03/12/14

『異装』のモダリティ ー 充溢する意味, あるいは, ポスト•コスプレのファッション, Studies of « Post-Cosplay » Fashion

研究集会「コスプレの美学―コスプレ、ファッション、日本文化」

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日時:2014年3月16日(日)14時開場 14時30分開会 20時終了予定
会場:ウィンクあいち 1301会議室 http://www.winc-aichi.jp/(JR名古屋駅桜通口からミッドランドスクエア方面 徒歩5分)

内容:
第1セッション:コスプレ「コスプレの社会的意義と芸術的表現について」
座長:室井尚(横浜国立大学・教授)
講演:園田明日香(NPO法人コス援護会・理事長)

第2セッション:ファッション「『異装のモダリティ–充溢する意味、あるいは、ポスト・コスプレのファッション」
座長:吉岡洋(京都大学・教授)
講演:大久保美紀(パリ第8大学・非常勤講師・美学)

第3セッション:日本文化「コスプレをする・見る–オタク文化におけるパフォーマンスの記号と異文化」
座長:島本浣(京都精華大学・教授)
講演:ジュリアン・ブヴァール(リヨン第3大学・准教授・日本のポピュラーカルチャー研究)

入場無料、予約不要(定員80名)
主催:科学研究費基盤研究(A)ポピュラーカルチャーの美学構築のための基盤研究[研究代表者:室井尚(横浜国立大学教授)]

Facebook : https://www.facebook.com/events/409348502543982/?fref=ts

 こんにちは、大久保美紀です。さて、近づいて参りました、今週末は名古屋でお会いいたしましょう。〈コスプレの美学〉なのに、ポスト•コスプレなんて、一体どうなっちゃうんでしょう…。私の方からは、ファッションとしての「異装」にはどんなパワーがあるのか(歴史の中でどんなパワーがあったのか)、そして、これからのコスプレ実践はどんなもので有り得るのかを明らかにするため、「コスプレ」をスッパリ切り開きます!
 フランスのコスプレイヤーや研究者に行ったインタビューや対話の話もします。異装を通じたアート作品の分析もします。ぜひお越し下さい。

 さて、実はコスプレについてはこれまでも長ーいこと考えてきたのですが、長ーいトンネルを抜けて、この文化特有の“対話の難しさ”を越えて、これまでとは異なる考えに至りました。どうぞお楽しみに。

 

『異装』のモダリティ ー 充溢する意味, あるいは, ポスト•コスプレのファッション

(要旨)
本発表は、これまで多くの日本人および外国人が研究してきた「コスプレ」という現象を、人類の自己表現の手段の一つとして新たに捉え直し、「コスプレ」の行為者が「コスプレ」を介して何を実現し、その行為にどのような意味を与えているのかという問題を再考する。したがって、本発表では、「コスプレ」を、今日まで一貫して守ってきたコンテクスト:現代日本大衆文化(ポップカルチャー、しばしばクールジャパンと呼ばれる)から生まれたものであること、その代名詞であるアニメ•マンガのキャラクターを模倣したコスチュームを身につけた特定の集団がコミケやイベントに参加すること、という定義への固執を一度放棄する。これら固有の文脈から切り離された「コスプレ」とは何か。世界からも着目を集める奇異な文化現象としての「コスプレ」をという重苦しい仮装を脱いで、人類が今日まで、異なる文明、文化、国、宗教、社会の中で実践してきた、自己表現の行為の一つととらえたとき、抽出されるエッセンスは何だろうか。そこに残るのは、とてもシンプルだが、状況を逸脱した着衣行為である。私はこれを「異装」と呼ぶ。本発表では、「異装」のモダリティについて考えること―-つまり、「コスプレ」という行為の中核を担う「逸脱した着衣行為」がどのような目的でどのように実現されるのかを明らかにすること―-によって、日本的な「コスプレ」が蔓延し、希釈され、変容し、全く別のものとして生まれ直してしまう世界においても、なお楽しく逸脱した着衣を繰り返すことのできる「ポスト•コスプレのファッション」を提案したい。
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02/12/14

「反重力 」展 @豊田市美術館/ Anti-Gravity @Toyota Municipal Museum

反重力 Anti-Gravity
2013年9月14日[土]-12月24日[火]
豊田市美術館
Web Site link

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豊田市美術館に訪れたのは二回目で、私はこの美術館がとても好きである。初めて訪れたのは、2012年「みえるもの/みえないもの」というコレクション展で、ソフィ•カルの『盲目の人々』や志賀理恵子の『カナリア』などの名作を、メルロポンティ現象学が取り組んだvisible/invisibleの間に思いを馳せながら鑑賞するとても良い展覧会であった。その日のお天気や、近くに生えていた梅の花がどのくらい咲いていたかすら明確に思い出せる。salon de mimiのポストにもその展覧会のレビュー(http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=384)が掲載されているので、ぜひご覧頂きたい。

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さて、能勢陽子さんがキュレーションされた展覧会「反重力」は、魅力的なタイトルの展覧会である。「反重力」は「無重力」ではない。あくまでも、Gravityに対峙する、Anti-Gravityなのだ。それは次のように説明される。

引用)「反重力とは、創成時の宇宙にインフレーションを起こし、今日の宇宙を加速膨張させているといわれる、重力に反する仮説の力です。SF作品では(中略)物質•物体に関わる重力を無効にし、調節する架空の技術として登場します。」(本展覧会カタログp.2)

当展覧会のカタログに掲載された吉岡洋さんの「飛行、浮遊、そして反重力へ」という文章中にも述べられているが、反重力はしばしば、SF的想像力(宇宙飛行、テレポートなど)の原理として登場し、それは必然的にに科学(物理)的説明を期待される。だが、その言葉によって展覧会を構成するのは、芸術の展覧会にいたずらに科学の権威を掲げようとするためではないし、よくわからないが魅力的な言葉で鑑賞者を煙に巻くためでもない。ソーカル事件を通じて「ソーカルのやった行為は(略)芸術的•批評的観点からみれば的外れ」であるという考えには私も同感である。槍玉にあげられたのは、ラカンやボードリヤール、ドゥルーズといったフランス現代思想家たちだ。彼らによる科学用語の濫用が神聖な科学を歪曲する欺瞞だという。ソーカル的な問題意識や排他的棲み分けは、今日においても何も解決されておらず、むしろ無意識的に多くの人によって共有される伝染病のようなものだ。現代の哲学者も心理学者も、社会学者も芸術家も、科学的な用語を使う。科学的な概念を使い、科学的な思想に拠る。それを全て否定し弾圧するならば、今日より後の世界には、なんの変化も驚きも、訪れることはないだろう。

したがって、「反重力」は、現時点ではSF上の仮説の力にすぎないが、それは私たちの、慣習的に同じ流れに向かうつまらない思想を全く思いもよらず跳ね返すことによって、見たことのない表現を創り出すのかもしれない。そのとき、「反重力」はすでに実在する力となり、我々に働きかけているのだ。

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ジルヴィナス•ケンピナス(Zilvinas Kempinas) のBeyond the fans(2013)は、磁気テープが二つ向かい合った扇風機の風によって円状に浮かび続けている。磁気テープは扇風機から与えられる風の力で空中に浮かび続けており、そこには何のマジックもない。だが私たちは、自分が近寄れば僅かながら空気に別の流れができたり、他の鑑賞者などが通ってまわりの空気は動かされ続けているにも関わらず、そのくらいのことでは決して軌道から外れて落ちてきたりしない、この単純な装置の安定さや強さを美しく思う。思いのほかに物事は、結びつけたり固めたりしなくても変化しないのだ。

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『微小重力環境におけるライナスの毛布のための試作』は、中原浩大+井上明彦による、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の共同研究の実験的作品である。このプロジェクトは、宇宙飛行士のためだけでなく、将来宇宙に旅立ち、そこで生き続けるかもしれない一般の人々のためでもある。触れたことのないタッチのクッションや毛布。地球で生まれた人間は地上の重力環境に慣れており、長期間宇宙に滞在し、微小重力のもとにおかれると、心理的•生理的不安を抱くそうである。人間が拠って立つことを可能にし、頼れなさを緩和してくれるもの。不安は、フィジカルなオブジェによっても満たされるのだ。

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カーステン•ヘラー(Carsten Höller) は、次のように述べる。
To five room to uncertainty, and to the beauty within uncertainty, in order to challenge the cultural environment we live in.
ネオン•エレベーター(2005)は、人間の目の錯覚に訴えかける。鑑賞者を取り巻く形で配置された壁の中には水平のネオンライトが上から下に向かって明滅する。その光の動きに目を凝らしていると、自分の立っている空間が光のエレベーターとなって上昇していくように感じられる。どれほど分析され、理解が進んだとしても、我々の認識は錯覚のような曖昧さで満ちており、それはしばしば我々を今ここから解放することを助ける。

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やくしまるえつこは、アインシュタインの宇宙項や『相対性理論』などの原理から着想を得た表現を提案している。ボーカル、作詞、作曲、プロデュースを手がける彼女は、作品『Λ Girl』において、お互いに引き合おうとばかりする世界の物質に対して、たったひとりで、万物から遠のくことを選んだひとりの少女のΛの存在を、モニターや72台のスピーカーを介して、我々の目の前に引き出すことを試みる。

少女は逃げ惑い、私たちは決して彼女に追いつけない。モニター上の少女は鑑賞者がいる場所の正反対の位置に逃げ、彼女の声も向こう側からしか聞こえない。たくさんの人間の存在に、点滅し惑う少女はひょっとして喪失してしまうのではないかという恐怖に似た直観がよぎる。でも案ずることはない。Λ(ラムダ)は世界の存在に反しながら、ここにはいないのだから。

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レアンドロ•エルリッヒ(Leandro Erilich)の作品は、我々の日常にインスピレーションを与え、その見方すら回転してくれるかもしれない。

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中村竜治の構造『ダンス』は、太さの異なるピアノ線で構成された、軽やかな彫刻である。『ダンス』とは素敵な名前だと思う。マチスの『ダンス』において肉体は、ほとんど普通の意味での肉体であることをやめ、ムーブメントと化しており、作家はマチスの『ダンス』から着想を得たと話す。重力と物体の緊張感を尊重した作品である。

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クワクボリョウタの『ロスト•グラヴィティ』は、アーティストが取り組むテーマの一つ、機械と人間の境界を真っ向から問うた作品であると言えよう。暗闇の壁に映し出される様々な形の光は、部屋の中央に置かれたザルやスポンジ、待ち針など日常的で単純な形状のオブジェの影だ。それらは、単純なシステムによって回転し、光を受けて、彼らの隙間を投影する。そこにあるのは、繰り返される回転の音とパタンである。しかし、暗闇に身を置き、その光を見つめたならば、ロマンティックで懐かしい感情におそわれ、心が温まるのはなぜだろうか。

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エルネスト•ネトは、ストッキングなど伸縮性のある素材を用いて上からぶら下がる不思議な形状のインスタレーションを数多く発表している。今回豊田市美術館で我々が経験するのは、『私たちという神殿、小さな女神から、世界そして生命が芽吹く』という、母体(あるいは子宮)をモチーフとした生命体の中に我々を包み込むようなインスタレーションだ。天井は描写しがたい暖色をうっすらと帯び、外の様子を感じられるが、内部にいる我々は守られている。

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中谷芙二子の霧彫刻が美術館の池から立ち昇った。霧彫刻は彼女が述べるように「ライブ彫刻」であり、その時の湿度、風、温度、地形など環境に応じて形を変える。我々人間は、微粒子ノズルと高圧ポンプで自然の霧のひな形を創り出してしまう。彼女は1970年の大阪万博のためのプロジェクト以降世界中で霧彫刻を発生させ、そこにはなかったはずの霧の中に多くの人々を包み、異型の体験を生み出した。その日は雨で、沸き上がった霧は雨に叩き付けられて、地面を這い、淀むことなく広がって美術館を包み込んだ。

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さて、最後の作品に出会おう。

内藤礼の『母型』は心に響く。それは、大きな空間を満たす白い光と、繊細なビーズが吊るされている空間の隅、中央に横たわる人形と、ロウソクの火、それらが取り囲む場所に身をおくと、世界に存在することを人生の最初に遡って肯定された感じがするからだ。円形の小さな紙に書かれたメッセージ、「おいで」という声が、向こう側からやわらかく聴こえてくる。もう一体の人形が、上のほうから見守っており、その声は、生まれ直すことを許すのかもしれない。反重力の世界では、ひょっとして様々なものが逆さまになって、長い人生の折り重ねてきた時間を反対側に辿って、おいで、というその声を耳にする瞬間まで立ち戻ることを可能にするかもしれない。その声は温かく、私たちは幸せである。

02/7/14

存在へのアプローチ―暗闇、無限、日常―ポーランドの現代美術展 @KCUA /An Approach to Being, Polish Contemporary Art

存在へのアプローチ―暗闇、無限、日常―ポーランドの現代美術展 /京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA
2013年12月7日 – 12月23日

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京都に滞在した昨年末、加須屋明子さんがIn Situ現代美術財団とともに企画された『存在へのアプローチ―暗闇、無限、日常―ポーランドの現代美術展』(@KCUA)に訪れることができた。私の大事な友人にポーランド育ちやポーランド生まれがおり、兼ねてから訪れたいと思っていたこの国に昨年夏、国際美学会(ヤギェウォ大学、クラコウ)で赴ことができた。その後、アウシュヴィッツとワルシャワを経て、西欧に戻ったのだが、印象深い経験であった。(Salon de mimi Posts : Aushwitz report, Wawsow exhibition report) 本展覧会の見学を通じて、紹介された幾つかの重要な作品、作家について記録しておきたい。

ロマン•オウパカ(Roman Olpaka, 1931-2011)の46年間に及んだ「行為」をアートと呼ぶのはなぜだろう。オウパカはフランス北部の農村に生を受け、生涯をポーランドとフランスの間で生きた画家である。1965年、ワルシャワのアトリエで《1965 / 1 – ∞》と題された終わりなき作品を思いつき、79歳で亡くなるまで描き続けた。1から5607249まで可視化された数字は、始めは黒の、後には灰色の背景の上に現され、画家の死以来充溢した意味の集積として停止した。

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オウパカの数字が詰まったタブローは、彼の人生の時間そのものである。二百数十枚に及んだ絵画の一枚一枚は、彼にとって細部である。それは、存在し、増殖する全体の部分であり、全体の存在を確信させる部分である。タブローは彼の人生を象徴し、その時間の継続に意味を与える。オウパカは述べる。

「私たちは存在するように運命付けられています。(中略) 私たちは習慣から存在しているし、死を恐れるから生きている」

人間は、死を恐れながら存在するよう運命付けられた生き物である。いつか贈られる死のために、存在の意味を問いながらも自殺せず生きるには、命の最後の一欠片が煙になるまで数え続ける必要があった。アンジェイ•サビヤ*1のドキュメンタリー《一つの人生、一つの作品》(2010)は、オウパカの苦しみと道の模索、ついには強かな決断を私たちに伝える。

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展覧会『存在へのアプローチ』は、戦後ポーランドの芸術表現の特色と問題、そして、その魅力を明らかにする。大戦がもたらした悲劇の記憶、共産主義体制下の表現の抑圧、1989年の政変で失われたものや失われなかったものの存在は、表現しようとする者を駆り立ててきた。本展覧会を見るという経験は、ポーランドという一つの国の国境を越えて、人間が、迫害や差別などの不条理な状況に置かれ、絶望的と思われる大きな問題の前に立ちすくんでしまったとき、いかにして考え、表現し、伝えることができるかを私たちに教えるのである。

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1959年よりポーランドで学び、ワルシャワで作品を発表し続ける日本人美術家、鴨治晃次(1935−)の《空気》(1975)は、中心が切り抜かれた柔らかい質感の紙が等間隔で吊るされ、こちら側から向こう側を覗くことができる。穴の大きさは次第に小さく、あるいは次第に大きくなり、大きな窓から射し込む光は紙を微動だにせずすり抜けるが、我々がそこを通るとき、塊である我々は空気を邪魔して、その沈黙した等間隔を乱してしまう。

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ヤン•シフィジンスキ(Jan Świdziński)のパフォーマンス《空虚な身振り》*2がいつまでも瞼の奥に残っている。意思疎通のための日常的なジェスチャーや無意識的で意味を欠いた動きが、彼の厳密に制御された身体所作を通じて繰り返される。各々のジェスチャーは、確かにありふれていて、一度や二度見る限りでは、意味に冒されている。ところが、それが繰り返され、表情や文脈を欠いて続けられることによって、そこにあった臭いがすっかり失われて行く。個別の意味を充てがわれなくとも、自己の外に出るための、他者に何かを求める動きには、共通の訴えの形があるのだろうか。そこにあるのは、明瞭な声明であり、定まった意志であり、存在のための積極的な態度である。

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*1 Andrzej Sapija (1954-)はこれまで数々のドキュメンタリー映画を撮影し、国際的に高い評価を受けている。
*2 Jan Świdziński (1923-), « Empty Gesture », 2011

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02/7/14

創作の自由と暴力のこと, Free Expression or Violence

自由で暴力的な創作、あるいは創作の自由と暴力のこと

私は男尊女卑を支持しない。無論その逆も支持しない。
平等主義はシンプルで聞こえがいい。ただし、それは不可触な理想に似ている。
世界の人々が様々な理由から均質でないのと同じように、性差は、その他の個体差よりも遥かに大きな違いである。

『抑圧された人々ー男と女の役割が入れ代わる日』(Majorité opprimé : quand les rôles masculins et féminins sont inversés)という短編映画のリンクを数日前ソーシャルメディアでシェアした。10分ほどの短いストーリーで、そこに描かれるのはあからさまに不自然で、しかし有りそうもないかというと、かろうじて信じられる程度のリアリティが漂う日常世界だ。フランス語だが状況はヴィジュアルから十分に解釈することが可能なので、もし興味がある方はこちらのリンクをご覧になっていただいてもよいかもしれない。
http://www.lidd.fr/lidd/9252-majorite-opprimee-quand-roles-masculins-et-feminins-sont-inverses

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『男と女の役割が入れ代わる…』というタイトルを聞いて誰もがすぐに思い浮かべるのは、育児や家事をする男のことだが、この映画もその単純な想像力の例に漏れず、ベビーカーを押して細々した日常の所用を済ませる父親が主人公に設定されている。一歩外に出れば世界は陰鬱な嫌がらせで満ちている。偉そうな大家の年寄りの女が嫌みを言う、道を歩けばホームレスの女が口汚い言葉で軟弱な男を罵倒する。「笑顔見せてみろよ!」というのは現在もなおリアリティのある女への捨て台詞であり、「〈女なんだから〉しかめっ面してないで、愛想振りまいて、にっこりしてみろよ」という常套文句をこの映画の制作者が男女をひっくり返したのである。また、最終的に彼は細い路地で柄の悪い女のグループに出会い、勇気を振り絞って、女達の嘲笑に、一言二言、言い返すことに成功する。その態度にキレた若い女達のグループは、男を細い道に連れ込んで、脅し、ついには暴力を振るう。それは、「尊厳」という言葉を使うならば、その人の「尊厳」を踏みにじるような行為であり、性的な暴力であり、精神的な暴力であり、理解の余地のない暴力である。そもそも、暴力には理解の余地がもともとないのだが。警察での事情聴取、上司の女は若い男の部下にコーヒーを頼む。今日もなお、多くの「上司」が女性社員にお茶やコーヒーを入れさせるように。放心状態の旦那を迎えにきた妻は、たいそう可哀想に、と酷い目に遭った旦那を抱きしめる。だがその次の瞬間、この男がその妻のいたわりにも関わらずいつまでもぐずぐずとやり切れなさを口にしていると、妻は急に、「疲れてるんだからいい加減にしてよ!」というのである。私は外で働いて疲れてるんだから、家事してるあんたがこれ以上グダグダいうんじゃねえよ、というわけである。さて、重要なのはここからだ。

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しょうもない旦那を見放したキャリアウーマンの妻は、真っすぐ続く大きな道を闊歩する。足取りは次第に軽く楽しくなり、今にも飛び立ってしまうことができそうだ。でもどこに? だらしのない、身のこなしもぱっとしない、女々しい男を突き放して、ぐんぐん歩いて行く。彼女の開放感はクライマックスを迎え、私たちはそれが彼女の夢であったことを知る。夢、あるいは、妄想、彼女がもっとも望む世界。彼女の楽しさは増して行くが、私たちはそれが悲しいかな夢であることをはっきり知っている。彼女がどれほどそこから醒めて、戻ってきたくないとしても。

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表現の自由の前に、束の間の幸せを求めて暴力的な作品を作ることもまた、自由と呼ばれるのかもしれない。
ただし、この作品は、鑑賞者の中の何人かがあるいは潜在的にたくさんの人が、「いい気味!」「すっきりした!」「その通り!よくあるこういうこと!」「一度なってみたらいいのよ、逆に!」と、ひと時の勝利を手にする喜びに酔いしれるだけであって、その先に道はなく、どこにも行くことができない。このビデオを創ることも、それを目撃して十分間満足することも、つまりは、ビデオの中のあの女、本当は「抑圧」され、その苦しみのあまり男女の役割が入れ代わって男が女に暴力を振るわれる、という妄想を作り上げてしまった女の行き場のない夢を共有することに過ぎないのである。

仕返し、で世界が変わらないことは、あまりに明らかなことであり、仕返し、がなくならないこともまた事実だ。

少なくとも意識的でなければならない。違う者は平等ではない。役割を入れ替える発想そのものが妄想である。
創ることは自由であり、言葉を発することや同意を求めること、結びつこうとすることや、想像することは自由である。
ただし、私たちは、戻ってこなければならない。
たとえ遠くに飛んで行っても、まわりに何も見えないくらい離れて行っても、とても楽しくて何がなんだかよくわからなくなっても、私たちは、戻ってこなければならない。
生き続けるために、夢から醒めなければならない。

夢はなるほど、殺伐とした現実よりもまろやかな方が良い。
しかし、醒めてしまったことを、醒めている間じゅうずっと後悔する夢でないほうが、はるかに見たいと思えるのだ。

自由で暴力的な想像力は、目の前の壁を越えることができず、表現する意味を感じさせてくれる創作は、別のところにあると信じる。

01/2/14

みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術@栃木美/ Expo : Touch is Love @Tochigi

企画展 [みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]
栃木県立美術館 Web

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栃木県に行ったことが無かった。東京からは鈍行でも二時間ほどで栃木県立美術館まで行けそうだということが分かると、どうしても、栃木県立美術館で開催中であった[みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]展を訪れたくてたまらなくなった。きっかけは、写真家の糸井潤さんからいただいたアナウンスメールであった。糸井さんは写真家で、2012年に小山私立車屋美術館で開催された個展『Cantos Familia』や昨年1月に国立新美術館にて開催された『第15回 Domani•明日展 』において、フィンランドの森で撮影された写真作品を発表している。私はフィンランドの森を見たことがない。その空気の冷たさも、木々の硬さや枝の細さも、雲がどのように流れ、雪の粒はどれほどに細かいのかを知らない。展覧会は12月23日までで、数日関東に滞在していた私は、その日の朝、宇都宮行きの鈍行に乗った。

企画展 [みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]というテーマには惹かれる。美術展が、あるいは美術そのものが、近くからも遠くからもとにかく「凝視するもの」になって久しい。触れてよいものは、デザインや素材の展示には登場しても、美術には滅多に現れない。あるいは、ゲームや一部のメディアアートのように、鑑賞者に決められた操作を要求する作品があり、規定されたオペレーションを遂行する場合はある。だが、時々はそんなつまらないものでない、ワクワクするような展示に出会うことがあり、そういったものを体験したかったのだ。

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栃木県立美術館は、JR宇都宮駅よりバスで15分ほどまっすぐ行ったところにある。企画展側の入り口は正面より左側、コレクション展の入り口が右側にある。入り口をすり抜けると、フクロウの群れが迎えてくれる。全力で石に触れている少年が見えて楽しくなる。手塚登久夫の黒御影石彫刻は、壁側に配置されたフクロウの群れと同じ、石材を切り出した後はほぼノミとハンマーだけで少しずつつくられた二羽のフクロウに触れることができる。御影石はご存知のように、花崗岩の一種で古くから石材として用いられてきた非常に緻密で固い素材の一つである。しばしば墓石などにも利用され、研磨されて光沢を帯びている黒御影石は、ここでは冷たく削り口を露にし、丸いヴォリュームのぎゅっと詰まった感触が手のひらから伝わってくる。

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また、栃木美保のインスタレーションでは、楠、檜、月桂樹の三種類の木々の香りを吸い込んで体験するものである。タイトル『結葉(むすびは)』は、インスタレーションに見られる布で作られた葉が重なり合って光を透過するように、若葉がひしめく様子を表している。

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松島さくら子は、漆工を学び、世界各国で創作を披露している。本展覧会では、undercurrentシリーズが展示され、あまり見たことの無い形をもった漆工作品の、その表面がどのように艶やかであるかということを目撃することができた。

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丸山浩二のフロッタージュ作品は、フロッタージュという技法そのものが体現する三次元的な奥行きが、完成した二次元の作品にも滲み出ている。簡単なフロッタージュが体験でき、近隣の小学生や中学生の作品が合わせて展示されているのも楽しい。

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糸井潤のCantos Familiaからの6枚の森の写真と、ビデオ作品 »Solitude'(5min)を目の当たりに、森の中を歩く。視覚情報から出発したはずの、ずっと北の、遠い森のイメージは、知っていることや知らないけれども思い描く風景と重なり合って、揺れ動き、そこにはやがて音があり、風の動きがあり、光と熱があり、森の感触がある。ビデオでは森の様々なシーンが、その森に混入し、ついには溶けようとする人間の鼓動とともに映し出される。

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丑久保健一の木のボールや、彫刻には触れたほうが良い。そこには触れることによる驚きと気づきがあるからである。

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岩本拓郎の水彩•油彩画には、光に関するタイトルがつけられている。たとえば写真は『生成—生まれる光/2012-W1』(部分)である。そこで画家は、ピグメントが化学反応を起こし、たとえば点滅したり、見る角度によって色が全く変わるような事態を引き起こそうとする。滲んで予想外の動きが時の中にそのまま固まった様子は、琥珀の中に閉じ込められた年老いた虫の羽に少し似ている。

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藤原彩人は、施釉陶の彫刻をつくる。写真は『揺れる男』(2013)のインスタレーションの様子である。誰にも似ていない、白くて光沢の在る頭部、それは風鈴のように揺らめく他の身体の部分を伴って、世界を漂っている。しかし彼らはその重くて硬い頭部のお陰で、結びつけられているのであり、自由ではない。また、『立像―雪は溶け、地に固まる』の三体の彫刻もよい。我々は雪よりも少しは長く生きるが、所詮、少しだけ沸き上がってきてぺたぺたと地を歩き、遠くに行ける気もするが、やはりいつかは死に絶えて、溶ける雪が地に戻るように、形を失うのだ。

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展覧会[みる、ふれる、きくアート─感覚で楽しむ美術]は、そのわかりやすいキャプションや体験のための丁寧な説明から、おとなしく見るだけでなく、触り、嗅ぎ、聴きたい人々がたくさん訪れ、鑑賞を楽しんでいた。美術は触れえぬものであるという前提は、効力を失った呪文なのである。

01/2/14

唐仁原希「キミを知らない」/ Nozomi TOJINBARA Expo « Personne te connait » @Voice Gallery

唐仁原希 個展「キミを知らない」
2013年12月11日(水)~28日(土)
2014 年1月7日(火)~11日(土)
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『有毒女子通信』でもおなじみ、松尾恵さんがディレクターをされている、MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/w で開催中の唐仁原さんの展覧会「キミを知らない」を訪れた。

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唐仁原希は、1984年生れ、京都市立芸術大学において油画を学び、今日、京都、東京のみならず、パリなどヨーロッパでも注目を集めるアーティストである。私も自分の授業で唐仁原さんの作品を紹介させて頂いたことがある。彼女が描く少女や少年たちは、しばしば、痛そうなほど目を大きく見開き、見る者に、瞼は裂け目であることを思い出させる。ケンタウロスや子鹿の半獣人のイメージ、運命を彷徨い続けるなめらかな人魚の少女たち、長く伸びた髪の毛が時を越えて延長し、反復され、増殖するような、強烈な印象。唐仁原希の描く「存在」たちは、弱そうに見えながら、彼らは彼ら自身が傷ついていることについて、世界に何の期待もしていないように見える。たとえばそれを優しくいたわってもらうことや、傷を癒してもらうこと、傷ついた心を慰めてもらうようなことを、世界に期待してはいない。彼ら/彼女らの大きな目は、艶やかな空洞で、それを見つめるあなたを見返してはいない。

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個展「キミを知らない」に一歩足を踏み入れると、画家のきめ細かく整い過ぎほどに洗練された色彩の表面と、圧倒されるまでの大きな画面を前に、かつて地図を片手に迷い込んだルーブル美術館の、見上げても捉えきれない巨大な部屋に所狭しと並べられた、素晴らしい額縁を伴った影の強い油画の群像を思い出す。

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ナポレオンの有名な肖像を思わせる『A Portrait of a Boy』(2013)には真っ白な肌にやはり真っ白なタイツを履いて、バネでビョンビョンゆれる玩具の白馬に股がる小さな王子が描かれている。白馬は元気に揺れ動き、金糸刺繍の豪奢な王子服を身につけた少年は、黒猫やマンガが床に在る赤絨毯の部屋で1804年に国民投票で皇帝に即位したナポレオンがヨーロッパの、いや、ユーラシアの明日を指し示めすあの絵のように、皮膚の薄い人差し指で向こう側を指している。少年は、ナポレオンより世界について多くを知っており、ナポレオンより少ないことを信じている。

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『秘密は話さないほうがいい』(2013)は、194.0cm×324.0cmの大画面に七人の少女と、子やぎを伴った少年、王子の肖像に登場した二匹の黒猫、そして、玩具の白馬と狼の黒い影がひしめく物語のような絵である。ベッドの上に立っている四人の少女はそれぞれおとぎ話のお姫様のようなドレスを纏い、かみあわない視線を投げ掛けており、隠れるようにベッドに腰掛ける少女は少年のほうを見つめている。真っ白な肌に充血した頬を持つ少年は警戒した様子で画面の右側の、我々に見えない部分を見つめており、マーメイドの少女はその透明な尾の中にわけられた足を持っている。そのベッドは本当は一人の少女が長い間横たわっており、その子は動くこともできず夢を見ることも無いのだが、もう何も見えなくなって真っ黒になった少女の思い出の中に、引き寄せられてやってきた子どもたちが次々と部屋を満たしているのではないか。その少女は最小限の動作で身を少し起こし、変化した空気の流れを静かに感じているのではないか。見る者は、この夢が覚める瞬間が、可能な限り遅くやってくることを、無力にも祈るだけなのである。

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唐仁原希の世界には、少女や少年が遊び、兎や黒猫、我々をおそらく傷つけない動物たちが歩き回る。そこには物語や神話があり、決して口にすべきでない秘密と、それを全ての後ろ側から影絵のように映し出さんとする鋭い力に支配されている。対照化された意味深なエンブレムや、真っ先に釘付けになる色彩と形状のメッセージを通り抜けて、全能でありながら形を持たない存在を感ずる。

それはつまり、あるべき影の不在とか、反射すべき光の乱れによって、世界の中に時々現れる何かに似ているのである。

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現在開催中の展覧会は、年始1月7日より再開、11日まで、於MATSUO MEGUMI +VOICE GALLERY pfs/wです。

唐仁原希 HP http://nozomitoujinbara.bambina.jp/f_page1.html
VOICE GALLERY http://www.voicegallery.org/exhibition_event.php

01/2/14

有毒女子通信 Vol.12 特集「食べないこと、とか」 Now On Sale / Toxic Girls Review vo.12

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有毒女子通信第12号が昨年12月20日に発行された。12号の特集は、「食べないこと、とか」である。

有毒女子通信とは、編集長の吉岡洋さんとMATSUO MEGUMI+VOICE GALLERYの松尾恵さんが作っておられる、そのタイトルの通りキュートで高貴な批評誌で、初刊の2010年8月より、「体毛•陰毛」「体液と人生」「ところで、愛はあるのか?」他、これまで読んだことも聞いたこともないスゴい特集を毎回を社会に送り出し続けている。

私自身も「<小さな幸福>をめぐる物語」というタイトルで、第10号より毎回特集に関連するエッセイを連載させていただいている。例えば、特集「少女たちの行方」の第11号では、グラビア付き(?)エッセイ「ぱんつを売る少女」を、第10号「ところで、愛はあるのか?」では、「愛と施錠の物語」を掲載して頂いた。

さて、第12号のテーマは「食べないこと、とか」。似非不景気ムードを吹き飛ばす、クリスマス、年末年始、お正月の色鮮やかな大饗宴のなかで、「食べないこと、とか」と聞くと、「そうよね、そろそろダイエットよね」あるいは「ビオよね、菜食よね」などのパブリシティ的フレーズが脳裏を駆け抜けてゆきそうだが、『有毒女子通信』は、国の歴史も小さな社会の枠組みもぶち抜いて、生き物にとっての食に焦点を当て、そもそも人間の欲望に関して、それを望むことと満たすことの意味を議論する。私たちの生きる今日の社会が、どんなマジックで日々我々を目眩しさせているのか、これを読むと、考える。

第12号
巻頭文
特集「食べないこと、とか」 吉岡洋
鼎談「食べないこと、とか?」吉岡洋×松尾恵
批評「『ありあまるごちそう』あるいは »Le Marché de la Faim »」大久保美紀
エッセイ「〈食べない女〉の物語」大久保美紀
エッセイ「食べられないこと、とか」松尾恵
他

定価250円で好評販売中です。ヴォイス•ギャラリーあるいは吉岡洋さん、または、こちらのブログを通じてご連絡いただいても転送いたします。第10号より装丁も一新し、触れにくいほどに洗練されております。ぜひお手に取ってください。

有毒女子通信
MEGUMI+VOICE GALLERY (click!)
TOXIC GIRLS REVIEW on Twitter (click!)
Media Shop (click!)(予定)

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12/30/13

映画『アイ•ウェイウェイは謝らない』/ Film « Ai Weiwei Never Sorry »

Salon de mimi
Ai Weiwei Never Sorry
アイ•ウェイウェイは謝らない
web site : http://www.aww-ayamaranai.com/index.html

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アイ•ウェイウェイというアーティストのことを知らなかったら、人間の多様に思われる活動における「創造的表現行為」というものについて、それが生き続けることに匹敵し、むしろ、生き続けることと同義であるとすら言いうるまでにパワーを持ちうることなどを、未だに信じるに至らなかったかもしれない。アイ•ウェイウェイは、ディメンションが完全にズレている。それでも、あるいはそれ故に、彼の積み重ねてきた出来事をスクリーンを通じて通り抜けた後では、世界の中で生き延びることに関する考えを、もとの軌道に戻すことは叶わない。

2013年11月末より上映が始まった『アイ•ウェイウェイは謝らない』を東京都渋谷のイメージフォーラムで見た。アーティストとしてのアイ•ウェイウェイの活動はおそらくよく知られているので、ここで改めて紹介するまでもないと思う。このSalon de mimiでは、今年、ヴェネツィア•ビエンナーレで発表された3つの作品について論じた記事が以下のリンクに掲載されているのでご覧頂ければと思う。

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise
http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2148

「アイ•ウェイウェイのことを書くのは緊張感がある。」上の記事の冒頭に吐露した私の本心は今も一向に変わらない。アイ•ウェイウェイは本気でシビアに見えて、楽しそうでもあり、警察に頭を殴打されて手術を受け、81日間も拘束されて身の自由を奪われ、普通に心配する母親を普通に慰め、作品制作には手を触れない、作品制作の作業者たちとホカホカの中華料理を食べまくり、強い口調で口論している際もちっとも怒り狂ってはいない。アイ•ウェイウェイは、体制や社会と戦いまくる一人のエネルギッシュなアクティヴィスト以上の存在である。メディアを介したパフォーマティブな振る舞いと扇動的態度も、あたかもそれが彼の特殊性であるかのようにまばゆく語られたりもするが、本質的にはさほど重要ではないのである。アイ•ウェイウェイは、発言する。アイ•ウェイウェイは、行動する。

自分が怖がりだから、行動すると言う。行動しないことが、行動することよりも恐ろしいので、行動するのだと言う。

我々は、色々なことを色々な方法で発言する。「言うは易し行うは難し」という言葉があるので、一般的にこの世界では、口先から言葉を唱えることは誰にでもできて、行動する者こそ偉いと刷り込まれている。だが実は、言うことも行うこともさほど偉くも凄くもなく、卑怯でも汚くもなく、全く変わりのないこということなのである。アイ•ウェイウェイは、四川大地震の犠牲となった子どもたちを忘れないために個人情報を集め、名簿を作成し、ブログに掲載し、小学校の手抜き工事でぐにゃぐにゃに折れ曲がった鉄鋼を集めて、それを大きな限りない地面のように丁寧に積み重ねてインスタレーション作品を創った。警察に殴打されて負傷した現場を撮影し、ツイッターで報告、3ヶ月に渡る拘束中の生活を忠実に模型によって再現し、それを世界の人々の目の下にさらけ出した。

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私たちは、言うことも行うことも恐れる。批難され、嫌われ、疲労し、空っぽになるのが面倒だから。だからこそ、ネット上で過激な発言をし、リアル世界で奇抜なパフォーマンスをし、意を決してデモをし、そこでおこる非日常的な出来事と程よい疲労感に陶酔し、恐るべきことに、「満足」してしまう。愚かなことである。感情的なエネルギーは一時的に民衆を駆り立て、叫ばせ、暴力的にし、重い扉をこじ開けることを可能にするかもしれない。しかし、表現者たる者はその出来事の起こりうる全ての世界をあらかじめ受け入れているべきなのである。

その方法が輝かしいからでも、それぞれの出来事がドラマチックだからでも、この世界のなかで彼が特別エネルギッシュだと思うからでもなく、『アイ•ウェイウェイは謝らない』の映画を見て、作品を知ることは良い。それは、生きることがよく思えるからである。

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12/29/13

Architectural Images / 建造物の景色

Salon de mimiにも2回ほど登場して頂いた、写真家の松田有加里さんにお会いし、松田さんのお仕事をお供させて頂きました。松田さんの過去の作品や展覧会については、こちらの記事(Salon de mimi)をご覧ください。

•松田有加里/Yukari Matsuda, 奏でられるイメージ(http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=397)
•松田有加里 / Matsuda Yukari, FANTASIA In Gallery サラ(http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=1302)

建造物の景色を撮影させていただく機会を頂きました。オーラのある場所です。

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11/17/13

Christian Lacroix « Mon île de Montmajour » @Abbaye de Montmajour/ クリスチャン•ラクロワ

Mon Île de Montmajour
Par Christian Lacroix, avec le Cirva
du 5 mai au 3 novembre 2013
web site : here
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クリスチャン•ラクロワがマルセイユのガラス美術館CIRVAとの協力により実現した、『私のリル•ド•モンマジュール(Mon Mon Île de Montmajour )』展に際し、Lacroixは次のような言葉を寄せている。

『私のリル•ド•モンマジュール(Mon Mon Île de Montmajour )』
モンマジュールはその名前(最も高い丘)が示すように、10世紀よりアルルとその周辺の地域を収めた要地であった。修道院のまわりには魚がたくさんいるような沼地と草原が広がっており、モンマジュールの島と呼ばれ、15世紀にプロヴァンスを治めたあの善良王のルネ王(Roi René)が秋に果物を食するため足を運んだという。(中略)ガラス美術館CIRVAの協力、ムーランと南仏の聖母訪問修道女会の18世紀から現代までのコレクション、そしてFérard Traquandiによる教会のインスタレーション、そして私(ラクロワ)のケルンでの『アイーダ』のコスチュームの数々の展示で展覧会は構成されている。(略)
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巨大な修道院はアルルの北方に位置し、フランスでも最も美しい町のひとつに数えられるBaux-de-Provenceに隣接している。修道院の建設が始められたのは948年のことであり、11世紀から13世紀、宗教的•軍事的要地として機能した。なかでも12世紀に建設された教会部分は最も重要な空間として保存され、9つの独立した部分からなる丸天井は16メートルの高さをもち、張り間は未完のままである。3つある窓は南に開いている。この展覧会では、修道院の礼拝堂から宝物室、塔までを利用したセノグラフィとなっている。道筋はまず、鑑賞者を礼拝堂へと案内する。
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CRYPTE
Pascal BroccolichiによるEspace résonné(2013)は、CIRVAとアーティストが2年間をかけて取り組んできたプロジェクトであり、『終わらないハーモニー』をガラスの中に響く共鳴現象を利用して実現したものである。一度発生した音はガラスの空間の中で共鳴を続け、その響きは更なるハーモニーを作り出し、それは果てしないループとなって止むことがない。
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Christian LacroixのCostumes pour le choeur femme « Aïda »(2010)は、 ラクロワがケルンでオペラ『アイーダ』のために制作したコスチューム(女性)のインスタレーションである。ラクロワは1951年にアルルに生れ、モンペリエで美術史を専攻している。クチュリエとしてのラクロワの表現には、今日ではますます貴重になっている西欧の伝統的な服飾技術、刺繍やレースの装飾の極めて質の高いものを追求しており、それらのアートへの彼の関心を明らかにしている。
オペラの中で身体に纏われる場合と異なり、肉体から自由になって宙を舞うドレスの群れは、差し込んでくる光の隙間を縫うように漂い、軽やかである。
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(Robert Wilson, Concept 1.2.3.5.6(1994-2003))

ÉGLISE
礼拝堂から教会へと足を進める。細い通路をくぐり抜けて辿り着くと、真っ白な光に満ちた世界が広がって、16メートルあるという丸天井のもとには赤いガラスで構成されたJames Lee Byarsの天使のインスタレーションと、そこから丸天井の上まで昇ることを許されたもののための、真っ白の階段がぐるりとぶら下がっている。 (Lang / Baumann, beautiful Steps #4(2009))
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Christian Lacroix
Robe de mariée créée pour Philoména de Tornos(2009)
さらには天に続く真っ白な階段の右手の部屋には、ラクロワのウェディングドレスが、やや空気の中で緊張した様子で佇んでいる。
Jean-Luc Moulène の鳥かご(For Birds(2012))が窓のすぐ前におかれており、空っぽのガラスの鳥かごは、外から入ってくる眩しい光をさらに集めて青白くしながら、花嫁のウェディングドレスに対峙している。ガラスの鳥かごに住む小鳥は、どんな鳥だろう。ガラスの鳥かごは溢れんばかりの光を通し、窓を持たない。明るすぎる教会の中に独りで立ち続けるラクロワの花嫁もその階段を上ってそこから逃げ出すことはできない。
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SACRISTE
15世紀に建設された聖具納室。聖職者たちのコスチュームやアクセサリーが保存され、 « Vraie Croix »のレプリカがおかれている。聖職者のコスチュームはゴージャスである。金糸の刺繍(キャネティール)、宝石、銀のラメ、上質の絹地、レース、金メッキの金具、輝くサテン地。人間は金や宝石のような輝く物を身にまとうことによって「聖なる」存在に近づくことが出来るのだろうか。
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CLOÎ TRE
12世紀に修道院が拡大する途中で建設されたときからある修道院の回廊である。4つの部屋の入り口に面し、その中心には中庭を持つ。ここではまたラクロワの『アイーダ』より男性コーラスの衣装である。先ほどの明るく空を舞う女性の衣装とは異なり、黒や紫を基調としたおどろおどろしい色彩に、衣装を纏うマネキン人形もファントムのような人形を使用している。この展示では『アイーダの悪夢』と題されている。 (Christian Lacroix, Costime pour le choeur homme, Cauchemar de « Aïda »(2010))
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RÉFECTOIRE
食堂には数多くのガラス作品の展示と共に、Thorsten Brinkmannのポートレートシリーズ、 Série « Portraits of a Serialsammler »(2006-2008)が展示された。奇妙なポートレートは全て、アーティストが収拾した日用品や廃棄物、不要となったオブジェをマスクとしてすっぽりと頭部を覆っている。頭部が与える印象は大きいのは言うまでもないが、彼のコスチュームや画面の構成によって、頭部が変容した肉体は残された部分すら、その向きや性別、特徴などそれまで当たり前に見ていたはずのルールが抜け落ちて、バラバラに解体されるような印象を与えるのは驚きである。
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TOUR
『私のリル•ド•モンマジュール(Mon Mon Île de Montmajour )』の終盤は、いつかまた明るい部屋に至れることを無根拠に信じて、塔を登って行く。そこに吹き荒れる風の強さ、そこに10世紀に渡って存在してきた巨大な石の塊の頑固さ、広がる畑や人々の生活に無関係の山肌と森、雲がすごい早さで動いて行くのと独立してある青い空。
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Jana Sterbakが構成するのは、石の壁によって覆われる静かな部屋で再現されるプラネタリウム (Planétarium(2002-2003))である。惑星のことを思うのが突飛ではないと感じられるような時間が、そこには流れている。
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