09/4/14

展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(3)

展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(3)

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キキ・スミスの作品をこんなにも集合的に見たことがなかったということに気がつく。彫刻、ファブリック・ワーク、コラージュ、ミクストメディアの作品。子どもと動物、動物と植物、鳥と星、人体と木、薔薇と虫。こんなにキキ・スミスの世界に長居したのは後にも先にもこれきりになるかもしれない。そんな気がした。キキ・スミスは、24歳の時アーティストとして生きることを決意し、それから今日まで、学び、創り続けている人だ。アートが生きるためになる力に確信を持って、表現を模索し続けている人である。

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キキ・スミスは1954年、ニュルンベルクに生まれる。オペラ歌手の母とミニマルアートの先駆者として知られるトニー・スミスを父に持つ。ニュージャージー州に移住し、父の影響下でアートに触れて精力的に彫刻を学んで行くが1980年、88年に相次いで父と双子の片割れであるベアトリスを失い、彼女にとって、生きることに関わり生命を宿す箱としての肉体の意味を考えることの転機が訪れる。90年代、分断された身体や死のイメージを数多く表現し、翻って、自らが誕生したことについて、生命の複製のシステムについて関心を抱くようになる。

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それまでのアート・ワールドでタブー視されていた生の複製を露骨に表現することや身体器官を露にした彫刻をつくることに集中した。

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彼女にとって、動物たちは我々の生命システムのほぼすべてを共有する存在だ。我々は虫の脆弱さ、鳥の歌声、ヒツジの従順さ、狼の獰猛さを併せ持ち、からすや蛇、フクロウたち、あらゆる生き物と同様に自らを複製する。

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彼女の多岐にわたる表現は、彼女のひとつのスタンスに由来する。
「文化的な方法、つまり、見て、学ぶという方法でアプローチできる経験を求めています。あらかじめそれがどんなものかを決めつけるのではなく、私の作品がそれに合った表現を見つけるのを受け入れるんです。」
彼女は、版画もするし、タペストリーもつくる。陶器もつくるし、ブロンズ彫刻も扱う。

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とりわけ、教皇庁の一室に展示された一連のタペストリーの描き出す世界は、中世のカトリック世界を体現し、それは同時に彼女が生まれ育ったカトリック文化でもあるのだが、それはいたるところでエンブレムがすり替えられ、意味を転覆し、厳格な神話的世界の平和はキキ・スミスの創り出す調和のなかで朽ち果てている。そのかわり、彼女は現代のイヴがどうやって産まれるか、我々に見せる。アダムのわきがどうして必要であろうか。イヴはほら、子鹿の腹から産まれるのだから。(Born, 2002)

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カミーユ・クローデルの一生が、ロダンとの関係のために悲劇的であったとか、ロダンの名声のために力を尽くしたのだが、自らは彫刻家として十分に評価されることをなくして、精神を病み、発狂してしまったために不幸な一生をおくった女だったということを、当たり前のこととして受け入れるのが疲れてしまうほどに、できすぎた不幸な女の物語が彼女を深く包み隠している。

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早くに才能を認められたカミーユ・クローデルは、弟子入りした作家の卵がしばしばそうであるように、ロダンの作品を助け、彼の名声に貢献し、そこで彼の強烈な表現を学んだために、彼女の作家としての独自性なぞ見いだすことはなかなか叶わず、苦しんだことは事実だろう。しかし、ロダンとの人間関係、家族との不理解、自分の作家としての追求の中で悩みながら、入院に至るまでの間、精力的に創り続けたカミーユ・クローデルという人は、やはり作家として凄いのではないかと思う。

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彼女の作品は、彼女が精神を病んだ際に、自分でかなりの数を破壊してしまったため、残っていないものも多いのだが、いずれにせよかなりの作品を制作し続けていたはずである。表現するエネルギー、それがどのような形であれ、今日の我々までそれが伝えられたことを有難く思わざるを得ない。

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人の幸福について語るのは難しい。人の不幸についても然りである。

しかし、表現する方法を知っていたということ、そのことは救いだったのではないだろうか。

これで、第三回に及んだパラ人二号のエッセイ『パラソフィア・ア・アヴィニョン』追記を終わりにします。

09/3/14

展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(2)

展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(2)

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ベルリンド・ドゥ・ブリュイケールの表現について話そう。ドゥ・ブリュイケールは(1)でも紹介した通り、ベルギーのゲントで制作するアーティストだ。彼女の表現は厳しい。彼女は表すべきものを誤摩化したりしない。その蝋彫刻は見る者にあまりにも強い印象を与えるし、造形は人間を含め、動物の生きている時間が終わって、それが変形したり存在がむき出しになったりする「あとの時間」を私たちに感じさせる。彼女の描くポートレートは真っ黒な輪郭に赤い眼孔がのぞくもの、あるいは蝋色の輪郭に両目から血を流す頭部、我々に向かって立っている髪の長い女のその赤い髪が全てこちら側に足れている絵など、画面に満ちあふれた作家の率直な不安が伝播してくる。
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彼女の見ているものは、我々が関心していることよりももっと遠くにあるのかもしれない。彼女の彫刻が表現する死せる姿であったり、動物たちの骨や人間にしても青白く朽ちて柔らかくなったような肌は、生きている我々が生き続けるためにふだん見ることを避けているものだが、たとえば世界が何万年も何億年もあるのだとしたら、そのうちのたった数年や数十年が動物や動物である我々が生きている時間だ。血が通い、瑞々しく、硬く強い時間はかぎりなく短い。

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そのようなとき、やはり彼女の一貫した関心である肉体や肉は、異なる有り得るかたちをもって、存在するかもしれないということを認めることができるような気がする。

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ジャナ・ステラバックは1955年チェコのプラハ生まれ、ソヴィエトの侵攻の68年、家族と共にヴァンクーヴァーに移住した。モントリオールでディプロムを得た後、ニューヨークとトロントで数年を過ごし、モントリオールに定住する。彼女はフランス語とカトリック文化圏のその地で、アメリカ大陸に居ながら彼女が生まれ育った欧州の文化を思い出す。自らのアイデンティティを問い、カナダ人でチェコ人であることを問う。そういった問題意識は、彼女をカフカ文学に導き、ジャナ・ステラバックは『変身』に明らかに参照した作品をいくつか表現している。

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たとえば、クリノリンで遠隔コントロールをする作品Remote Control II(1989)や、同様に、金属でできた起き上がり小法師のような構造に下半身を預けるSisyphus(1990) は、肉体は自分に所属するにも関わらず、想いのままにはならない客体であり、変容したり、変形したりするかもしれない奇妙なものである。

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また、金属の尾のようなものをつけるパフォーマンスは、カフカの『変身』を明らかに想起させる。大きな「部分」を伴った人の体は、脱皮途中の虫や異なる生き物のように見える。芋虫のように地面を摺ってすすむ新たなわたしの身体の「部分」は、以前から体の一部であったかのように振る舞い、また突如切り離されもする。

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アンデルセンの童話『Princesse au petit pois(エンドウ豆の上に寝たお姫様)』に基づいた作品もステラバックの子ども時代の記憶の中から何度も浮かび上がって来る表現である。

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髪の毛、パン、肉等多様な素材を利用して身体とアイデンティティを問う表現を続ける彼女が1984~85年に制作したThe Dressは、電流を流すと胴体部分を中心に数本の電熱線が光と熱を発する。ジリジリいう音はそこにある肉体が熱線によって痛めつけられるような鋭い感覚を覚えさせる。彼女にとって肉体は、アイデンティティの問題を抱える客体としても、自らが抱える肉や内蔵の塊としても、しばしば問題を抱えた存在として現れ続けるのである。

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展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(3)につづく。

09/3/14

展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(1)

展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(1)

LES PAPESSES : http://www.lespapesses.com

このテクストは、PARASOPHIAをもりあげるフリーペーパー『パラ人』第二号に掲載の記事:「パラソフィア・ア・アヴィニョン / Parasophia à Avignon
《女王たちの幸福》」の追記となるものです。まず、既にお読みいただいているかもしれないのですが、パラ人第二号の掲載記事冒頭一部を引用します。

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(引用:パラ人第二号)
 ある作品と出会い、それを鑑賞する。芸術を体験する〈場〉はときに、我々の中に深く刻印される。空間の持てる意味は、表現の解釈をも左右し、それゆえ、ある展覧会に足を運び、その空間・作品・鑑賞行為の相互関係に思いを馳せることは、我々の作品享受の可能性を開くのだ。例えば、美術館やホワイトキューブ、コレクターの邸宅、ハプニングやパフォーマンス、流転する自然環境下、地方のアートイベントでしばしば見られるような産業工場など歴史的建造物を再利用した空間。いずれの場合も、作品が鑑賞者に与える印象は潜在的に異なる。それは、作品を創り手の意図によらず、その意志を超越した何かによって施される恩寵とでもいうべきものである。(中略)展覧会Les Papesses(「複数の女教皇ヨハンナ」)は、歴史において明確に政治的・社会的権力の象徴であった巨大なアヴィニョンの修道院という砦を、まるで沈黙のまま平和的に譲渡することを可能にしたのである。
 展覧会タイトルの「パペス(Papesse)」とは、歴史上ただ一人存在したとされる女教皇ヨハンナ(在位855−858)のことである。少女時代、愛人の服を纏ってローマに連れてこられたヨハンナはとても聡明で全ての科目に精通し教鞭をとり、豊かな知性は肩を並べる者がいなくなり、ついには教皇に選出されるが、愛人の子を身籠って大聖堂への移動中の路地で出産してしまう。即座に馬の尻尾に括り付けられ、引きずられて拷問を受けて死亡、その場で葬られた。この出来事が起こった通りや出来事そのもの、女教皇の存在は忌み嫌われ、以来教皇は厳格に男のみに限られ、ヨハンナはその「汚れた」物語から教皇のリストには加えられていない。(引用)

***

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アヴィニョンには初めて訪れた。写真フェスティバルで有名なアルルの町から近いが、演劇フェスティバルにこの5年間で訪れたこともなく、今回のパペス展はかねてから着目していた展覧会だったので、二カ所を一日がかりでじっくりと見てきた。青空しか有り得ないのではないかというほどの、絶対的な青と、若いオリーブの実が健康的に輝いて、機嫌のいい町だった。

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 「栄光の階段(Escalier d’Honneur)」にはカミーユ・クローデル(1864-1943)へのオマージュである袖の閉じた服が楽しそうに戯れている。同じインスタレーションがCollection Lambertの階段にもある。クローデルは30年間に渡り、精神病院で入院生活を送った。両手の自由を妨げる「袖の閉じられた服」は、高い天井に向かってふわふわと漂い、生きている間、自宅へ帰ることを認められず病院に留まらねばならなかったクローデルの魂が時を経て解放されたかのような幸せなインスタレーションである。

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ルイーズ・ブルジョワ(1911-2010)は自身の性的なトラウマやオブセッションを反映する作品を生涯表現し続けた作家で、蜘蛛のモチーフや男根のスカラプチュアはよく知られているし、男性と女性の接合、女体からひりだして来る怪獣のような赤子のイメージを一貫して反復する。彼女にとって女の身体は性交や赤子の出産によって引き裂かれるものである。

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Ode à la Bièvre, 2007 は、24ページからなる生地を刺繍したりアップリケしたり、パッチワークすることによって作られたビエーヴル川にまつわるオードである。アントニーに住んでいたことのあるブルジョワの想い出をファブリック・ワークで表した作品は、過ぎし日の懐かしさが穏やかに滲みだしてくる。

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The Fragileシリーズは、ニューヨークで目にすることができた。私はこの作品が好きだ。そこには一貫したモチーフとしての蜘蛛や妊娠する大きな複数の乳房が描かれているのだが、2007年に晩年のブルジョワが表した青を貴重にしたパレットとフォルムには、恐れや恨みのような感情が塗り籠められていない。

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また、20枚の赤いドローイングであるThe coupleや、パラ人でも言及したA man and a woman、Pregnant Woman(ともに2008年の作品)は、ブルジョワのオブセッションの一つの完成型として表されている。オブセッションは、セラピーによって緩和したり、リアクションを弱めたりすることはできても、完全に忘れることはできない。ブルジョワにおいて、妊娠は生涯を通じて取り組まれたテーマであったが、胎児は赤い肉の中で、包まれて育って行くことが、叫びを伴うことなく描き出されている。

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Cell XXV (The View of the Wold of the Jealous Wife)と名付けられた作品は、鉄編みの中に、中上級階級の裕福な男の妻が着ていそうな作りの良いワンピースが展示されている。彼女らは檻の中に入っていて、外には出られないのだが、執拗な感じで外側の世界を見つめ返しているように、その三体のトルソーは配置されている。

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ベルリンド・ドゥ・ブリュイケールの彫刻がCollection Lambertの窓際でひときわエネルギーを発していた。ベルリンド・ドゥ・ブリュイケールは1964年生まれのベルギー人アーティストで現在もゲントで制作している。5名のアーティストの中ではカミーユ・クローデルと一世紀を隔てて生きているアーティストだ。彼女の作品を見たのはヴェネチア・ビエンナーレのベルギー館を占拠した巨大な彫刻を目にしたときのことなのだが、蝋彫刻は、そこで途方もない生き物の死だとか、生き物の骨を覆う皮や筋肉が朽ち果てた後にはこのような艶やかな彫刻が現れるのではないかとおもわれるような、外見と存在感を放つ作品であった。本展覧会でも、骨や動物の角の塊のような彫刻が多数展示されていた。

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展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(2)につづく。

 

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09/1/14

PARAZINE パラ人 NO.002 - PARASOPHIAにむけて

『パラ人』第二号が刊行されましたね。送っていただいてビックリ、な、なんと、本になってるじゃないですかー!ページがめくれるようになってる!すごーい。

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第一号から浅見旬さんのデザインがすばらしくて、とても気に入っているのですが、第一号の水色と黄色のふわ~りとしたイメージから、第二号は表紙の大きな写真がヤマモトヨシコさん撮影の嶋本昭三さんの作品「平和の証」になっていて、紫色みたいな空と嶋本さんがぶちまけている赤や緑の絵具のコントラストがものすごい緊張感を帯びています。雲がやってきているのに、空が広くて、そこに「パ ラ 人 no.002」が浮かんでいる、すてきな表紙です。

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今回の特集は、しあわせについて皆さんが議論したそうで、タイトルは「とりいそぎ、幸せ」。

そういえば数ヶ月前、私は「取り急ぎ」という言葉の使い方がホンマに忌々しくなって、ほろびよ「取り急ぎ」!といった趣旨の小文を書いた気がするのですが(ああ、あった。これですね…:http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2902)、まあたしかに、人生にはとりいそぐこともあります。とりいそぐほうがいいこともあります。幸せなんて、とりいそぎかもしれませんね。

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それで、私も幸せについて考えました。幸せについて考えるとおしなべて不幸らしいことに行き着くのはなぜでしょう。それは、人は幸せがなにか、なかなかわからないので、「不幸じゃないものが幸せ」と安直に定義して安心しようとしてしまうからなんですね。

このエッセイで私が紹介したのは、昨年(2013年6月9日~11月11日)アヴィニョンの教皇庁とギャラリー Collection Lambert en Avignon の二カ所を会場として開催されていた展覧会『女教皇たち』( »Les Papesses »)です。すばらしい展覧会でした。エッセイでは『女教皇たち』と名付けられたこの展覧会の意味と、女教皇としてのアーティスト(カミーユ・クローデル、ルイーズ•ブルジョワ、キキ・スミス、ジャナ・ステラバック、ベルリンド・ドゥ・ブリュイケール)の表現について論じました。しかし、なかなか盛りだくさんの展覧会だったために、まだまだ、彼女らの作品について、喋りたいことがやまほどあったのです。そういったわけで、エッセイの最後に、続編を「salon de mimi」に掲載するね!と追記しました。明日辺りから、この展覧会について、続編載せて行きます!よろしく~。

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それで、第一号の佐貫絢郁さんに続いて、第二号でも市山早紀さんが執筆者似顔絵イラストを描いてくださっていて、これを見るのが結構楽しいです。ありがとうございます。

 

『パラ人』よろしくお願いします。

パラ人について:http://www.parasophia.jp/contents/news/2014/05/23/898/

09/1/14

有毒女子通信 No.13 & No.14

みなさまこんにちは。
9月ですね!9月1日です。今日は有毒女子通信編集長の吉岡洋さんのお誕生日だそうです!おめでとうございます!!!今後もますますの有毒女子興盛に向けて、みなさま、編集長が現物を持って布教(普及)に訪れた際には、あたたかい受け入れをどうぞよろしくお願いします!

今年の夏はとても久しぶりに8月の本州(京都、大阪、東京、横浜)に数日滞在し、あれっ?思いのほか活発に過ごせるではないか!と自身を付けて戻ってきたのですが、どうやら、雨が多くて例年よりも全然気温が低かったみたいですね!どーりで、元気いっぱいだったわけですね!蝉がたくさん居るのには感動しました、蝉の大合唱、あれはあそこにしかありません。

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さて、みなさま、有毒女子通信 No.13 特集「秘密なんて、ない」とNo.14 特集「まだ間に合う、同性愛」が続々刊行されています!

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No.13 :「秘密なんて、ない」の対談(吉岡洋×松尾恵)は、ショッパナのサブタイトルが「秘密漏洩の恍惚」。秘密漏洩は恍惚、ですよね、そうでしょ? そして松尾さんの気になるエッセイ「自衛隊と床下の壷」も収録。だいじょうぶかしら、だいじょうぶです。どうかお手に取ってお読みください!

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No.14 : 「まだ間に合う、同性愛」は、よくわからない系特集タイトルだが、ようするに、まだ遅くない、ということである。お二人の対談は「みんながおばさんになれば、かさばらない」と名付けられており、相変わらずスゴい。いつものエッセイたちに加え、今回は、せがわ奈央さんの「有毒女子のためのBL入門」と編集委員である廣田ふみさんのエッセイ「のぐちくんへの返答」が収録されています!!!わたしは性懲りもなく、お尻の話をしています。お尻への愛の話です。

さて。めっちゃ真剣な不定期発行批評誌有毒女子通信、日本内外で読まれ中。私の親愛なる先生ジャン=ルイ・ボワシエ氏も近年の刊行分は全号持ってる!本人いわく「だって、定期購読メンバーだから!」 みなさま、今後ともよろしくお願いいたします。

「有毒女子通信」購読のご案内については、こちらをご覧ください。
MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w
http://www.voicegallery.org/home.php

p.s.
ところで、日本滞在中に、こんなものを見つけました。毒蛇エキス。毒は美にいい?
これぞ毒娘への道?
japon 2014 ete 026

08/31/14

たよりない現実、この世界の在りか @SHISEIDOGALLERY

「たよりない現実、この世界の在りか」展

SHISEIDOGALLERY
2014.7.18 – 8.22
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銀座の資生堂ギャラリーで開催されていた「たよりない現実、この世界の在りか」展は、アーティストの荒神明香とwah documentの南川憲二、増井宏文で構成される現代芸術活動チーム「め」による個展である。資生堂ギャラリーはブティックとは別の入り口を通って地下に降りて行くのだが、展覧会の張り紙はあるもののそれらしい入り口が見当たらない。工事中で鉄骨のあらわになった壁がビニールシートで覆われたような、あれっ、ピカピカの銀座の資生堂にこんな場所が?と思しき空間を意味有りげにのぞかせたドアがこちら側に開いている。どうやらここが入り口である。

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「たよりない現実、この世界の在りか」と題された展覧会はぜんたいでひとつの小宇宙とも宇宙そのものとも呼ぶべきインスタレーションになっていて、この心配を誘う入り口の足場に注意を払いながら階段を下りて行くと、強烈に暖色系の照明が、まだ暗さに慣れていない目の奥に焼き付く。ホテルの廊下に見立てられたその通路には、部屋番号が付されたいくつかの扉が閉じられており、壁には丁寧な印象を与えるランプと異なる世界からのメッセージを自動筆記したようなドローイングが飾られている。廊下は一度曲がって、左手に小さな部屋があり、突き当たり右に、こんどは一部屋だけ、覗き見ることの出来るホテルの一室があるようだ。

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廊下をゆっくりすすみながら、依然として目が慣れない。廊下を一度曲がったあとに、一度目の世界の裂け目と出会う。暗闇の中にホントウは見たことがない「木星」はきっとこのような見た目を呈するのではないかと子どもの頃よく眺めていたカラーの図鑑『宇宙』の本の色のついた美しいイラストのことなどを思う。ぼんやりと浮かぶ球体は、廊下の奥の小さな入り口から入る部屋からも覗き見ることが出来る。

廊下の突き当たりにドアが開いた部屋があり、訪れる人はその公開されたホテルの一室を出たり入ったりしている。ぴたりと整った客室、そこはしかし既に誰かに割り当てられた後の部屋であり、衣類や帽子などが置いてあり、机にもその人の私物と思われるいくつかの物が置かれている。私たちは、誰かの部屋にこっそり忍び込むよう招待され、それゆえに、ベッドや部屋の物に触れてはならないと予め注意されている。客室に住むその洋服や物品の持ち主は、私たちがここに来たことすら知らないのだ。では私たちがいるのはいったいどこなのか?なぜこっそりと誰かの部屋を覗き見ることに招かれ、その人に知られることなく去らねばならないのだろう?もしかして、私たちがホテルに滞在するような時、いや、そもそもいつも通り自分の部屋にいるような時、だれかが訪れてこっそりと我々を垣間みて帰って行く、そんなことがあったのかもしれない。

私たちは誰かの滞在する部屋の縦長の裂け目のまえで立ち止まる。鏡だ。それは通常私たちが「鏡」と呼んでいるものの形状をしており、ただしその境界面は私たちの存在を認めない。触れてはならないと言われている展示の中で、そこに鏡があると信じる以上手をのばすわけにはいかない。なぜ?私たちが頑にルールを守るのはなぜなのだろう?鏡に自分自身が写らないという非常事態を前に、世界と調和するためにルールを守る必要なんてないにちがいない。非常事態は信じ込んでいた世界が壊れるということを意味しているので、このようなとき、風穴が空く。鏡だと思い込んでいた、しかし私を映し出さないそれは、もうひとつの向かい合った部屋に出入りするための穴であったことを見つける。穴は見つからないかもしれない。見つかればそこを通り、見つからなければ戸惑うだろう。しかし人はいつしかその両方に慣れて、二つの異なる世界で生き続けることができるのである。

部屋にあった鏡が裂け目あることが見つかり、ぽっかりと浮かぶ惑星を認め、もういちど灼熱の銀座8丁目の地上に登る道筋がみつかり、地下で見たものについて考えを巡らすこともひとつの現実であり、たとえばホテルの一室で、自分の写らない鏡の前を素通りし、来た道を戻るようなことがあっても、あるいはまた、ギャラリーの入り口のドアのなかの不穏な様子を垣間みて、地下には降りないと決意することも、それらはすべてありそうなことであり、あってよいことである。

「たよりない現実、この世界の在りか」は、一つのありそうな「世界の在りか」を提示することを通じて、もしかして私たちが何らかの事情や慣習から見ないように気をつけていることなどを凝視するような契機を与えてくれるのかもしれない。世界は意外と隙だらけであることなど。

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08/30/14

INVITATION – 浮遊する意識 –

INVITATION – 浮遊する意識 –
2014.8.9 – 8.24 @KCUA
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8月24日まで@KCUAにて開催されていた本展覧会は、京都市芸術大学芸術学研究室の学生が企画・実施する展覧会「Colors of KCUA」シリーズの第4回で、「INVITATION = 招き」をコンセプトとして構成されている。日本語の「招き」は古語「招し」(おもしろい、好ましい、美しい)に関わるという本来の意味に着目したコンセプトだそうだ。
なるほど、INVITATION=招きの展覧会は、おもしろい経験へと鑑賞者(あるいは参加者、体験者)を招いてくれるダイナミックな空間であるようだ。

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展覧会会場に赴くと、まず迎えてくれるのは、東谷俊哉の作品《「私」の観測法》のベイビーだ。ちょっと怖いが近寄ると、やっぱり更に怖いのだが、長いへその緒で向こう側に繋がっている。そうか、このベイビーはまだ産み落とされておらず、母の肉体と接続している存在として一時的にこの場に置かれているのだろう。体験者は、ベイビーの向こう側に居る母親の体内を思わせる着物の中に潜り込むように招待される。その内部では赤ん坊の視野が転写される一方、着物の内部に包まれて声を持たない「内側」の者の発言は赤ん坊によって媒介されて「外側」に向けて発せられる。身体を用いた体験を通じて、自他の境界に関わる問題を扱うこの作品が、へその緒で結びついたままの赤ん坊とそれを宿すものを「自」「他」の表象として用いたのは、ロジックであるが同時に奇妙なことでもある。産まれる私はそれを宿した個体とは根本的に異なる個体であるにもかかわらず、その両者は曖昧に接続されており、その内部ではたしかに、思考や感覚の転写や媒介ということが起こっても不思議ではない。あるいはもっと自他の境界が曖昧な世界では、そもそも、赤子とそれを包むもの両方が、自分という個体の異なる現れ方であると認識することも可能かもしれない。ここで、世界からやってきて知覚されることと、世界に向けて作用することという二つの距離が近づいたり離れたりするのだ。

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映像を映し出す複数の画面が一面の背景のように設置され、その前には赤い布がかぶせられた背の高い台がある。台の上には古代の宗教儀式を思わせる五体の埴輪のようなものが置かれており、赤い布が広げられたその地面はというと、無数の埴輪の欠片が散らばっている。黒木結の《consum(ed)er》は、資本主義経済において消費される「アイドルという生身の少女のイメージ」についての作家の思考を表しているそうだ。画面には断片的に、いわゆる「アイドルらしい」少女が、フェミニンなワンピースを着て現れ、少年と仲睦まじくしている様子などが映し出される。そして、埴輪が振り落とされた金槌によって破片と化すプロセスが繰り返される。
モノを破壊するという行為は、それがたとえ小さな規模であっても、そこに暴力が介在するという点で、その破壊行為そのものが強い印象をもつ。それが映像として表現されたときは殊のほか強烈である。それが繰り返されればさらにその効果は補強される。それゆえ、物語全体は破壊行為に煙に巻かれない意味を持つことが必要になるだろう。
「アイドル」というのはもちろんテレビに登場するアイドルだけでなく、「アイドル的存在」といった表現によって想起されるイメージも含めて「アイドル」と作家は呼んでいるのだろう。イコンを壊し続けることによってなされることはなんなのか。消費され続けるイメージを新たにしうるのかどうか。こわしてもこわしても、映像はループし、おわりなく、アイドルは現れるのである。そのことがむしろ真理のようでもある。

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横内朝の繊細で内省的な物語を表現するインスタレーションは、小鳥をモチーフにして恋愛を表現した作品である。過剰に演出されたナイーブなテクストやオブジェは、「恋」や「恋愛」がしばしばそのように作り込まれていること、作り込まれた虚構の物語を反復するように導かれていることなどを十分に戦略的で強かに暴きだしていると言えるだろう。

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鈴木孝平の映像と写真作品は、我々が普段見ているはずのものや、感じているはずの感覚を提示する。たとえばビニール袋がくしゃくしゃになった状態からどのように広がり、どこまで広がれば動き続けるのをやめるのか。小さくまとまったコードがどのように元の形に戻ろうとして、しかしどの時点でもう動けなくなるのか。我々はそのことを知らない。これらのビデオを見ながら、我々はそうか、普段は意識していないけど、こんなふうに世界は営まれているのだな、などと、無垢なことを思うかもしれない。しかしふと考えて見ると、我々は普段あまりにも不注意で、そのことが本当に起こっているのか、あるいはどのように、いつまで起こっているのか、そのことを全く知らないのだから、それらがたとえば真実でも虚実でも、結局の所、我々はそれを判断できない。知らない我々はそれを信じるのは自由だが、信じなくても別に良いのではないか、ひょっとしたら、信じられないようなおかしな方法で世界が動いているかもしれず、それはそれで、そのほうが面白いのではないか、などと世界に関心を与えてくれる作品である。

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08/29/14

アート・スコープ 2012-2014 旅の後もしくは痕 / Art Scope – Remains of Their Journeys

「アート・スコープ 2012-2014 旅の後もしくは痕」

原美術館:http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html
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原美術館では、2014年7月12日から10月13日より、四名のアーティスト:今村遼佑、大野智史、リタ・ヘンゼン(Rita Hensen)、ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)による「アート・スコープ2012-2014」展が開催されている。本展覧会は、Daimler Foundation Japanの文化・芸術支援活動 »Art Scope »の一貫で海外での経験を経た四名のアーティストが、その交換プログラムの成果を、それぞれの異国での経験をもとに制作した新作によって発表する展覧会である。2012年、リタ・ヘンゼン(Rita Hensen)、ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)はドイツより日本に召還され、今村遼佑、大野智史は2013年、日本より派遣された。

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大野智史の絵画には、具象的に描かれた植物の葉や実、それを取り巻く自然の景色を認めることができるが、そこに強烈な色彩の幾何学的で抽象的なフラグメントが挿入されている。背景の色もオレンジや白が用いられ、それはおよそ描かれた植物が生きる世界とは異次元であるにもかかわらず、時にカオティックに配置されるそれらは、飛び交い混ざり合う幾何学的欠片を通じて結びつきを持っている。
大野智史の絵画には21世紀のデジタル技術と絵画の融合の可能性を探る態度が見られる。デジタルイメージの転用、複数のイメージのレイヤーを重ねるということ、そういった表現は今日多くの表現者によって新たな可能性の追求が行なわれており、既視感とは恐ろしく、ときに我々の鑑賞を妨げ、瞬時に行なわれるステレオタイプな判断で我々を盲目にすらする。大野智史の大きな画面を何度も見つめながら、私は、現在のようにデジタルイメージで溢れ返る時代に、わたしたちがなお、絵画作品に向かい合う意味があるとすれば?という問題について考えていた。(もちろんその意味があると思っているから見るのだし、表現者が描き続けるのも同じ理由だと信じているのだが。)
画家の創り出す「表面」が非常に触覚的なものであるということが、これに向かう一つの理由になり得るだろう。どれほどデジタルイメージの解像度が上がり、3Dの再現性も進化したとしても、それでもなお、近づいて凝視する価値のある絵画であると私は呼ぶだろう。

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お盆を過ぎ、晩夏の蝉が力を振り絞って鳴き尽くし、原美術館は懸命な喧噪に取り巻かれていたのが、今村遼佑のインスタレーション作品が置かれた展示室に足を踏み入れると、そのような世界とはついにぷっつり切り離されてしまったかと一瞬思われたほどだった。「一瞬」と言ったのは、実際には彼の作品は、窓際の外界の雰囲気や、光や空気の射し込む様子とダイナミックに関係をもつものであり、その空間に身を置いて経過する時間を感ずることによって、切り離されたかのように感ぜられた外側の世界と内側の世界は再び一つに統合されることに気がつく仕組みになっている。
それにしても、一歩足を踏み入れたときの、鑑賞者を暖かく守るような繊細なで整然とした空間は、そのような強烈な印象を私に与えたのであった。
曖昧で奇妙な言い方だが、今村遼佑のインスタレーションを経験して感じたのは、それらのインスタレーションに取り巻かれている磁場と、それと無関係に存在し/存在した/存在し続けるところの外界との距離が揺らぎ、その中で持続的な眩暈を起こすような感じだ。その距離はゼロでも無限でもなく可変的で、そのメタ的な眩暈すら時と場所を変えても思い出される不思議な感覚なのである。ひとつの手がかりとして、映し出された映像はベルリンで撮影されたものであり、異なる場所に我々を接続するということと、それが加工を経ることによって虚構性を増すことがあげられるだろう。

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リタ・ヘンゼン(Rita Hensen)の「八丁堀」は結びついた和紙にフェルトペンによるドローイングであり、とても素敵な作品であった。絵画のそれぞれは糸で結びつけられていて、それはスッキリ解かれて離れているものもあれば、緩やかに絡まり繋がっているものもある。糸によって物理的に結びつけられるだけでなく、そもそもそれらは重ね合わされた和紙に滲みやすいフェルトペンで描かれており、一枚二枚下の紙にも同じ軌跡が認められるのは、そういったわけである。あるドローイングは、その下に置かれた数枚の和紙に浸透する。重なり合った和紙が同じ痕を共有し、それがたとえ旅のあとにバラバラになり、世界の離れた場所に散らばっても、彼らはその痕跡を留める。それはマテリアルである全てのものが持てる能力である。

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ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)のビデオ作品「つかのまの記念」は、彼が日本滞在した2012−2013年の経験(日本という国の震災の傷痕とフクシマをめぐる国際社会情勢)を主題にしている。作品は、何かドラマチックなストーリーを展開するわけではない。25分間のビデオのなかに認めることが出来るのは、フクシマの原子力発電所の作業員のイメージを表すという真っ白のユニフォームを着た一人の人が、東京の人混みや交差点、様々な場所に立ち尽くしているの姿である。そこには何もおこらない。そのひとは非常に目立っているのに誰もが通り過ぎ、見られているのにそこに軋轢は起こらない。存在していないかのようであり、不穏でもある。ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)が表現したのはその違和感かもしれない。

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08/28/14

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会 / NEW INTIMACIES

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会 / NEW INTIMACIES

ホテルアンテルーム:http://hotel-anteroom.com/gallery/

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「インティマシー(親密さ)」という類いのテーマが、美術の展覧会においてとりあげられるとき、それがとても魅力的に思えるのはなぜだろう。展覧会だけではない。作品がなにか「親密さ」に関わる主題をめぐって作られたとき、たとえば、美術作品や文学作品、演劇や音楽、あるいはパフォーマンス。様々な形をとって行なわれる表現が、人々の非常に個人的な部分に触れると知るとき、そのようは表現は「繊細で脆く小さな世界」を捉えたに過ぎないと一蹴されうるいっぽうで、同時に、隠された脆弱なそれを垣間みたくてたまらないという欲望に人々は駆り立てられるかもしれない。
そのような状況は、「親密さを表現する」行為それ自体が、ア・プリオリ、見られるべきでない親密な瞬間を他者の目の前で暴露するという自己矛盾の遊びであることに端を発する。

そもそも、芸術の主題は古来より親密な主題に溢れている。親密な主題、それが追求されるのは、異なる人生を生きる個人の非常に違った人生のフラグメントが他者にとってもの珍しい対象として受容されるからではなく、それがユングの元型(archetype)のような普遍的表象の領域に触れうることを人々が直観的に知っているからである。そのことが脆弱な個人をインティムな領域から解放し、大きな世界に関係することを許すのだ。この意味で、一般に普遍性の芸術と呼ばれているものも実は、脆くて小さな個人の表象と表裏一体である。

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さて、「親密すぎる展覧会」の「親密すぎる」とはどういうことだろう。
人はいったい、親密すぎることが出来るのだろうか。恋人同士はいったい、ほんとうに親密すぎる関係なのだろうか?
多様である個体間の関係において、「過剰に親密である」状況を定義するのは難しい。人はどれだけ交わりをもち、共振し合っても、おそらく過剰に親密であることができない。この点では、恋人同士よりも思考の奥深くまでを共有する双子のような個体のほうがずっと親密であると言えるかもしれない。この展覧会タイトルは、冒頭にも述べた、我々の親密なるものへの抗いがたい興味を刺激する戦略的なものだ。私たちは、逆説的にも普遍的である「アンティム」なものを垣間みたくてたまらないように運命付けられている。

本展覧会は、ホテルアンテルーム京都 Gallery 9.5で開催された。8組のカップル(アーティストだけではなく、ギャラリスト、学芸員も含まれる)が、協働で作品を制作し発表している。

〈手をつなぐこと〉のためのドローイング

〈手をつなぐこと〉のためのドローイング

「〈手をつなぐこと〉のためのドローイング」と「〈手をつなぐこと〉のためのインストラクション」は井上文雄+永田絢子により構想され、異なる時間と場所で実践されたイベントである。非常にシンプルなインストラクションは以下の通りだ。

0 待ち合わせ場所に集まってください(トランプを持参すること)
1 トランプの数字を使ってくじ引きをして2人組をつくります
2 それぞれ決まった相手と手をつないで、自由に過ごしてください(90分)
3 最初の場所に集まり、どのように過ごしたかを全員で話し合います(90分)

よっぽどの人好きでない限り、知り合いでも友人でもない他者と手をつないで90分を過ごすのは心理的に抵抗を伴う。苦痛を感じる人もあれば、時間を持て余すかもしれず、あるいはひょっとすると繋いだ手のぬくもりと共有した時間が相手への愛着に転じることもあるかもしれない。こういった「イベント」は日常生活で訪れることない奇妙な事態である。非常事態であるからこそ、新しい関係性の経験をもたらしうる。人々が、奇妙で常軌を逸したこのようなパフォーマンスに、しばしばすすんで身を投じてしまうのは、そのような非常事態の可能的意味を察知する能力があらかじめ備わっているからに他ならない。

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高木瑞希+竹崎和征の作品は、何枚かの異なるドローイングが切り刻まれて、一つの画面を再構成している。細く切り取られた各々の欠片は描かれていたものを垣間見せるものもあれば、全く分からないものもある。目の粗い織物のように再度合成された性質の異なるフラグメントの集合体はまるで、恋人同士という一般的に非常に強く結びつき、互いの深い部分まで踏み込んでいるように思える関係性において、その二つの個体は、混ざり合って中和するのでなく、依然として異物としての存在を保ちながら、しかし分離不可であるつよい結びつきとして存在していることを明らかにしているように思える。

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菅かおる+田中和人の「before flowers are blooming on canvas」は消えかけているような、目を凝らしてもその細部を認めることのできない、独特な表面が印象的な一連の絵画である。

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斎木克裕+西脇エミの作品「CURRENT」はドローイングの下に形而的に水を受けるためのコップが用意されているマンホールを表したものと、イメージの上に水が入ったコップを置くことによりカナル・ストリートを表した二つのインスタレーションから成る。私が展覧会を訪れた日は、九条駅から5分歩くのもままならぬ大雨だったのだが、窓際に設置されたインスタレーションである点在するコップが暗示する「CURRENT」(流れ)が外界とのつながりを強く認識させた。「流れ」は8組のカップルが提案するそれぞれの表現を繋ぐのみならず、それが建物の外へと溢れて行くように促しているようである。

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会は、8月31日まで開催されている。

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08/5/14

関係のないことを攻撃しない

関係のないことを攻撃しない

« On s’en fout. » という言い方がある。フランス語の代名動詞「s’en foutre(Sは◯◯に関心がない)」を含むフレーズであり、敢えて日本語にするなら「私には関係ね〜!」という感じである。ただし「私には関係ね~」は厳密には正しくなくて、なぜなら »On s’en fout. »の主語である「On」は、人一般を指すからである。 »On s’en fout. » はしたがって、誰にとっても当てはまる一般的事態として何かについて、「(んなもん)関係ね〜!」という感じなのである。

日本人は »On s’en fout. »と言わないように育てられ、社会生活でもそのようにあるように訓練され、さらには次世代もそのようにあるように教育している人々であると思う。「関係ね〜!」で済めばいいものが、「関係ね~!」とならない。「関係ね~!」などと言うことは無責任でデリカシーに欠けており、何かから逃れようとしており、社会生活を逸脱しており、したがって信用がおけない個体であると糾弾されかねない勢いである。とりわけ、多くの人がマス・メディアによって駆り立てられ、興奮させられているような状況下に置いて、「関係ね~!」などと口走ることは、生命を危険に晒しかねない暴挙にすらなりうる。
厄介に思われるこの集団的特質は、時と場合を選び、国際社会において驚きと賞賛を以て迎え入れられることもあるだろう。マナーのよい、ニコニコした、優しく気配りのできる日本人、という風に。数年前「KY(ケーワイ)」という言葉が一躍流行語となったが、言葉そのものはさておき、「空気を読む」ことの重要性の信仰は伝統的なものだ。「空気を読む力」は、しばしば、コミュニケーション不全の現代を批判的に論じるような文脈で、あたかも世界中でも類を見ないほどに日本人が卓越している持つ美しき能力のように崇められるが、この素敵な「国民性」と自滅的な暴力性は、一枚のコインの裏と面である。

「空気を読む」ことは特定の水準において美徳であれど、普遍的な善ではない。少なくとも、読まない個体を攻撃することは、善で有り得ない。それは、嫉妬と呼ばれるものである。

私たちの日常は、愛で溢れているという以前あるいは同時に、人々の緑の目の攻撃性に満ちあふれている。攻撃的な態度、攻撃的な行為、攻撃的な言葉、そして絶えず攻撃的であるように押しすすめる攻撃的な思考。攻撃が生み出すのは次なる攻撃であり、その暴力は他者に向かうか、さもなければ自己に向かう。それは消滅せず、どこかに向けられる。せいせいした矢先には弾を受けて苦しむことの繰り返しである。

だが、緑の目の攻撃者が無心に矢を放つその対象は、じつはさほど、彼らの大切なことに「関係ない」ことが多いのである。(大切なこと、というのは本質的に大切なこと、という意味だ。)

関係ないことは、攻撃しないでよろしい。暴力の威力は、世界をよくはしない。すなわち、個体を楽しくもしない。人々を生きやすくもしない。
私たちは、生きやすくても生きやすくなくても、ドロップアウトはしないのだから。