04/8/14

「とりいそぎ」について, Expression « Toriisogi »

「とりいそぎ」について

「とりいそぎ」という言葉が嫌いだ。

いや、ちょっと待てよ。ある物事について突如「嫌いだ」なんて書き出す記事にろくな文章がない。好きとか嫌いというのはそもそも書き手の関心にあまりに密着した言い方であって、つまりその後に続くのが、書き手の言いたい放題・書きたい放題ですよ、ということを瞬時に明らかにする、なんとも魅力のない言い方なのだ。筆者の語彙のなさを暴露するような、むしろ恥ずかしい書き出しではないか。それならば、こう言ってみよう。

「とりいそぎ」という言葉はよくない。

このほうがいい。昔学校の先生で、作文を否定形で書くのをやめなさいという人がいた。あるいは、文句を言い人を否定するのは簡単だが、じゃあどうしたらいいか解決策を言って見なさい!なんて教育的な人もいた。あるいはまた、ネガティブは何の役にも立たないのだから、人生常にポジティブに考えなさい!なんて理想主義者もいた。数々の箴言は、それぞれがある文脈において最大限の価値を発揮することを謹んで受け入れた上で、それでも、よいものはよく、よくないものはよくない。そのこともまた本当である。

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「とりいそぎ」という言葉は、家族や恋人、友だちとの間では殆ど使われない。当たり前である。べつに、とりいそぐ必要がないからである。あるいは、とりいそぐ意味もないからだ。「とりいそぎ」という言葉は、文字通り、ある事柄についてだけとりあえずいそいでお返事いたします、とか、他にも色々あるのですがいま時間がないのでとにかく「はい/いいえ」だけ急いでお伝えします、などをひらがな五字の簡潔な表現で置き換えることのできる便利な表現だ。そして、社会生活の中で、つまり仕事における連絡のなかで慣習的に利用されているために、ひょっとしたら違和感なく、礼を欠くことないビジネス表現として、好まれて用いられているのかもしれない。

ことばというのは往々にして、使用される中で慣用的な言葉になるので、「とりいそぎ」という言葉の「取り急ぐ」という意味に戻って、何やら今日的な言葉の使用を批判したいという気はまったくない。言葉というのはそういうものだ。しかしながら、「とりいそぎ」と言ったときには前提として、とりあえず何かをすぐに伝えるけれども他にも何か補うことがある、という含みや、とりあえず急いでイエス・ノーの返答だけするけれどもあとで詳しく連絡をする、などのニュアンスを持っているのは否定できない。この言葉の今日的使用が気持ち悪いのは、その「とりいそぎ」の後にくるべきものが決して補われることなく、補われないことを前提に、それでも「とりいそが」なければならないという状況に人々が置かれているという事実に由来する。先にも述べたように、家族や恋人の間で、とりいそぎ、は必要ない。あまりに仕事的語録に訓練されすぎた人はひょっとしたら家族への連絡でも「わかりました、とりいそぎ」なんてメッセージを書くのかもしれないが、まあ驚きに値する。所詮とりあえずの内容にすぎない、不完全な返事であるにもかかわらず、人々はそれでも即座に返答し、そのことが誠実さや対応の早さ、几帳面さや仕事の速さを計る指標となる。サッサとイエス・ノーを返答しないのは、無礼で愚鈍なのだ。

そして人々は「とりいそぎ」の言葉を発し続ける。「とりいそぎ」のあとに続くのもまた「とりいそぎ」であり、その取り急がれた性急な返答の周辺に置き去りにされたものは、二度と補われることも、二度と振り返られることもない。私たちは、いつも追い立てられていて、うしろをみるために割く時間などもちあわせていないからである。それはそれでいいのかもしれない。なぜなら、置き去りにできる程度のことは、ひょっとして本当はどうでもよかったかもしれないのだから。

どうでもよくないのだとしたら? そこではおそらく、物事に向かう、その各々のときに「とりいそぎ」という言葉で筆を置かないための、ほんの一瞬の躊躇をすればいい。それだけのことである。

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04/2/14

Young Pioneer’s Presentation vol.3

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Young Pioneer’s Presentation (YPP):Facebook YPP page

2014年3月22日、Young Pioneer’s Presentationに発表者として呼んでいただいた。この会は、京都大学交響楽団に所属していた折りお世話になっていた阿曽沼くんがオーガナイズしているこの会で、毎回複数の発表者(今回は二人)が自信の研究分野について話をし、共通ディスカッションを行っているそうだ。今回は、現代アートのコンセプトについて喋る私と、同期のヴァイオリニスト大谷くんの化学と折り紙の発表。阿曽沼くんが会の冒頭にも言っているように、私たちはなるほど、予想されている共通知識みたいなものを全く共有しない聞き手を前に話す機会にはそう恵まれてはいない。研究会も学会も、たとえば私のトピックでいえば、「芸術とは何か」、「作品とは何か」という問題そのものを話すことは稀であるし、それについて語るときにはそれに集中するかもしれない。しかし、具体的な作品について語りながら、それを捉える様々なシステムについても語るということはあまりない。感じると言うのがどういうことかそのものをあるレベルで定義しながら、ある特定の対象をどのように解釈するかを展開するのは、なるほど、七色に輝く小魚だらけの浅瀬の海の景色を3色の太いペンだけで描こうとするような、そんな思いがした。つまりは、相当悩んだ果てに、現代アートにおけるコンセプトと作品の鑑賞というトピックに関して、仕組みそのものを展開するよりは、普段わたしがこのブログを通じてお話しているようなことを、喋ることにした。

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さて、事前にFacebookのイベントページに掲載された私たちの発表内容は以下である。

【発表者】
・大久保美紀
パリ第8大学非常勤講師。美学。同大学大学院芸術学科博士後期課程、ニューメディア美学専修。批評のウェブサイト »salon de mimi »に展評•作家評•エッセイを多数掲載。研究テーマは現代の自己表象。ソーシャルメディアにおける自己語りと日記の関係性、現代アート、ファッションにおける身体意識・身体的表象に着目する。

・大谷亮
京都大学大学院工学研究科合成・生物化学専攻北川進研究室博士後期課程三回生。日本学術振興会特別研究員(DC1)。錯体化学、超分子化学。趣味は折り紙とヴァイオリン。餃子と寿司が好き。最近はピザも好き。前向き。小さじ1杯の悪意。笑う門には福来たるのかをこの人生で検証中。「何とかなると思うんだけどなー」が口癖らしい。

【発表内容】
大久保美紀
「コンセプチュアルなアートとその鑑賞 ー つくる人、みる人、かたる人」
皆さんは現代アートが好きですか?
現代アートは難しくて分からない、一体何がアートなの? ――私にもはっきりとは分かりません。
それらの疑問は、現代アートがしばしば概念的(コンセプチュアル)であることに由来します。
展覧会や作品のコンセプトは一般に、作品を理解するためのカギとして重要視されますが、 »提示された作品それ自体 »と »説明された複雑怪奇なコンセプト »があまりに隔たっている場合には、鑑賞者は困ってしまうでしょう。一方で、そんなふうに鑑賞者を煙に巻かない素敵な作品も必ずあります。本発表では、「難しくて分からない現代アート」のその不親切さを前に肩を落とさず、楽しく現代アートを体験する方法についてお話したいと思います。そこではつくる人とみる人、かたる人が相互に関わります。今日注目されている美術家の活動にも触れながら、現代アートについて一緒に考えてみましょう。

大谷亮
「趣味から始まるChemistry~折り紙と錯体化学、と私~」
皆さん、鶴は折れますか?
日本の文化、折り紙。小さい頃に遊びつつも次第に忘れられてしまう折り紙。しかし、現在「超複雑系」と呼ばれる折り紙が発展しています。知る人ぞ知る現代”折り紙”の一端に触れて頂きます。
更に、本発表者の専門である”錯体化学”とは。錯体は、ユニット折り紙のように構成分子を自在にくみ上げることで作られる物質群です。どのようなコンセプトから錯体化学研究が行われているのか、錯体化学研究の基礎から最新トピックスまで、ものすごーーーーくざっくりと分かりやすく説明します。

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紹介した作品は、ソフィ•カルの作品より『Les Dormeurs』『Prenez soins de vous』。ここでは、コンセプチュアルなアートの一つの例として、アーティストのつくるゲームのルールのようなものを第三者がパフォーマンスとして遂行した結果を、テキストや写真、ヴィデオなどの記録を通じて鑑賞者に総合的に追体験させるようなものを紹介した。(参考:添い寝がなぜ気になるのか)あるいは、作品としての「モノ」を作っているにも関わらずその主題や問題提起によってしばしば「なぜこれがアートなのか?」という問いを投げかけられる会田誠さんの作品『シリーズ:犬』について、私自身の解釈を提示し、『自殺未遂マシーン』についても考えた。(参考:会田誠「天才でごめんなさい」)最後に、1980年代をニューヨークで過ごし、コンセプチュアルアートの手法を研究したアイウェイウェイの最近の作品、ヴェネチアビエンナーレで公開された二つの『Dispositions』について論じた。(参考:アイウェイウェイ3つのストーリー、映画『アイウェイウェイは謝らない』)

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アイウェイウェイの作品を紹介するのは、Young Pioneer’s Presentationのように「現代アートとは何か?」という問題意識を持って話を聞きにきてくださった人の中には、現代アートは単に「コンセプチュアルで難しい」というだけでなく「奇異なもの」「突拍子のないもの」、更に、そうあらなければならない、と感じている人もおられたからである。現代アートは勿論複雑でなくていいし、分かり易くて構わないし、ヘンでなくてよろしい。つまり、力のある現代アートは眩しくないかもしれない、大切なことを伝える表現は必ずしも複雑怪奇な暗号に自らを隠してない。世界を良くするようなメッセージがミラーボールのような輝きを放っている義務などない。それは、くすんでさびていても、重苦しく目立たなくても、それらが現代アートというからには、現代の社会、現代の世界の問題に関わり、それに出会う私たちに何かを考えさせ、あわよくば勇気づけたり、生きることは良いと感じさせる。その意味で、表現をすることは意味があり、それを享受することにも意味があるのだと思う。私が考えていたのは、そのようなことである。

04/2/14

Images du printemps 2014

Quelques images du printemps 2014.
Le Kitano Tenman-gû, un sanctuaire shinto, situé à Kyoto.
Fondé en 947, il est voué au culte du dieu Tenjin.

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Une fille fait sa pose pour la prise de photo.

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Umés, fleurs de pruniers fleurissent plutôt que Sakura.
Sa couleur plus foncée et son bourgeon plus ferme que celui de Sakura.

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Comme on le voit dans cette image.

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Nous, les Japonais, prions pour tout, pour la réussite, la paix, la famille et la vie.

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En effet, prier quelque chose à Dieu fonctionne
pour organiser et réorganiser notre esprit.

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Une fille qui prie pour remercier à la grâce de Dieu.
Et innombrable de souhaits de l’être humain.

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La grande vache qui nous écoute depuis sa naissance.

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Le cimetière à côté d’où j’habite.

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Les cerisiers fleurissent magnifiquement.
La brise du printemps souffle doucement.

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Si magnifique que je suis inquiète.

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Les pétales de fleurs de cerisiers couvrent le terrain
jusqu’à ce que nous ne voyons plus rien
ce qui est dessous.

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Ces belles couleurs et la touche douce jouissent nos ancêtres.

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03/12/14

『異装』のモダリティ ー 充溢する意味, あるいは, ポスト•コスプレのファッション, Studies of « Post-Cosplay » Fashion

研究集会「コスプレの美学―コスプレ、ファッション、日本文化」

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日時:2014年3月16日(日)14時開場 14時30分開会 20時終了予定
会場:ウィンクあいち 1301会議室 http://www.winc-aichi.jp/(JR名古屋駅桜通口からミッドランドスクエア方面 徒歩5分)

内容:
第1セッション:コスプレ「コスプレの社会的意義と芸術的表現について」
座長:室井尚(横浜国立大学・教授)
講演:園田明日香(NPO法人コス援護会・理事長)

第2セッション:ファッション「『異装のモダリティ–充溢する意味、あるいは、ポスト・コスプレのファッション」
座長:吉岡洋(京都大学・教授)
講演:大久保美紀(パリ第8大学・非常勤講師・美学)

第3セッション:日本文化「コスプレをする・見る–オタク文化におけるパフォーマンスの記号と異文化」
座長:島本浣(京都精華大学・教授)
講演:ジュリアン・ブヴァール(リヨン第3大学・准教授・日本のポピュラーカルチャー研究)

入場無料、予約不要(定員80名)
主催:科学研究費基盤研究(A)ポピュラーカルチャーの美学構築のための基盤研究[研究代表者:室井尚(横浜国立大学教授)]

Facebook : https://www.facebook.com/events/409348502543982/?fref=ts

 こんにちは、大久保美紀です。さて、近づいて参りました、今週末は名古屋でお会いいたしましょう。〈コスプレの美学〉なのに、ポスト•コスプレなんて、一体どうなっちゃうんでしょう…。私の方からは、ファッションとしての「異装」にはどんなパワーがあるのか(歴史の中でどんなパワーがあったのか)、そして、これからのコスプレ実践はどんなもので有り得るのかを明らかにするため、「コスプレ」をスッパリ切り開きます!
 フランスのコスプレイヤーや研究者に行ったインタビューや対話の話もします。異装を通じたアート作品の分析もします。ぜひお越し下さい。

 さて、実はコスプレについてはこれまでも長ーいこと考えてきたのですが、長ーいトンネルを抜けて、この文化特有の“対話の難しさ”を越えて、これまでとは異なる考えに至りました。どうぞお楽しみに。

 

『異装』のモダリティ ー 充溢する意味, あるいは, ポスト•コスプレのファッション

(要旨)
本発表は、これまで多くの日本人および外国人が研究してきた「コスプレ」という現象を、人類の自己表現の手段の一つとして新たに捉え直し、「コスプレ」の行為者が「コスプレ」を介して何を実現し、その行為にどのような意味を与えているのかという問題を再考する。したがって、本発表では、「コスプレ」を、今日まで一貫して守ってきたコンテクスト:現代日本大衆文化(ポップカルチャー、しばしばクールジャパンと呼ばれる)から生まれたものであること、その代名詞であるアニメ•マンガのキャラクターを模倣したコスチュームを身につけた特定の集団がコミケやイベントに参加すること、という定義への固執を一度放棄する。これら固有の文脈から切り離された「コスプレ」とは何か。世界からも着目を集める奇異な文化現象としての「コスプレ」をという重苦しい仮装を脱いで、人類が今日まで、異なる文明、文化、国、宗教、社会の中で実践してきた、自己表現の行為の一つととらえたとき、抽出されるエッセンスは何だろうか。そこに残るのは、とてもシンプルだが、状況を逸脱した着衣行為である。私はこれを「異装」と呼ぶ。本発表では、「異装」のモダリティについて考えること―-つまり、「コスプレ」という行為の中核を担う「逸脱した着衣行為」がどのような目的でどのように実現されるのかを明らかにすること―-によって、日本的な「コスプレ」が蔓延し、希釈され、変容し、全く別のものとして生まれ直してしまう世界においても、なお楽しく逸脱した着衣を繰り返すことのできる「ポスト•コスプレのファッション」を提案したい。
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02/12/14

「反重力 」展 @豊田市美術館/ Anti-Gravity @Toyota Municipal Museum

反重力 Anti-Gravity
2013年9月14日[土]-12月24日[火]
豊田市美術館
Web Site link

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豊田市美術館に訪れたのは二回目で、私はこの美術館がとても好きである。初めて訪れたのは、2012年「みえるもの/みえないもの」というコレクション展で、ソフィ•カルの『盲目の人々』や志賀理恵子の『カナリア』などの名作を、メルロポンティ現象学が取り組んだvisible/invisibleの間に思いを馳せながら鑑賞するとても良い展覧会であった。その日のお天気や、近くに生えていた梅の花がどのくらい咲いていたかすら明確に思い出せる。salon de mimiのポストにもその展覧会のレビュー(http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=384)が掲載されているので、ぜひご覧頂きたい。

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さて、能勢陽子さんがキュレーションされた展覧会「反重力」は、魅力的なタイトルの展覧会である。「反重力」は「無重力」ではない。あくまでも、Gravityに対峙する、Anti-Gravityなのだ。それは次のように説明される。

引用)「反重力とは、創成時の宇宙にインフレーションを起こし、今日の宇宙を加速膨張させているといわれる、重力に反する仮説の力です。SF作品では(中略)物質•物体に関わる重力を無効にし、調節する架空の技術として登場します。」(本展覧会カタログp.2)

当展覧会のカタログに掲載された吉岡洋さんの「飛行、浮遊、そして反重力へ」という文章中にも述べられているが、反重力はしばしば、SF的想像力(宇宙飛行、テレポートなど)の原理として登場し、それは必然的にに科学(物理)的説明を期待される。だが、その言葉によって展覧会を構成するのは、芸術の展覧会にいたずらに科学の権威を掲げようとするためではないし、よくわからないが魅力的な言葉で鑑賞者を煙に巻くためでもない。ソーカル事件を通じて「ソーカルのやった行為は(略)芸術的•批評的観点からみれば的外れ」であるという考えには私も同感である。槍玉にあげられたのは、ラカンやボードリヤール、ドゥルーズといったフランス現代思想家たちだ。彼らによる科学用語の濫用が神聖な科学を歪曲する欺瞞だという。ソーカル的な問題意識や排他的棲み分けは、今日においても何も解決されておらず、むしろ無意識的に多くの人によって共有される伝染病のようなものだ。現代の哲学者も心理学者も、社会学者も芸術家も、科学的な用語を使う。科学的な概念を使い、科学的な思想に拠る。それを全て否定し弾圧するならば、今日より後の世界には、なんの変化も驚きも、訪れることはないだろう。

したがって、「反重力」は、現時点ではSF上の仮説の力にすぎないが、それは私たちの、慣習的に同じ流れに向かうつまらない思想を全く思いもよらず跳ね返すことによって、見たことのない表現を創り出すのかもしれない。そのとき、「反重力」はすでに実在する力となり、我々に働きかけているのだ。

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ジルヴィナス•ケンピナス(Zilvinas Kempinas) のBeyond the fans(2013)は、磁気テープが二つ向かい合った扇風機の風によって円状に浮かび続けている。磁気テープは扇風機から与えられる風の力で空中に浮かび続けており、そこには何のマジックもない。だが私たちは、自分が近寄れば僅かながら空気に別の流れができたり、他の鑑賞者などが通ってまわりの空気は動かされ続けているにも関わらず、そのくらいのことでは決して軌道から外れて落ちてきたりしない、この単純な装置の安定さや強さを美しく思う。思いのほかに物事は、結びつけたり固めたりしなくても変化しないのだ。

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『微小重力環境におけるライナスの毛布のための試作』は、中原浩大+井上明彦による、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の共同研究の実験的作品である。このプロジェクトは、宇宙飛行士のためだけでなく、将来宇宙に旅立ち、そこで生き続けるかもしれない一般の人々のためでもある。触れたことのないタッチのクッションや毛布。地球で生まれた人間は地上の重力環境に慣れており、長期間宇宙に滞在し、微小重力のもとにおかれると、心理的•生理的不安を抱くそうである。人間が拠って立つことを可能にし、頼れなさを緩和してくれるもの。不安は、フィジカルなオブジェによっても満たされるのだ。

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カーステン•ヘラー(Carsten Höller) は、次のように述べる。
To five room to uncertainty, and to the beauty within uncertainty, in order to challenge the cultural environment we live in.
ネオン•エレベーター(2005)は、人間の目の錯覚に訴えかける。鑑賞者を取り巻く形で配置された壁の中には水平のネオンライトが上から下に向かって明滅する。その光の動きに目を凝らしていると、自分の立っている空間が光のエレベーターとなって上昇していくように感じられる。どれほど分析され、理解が進んだとしても、我々の認識は錯覚のような曖昧さで満ちており、それはしばしば我々を今ここから解放することを助ける。

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やくしまるえつこは、アインシュタインの宇宙項や『相対性理論』などの原理から着想を得た表現を提案している。ボーカル、作詞、作曲、プロデュースを手がける彼女は、作品『Λ Girl』において、お互いに引き合おうとばかりする世界の物質に対して、たったひとりで、万物から遠のくことを選んだひとりの少女のΛの存在を、モニターや72台のスピーカーを介して、我々の目の前に引き出すことを試みる。

少女は逃げ惑い、私たちは決して彼女に追いつけない。モニター上の少女は鑑賞者がいる場所の正反対の位置に逃げ、彼女の声も向こう側からしか聞こえない。たくさんの人間の存在に、点滅し惑う少女はひょっとして喪失してしまうのではないかという恐怖に似た直観がよぎる。でも案ずることはない。Λ(ラムダ)は世界の存在に反しながら、ここにはいないのだから。

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レアンドロ•エルリッヒ(Leandro Erilich)の作品は、我々の日常にインスピレーションを与え、その見方すら回転してくれるかもしれない。

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中村竜治の構造『ダンス』は、太さの異なるピアノ線で構成された、軽やかな彫刻である。『ダンス』とは素敵な名前だと思う。マチスの『ダンス』において肉体は、ほとんど普通の意味での肉体であることをやめ、ムーブメントと化しており、作家はマチスの『ダンス』から着想を得たと話す。重力と物体の緊張感を尊重した作品である。

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クワクボリョウタの『ロスト•グラヴィティ』は、アーティストが取り組むテーマの一つ、機械と人間の境界を真っ向から問うた作品であると言えよう。暗闇の壁に映し出される様々な形の光は、部屋の中央に置かれたザルやスポンジ、待ち針など日常的で単純な形状のオブジェの影だ。それらは、単純なシステムによって回転し、光を受けて、彼らの隙間を投影する。そこにあるのは、繰り返される回転の音とパタンである。しかし、暗闇に身を置き、その光を見つめたならば、ロマンティックで懐かしい感情におそわれ、心が温まるのはなぜだろうか。

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エルネスト•ネトは、ストッキングなど伸縮性のある素材を用いて上からぶら下がる不思議な形状のインスタレーションを数多く発表している。今回豊田市美術館で我々が経験するのは、『私たちという神殿、小さな女神から、世界そして生命が芽吹く』という、母体(あるいは子宮)をモチーフとした生命体の中に我々を包み込むようなインスタレーションだ。天井は描写しがたい暖色をうっすらと帯び、外の様子を感じられるが、内部にいる我々は守られている。

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中谷芙二子の霧彫刻が美術館の池から立ち昇った。霧彫刻は彼女が述べるように「ライブ彫刻」であり、その時の湿度、風、温度、地形など環境に応じて形を変える。我々人間は、微粒子ノズルと高圧ポンプで自然の霧のひな形を創り出してしまう。彼女は1970年の大阪万博のためのプロジェクト以降世界中で霧彫刻を発生させ、そこにはなかったはずの霧の中に多くの人々を包み、異型の体験を生み出した。その日は雨で、沸き上がった霧は雨に叩き付けられて、地面を這い、淀むことなく広がって美術館を包み込んだ。

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さて、最後の作品に出会おう。

内藤礼の『母型』は心に響く。それは、大きな空間を満たす白い光と、繊細なビーズが吊るされている空間の隅、中央に横たわる人形と、ロウソクの火、それらが取り囲む場所に身をおくと、世界に存在することを人生の最初に遡って肯定された感じがするからだ。円形の小さな紙に書かれたメッセージ、「おいで」という声が、向こう側からやわらかく聴こえてくる。もう一体の人形が、上のほうから見守っており、その声は、生まれ直すことを許すのかもしれない。反重力の世界では、ひょっとして様々なものが逆さまになって、長い人生の折り重ねてきた時間を反対側に辿って、おいで、というその声を耳にする瞬間まで立ち戻ることを可能にするかもしれない。その声は温かく、私たちは幸せである。

02/10/14

「リアル」になる「おしゃべり」

ツイッターやフェイスブック、あるいはブログやチャットに至るまで、ソーシャルメディアは、人々がある程度気が済むまで嘆き、怒り、語り、喧嘩し、捨て台詞や負け惜しみ、思い切りペシミスティックなレトリックを言い放つための、プラットフォームを与えることによって我々の心を穏やかにしてしまう最も恐るべき装置である。その覇気に満ちた言葉を発する「前」と発した「後」で世界は全体として何ひとつ変わっていない。我々がその充実したプラットフォームで繰り広げているのは、その程度の「おしゃべり」に過ぎないことを忘れてはならないのだ。

 誤解を避けて断っておけば、私は「おしゃべり」が世界を変えないなどとは一言も言っていない。むしろ、おしゃべりは世界を創りかえる。私たちの活動の多くはおしゃべりだ。私はよく何かを書き、大学や学校で様々な人と喋り、メールも電話もする。ブログも書くし、フェイスブックも使う。そのおしゃべりが無駄だとは思っていないし、喋ること、おしゃべりによって物事を解決すること(=和平)は、戦争の対義語として教えられており、そこまでの敬意をこめて、人間のおしゃべりは価値があると我々は生まれてからずっと教えられている。

 では何がよろしくないのか? それは、おしゃべりによって得られる予定された「満足」である。人はある程度言葉を吐き出してしまうと、それが、書いた物であれ、語りであれ、やり取りの有無や他者の反応を問わず、満足してしまう愚かで幸せな習性をもっている。

 江戸時代、8代将軍の徳川吉宗の治世に「目安箱」が設置されたことは小学生も歴史の授業で習う。将軍様が民衆の声に耳を傾けた、画期的な仕組みであり、町人や百姓の要望や訴えを真摯に検討するためのすばらしいシステムだった、などと教える学校の先生があるかもしれない。あれも一種のプラットフォームであろうか? などと考えては大間違いである。目安箱に投函されるのは訴状であり、現代のカスタマーサービスについてのアンケートなどとは緊張感が違う。江戸時代の町人や百姓の識字率は、寺子屋が本格的に普及するのが天保年間(1830年代)であったことからわかるように、その100年前に、百姓が身の回りで生じた困ったことについて、訴えることなどできなかったはずである。当然のことながらこの起訴は、住所•氏名を明記する記名制で、将軍が直接目を通して対応したと言われていることから分かるように、よほどの決意とリスクを背負う覚悟なしには使用されなかった。目安箱は一方で、「民衆の意思を汲む幕府」というプロパガンダには一役買ったに違いない。

 そのように、発言することが死の恐怖と隣り合わせであり、そもそも何かを書いたり語ったりするために伝播力あるメディアをもたなかった人たちに比べれば、現代の私たちは、自由である。いくらでも思ったままの荒削りの言葉を、それがどこに飛んで行くか見定めることなく放ることができる。ある大統領の顔写真を偽札に貼付けて、その紙幣の金額が示されるべき場所に「ゼロ」と記してソーシャルメディア上で拡散しても、翌朝獄中で手記を綴る危険などを覚悟する必要が全くないほどに、私たちは奔放だ。

 奔放な我々は激しく怒り、暴言を吐き、悲観し、慰め、勇気づけ、分かり合う。現実世界のそれと変わらず、インターネット上での他者との交わりもまた、抵抗を伴う。異なる意見、批判、議論、応答。人はこれらのことに疲労する。疲労はやがて充実感となってその人の、不満と怒りに満ちていたはずの心に穏やかさをもたらし、魔の満足は、忘れることを望まない心象を永遠に麻痺させる。本当に変えたかったそのものには何一つ届いておらず、現実世界はまだ変わっていないのに、勢いあった心象は突如希釈されてしまう。これが、プラットフォームの力だ。

 繰り返される衝動の麻痺と、現実世界で実現される結果への違和感。私たちは、このプラットフォームを、自分自身を慰めるためでなく、それが現実世界を震動させるエネルギーとなるよう、新たに考え認識するべきだ。サイバースペースが「ひみつ」を共有する、閉じられて匿名的な温室であったのは昔の話だ。我々は、ミクシーに飽きてフェイスブックやツイッターを始めたとき、「ひみつ」も同時に放棄したのだ。我々は、ソーシャルメディアには「アラブの春」を勇気づけるようなリアルなエネルギーへのキャパシティがあることを知っている。どれほどのフィジカルな動きが、それを介したかということを。

 我々のそれが、依然としてヴァーチャル(潜在的)なのだとすれば、それは、まだ我々が未だそれを使いあぐねているからである。それを利己的で繊細で虚飾的な道具としてしか使えていないからである。ネットは「リアル」に繋がる。傷つきやすく自己防御的なディスクールと、ドラッグに似た機械的満足感で、小さな世界を慰めようとするのを諦め、ほんとうのおしゃべりに身を乗り出すとき、ネットは「リアル」になるのだ。

02/7/14

宮永亮×つくるビル コラボレーション 『INSIDE-OUT』/Akira Miyanaga, Media Installation

宮永亮×つくるビルコラボレーション 『INSIDE-OUT』/ つくるビル
『INSIDE-OUT』:website
Miyanaga Akira
2013.11.20(水)~12.23(月・祝)

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作品《INSIDE-OUT》は、会場つくるビルが位置する京都の五条通りとその周辺の、数ヶ月に渡る記録映像をコラージュすることで生まれた、映像インスタレーションである。つくるビルの内部の展示会場では、複数の窓が次々と開かれ、そこに存在するあらゆるモノが宮永亮のスクリーンと化す。私たちは、自分自身では出会うことのなかった五条通のある夜の眩い喧噪や、白っぽく霞んだ昼間の影の形を知り、そこで揺れていた木々の緑や枝の付け根の形、どこかで見たような身のこなしの人が自転車でとおり過ぎていく様子、会社帰りのサラリーマンが無表情で足早に店に出たり入ったりするその速度、そんなものを観察する。それらはかつて在り、今はなく、混ざり合い、輝く。

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宮永の作品タイトル《INSIDE-OUT》は、文字通り、外側の世界の出来事が、つくるビル内部の壁やモノに映し出されることによって、内側の私たちの見つめる世界に置き代わってしまう「裏返し」を意味すると。壁やスクリーンに映し出されるイメージは、一つの場所の場合もあれば、重なり合って複数の時間と場所を映し出すこともある。イメージのコラージュは、したがって、映像の時間と場所を折り重ね、さらに凝縮した内部として再提示される。しかし私にとって、《INSIDE-OUT》が真に意味するのは、さらに別のディメンションに広がっていると感じられる。それは、内部と外部の反転の結果もたらされる、仮想世界と現実世界の反転であるように思われてならないのだ。

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アーティストが空間をスクリーンで満たす方法に着目してみよう。一般的な意味でスクリーンと呼べるのは、おそらく正面と左右の壁、振り返って向こう側にあるカフェのベニヤ板だ。一方、展示空間にはテーブルや時計、長イス、カフェと繋がる本物の窓とその桟の部分などがあり、それら全てがプロジェクションを受けて仮想的環境を構成する。その環境の中に一度身を置き、ポリフォニックな映像が、ある日ある場所の風景の断片を暴露するのを目の当たりにしたとき、ヴァーチャルな世界が突如リアルな経験として立ちのぼる。

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私たちの日常はそもそも、スクリーンの集積に似ている。外の世界で直に何かを経験することと、行き止りの壁に仮想窓を開き、そこに世界を感じることの間に本質的な差異を説明するのは実は難しい。それらは互いに侵犯し、共に生きることに関わり、私たちの生活を築いている。

02/7/14

存在へのアプローチ―暗闇、無限、日常―ポーランドの現代美術展 @KCUA /An Approach to Being, Polish Contemporary Art

存在へのアプローチ―暗闇、無限、日常―ポーランドの現代美術展 /京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA
2013年12月7日 – 12月23日

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京都に滞在した昨年末、加須屋明子さんがIn Situ現代美術財団とともに企画された『存在へのアプローチ―暗闇、無限、日常―ポーランドの現代美術展』(@KCUA)に訪れることができた。私の大事な友人にポーランド育ちやポーランド生まれがおり、兼ねてから訪れたいと思っていたこの国に昨年夏、国際美学会(ヤギェウォ大学、クラコウ)で赴ことができた。その後、アウシュヴィッツとワルシャワを経て、西欧に戻ったのだが、印象深い経験であった。(Salon de mimi Posts : Aushwitz report, Wawsow exhibition report) 本展覧会の見学を通じて、紹介された幾つかの重要な作品、作家について記録しておきたい。

ロマン•オウパカ(Roman Olpaka, 1931-2011)の46年間に及んだ「行為」をアートと呼ぶのはなぜだろう。オウパカはフランス北部の農村に生を受け、生涯をポーランドとフランスの間で生きた画家である。1965年、ワルシャワのアトリエで《1965 / 1 – ∞》と題された終わりなき作品を思いつき、79歳で亡くなるまで描き続けた。1から5607249まで可視化された数字は、始めは黒の、後には灰色の背景の上に現され、画家の死以来充溢した意味の集積として停止した。

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オウパカの数字が詰まったタブローは、彼の人生の時間そのものである。二百数十枚に及んだ絵画の一枚一枚は、彼にとって細部である。それは、存在し、増殖する全体の部分であり、全体の存在を確信させる部分である。タブローは彼の人生を象徴し、その時間の継続に意味を与える。オウパカは述べる。

「私たちは存在するように運命付けられています。(中略) 私たちは習慣から存在しているし、死を恐れるから生きている」

人間は、死を恐れながら存在するよう運命付けられた生き物である。いつか贈られる死のために、存在の意味を問いながらも自殺せず生きるには、命の最後の一欠片が煙になるまで数え続ける必要があった。アンジェイ•サビヤ*1のドキュメンタリー《一つの人生、一つの作品》(2010)は、オウパカの苦しみと道の模索、ついには強かな決断を私たちに伝える。

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展覧会『存在へのアプローチ』は、戦後ポーランドの芸術表現の特色と問題、そして、その魅力を明らかにする。大戦がもたらした悲劇の記憶、共産主義体制下の表現の抑圧、1989年の政変で失われたものや失われなかったものの存在は、表現しようとする者を駆り立ててきた。本展覧会を見るという経験は、ポーランドという一つの国の国境を越えて、人間が、迫害や差別などの不条理な状況に置かれ、絶望的と思われる大きな問題の前に立ちすくんでしまったとき、いかにして考え、表現し、伝えることができるかを私たちに教えるのである。

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1959年よりポーランドで学び、ワルシャワで作品を発表し続ける日本人美術家、鴨治晃次(1935−)の《空気》(1975)は、中心が切り抜かれた柔らかい質感の紙が等間隔で吊るされ、こちら側から向こう側を覗くことができる。穴の大きさは次第に小さく、あるいは次第に大きくなり、大きな窓から射し込む光は紙を微動だにせずすり抜けるが、我々がそこを通るとき、塊である我々は空気を邪魔して、その沈黙した等間隔を乱してしまう。

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ヤン•シフィジンスキ(Jan Świdziński)のパフォーマンス《空虚な身振り》*2がいつまでも瞼の奥に残っている。意思疎通のための日常的なジェスチャーや無意識的で意味を欠いた動きが、彼の厳密に制御された身体所作を通じて繰り返される。各々のジェスチャーは、確かにありふれていて、一度や二度見る限りでは、意味に冒されている。ところが、それが繰り返され、表情や文脈を欠いて続けられることによって、そこにあった臭いがすっかり失われて行く。個別の意味を充てがわれなくとも、自己の外に出るための、他者に何かを求める動きには、共通の訴えの形があるのだろうか。そこにあるのは、明瞭な声明であり、定まった意志であり、存在のための積極的な態度である。

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*1 Andrzej Sapija (1954-)はこれまで数々のドキュメンタリー映画を撮影し、国際的に高い評価を受けている。
*2 Jan Świdziński (1923-), « Empty Gesture », 2011

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02/7/14

創作の自由と暴力のこと, Free Expression or Violence

自由で暴力的な創作、あるいは創作の自由と暴力のこと

私は男尊女卑を支持しない。無論その逆も支持しない。
平等主義はシンプルで聞こえがいい。ただし、それは不可触な理想に似ている。
世界の人々が様々な理由から均質でないのと同じように、性差は、その他の個体差よりも遥かに大きな違いである。

『抑圧された人々ー男と女の役割が入れ代わる日』(Majorité opprimé : quand les rôles masculins et féminins sont inversés)という短編映画のリンクを数日前ソーシャルメディアでシェアした。10分ほどの短いストーリーで、そこに描かれるのはあからさまに不自然で、しかし有りそうもないかというと、かろうじて信じられる程度のリアリティが漂う日常世界だ。フランス語だが状況はヴィジュアルから十分に解釈することが可能なので、もし興味がある方はこちらのリンクをご覧になっていただいてもよいかもしれない。
http://www.lidd.fr/lidd/9252-majorite-opprimee-quand-roles-masculins-et-feminins-sont-inverses

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『男と女の役割が入れ代わる…』というタイトルを聞いて誰もがすぐに思い浮かべるのは、育児や家事をする男のことだが、この映画もその単純な想像力の例に漏れず、ベビーカーを押して細々した日常の所用を済ませる父親が主人公に設定されている。一歩外に出れば世界は陰鬱な嫌がらせで満ちている。偉そうな大家の年寄りの女が嫌みを言う、道を歩けばホームレスの女が口汚い言葉で軟弱な男を罵倒する。「笑顔見せてみろよ!」というのは現在もなおリアリティのある女への捨て台詞であり、「〈女なんだから〉しかめっ面してないで、愛想振りまいて、にっこりしてみろよ」という常套文句をこの映画の制作者が男女をひっくり返したのである。また、最終的に彼は細い路地で柄の悪い女のグループに出会い、勇気を振り絞って、女達の嘲笑に、一言二言、言い返すことに成功する。その態度にキレた若い女達のグループは、男を細い道に連れ込んで、脅し、ついには暴力を振るう。それは、「尊厳」という言葉を使うならば、その人の「尊厳」を踏みにじるような行為であり、性的な暴力であり、精神的な暴力であり、理解の余地のない暴力である。そもそも、暴力には理解の余地がもともとないのだが。警察での事情聴取、上司の女は若い男の部下にコーヒーを頼む。今日もなお、多くの「上司」が女性社員にお茶やコーヒーを入れさせるように。放心状態の旦那を迎えにきた妻は、たいそう可哀想に、と酷い目に遭った旦那を抱きしめる。だがその次の瞬間、この男がその妻のいたわりにも関わらずいつまでもぐずぐずとやり切れなさを口にしていると、妻は急に、「疲れてるんだからいい加減にしてよ!」というのである。私は外で働いて疲れてるんだから、家事してるあんたがこれ以上グダグダいうんじゃねえよ、というわけである。さて、重要なのはここからだ。

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しょうもない旦那を見放したキャリアウーマンの妻は、真っすぐ続く大きな道を闊歩する。足取りは次第に軽く楽しくなり、今にも飛び立ってしまうことができそうだ。でもどこに? だらしのない、身のこなしもぱっとしない、女々しい男を突き放して、ぐんぐん歩いて行く。彼女の開放感はクライマックスを迎え、私たちはそれが彼女の夢であったことを知る。夢、あるいは、妄想、彼女がもっとも望む世界。彼女の楽しさは増して行くが、私たちはそれが悲しいかな夢であることをはっきり知っている。彼女がどれほどそこから醒めて、戻ってきたくないとしても。

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表現の自由の前に、束の間の幸せを求めて暴力的な作品を作ることもまた、自由と呼ばれるのかもしれない。
ただし、この作品は、鑑賞者の中の何人かがあるいは潜在的にたくさんの人が、「いい気味!」「すっきりした!」「その通り!よくあるこういうこと!」「一度なってみたらいいのよ、逆に!」と、ひと時の勝利を手にする喜びに酔いしれるだけであって、その先に道はなく、どこにも行くことができない。このビデオを創ることも、それを目撃して十分間満足することも、つまりは、ビデオの中のあの女、本当は「抑圧」され、その苦しみのあまり男女の役割が入れ代わって男が女に暴力を振るわれる、という妄想を作り上げてしまった女の行き場のない夢を共有することに過ぎないのである。

仕返し、で世界が変わらないことは、あまりに明らかなことであり、仕返し、がなくならないこともまた事実だ。

少なくとも意識的でなければならない。違う者は平等ではない。役割を入れ替える発想そのものが妄想である。
創ることは自由であり、言葉を発することや同意を求めること、結びつこうとすることや、想像することは自由である。
ただし、私たちは、戻ってこなければならない。
たとえ遠くに飛んで行っても、まわりに何も見えないくらい離れて行っても、とても楽しくて何がなんだかよくわからなくなっても、私たちは、戻ってこなければならない。
生き続けるために、夢から醒めなければならない。

夢はなるほど、殺伐とした現実よりもまろやかな方が良い。
しかし、醒めてしまったことを、醒めている間じゅうずっと後悔する夢でないほうが、はるかに見たいと思えるのだ。

自由で暴力的な想像力は、目の前の壁を越えることができず、表現する意味を感じさせてくれる創作は、別のところにあると信じる。

01/2/14

みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術@栃木美/ Expo : Touch is Love @Tochigi

企画展 [みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]
栃木県立美術館 Web

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栃木県に行ったことが無かった。東京からは鈍行でも二時間ほどで栃木県立美術館まで行けそうだということが分かると、どうしても、栃木県立美術館で開催中であった[みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]展を訪れたくてたまらなくなった。きっかけは、写真家の糸井潤さんからいただいたアナウンスメールであった。糸井さんは写真家で、2012年に小山私立車屋美術館で開催された個展『Cantos Familia』や昨年1月に国立新美術館にて開催された『第15回 Domani•明日展 』において、フィンランドの森で撮影された写真作品を発表している。私はフィンランドの森を見たことがない。その空気の冷たさも、木々の硬さや枝の細さも、雲がどのように流れ、雪の粒はどれほどに細かいのかを知らない。展覧会は12月23日までで、数日関東に滞在していた私は、その日の朝、宇都宮行きの鈍行に乗った。

企画展 [みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]というテーマには惹かれる。美術展が、あるいは美術そのものが、近くからも遠くからもとにかく「凝視するもの」になって久しい。触れてよいものは、デザインや素材の展示には登場しても、美術には滅多に現れない。あるいは、ゲームや一部のメディアアートのように、鑑賞者に決められた操作を要求する作品があり、規定されたオペレーションを遂行する場合はある。だが、時々はそんなつまらないものでない、ワクワクするような展示に出会うことがあり、そういったものを体験したかったのだ。

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栃木県立美術館は、JR宇都宮駅よりバスで15分ほどまっすぐ行ったところにある。企画展側の入り口は正面より左側、コレクション展の入り口が右側にある。入り口をすり抜けると、フクロウの群れが迎えてくれる。全力で石に触れている少年が見えて楽しくなる。手塚登久夫の黒御影石彫刻は、壁側に配置されたフクロウの群れと同じ、石材を切り出した後はほぼノミとハンマーだけで少しずつつくられた二羽のフクロウに触れることができる。御影石はご存知のように、花崗岩の一種で古くから石材として用いられてきた非常に緻密で固い素材の一つである。しばしば墓石などにも利用され、研磨されて光沢を帯びている黒御影石は、ここでは冷たく削り口を露にし、丸いヴォリュームのぎゅっと詰まった感触が手のひらから伝わってくる。

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また、栃木美保のインスタレーションでは、楠、檜、月桂樹の三種類の木々の香りを吸い込んで体験するものである。タイトル『結葉(むすびは)』は、インスタレーションに見られる布で作られた葉が重なり合って光を透過するように、若葉がひしめく様子を表している。

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松島さくら子は、漆工を学び、世界各国で創作を披露している。本展覧会では、undercurrentシリーズが展示され、あまり見たことの無い形をもった漆工作品の、その表面がどのように艶やかであるかということを目撃することができた。

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丸山浩二のフロッタージュ作品は、フロッタージュという技法そのものが体現する三次元的な奥行きが、完成した二次元の作品にも滲み出ている。簡単なフロッタージュが体験でき、近隣の小学生や中学生の作品が合わせて展示されているのも楽しい。

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糸井潤のCantos Familiaからの6枚の森の写真と、ビデオ作品 »Solitude'(5min)を目の当たりに、森の中を歩く。視覚情報から出発したはずの、ずっと北の、遠い森のイメージは、知っていることや知らないけれども思い描く風景と重なり合って、揺れ動き、そこにはやがて音があり、風の動きがあり、光と熱があり、森の感触がある。ビデオでは森の様々なシーンが、その森に混入し、ついには溶けようとする人間の鼓動とともに映し出される。

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丑久保健一の木のボールや、彫刻には触れたほうが良い。そこには触れることによる驚きと気づきがあるからである。

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岩本拓郎の水彩•油彩画には、光に関するタイトルがつけられている。たとえば写真は『生成—生まれる光/2012-W1』(部分)である。そこで画家は、ピグメントが化学反応を起こし、たとえば点滅したり、見る角度によって色が全く変わるような事態を引き起こそうとする。滲んで予想外の動きが時の中にそのまま固まった様子は、琥珀の中に閉じ込められた年老いた虫の羽に少し似ている。

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藤原彩人は、施釉陶の彫刻をつくる。写真は『揺れる男』(2013)のインスタレーションの様子である。誰にも似ていない、白くて光沢の在る頭部、それは風鈴のように揺らめく他の身体の部分を伴って、世界を漂っている。しかし彼らはその重くて硬い頭部のお陰で、結びつけられているのであり、自由ではない。また、『立像―雪は溶け、地に固まる』の三体の彫刻もよい。我々は雪よりも少しは長く生きるが、所詮、少しだけ沸き上がってきてぺたぺたと地を歩き、遠くに行ける気もするが、やはりいつかは死に絶えて、溶ける雪が地に戻るように、形を失うのだ。

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展覧会[みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]は、そのわかりやすいキャプションや体験のための丁寧な説明から、おとなしく見るだけでなく、触り、嗅ぎ、聴きたい人々がたくさん訪れ、鑑賞を楽しんでいた。美術は触れえぬものであるという前提は、効力を失った呪文なのである。