussi le narrateur et le personne principale. L’appellation du protagoniste peut être variée comme « je », « il » ou « elle ». Il y a toujours une complexité pour la déterminer puisque quand le récit basé profondément sur une vie réelle de quelqu’un, il est difficile de justifier si c’est une fiction ou une vérité, il n’est même pas important ni intéressant de le vérifier pour sa qualité littéraire. Dans tous les cas, la nature « autofictionelle » est toujours présente dans les expressions littéraires.
En France, Philippe Lejeune, théoricien de la littérature, notamment spécialiste de l’autobiographie, a réalisé ses recherches riches sur l’activité historiquement répandue en Europe, « tenir un journal intime » dans Le pacte autobiographique (1971). Il est évident que le journal intime n’est pas toujours un recueil des histoires vraies, comme démontra Sophie Calle, artiste française, à travers son ouvrage intitulée Des histoires vraies (2002). En jetant un regard sur les lieux de création littéraire, la relation entre l’écriture sur soi comme le journal intime et la littérature contemporaine est interactive et dynamique. À mon avis, il est temps de considérer une problématique : enjeux esthétiques de l’autofiction afin d’interpréter une dernière tendance puissante dans la littérature.
Dans cette communication, j’analyserai certaines œuvres autobiographiques d’Hervé Guibert son écriture expérimental de l’autofiction afin de réfléchir à la signification de la valeur esthétique de l’écriture de soi.