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有毒女子通信 Vol.12 特集「食べないこと、とか」 Now On Sale / Toxic Girls Review vo.12

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有毒女子通信第12号が昨年12月20日に発行された。12号の特集は、「食べないこと、とか」である。

有毒女子通信とは、編集長の吉岡洋さんとMATSUO MEGUMI+VOICE GALLERYの松尾恵さんが作っておられる、そのタイトルの通りキュートで高貴な批評誌で、初刊の2010年8月より、「体毛•陰毛」「体液と人生」「ところで、愛はあるのか?」他、これまで読んだことも聞いたこともないスゴい特集を毎回を社会に送り出し続けている。

私自身も「<小さな幸福>をめぐる物語」というタイトルで、第10号より毎回特集に関連するエッセイを連載させていただいている。例えば、特集「少女たちの行方」の第11号では、グラビア付き(?)エッセイ「ぱんつを売る少女」を、第10号「ところで、愛はあるのか?」では、「愛と施錠の物語」を掲載して頂いた。

さて、第12号のテーマは「食べないこと、とか」。似非不景気ムードを吹き飛ばす、クリスマス、年末年始、お正月の色鮮やかな大饗宴のなかで、「食べないこと、とか」と聞くと、「そうよね、そろそろダイエットよね」あるいは「ビオよね、菜食よね」などのパブリシティ的フレーズが脳裏を駆け抜けてゆきそうだが、『有毒女子通信』は、国の歴史も小さな社会の枠組みもぶち抜いて、生き物にとっての食に焦点を当て、そもそも人間の欲望に関して、それを望むことと満たすことの意味を議論する。私たちの生きる今日の社会が、どんなマジックで日々我々を目眩しさせているのか、これを読むと、考える。

第12号
巻頭文
特集「食べないこと、とか」 吉岡洋
鼎談「食べないこと、とか?」吉岡洋×松尾恵
批評「『ありあまるごちそう』あるいは »Le Marché de la Faim »」大久保美紀
エッセイ「〈食べない女〉の物語」大久保美紀
エッセイ「食べられないこと、とか」松尾恵

定価250円で好評販売中です。ヴォイス•ギャラリーあるいは吉岡洋さん、または、こちらのブログを通じてご連絡いただいても転送いたします。第10号より装丁も一新し、触れにくいほどに洗練されております。ぜひお手に取ってください。

有毒女子通信
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TOXIC GIRLS REVIEW on Twitter (click!)
Media Shop (click!)(予定)

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12/30/13

映画『アイ•ウェイウェイは謝らない』/ Film « Ai Weiwei Never Sorry »

Salon de mimi
Ai Weiwei Never Sorry
アイ•ウェイウェイは謝らない
web site : http://www.aww-ayamaranai.com/index.html

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アイ•ウェイウェイというアーティストのことを知らなかったら、人間の多様に思われる活動における「創造的表現行為」というものについて、それが生き続けることに匹敵し、むしろ、生き続けることと同義であるとすら言いうるまでにパワーを持ちうることなどを、未だに信じるに至らなかったかもしれない。アイ•ウェイウェイは、ディメンションが完全にズレている。それでも、あるいはそれ故に、彼の積み重ねてきた出来事をスクリーンを通じて通り抜けた後では、世界の中で生き延びることに関する考えを、もとの軌道に戻すことは叶わない。

2013年11月末より上映が始まった『アイ•ウェイウェイは謝らない』を東京都渋谷のイメージフォーラムで見た。アーティストとしてのアイ•ウェイウェイの活動はおそらくよく知られているので、ここで改めて紹介するまでもないと思う。このSalon de mimiでは、今年、ヴェネツィア•ビエンナーレで発表された3つの作品について論じた記事が以下のリンクに掲載されているのでご覧頂ければと思う。

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise
http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2148

「アイ•ウェイウェイのことを書くのは緊張感がある。」上の記事の冒頭に吐露した私の本心は今も一向に変わらない。アイ•ウェイウェイは本気でシビアに見えて、楽しそうでもあり、警察に頭を殴打されて手術を受け、81日間も拘束されて身の自由を奪われ、普通に心配する母親を普通に慰め、作品制作には手を触れない、作品制作の作業者たちとホカホカの中華料理を食べまくり、強い口調で口論している際もちっとも怒り狂ってはいない。アイ•ウェイウェイは、体制や社会と戦いまくる一人のエネルギッシュなアクティヴィスト以上の存在である。メディアを介したパフォーマティブな振る舞いと扇動的態度も、あたかもそれが彼の特殊性であるかのようにまばゆく語られたりもするが、本質的にはさほど重要ではないのである。アイ•ウェイウェイは、発言する。アイ•ウェイウェイは、行動する。

自分が怖がりだから、行動すると言う。行動しないことが、行動することよりも恐ろしいので、行動するのだと言う。

我々は、色々なことを色々な方法で発言する。「言うは易し行うは難し」という言葉があるので、一般的にこの世界では、口先から言葉を唱えることは誰にでもできて、行動する者こそ偉いと刷り込まれている。だが実は、言うことも行うこともさほど偉くも凄くもなく、卑怯でも汚くもなく、全く変わりのないこということなのである。アイ•ウェイウェイは、四川大地震の犠牲となった子どもたちを忘れないために個人情報を集め、名簿を作成し、ブログに掲載し、小学校の手抜き工事でぐにゃぐにゃに折れ曲がった鉄鋼を集めて、それを大きな限りない地面のように丁寧に積み重ねてインスタレーション作品を創った。警察に殴打されて負傷した現場を撮影し、ツイッターで報告、3ヶ月に渡る拘束中の生活を忠実に模型によって再現し、それを世界の人々の目の下にさらけ出した。

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私たちは、言うことも行うことも恐れる。批難され、嫌われ、疲労し、空っぽになるのが面倒だから。だからこそ、ネット上で過激な発言をし、リアル世界で奇抜なパフォーマンスをし、意を決してデモをし、そこでおこる非日常的な出来事と程よい疲労感に陶酔し、恐るべきことに、「満足」してしまう。愚かなことである。感情的なエネルギーは一時的に民衆を駆り立て、叫ばせ、暴力的にし、重い扉をこじ開けることを可能にするかもしれない。しかし、表現者たる者はその出来事の起こりうる全ての世界をあらかじめ受け入れているべきなのである。

その方法が輝かしいからでも、それぞれの出来事がドラマチックだからでも、この世界のなかで彼が特別エネルギッシュだと思うからでもなく、『アイ•ウェイウェイは謝らない』の映画を見て、作品を知ることは良い。それは、生きることがよく思えるからである。

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09/24/13

奇形魚のクッキーを食べて、食べ物のことなどを思う。/Deformed fish cookies @Société de Curiosité

奇形魚のクッキーを食べて、食べ物のことなどを思う。

audio « fish cookies short version »


fish cookies short version

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今週末、9月28日土曜日、夜、パリの北のほうでパフォーマンスをする。
パフォーマンスといっても私はバターを泡立て小麦粉を混ぜて、大きくのばした生地にこまった魚の型をとり、それらをオーブンに入れて魚のクッキーを焼いて、イベントを訪れる人々にクッキーはいかがですかと、たずね回るかあるいは、デフォルメされたお魚の下手くそな絵をクロッキー帳に描いてみるのみである。おどったり歌ったりすることもなければ、素敵な詩をフランス語や日本語で吟じたり、オカリナを吹いたりもしない。そこでおこるのは、ココアやお茶の香りのする、何よりもまずフランスの恵まれた大地でのっしりと育った牛の巨大な乳によるバターの臭いのする、焼き菓子がふるまわれ、それを手にした人々が食べるという、それだけのことである。

それだけのことであるゆえに、ぜひ来てほしいと思う。

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人生には、忘れたくても忘れられないことが時々起こる。たいていのことは、年齢を重ねるに連れてどうでもよくなって、完全に忘れてしまうか、無関心になる。その瞬間には非常に悲しかったことも、非常に大切だったことも、時が流れるというサラサラとしたその働きによって、悉くどうでもよくなる。それでも時には、時に流されない強烈な感情に出会う。矛盾したことのように思えるが、じつは、強い印象というのは、たったひとつの感情によっては決して引き起こされない。そういったものは、それが怒りであれ、悲しみであれ、実はだんだん遠のいて行ってくれる。消えないのはそれがなんであるか、いつまでもはっきりと分からないような感情なのだ。

2年前の3月に東北の震災があったとき私は既に外国で暮らして一年半くらいが経過していて、それはとても中途半端な時期であった。新しい生活の場で人間関係を築きつつもそれは依然としてしっかりとしたものではなく、フランスという国の生活をすこし理解したような気もするが一方で日本にいつでも帰りたいと思えるような、そんな引き裂かれた気分で鬱々と朝から夜、夜から朝を迎えていた。ある日震災がおこり、その後はどこに行っても誰に会っても、日本の被害の現状と放射能問題について情報と意見を求められた。来る日も来る日も異なる人から同じ質問を受け、ときには私が将来日本に戻る気があるのかどうかといった質問を真剣に投げかけてくる人も会った。私は疲弊して、外に出るのも人に会うのも嫌になった。そんな中、たくさんの人と協力して一回目のチャリティーコンサートをムードンの教会で実現した。司祭さんも承諾してくれ、日本人の多くの音楽家が一生懸命練習した。地元の方にも来てもらうことや一緒にコンサートを行おうと言う主旨で、地元合唱団が協力•参加してくれることになった。私はこの日、抹茶のクッキーを差し入れに焼いて持って行った。彼らは喜んでくれた。一人の年配の女性合唱団員が、クッキーを配る私のトレーが目の前にまわってきたとき、「このクッキーは、放射能汚染されてないの?」とたずねた。私はどのくらいのあいだ、言葉を失っていたか思い出せないが、おそらく数秒の思索ののち、その女性の質問にはウイ、ノンで答えなかったのではないかと思う。私は演奏会開始前にものすごい泣いた。演奏会は、弦楽器、管楽器の演奏者、ホルンアンサンブルのグループ演奏、どの演奏者もすばらしかった。合唱団の連れてきたオルガン伴奏と共演のトランペット奏者の演奏が誰の耳にも分かるほど際立ってめちゃくちゃで、演奏途中に止めようとしたくらいであり、私は演奏会終了後も疲れるまで泣いた。

この年配女性の放射能汚染クッキー疑惑は、耳を疑いたくなるのは私たちが感じやすい日本人であるからで、ちっとも珍しいことではない。(誤解しないでほしいのだが勿論、この女性の無神経さを批判するフランス人もたくさんいる。)先ほど、あまりに日本の状況を尋ねられるので疲弊したと言ったが、それには時々まともに受け止めきれないヘイトスピーチの類いも含まれていた。日本は綺麗な国だったけど、もう汚染されているので旅行できない、日本の製品は買わない、レストランのしょうゆは汚いのではないか、できるならせっかく外国にいるあなたたちは帰らないほうがいいのではないか。

奇形魚のクッキーは、美味しい。これらのクッキーは、フランスのバターと小麦、そして卵、および、フェアトレード製品のみで作られている。基本的にビオの品物からなり、一般的に身体にいいと信用されているものから作られている。食物の安全性と衛生、生産地がどこであるか賞味期限はいつまでか、どのようにどこでだれに加工され、どのようなルートで誰の手を伝わって、どんな風に保存され、洗われ、何と共に調理されて我々の体内に忍び込もうとしているのか。国産の商品は国によってそれを買うように奨励されており、フェアトレードの商品はフェアトレードのマークによってその安全性を保証されて、それを購入し食することは特定の国や人々を経済的に助けることに繋がるという意味を与えられて、購入するように奨められている。

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高嶺格さんの作品『ジャパン•シンドローム』の中に、非常に印象的な一節があった。福島産の桃には値がつかないというので、桃農家の人は仕方ないので非常に安い価格で販売されているのだが、あるいは、とれた桃は置いておいても腐ってしまうというので、ただで与えられており、一人の消費者が「お金を出してはぜったいに買わないが、ただなら」といって持って行ってしまうくだりだ。(うろ覚えの部分があって細部が厳密には違うかもしれない)買わないが、ただならもらってやるというのである。結局は、食べるということだ。この消費者は食に困るほど金がないわけではない。ここにきて、食の安全という前提と信じていたものが、いとも簡単に壊されるのを目の当たりにし、戸惑うのはとうぜんである。戸惑うのは、作品をみる我々だけではない、本当の情報というものがどこにあるのかあるいはどこにもないのか、分からないのは被災地の人々も同じだ。

日本を囲む海の周りで、奇形魚が増え始めていると言う情報、それらを我々がどこかで口にしているかもしれないという情報、それらが放射能被害であると言う情報、それらは養殖によるもので過去と比べて変化などしていないという情報、現にセシウム値が異常に高いという情報、そんなもんはデタラメだという情報。なせ我々は、こんなにたくさんのことを知り、たくさんの情報を受け止め、たくさんのことを学んでいるにもかかわらず、なにひとつ本当らしいことを知ることができないのだろう。

魚のクッキーはおいしいと思う。
だから、みんなで食べましょう。
28日の夜、イベント会場@Société de Curiosité, 123, rue de Clignancourt 75018, Paris でお待ちしています。

Je participe à l’événement Human Frames @Société de Curiosité, Paris le 28 septembre 2013. Venez nombreux pour partager le moment délicieux et inquiétant avec les cookies en forme des poissons déformés. Voici ma lettre.

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Deformed Fish Cookies

We are very sensible and nervous about
our foods’ safeness, hygiene and origin.
It sounds very reasonable for our health.
However,
Food production process is very visible to us ?
Not really.
It’s still in the darkness.
The fair trade is good
for helping developing countries financially.
These products are supposed to be well controlled, safe and delicious.

Radioactive contamination for foods in Japan is serious.
2 years after the Fukushima plants’ explosions,
deformed fishes are found in the sea.
You will reject buying these fishes.
Many fishers lost their jobs.
If they give you fishes,
will you have them ?
otherwise,
in order to help poor fishers,
can you purchase these deformed fishes ?

It’s a question.

What do you react
if someone ask you to buy strange foods
« to HELP PEOPLE IN DIFFICULTIES » ?

I hope your deformed fish cookies please you.

Miki Okubo

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Cookies de Poissons malformés

Nous sommes tous très sensibles à
la sécurité, l’hygiène et l’origine des produits.
C’est logique pour notre santé.
Cependant,
Les processus de fabrication alimentaire sont-ils vraiment visibles ?
Non, pas vraiment.
Ils sont dans les ténèbres.
Les produits équitables sont bien
pour aider les pays en voie de développement.
Ces produits seront bien contrôlés, en sécurité et bons.

La pollution radioactive de l’alimentation au Japon est grave.
2 ans après les explosions nucléaires de Fukushima,
les poissons malformés se trouveraient à la mer.
Vous refuseriez d’acheter ces poissons.
Les pêcheurs ont perdu leur métier.
S’ils vous donnait ces poissons,
les vous-prendriez?
Sinon,
pour aider ces pauvres pêcheurs,
achèteriez-vous ces poissons malformés ?

Ceci est une question.

Que feriez vous
si quelqu’un vous demandait d’acheter la nourriture non-conforme
« pour AIDER LES PERSONNES EN DIFFICULTÉ » ?

J’espère que les biscuits de poissons vous plairont.

Miki OKUBO

09/1/13

Cheveux comme symbole de femme ? / 女たちの髪について

「髪は女の命」は、洋の東西を問わず、さらに古今も問わないらしい。だが、私自身、これまでの人生の中で「髪の毛」にはあまりいい想い出がなく、それをうまく手なずけたこともなければ、それを社会的•戦略的利用に成功したことも、それによって恩恵を受けたことも特にない。どちらかというとそれは、子どものときには「いい子だったら髪を伸ばしていい」とか「悪い子だからショートにしなさい」など、従属をコントロールさせるアイテムとしての役回りを果たし、あるいは思春期の時にはそれは、この世でお天気の次に手に負えないもの」として縮毛矯正だか脱色•染髪•トリートメントだかに金をつぎ込まされる。そして年齢を重ねてそんなことも全てどうでもよくなり、嫌いだった美容院にもついに殆ど赴かずに済むようになった現在ですら、社会生活におけるストレス(?)やおそらくは栄養状態に起因する過剰な抜け毛によって「いったいこんなに毛が抜けて、私は明日の朝にはどんな姿になってしまうのか」という脅迫に日々付きまとわれている。

私が述べたこれらの想い出や強迫など、過ぎ去った時代を生きた女性たちが経験した数えきれない暴力のまえにはゴミみたいなものだが、現代人が伴って生きている「髪の毛の意味」というのは、彼女らの生きた時代のそれとさほど変わらないのであり、なるほどたしかにそれは、人々が気にすれば気にするほど重要な意味を担い、皮肉なことに、それを転覆させようと執着すればするほど、決定的な存在となる。こうして髪の毛は現在もなお戦略的アイテムであり続けている。

セーヌ川沿いのプリミティブな美術を扱うケ•ブランリ美術館(Musée Quai Branly)は2006年に開館した新しい美術館で、アフリカ、アジア、オセアニア、ラテンアメリカの文化や芸術に関し、30万点にもおよぶコレクションを保持し、数々の企画展が行われている。そこで、2012年9月から2013年7月まで開催された展示『CHEVEUX CHERIS(愛しの髪の毛)』を見学した。Musée Quai Branlyが提示する「愛しの髪の毛」の意味はシンプルにカテゴリー分けされている。個人のアイデンティティとして、あるいは個人のスタイルを決めるものとしての髪型や髪の色は、人類学的な観点から重要である。個人主義の時代のオリジナリティの主張の役割を担うのはもちろんのこと、それは、日本のような民族的多様性に乏しい社会においてよりも、ヨーロッパやアメリカにおいてよりラディカルな意味を持ってきたのであり、現在もなお持っている。あるいは、それは時に、一人の人間が生の記憶として、長年にわたって遺族や恋人によって大切にされる。さらには、これらの意味を担った髪だからこそ、戦利品/トロフィー、あるいはその象徴として利用される運命に晒されてきたという事実もある。戦争でどれほどの敵を殺したかを量的にしめすこと、ある社会において女の重要なアイデンティティである髪を見せしめのために剃り落とすこと、さらに胸を悪くするのは、こうした意味を逆手に取った女性自身による自滅的なパフォーマンスを目の当たりにしたときである。

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さて、展示された「髪」のいくつかを見てみよう。一つ目は、有名なエクアドルのヒバロ族のShuar(ツァンツァ)。これは、首狩りの風習にしたがって、殺した敵の首級を持ち帰り、乾燥させる(乾首)にしたもの。ヒバロ族の乾首には本来的に宗教的意味があり、殺された人間の頭部を束縛することによって、霊魂を鎮め(復讐の霊はムシアクと呼ばれる)、ヒバロ族に服従させる意味を持っていたとされる。

Tête réduite Jivaro, Shuar, Equateur

Tête réduite Jivaro, Shuar, Equateur

Jean-Jacques LebelのコレクションであるEmma(1900年ころ)で、André Breton(アンドレ•ブルトン)がSaint-Ouenの蚤の市で購入し、友人のLebelにプレゼントされたものである。見も知らぬ一人の若い女Emmaが死んだ時(あるいは何かのきっかけで)、おそらくはその形見として彼女の家族に与えられたものであろう。髪はここでEmmaのヒトガタのように在る。

Emma, relique, circa 1900

Emma, relique, circa 1900

また、荒木経惟の『無題』(1940年)では、荒木の写真において女たちがしばしばそうであるように、あたかも我々の知る世界ではないような奇妙な様子で一人の女が提示されている。長く美しかったであろう黒髪は、湿ったまま容赦なく切り刻まれて、裸の女の体中にまとわりつき、女は表情をひとつ変えていないが、あるいはもはや生きていないかのように見える。一方で散らばった黒髪は、その塊が女の身体を這うようにしてうごめいているようにすら見える。

Nobuyoshi Araki, Untitled

Nobuyoshi Araki, Untitled

 

Robert Capa, 1944

Robert Capa, 1944

次の写真は、フォトジャーナリストであるRobert Capa(ロバート•キャパ, 1913-1954)の撮影した写真のうちでもっとも重要な仕事のひとつで、1944年8月18日、シャルトル(Chartres, France, パリ南西)における出来事の一部始終を収めたものである。赤ん坊を抱えた一人の若い女(当時22歳)が、軍人によって、多くの観衆が見つめる広場の方に連行されている。広場の地面には黒っぽい塊が、幾つも落ちているのが見える。この日ここで行われたのは、ドイツ軍人と関係を持ち、ドイツ軍人との子どもを出産した女たちの「剃頭」という「見せしめイベント」である。女たちはここで人々が残忍な好奇心で見つめる中、丸坊主にされて、彼女らの幼い子ども共にシャルトルを追われた。当時の女性たちにとっての髪がいかなる意味を持っており、それを人前に晒されて剃り落とされることがどれほどの辱めであるか、敢えて言うまでもない。二枚目の写真には、剃髪後、足早に歩く彼女を囲む、人間の残忍性が克明に写されている。ののしるもの、惨めな剃髪姿をあざ笑うもの、憐れな者を見て見ぬ振りしようとする者、その全てがこの一枚の写真に現れているのである。

Robert Capa, 1944

Robert Capa, 1944

この女性は、ドイツ軍人の子どもを産んだ罪によって二年間のシャルトル滞在権の剥奪ののち、この地に戻り、その20年後の1966年に亡くなった。女性は精神を病みアルコール中毒に苦しみ、44歳の若さで生涯を閉じた。女性が公衆の面前で受けた辱めは、ドイツ軍人の子どもを産んだことに由来する。それ以上でもそれ以下でもない。その妊娠が女性の望むものであったのか、社会はそのことを全く問わなかった。女は、誕生した新しい生命を中絶せずに産み落としたということによって殺されたのだ。

まだ記憶に新しいことだが、日本のアイドルグループAKBのうちの一人、峯岸みなみがグループの暗黙のルールである「恋愛禁止」に違反して、異性と関係を持っていたことについて、「坊主頭」によって「ファンや関係者にたいする謝罪」を行ったことがたいそうスキャンダルになった。断髪後に撮影されたビデオがyoutubeなどにアップロードされ、その様子はマスメディアを通じて報道された他、動画の再生回数は合わせると数十万回に及ぶと見られ、ウェブでもテレビでも多くの人がこれについて議論した。この「謝罪」が尋常でない拡散力をもっていたのは、上のシャルトルの女の最悪な「見せしめイベント」を、多くの観衆が残忍な好奇心によって見つめた人間の性質とまったく同じ構造をこの「謝罪」が利用しているからである。私はこの行為自体については、純粋に、戦略的であると思う。その一方で、Robert Capaがカメラに収めた「見せしめ」は言うまでもなく氷山の一角で、歴史上数えきれない。それを憐れに思うにせよ、無関心であると言うにせよ、こんな「謝罪」のビデオを見入るという行為はまさしく、おしなべて、そういったシステムに支配されているその証拠なのだ。

08/25/13

About the violence / 暴力について

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暴力について

豊かな生活や便利さ、平等や自由、さらには平和や幸福さえも、普段私たちが使う言葉においてそれらはちっとも絶対的なものではなく、あくまでも相対的で、頼りないものでしかない。
暴力も、勿論そのようなもののうちのひとつだ。

2013年7月30日、ちょうどポーランドから帰国し、買い物に行くため駐車してあった車を取りに行くと、フロントガラスが割れていた。ボディの部分には、大きな足跡がはっきりとついており、ボディ自体もかなりへこんでいた。フロントガラスの割れた中心は、真ん中の極めて強く殴打したと見られる部分と端のほうにももう一つ同じような同心円の中心が見られた。車内はもちろんガラスの粉だらけになっており、さらには、このように内側に数センチ以上くぼんだ形でひび割れている状態で走行して振動等がきっかけで完全にガラスが崩れる恐れがあったので、自動車は走行不能な状態と見なされた。

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30日にこの状態で発見したということ以外、いつこのガラスが破壊されたのか知る方法はないのだが、誰かがよじ登って、硬いもので殴ってフロントガラスを割ったのだ。車が駐車してあったのは、決められたスペースで、私が住む市では、市によって決められた場所に無料/有料(場所による)で駐車することができるので、車庫をもたない市民は自宅にできるだけ近い駐車スペースを選んで停める。このとき私が駐車した通りは、住宅地で両側が一軒家やアパートの並びである。大きな音や騒ぎがあったのならば住人が聞いている可能性があった。住人の話によれば、私が留守にした数日の間のある夜、若い男数名が酔っぱらった様子で叫びながら、通り沿いの駐車スペースに停まっている車のうえによじ登り走り回り、そして、私の車のフロントガラスを瓶のようなもので割ったということだった。運悪くあなたの車が選ばれたのね、御愁傷様、といったことをその住人は付け加えた。真夜中に車を飛び歩いてガラスを割るショーはさぞスペクタクルだっただろうが、いずれにせよ、注意したり通報してくれることなく、それを目撃していた住人の思考にも吐き気がした。

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ご存知のように、外国ではしばしば「バンパーはぶつけるためにある」と言われているくらいで、フランスでも日本のようには車をピカピカに大切に保つことは難しいし、多少へこんだりこすられたくらいで警察は来ない。むかつく人の車に一周ぐるりとくぎで傷をつけたとか、ガラスにいたずら書きしたとか、サイドミラーをへし折ったとか、そんなことは日常茶飯事である。私自身、昨年一度、歩行者通路側のサイドミラーがへし折られ(つまり、故意に壊されたもの)、つい先日、また歩行者側のサイドミラーの部品が折られており、方向が固定できなくなってしまった。

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普通に考えて、酔っぱらおうとイライラしようと、そんなことはしたことがないしするはずもない人が殆どだろう。物を破壊することは、先に「日常茶飯事である」と書いたが、その状況自体がおかしいと誰もが思うだろう。しかし、おかしな事態が現実であるとき、そのことをどのように思考して行けば良いのだろう?暴力は、あなたがするしないに関わらず、リアルなことであり、あなたがするしないにかかわらず、あなたやあなたの大切な人に降り掛かりうることである。それゆえ、暴力のことは実は、自分と関係ないことのようで、つまりは、自分が思考すべきことからシャットアウトしてしまいがちなことのようで、しかし、絶対に排除できないものである。

少し前、何人もの女性を強姦し、殺し、刑期に服していた犯罪者が大赦を受けて出所したというニュースがあった。この犯罪者は出所するなりすぐに強姦事件を起こした。よく聞く話である。しかし、あなたは、自分が強姦されたり、自分の彼女や娘や家族がこのような目に遭ったとしたら、「よく聞く話である。」とは言わない。重大な犯罪を犯した人は死刑に処される。死刑が廃止された、あるいは存在しない国では終身刑に処される。あるいは、社会に復帰することが可能であると見なされれば、刑期を終えて出所し、再び社会のなかで、人々と関係を持ちながら生活をする。個人的には、強姦を繰り返すような人間は、再び強姦を出来るような環境下で生活することは不可能だと考えている。つまり、そのような環境に置くことが出所することであるならば、二度と出所できないというのが当たり前の処置であると考えている。

暴力はおしなべて非常事態である。物にふるわれる暴力と人間にふるわれる暴力の間に大きな一線があると信じている人もいるかもしれないが、そんな一線は本当はどこにも存在しない。これは妄言ではない。いかなる状況でも、どのような目的を果たすためでも、暴力を使う人間は、つまり暴力を手段として持っている人間である。現世界でそれらを排除するシステムはないし、それから潜在的に逃げる手段も実はない。どんな人もそれと共存しているのみであり、するべきであると同時にできるたったひとつのことは、それに晒されたときにあなたが取りうる覚悟について、考えておくことなのである。

08/10/13

アートのエコノミクス展 / Economics in Art @Mocak, Poland

salon de mimi Economics in Art
@Mocak(click here, website)

Economics in Art @MOCAK
17.05.2013- 29.09.2013
Exhibition information here click

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Museum of Contemporary Art in Krakow(MOCAK)で開催中の展覧会 »Economics in Art »を訪れた。
この展覧会は、MOCAKが2011年より毎年テーマを決めて開催してきた長期展示の第三弾、アートと経済の関係を問う展覧会である。様々な文明の重要な領域とアートの関係に焦点を当てるこのシリーズは、これまで、歴史とスポーツが取り上げられ、今後、サイエンス、宗教などが予定されている。

第一弾は2011年の »History in Art »(アートにおける歴史展, http://en.mocak.pl/history-in-art, 参考:http://dailyserving.com/2011/09/history-in-art-at-mocak/) であり、ここではどのようにして歴史が社会と個人レベルのアイデンティティを確立してきたのか、そのプロセスをリサーチすることに焦点が当てられた。歴史的出来事に関する記述には不正確なものや虚実が常に存在してきた。アートを通じてこの問題を考えること、すなわち個人による解釈を与えることは、その問題に他の糸口を与えるかもしれない。
第二弾は2012年の »Sport in Art »(アートにおけるスポーツ展, http://en.mocak.pl/sport-in-art)で、こちらでは、アーティストたちが人々の日々の生活に関わる問題をどのように扱うかが焦点となっている。スポーツは動物である我々の運動能力と攻撃性を実際的な争いや被害を作り出さずに発散することが出来る点で、セラプティックな役割を持っている。アーティストが様々なメディアや切り口から取り組むスポーツのあり方は多様で興味深い。

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そして、第三弾としての »Economics in Art »は、エコノミクスとアートの関係性に切り込む。今日、アートマーケットやアートフェアーが以前より存在感を増し、芸術作品の価値について語ることは珍しくもないトピックスになってきているのだが、それでもなお、エコノミクスとアートを並べることはそれほど自明はない。一方は数値に基づく実践的な学問であり、もう一方は自由なイマジネーションの領域である。しかし、その二つの異なるドメインの出会いは、インスピレーションの契機を与えるだろうし、思ってもみなかった表現を創り出すだろう。さらには、今日の世界的な経済危機に際して、アーティストたちが提起する視点は注目に値するかもしれない。

ポーランドおよび世界各国の37人のアーティストにより構成されるこの展覧会は、以下の4つの観点で区切られている。

  • <価値>:どのように価値は創られるか。価値を象徴するものは何か。それはどのように操作されるか。
  • <マーケットアクティビティとメカニズムの倫理>:どの程度の経済的成功が倫理的に正当とみなされるか。富めるものは罪悪感を感じるべきなのか。
  • <エコノミクスの人道的側面>:経済的な事情と社会問題の結びつきはどのくらい強いのか。
  • <市場のパワーに依存するアート>:アートワークの価値はなにによって決まるか。どうやって市場のゲームがまわるのか。なぜアーティストの仕事に価値を与えなければならないか。作品の持ち主とは何か。

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さて、Liena Bondareのブラックボードの作品 »Art=Capital(Kunst = Kapital) »(2010)を見てみよう。この作品に置いて、アーティストは、「アートは日々のありふれた出来事以上のなにかである」と述べたヨーゼフ•ボイスの言葉を皮肉的解釈を示している。「アート=財」と書かれた等式は、黒板に子どもがチョークでいたずら書きをしたように綴られ、人々はこのブラックボードに芸術作品としての価値を見いだすことは難しい。経済的な観点からアートを取り巻く現象を考えてみたならば、その価値はその作品を形作る「物」にはないことが明らかなのである。このボードはチョークで自由に絵を描くことができ、なるほど物質としての作品は今日と明日で全く異なり、少女たちのいたずら書きがなされる前となされた後で異なるのである。

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Banksyのイギリスのポンド紙幣を用いた作品を見てみよう。この偽10ポンド札は2、3千枚印刷された。見ての通り、クイーン•エリザベスⅡがプリンセス•ダイアナによって置き換えられ、背面のチャールズ•ダーウィンの右下には »Trust no one »のメッセージが。英国銀行がBanksy銀行(アーティストの名)になっている。

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ルーマニア出身のDan Perjovschiの大きなドローイングの作品は、これもまた黒板風のチョークで書かれた作品で、壁一面にアートと金に関わるイラストが詰め込まれている。落書きの一つ一つはたしかに眺めていてもしばらく飽きることなく楽しめるのだが、アーティスト本人のインタビューにおける発言はもっとラディカルである。(Exhibition Opening Video, click here)つまり、これらは落書きだというのである。チョークで書いたり指で消して書き直したり、それ自体はシンプルな線や文字で描かれたこの黒板は、いったい誰がアートワークだと同定したのだろうか?あるいはその価値はいったいどこにあるのだろうか?52歳の美術家がチョークで描いたいたずら書きのようなイラストの集積をなぜ大きな美術館が受け入れ、展覧会で提示するのか?それらはまさにDan Perjovschi自身の問題意識である。

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プロスティテュションの広告。 »Why rent when you can buy »とはセンセーショナルなタイトルである。いや、本来経済活動において、とりわけ「シェア」とか「リサイクル」、「エコ」が流行っている今日のことなので、買えるけど借りて済ませるのは悪いことであるはずがない。ただし、売春や女性を買う/借りるという文脈ではその規範は成り立たない。無邪気に使われる、「買うより借りる」などというありふれたスローガンもオールマイティーではない。

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Laura KalauzとMartin Schickによるパフォーマンス作品 »Common Sense Project »である。Common Sense Projectは、観衆が参加する形でなりたつ、ソーシャル•パフォーマンスである。タイトルに臭わされている「コモン•センス」は実に馬鹿馬鹿しい経済活動のゲームを通じて実感されることになる。要するに、悪知恵を使いながら、感謝の気持ちを演じたり、でっちあげの信用を築きあげながら、契約に基づくのでないナマの社会関係を結んでいくゲームなのである。もっと経済がリベラルになれば、社会における人々の関係がもっと開かれるはずだというメッセージを表している。

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Charlotte Beaudry、無題。あたかもそこには纏うボディがあるかのように描かれた二枚の男性用アンダーウェア。

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Malgorzata Markiewiczの »Flowers »(2004-2007)は、遠目に見ると鮮やかな色彩や模様の布で作られた花のように見える。そして、その期待はかなり接近するまで裏切られることはない。しかし、その布の一つ一つの形状が認められるまで近づいたとき、それらが女性下着やスカート、スカーフ等で形作られていることを発見する。この作品は、見た目の美しさとその洗練された印象、よく選ばれて完璧に造形された布の彫刻である一方で、そこで行われたストリップティーズのパフォーマンスを見るものに思い起こさせるのである。

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美しいコスチュームに包まれた二つの身体がある。死の恐怖は身体を過剰に飾り立てることによって紛らわされているかのように思える。しかし、どれほどに努力しても、死はそこに有り、そのラグジュアリーなコスチュームすらも身体の生きていない状態を強調するのみである。

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さて、エコノミクス展によりコミットする作品に戻ろう。絞首自殺のためのロープである。ロープはドル札によって作られている。お金に殺されると考えることも出来るし、お金があっても人は死ぬと考えることも出来るし、アーティストによれば、「クレジット」は金を表すと同時に信用のことであるのだが、この「クレジット」が現在の経済危機のルーツである。

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アーティストゴリラの上に、キュレーター猿が乗り、その上に批評家小猿が乗っかっているというペインティング。ほんとかいな。あるいは、それがエコノミクスの点で、アートワークの価値言説を作っているのが批評家であるという意味にも理解することが出来るし、同時に、身体能力的に優れており強い力を持っているのは疑いもなくゴリラである点で、このヒエラルキーは様々に読むことができる。

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かの「働けば自由になる(ARBEIT MACHI FREI)」にネオンをつけた「アートで自由になる(KUNST MACHI FREI)」。アートそのものは自由なイマジネーションに開かれているものであることを文字通り表しながらも、「働けば自由になるARBEIT MACHI FREI」がまったくの虚言であったように、経済的基盤のないアートに自由はないことを、ネオンによるドリーミーな演出を加えてさらに辛辣に訴える作品である。

08/9/13

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)3つのストーリー/ Ai Weiwei 3 histoires à Venise
June – September 2013

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)のことを書くのは緊張感がある。それは、他のアーティストや他の展覧会、あるいは社会問題や現象についてのエッセイを書くことと比較して「相対的」に緊張するのではなく、艾未未について書く行為そのものが「絶対的」にしんどいのである。それでも書こうと私が感じているのは、彼がこの第55回ヴェネチア•ビエンナーレで鑑賞者に提示した3つのストーリーを全て目の当たりにしたからであり、私にとってはこうすること以外に選択肢がないからである。

艾未未 (アイ•ウェイウェイ)は1957年北京生まれの現代美術家、キュレーター、建築家でもある。世界各地で積極的に展覧会を行い、国際展に参加するほか、よく知られているように、多くの中国人に協力を仰ぎながら社会運動を繰り広げている。1980年代前衛芸術グループの活動に関わったが、政府圧力を受けて、ニューヨークに渡り、そこでコンセプチュアルアートの手法を学ぶことになった。艾未未は実に1981年から93年の12年間の間ニューヨークに滞在している。中国帰国後現在まで続くアトリエ•スタジオ「Real/Fake」を構える北京郊外の草場地芸術区(Caochangdi)を築いた。

艾未未の参加国際展は数多い。そしていつもセンセーショナルな評判を世界に轟かせた。とりわけ、2007年のドイツカッセルにおけるドクメンタ12では、 »Housing space for the visitors from China »という企画で会期中1001人の中国人をカッセルに招待し、会場に滞在させるというプロジェクトを行い、カッセルの街が中国人で溢れる事態を引き起こし、人々を驚かせた。あるいは同国際展の屋外展示であった »Template »という明時代の扉から成る建築が悪天候のため崩壊したのだが、自然現象の結果としてそのまま展示したことにより、人々は艾未未のコンセプトのスケールを理解した。

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2013年、現在会期中の第55回ヴェネチア•ビエンナーレでは、フランスパビリオンで行われているドイツ展(Susanne Gaensheimerのキュレーション)に招待され、 »Bang »というインスタレーション作品を出展している。文革後の何ものも顧みない超高速の近代化は、それまでの文化や歴史が一つ一つその足場を踏みしめるようにして築き上げてきたものを一瞬にしてゴミにした。インスタレーションは886台の三脚の木椅子からなっている。1966年に始まった文化革命は、この三脚の木椅子に代表される、どこの家庭にもあり、伝統的な物作りのマニュファクチュアー技術の賜物である家具や道具や物を、一夜にして時代遅れのみっともない代物におとしめた。家具はアルミやプラスチック製がオシャレで文化的な物だと画一的に信じさせられ、何世紀も渡り親から子へと引き継がれてきた年期の入った木椅子は「遅れの象徴」として追放された。艾未未は、このインスタレーションで、古い木椅子を再利用したのではない。今日では貴重となった木椅子の制作技術をもつ作り手に依頼して、この典型的オブジェをインスタレーションのために作ってもらったのだ。椅子は、大木の木の根が地中を繁茂するように広がって配置されており、それは目を見張る速さで広がったポストモダン世界の網の目と、その過剰な網の目の中に絡みとられて自由を失った「個人」の今日におけるあり方を象徴しているようでもある。

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「艾未未 (アイ•ウェイウェイ)はどこ?」という言葉が、ポスターやメッセージボード、インターネット上の記述が世界中を右往左往した2011年の4月から6月のことを記憶に留めている人も多いだろう。2010年11月より北京の自宅に軟禁されていた艾未未は、翌年4月3日、香港行きの飛行機に乗る手続き中に行方が分からなくなった。国際人権救護機構(Amnesty International)や、ドイツやイギリス、フランス外務省、さらにはアメリカの国務省もただちに艾未未を釈放することを求めたが、この拘留は81日にも及んだ。4月7日の中国外務省からの情報によると艾未未はスタジオ脱税容疑による経済犯であるとされたが、この原因が2008年5月に起こった四川大地震の被害の実態を明らかにし、犠牲の原因を明らかにする社会的活動を艾未未が主導していたことであるのは明らかであった。

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ヴェネチア•ビエンナーレでは、ビエンナーレメイン会場とは離れて二つの »Disposition »展が開催された。その一つがメディアでも話題になったが、81日の拘留生活の実態を再現した模型を教会で展示したS.A.C.R.E.Dである(2011−2013) 。彼が体験した81日間の監獄での「日常生活」の一部始終が6つのシーンとして再現されている。鑑賞者は、規則的に置かれた6つの大きな部屋を小さな窓穴から覗くか、あるいは上についているガラス窓越しに覗き見ることによって、艾未未の体験を知ることが出来る仕組みになっている。何もない部屋。薄汚いベッドや洗面所。食事、睡眠、排泄すべてにおける厳重な監視。

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もう一つの »Disposition »展の会場に行くためには船で本島の向こう岸に渡らなければならない。あるいはもちろんアカデミア橋を渡って迷いながらとぼとぼと歩くことも出来るだろう。とにかく、孤立した展示でなければならなかったのだ。その展示は、Chiesa di S.Antoninにある。150トンの鉄骨が真っすぐに整然と並べられて部屋一杯に敷き詰められている。長さもそろえられて、それは海の波にもオシロスコープで見る幾何学的な波にも見える。これは彼の2008年12月より様々な圧力にも屈せずに取り組み続けてきた艾未未とその協力者の一つの集大成とも言える。彼らの目的は、多くの子どもたちが人為的原因によってその命を落とすことになってしまった犠牲の全貌を明らかにし、その犠牲者名簿を明らかにして、被災者のために祈念することだ。命を落とした子どもたちはもはや彼の活動に関わらず戻ってこない。しかし、残された人々はもう一度このことが起こらないように、起こったことの原因を知り、そのことがこれからは起こらないよう世界を変えることが出来る。あるいは、そうすること以外に、死んだ人々に祈りを捧げる方法はない。

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当スペースで放映されるドキュメンタリービデオは、艾未未と彼らの協力者たちがどのようにしてこの150トンもの鉄骨を四川大地震に関わるモニュメントとして提示したかのプロセスとコンセプトを明らかにする。まず知らなければならないのは、このプロジェクトのせいで艾未未は脳内出血で手術を受けるまでの暴力行為を受けているし、上述したように81日の拘留に遭っている。アートは困難を越えて続ける必要のある行為であり、艾未未という個人を越えてその協力者と鑑賞者とそれに触れる者に影響を与えるべきものである。150トンのグニャグニャに曲がって折れた鉄骨は彼を支持する中国人たちの手作業によって、真っすぐに戻された。このめちゃめちゃに組み立てられて建物を支えるに至らなかった鉄骨こそが、子どもたちの命を奪った直接的原因であり、その苦しみの象徴である。鉄骨をいっぽんいっぽん真っすぐにする作業は何年もかかる。その間、どれほどにこの粗悪な鉄骨が地震で姿を変えたのか、その記憶を残すために曲がった状態でのレプリカも150トン全てについて制作された。

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4年に及ぶ年月は、原型を留めないほど曲がっていた全ての鉄骨をぴんと真っすぐにした。人間の一所懸命の作業は4年間を要したが、これを捻り曲げた震災の衝撃は一瞬のことであったのだ。

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鉄骨はその暴力性をもう我々の目の前に提示しない。4年間の艾未未とその仲間たちの仕事は、見る我々をただただ茫然とさせる。たしかに、生きることは繰り返すことで、人類の歴史は作って壊すことであった。しかし、それは、壊して、直すことでもあったのだ。

07/9/13

受肉した少女 – 有毒女子通信 vol.11 now on sale

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有毒女子通信第11号が出た。

有毒女子通信とは、編集長の吉岡洋さんとMATSUO MEGUMI+VOICE GALLERYの松尾恵さんが作っておられる名前通り非常に可愛らしい雑誌で、私はデザインが一新された先号より「<小さな幸福>をめぐる物語」と称してピースフルなエッセイを連載させていただいている。

第10号は、愛と施錠についてのおはなし。愛と施錠と言えば、貞操帯(ていそうたい)という詩的なオブジェクトについて、書いた。(「愛と施錠の物語」/ PETITS RÉCITS SUR LE BONHEUR EPISODE 1 click!)まだお読みになられていない方!売り切れちゃうよ♡ お気軽にご連絡ください!

第11号は、特集が「少女たちの行方」であったので、「ぱんつを売る少女」について書いた。リクエストにこたえて、大サービスで三行だけマル秘公開。続きは、全国の書店(ルビ:ヴォイスギャラリーおよび編集長)でお買い求めください♪ グラビア付きだよ!!(ホントかいな…。真偽はご自身でお確かめください)

 

「ぱんつを売る少女」は本当にいた。しんしんと粉雪の舞う静かな夜、凍える小さな手を吐息で温め、燐寸はいりませんかー、と道行く人に声をかける燐寸売りの少女を尻目に、ぱんつを脱ぎ捨てそれを売り、彼女は生きた。少女はなぜ、大切なぱんつを脱いだのか。   (『有毒女子通信第11号』より)

 

さて、少女はぱんつを売っても売らなくても、肉体を売っても売らなくても、ものごとの本質は微動だにしない。生身の人間としての少女は、思い悩むひつようも、傷つけられるひつようもない。

いつの頃からこの国には、生身の少女とまったく関係のない、いたいけな一人の少女がたくましく育ち、やがてあらゆる人々の思考を蝕み尽くした。蝕まれた思考は蜘蛛が巣を広げてゆくように、ネットワークを拡大し、そこに迷い込んでくる哀れな蚊だと蛾だとかを一度捕まえたらもう二度と逃がさなかった。少女はあまりに印象深いので、世の中の人々はやがてどの女性を見ても、その少女と脳裏で重ね合わせるようにして、いや、むしろ、その少女のようにみることしか、できなくなってしまったのだ。

 
要するに、イメージの問題である。
我々は、たかだか、バーチャル少女の終わりなき遊びに翻弄されているだけなのである。
繰り返すが、要するに、イメージの問題なのだ。

 

女性の坊主がなぜそんなにスキャンダルなのか?なぜそれをウェブ上の動画で見ることが、某アイドルに対して同情をあおることにつながり、あるいはドラマチックな展開に胸を痛めたり、はたまたそれを見てしまったこと自体にばつの悪さや罪悪感を感じるのだろうか。女は、少女の遊びのために、自らの肉体を貸し与えたに過ぎないのに。

 

アイドルやスポーツ選手や子どもタレントだった少女が、煙草を吸ったり、外泊したり、ドラッグで捕まったり、予想外に妊娠したりすると世間から過剰なほど憤慨され、嫌われ、疎外されるのはなぜか?それくらいのことは、彼女らよりもずっとずっと身近な知り合いのあいだで絶えず繰り広げられている他愛もないことなのに。そもそも、そのナイーブで平凡な理想をかかげることは、あなたの思考があの少女に乗っ取られていることを暴露する以外のなにものでもないというのに。

 

少女が受肉し、楽しく遊ぶのはすばらしい。
自らの肉体を貸し与える女たちは勇敢である。
蜘蛛が編んでゆく精緻な巣の構造はあまりにうつくしい。

 

有毒女子通信
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06/12/13

Keith Haring « The Political Line » @ Musée d’art moderne, Paris/ キース•へリング

Keith Haring

The Political Line
19 Avril – 18 Août 2013
Musée d’Art Moderne de la ville de Paris
www.mam.paris.fr

Keith Haringは、1958年生れ、ニューヨークでストリートアートの先駆的アーティストとして活動した。コラボレーションしたアーティストには、Warhol、Lichtenstein、Rauschenbergという当時のニューヨークのポップアートの巨匠たちや、あるいはアウトサイダーアートのBasquiatらがいる。

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彼の名が知れ渡ったのは、1980年、ニューヨークのメトロ構内の広告掲示板を彼自身のキャンバスに作り変えてしまうことによって始まったサブウェイ•ドローイングによってである。シンプルで明快、アニメーションやバンド•デシネのようなコミカルなデッサンはメトロ利用者(通勤者)の目にとまり、注目を集めた。
ストリートアートは彼にとって、誰の目にも触れる、もっとも平凡だがもっとも強力なマスメディアとして、彼の掲げる政治的であったり人道的であったりする様々なスローガンのプロパガンダのため有効だったのである。
パリ市立近代美術館(MAM)での回顧展となる今回の展覧会では、Keith Haringの多岐に渡った制作と関心のなかでも、展覧会のタイトル通りポリティカルなメッセージに着目して構成された。

参考までに、MAMのKeith Haring展 »The Political Line »のチャプターを以下に記しておく。
⁃ The individual against the state
⁃ Capitalism
⁃ Works in the public space
⁃ Religion
⁃ Mass Media
⁃ Racism
⁃ Ecocide, nuclear threat, apocalypse
⁃ Last works : Sex, AIDS and death

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国家と個人の章において見られる作品にはしばしば、国民を搾取し脅かす存在としての「犬」が悪役として描かれる。Keith Haringは個人の自由が最大限尊重されることが理想国家の姿であるといわば盲目的に信じていた。ドローイングの中には、自由を主張して牢獄にいれられる人々、人々を痛めつけて苦しめる暴れ犬のほかにも、棒のようなものを持ち指導的立場にあるが実は国家に心を売ったロボットのような存在、そしてさらには、個性を失い無思慮のまま国家に追随する匿名的存在が登場する。

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彼の生きた1960年代ー80年代、大量消費社会と経済成長のまっただ中、多くの表現者が様々に彼らの視野を示したようにKeith Haringもまたこのテーマに惹かれた。あるいは、公共空間の広告掲示板を自らの作品発表の場とするアイディアはこの大量消費社会とマスメディアに扇動され、豊かな生活を求めて毎日メトロで通勤するサラリーマンや労働者たちの目に触れることが前提である。したがって、そのナイーブな理想に水を差すようなメッセージは、通勤者の目を楽しませる以上の意味を持つことになる。

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Keith Haringは伝統的カトリックの家に生まれ育ち、宗教が扇動した植民地支配の歴史や、現世の生活にそぐわない習慣の数々に反感を抱きながら生きてきた。そういったわけで彼の作品の中にしばしば現れる神の姿は、一人一人の人間を支配し、自由を奪い、牢獄に押し込める時代遅れなものとしてネガティブに描き出される。そして、人種差別主義、アパルトヘイトを批判し、「悪者」としての白人が黒人を奴隷化し、彼らを貧困に陥れたのだというストーリーを繰り返し描く。

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また、1988年、広島の原爆ドームを見学したKeith Haringは大きな衝撃を受け、 »We know that ‘humans’ determine the future of this planet. We have the power to destroy and create. »と述べて、非核のための活動を精力的に始める。そして、1980年代よりアメリカでその脅威をふるい始めたAIDSの存在は、1985年に発表された顔中に赤い斑点を伴った自画像「ポートレート」に見られるように、彼の作品に姿を現してくる。1988年、自身がHIVウイルスに感染したことを知り、その2年後ニューヨークでその短い生涯を閉じた。

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Keith Haring の作品はこうしてポリティカルな文脈で整理されてみると、当時のニューヨークのムードの中で、政治や民族や宗教の問題に取り組み、マスメディアの浸透をシニカルに捉え、非核や非エイズのためのメッセージを精力的に送り続けた、主題は多岐にわたるけれどもとても明解だと、あまりにスッキリ納得されてしまいそうである。しかし、それだけではなさそうだと、私には感じられる。最後に、彼のペイントにおいて私が気になっている二つのことについて記しておきたい。一つ目は、Keith Haringの表現におけるセックスの意味、二つ目は、彼の絵の中にしばしば見られる穴の空いた身体をもつ人の意味である。

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ホモセクシュアルであったKeith Haringにとって、性行為は必ずしもアニマルとして生を再生産する「生殖」の含意に留まらなかったと思われる。さきほどの国家と個人の衝突の章であげた、匿名者が犬を犯するデッサンをもう一度見てみたい。犬に挿入した人間は、犬のオーラを得て、さらに無個性な人民によって崇められるセックスを獲得している。あるいは別のドローイングでは、抵抗する個人を征服しようとする棒を持った牢屋の番人は、彼らを支配するため彼らを犯す。Keith Haringにとっての男性器は、ある意味で凶器のように野蛮なものであり、理解不能なものでもあり、しかしある事柄の手段となるような存在であったのではないだろうか。彼の絵に見られる男性器挿入の意味を考えることは、避けて通れないように思える。

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また、胴体の真ん中にぽっかりと空洞をもったキャラクターが頻出する。彼らは、怪我をしている様子もその穴によって苦しんでいる様子も全くなく、むしろ、その他の普通の人間よりも何かが吹っ切れた存在であるように描かれている。身体に穴が穴があいていること、その中を自由に空気や犬などが通り抜けていくことは、彼らにとってどのような意味をもつのか。Keith Haringの残した言葉によれば、初めてこのイメージの着想を得たのは1980年、ジョン•レノンが殺されたことを知った日見た夢の中にこのようなイメージが現れたのだそうだ。彼は、他の多くの作品がそうであるように、この作品にこれ以上の説明も与えておらず、タイトルも与えていない。あるいはまた、口から肛門(あるいは女性器)に棒が貫通したキャラクターもしばしば登場する。これもまた、「穴の空いた人」であり、そのような身体の描き出しに見られる人間の感覚といったものが、Keith Haringの作品全体に充満する、空虚なようでしかし決して耳を塞ぐことのできない不穏な通奏低音を奏でている気がしてならないのである。

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*本展覧会は、8月13日までMusée d’Art Moderne, Parisで開催されている。

05/11/13

書き散らかしの信仰 :「現代的ドラマツルギとその構造に基づく文学創作」/ Création des romans selon la nouvelle dramaturgie et structure littéraire

2013年パリ第8大学Arts Plastiquesの学部学生を対象とした授業で、後期(2月~5月)「création littéraire / 文学創作」と題された授業を行った。この授業は前期の講義形式とは異なる実習の授業である。パリ第8大学の芸術学科の特徴の一つは学生の幅広いポテンシャルと興味に応えるバラエティに富んだ授業である。実に前後期合わせれば300もの異なる授業が提供されている。さて、フランス語ネイティブ話者でない私が「création littéraire / 文学創作」などと題された授業をするのは、もちろん一般的な意味での文学作品の創作のスキルを学ぶためなどではない。しかし、実習という授業のスタイルを最大限に生かした制作(の嵐)を経験し、その行為ついていちいち考えるためである。
参考までに、シラバスに掲載した詳細は以下。

Titre : Création des romans selon la nouvelle dramaturgie et structure littéraire
Contenu : Dans la société informatique, les développements techniques des jeux vidéos et l’expérience généralisée de la vie virtuelle modifient radicalement la construction littéraire et la dramaturgie. À travers ce cours, on réalise des créations de romans (courts récits dont la forme sera à choisir) en se référant aux caractéristiques structurales, soit de “Keitai-Novel”, “Twitter Novel”, ou encore “Game Novel”. On les diffusera aux lecteurs sur le réseau en réfléchissant à la meilleure stratégie, ou bien on fabriquera un livre imprimé. Ce cours pratique sera conduit en relation avec le cours thétique “Exposition de soi et dispositifs mobiles”.

題目:「現代的ドラマツルギとその構造に基づく文学創作」
今日の情報化社会の中で、コンピュータゲームの技術発展やヴァーチャルリアリティーの日常的経験が我々のライティングやドラマツルギの構造にまで影響を及ぼしている。本実習では、このような変化したライティングの構造的特徴に基づいて様々な可能な形式を選択の上、短編を書く。ケータイ小説、ツイッター小説、ゲーム小説などもその選択肢に含まれる。ストラテジーを練り、最も効果的な方法でインターネット上で発表するか印刷して製本する。本演習は、前期講義「自己表象とモバイル•メディア」の関連授業である。

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本演習は、全12回(1回150分)を大きく3つの項目に分けた。
1、ミニブログを利用し、短編小説を書く
2、日記(ブログ)について考え、日記を書く
3、自由なメディアを用いて私小説を創る

第一部では、ケータイ小説、ライトノベルやゲーム小説(オンライン小説)といった、文学と非文学/プロの作品とアマチュアの作品の境界線を揺るがせながら存在するような作品群の物語構造に着目する。これらの新しい文学作品は経済的なインパクトを考えれば決して無視できない重要な傾向を示しているにも関わらず、クラシカルな意味での小説とこれらの創作は頑固なまでに隔たれがちである。しかし、このような物語に深く侵食された今日、実際に人々がものを書くそのありようは、レシの構造の変化の影響を否応なしに受けている。発話が断片化するだけでなく、その結果、テクスト自体の断片化はロジックの方法にも影響を及ぼす。ミニブログやソーシャルメディアにおいて日々何かを書くという経験を「小説を書く」ことと関係付けられるだろうか。
第一部では、シンプルなゲームのルールを共有し、梶井基次郎の『檸檬』をベースにした幾つかのライティングを実践した。プラットフォームはツイッターを使用した。
①リレー小説(タイトルと出だし、終わりを共有し、その間を参加者で繋ぐ。一つのエピソードはツイート1回分で書かれなければならない。)
②ツイッター小説 課題創作、自由創作(リアルタイムにエピソードごとツイートし、物語を紡いでいく。長さは自由。)
③紙に書くツイッター小説 (②と同じ構想の物語を紙に書く/タイプする。文章表現、物語の長さ、文体は全く異なるものとなる。)

第二部では、日記、自伝、自画像(セルフポートレート)、私小説をキーワードに、今日「私」について書くとはどんな意味を持つ行為なのか考える。日記帳それ自体に錠がついていることもあり、誰にも見られないようにコッソリ書き綴る日記と、赤裸々に綴られた日々の出来事や心境を写真を添えてリアルタイムで公開し続けるブログ。両者は共に、「私」について書く行為に違いないが、その目的も方法も異なる。読まれる事を意識して書かれるブログは、意識的にも無意識的にも、作者が演劇的に振る舞うように促す。演劇的振る舞いには誇張やでっち上げ、噓も含まれる。発表することを前提に書かれた日記は、それがもし物語的変形を含むのであれば、「私」を主人公に織られたオートフィクションと果たして違うものと言えるのだろうか。
第二部では、参加者それぞれに「私にかんする5つの話」を書いてもらった。全体を通じてのタイトルと、各々の話には個別のタイトルをつけ、それぞれの話は個人が選んだ何らかのメディア(写真や音楽、ヴィデオなど)を伴ってブログ記事として発表する。日記の枠組みの中で、どの程度本当の話を書き、あるいは演出するかはそれぞれにまかされている。蛇足であるが、本創作の一つのアイディアの例として、5つの話を写真を添えて授業ブログに掲載した。参加者の多くは、一例としてこれを参照している。(pdf.Les histoires ordinaires(en français), 日本語版はこちらにもあります→salon de mimi,尋常な話 1,2,3,4,5 )

第三部は、文学のみならず、現代アートの領域に目を向けたときにも私小説的なアプローチやテーマはクリティカルな位置を占めていることを認識した上で、私小説のさまざまな方法について模索する。さらには、小説創作のプラットフォームはウェブ上にも見られ、それは必ずしもプロになる事を目的とせずにアマチュアのライターにも広く門戸が開かれているように見える。私たちが「私」についての物語を創作し、それを授業サイトを通じて発表できてしまい、作品がインターネットを通じて誰かによって鑑賞されること、そのたやすさをどう考えれば良いか。あるいは、たやすさの反面、情報を発信してもそれが誰にも読まれないかもしれない可能性(現実)につきまとう空虚な手応えをどう生きればいいか。書き散らかされ、放置されたテクストの山は積み重なる一方であり、情報発信のたやすさはこの山の巨大化に協力するよう全ての個人を招待する。
第三部では、テクストに限らず、自由なメディアを選択の上、オートフィクションを完成させ、その内容を授業ブログに発表し、最終授業で参加者に紹介することにした。

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本演習ではレポート2回が課され、受講者はその問題について作成したレポートを同ブログに公開した。
Sujet du rapport 1
Réflexion sur la pratique de la création littéraire en diffusant les fragments en temps réel comme micro-récits.  Analysez aussi les nouvelles modalités de l’écritures fragmentée en comparant les 2 moyens différents de l’écrit  : sur Twitter et sur papier.
レポート課題1:ミクロブログを通じた短編のように断片的に拡散される文学創作の実践について考察する。断片化されたテクストのあり方についても分析する。

Sujet du rapport 2
Après avoir lu l’ensemble des journaux intimes publiés sur le blog…,
– Publier un journal intime sur le réseau et en tenir sur un carnet sont des expériences tout à fait  différentes, car, quand on le publie sur internet, il est indispensable d’être conscient du regard des autres. ( L’existence de lecteurs inconnus )  Comment cette prise de conscience et cette situation particulière influencent ou modifient l’écriture d’un journal intime ?
– Aujourd’hui, le blog ou bien les sites comme interfaces qui proposent de devenir “écrivain amateur” offrent une grande possibilité pour la création littéraire, comme s’il était désormais plus facile de vous exprimer dans l’écrit. Argumentez votre point de vue et vos remarques à propos de l’acte littéraire dans la société informatique.
レポート課題2:授業ブログ(Le cours)上に公開された作品(journal intime 2013とタグのあるもの)を読んだ上で…、
—インターネット上に日記を公開することと日記帳に綴ることは異なる実践である。インターネット上に公開する際には他者がそれを読む事が前提ととなっているのは言うまでもない。その読まれ得るという意識は日記を書く行為にどのような影響を及ぼすか。
—今日、ブログやアマチュアライターの活動を勇気づけるようなサイトは、文学創作の可能性を切り拓き、それはあたかも、これから人々は書くことによって容易く自己表現できるのだと主張しているようでもある。情報化社会の中で、ものを書くとはどのようにあるべきか。

昨年の9月に開設したこの授業ブログは、現在500もの記事が文字通り「散乱している」。各々の独立した情報が整理されたページと違い、ホームを覗けば、タグごとに検索しないかぎり、投稿された時間順にひたすら記事が現れる。書き手の殆どはソーシャルメディアを利用した経験があり、チャットやメールなどのデジタルテクストによるコミュニケーションに慣れており、中には個人ブログに日々日記を書いている。彼らはウェブで言葉を発することに何の恐れもなく、戸惑わない。さきほど「散乱している」と言ったが、私は故意にそれが散らかるように仕組んだのではないし、各々の記事にはタイトルもキーワードもタグもついており、カオティックな本棚よりも遥かに整然としているのかもしれない。それでもなお、この場所は何となく不穏である。ウェブリテラシーとか、ウェブ時代のルールのようなものがあり、繊細できちんとしていて情報リテラシーがある先生ならば、授業ブログは、各々の記事のクオリティーを高くしようとか、書き間違いや誤りは皆無にしようとか、生徒の書いたものを隅々までコントロールしてその内容を管理把握しようとか、せめて前のスメスターの記事は消そうとか、考えるのかもしれない。私は今のところそれをしていない。勿論、誤字脱字のレベルなら外国人の学生も多いパリ第8大学なので添削めいたことをするのは悪くない。その外で私は今のところ、全ての記事を残し、全ての書き手にも彼らが望むなら、いつでもログインして自分の記事を直したり消したり新たに書き加えたりする可能性を開き続けている。にもかかわらずその結果は、自分の書いた物がこんなにも閲覧可能に置き去りにされているのに、誰一人としてそのテクストを拾い集めに行かず、振り返って直そうともせず、あるいはすんだ事だからと言って処分したりもしない。大学生活では次々に課題が与えられ、論文やレポートやプレゼンが課され、それらを超高速でこなして、できるだけ良い点数で単位を取得しなければならない。したがって、授業で要求されたならレポートをウェブで公開するのも仕方ないし、済んだ事は基本的に振り返らない。この諦めの態度は、悪く言えば堕落であり、良く言えば、底抜けにいさぎよい。

私の行っていることは、いわゆる完璧志向の既存の情報リテラシーを信仰する人には最強の堕落と見なされるだろうし、授業のウェブサイトはそのように「あるべきでない」と否定されるだろう。私はそう思う人がたくさんいるだろうことと、その憤慨は理解した上でなお、この書き散らかしたものたちが何か大切なことを語っている気がしてならない。書き散らかしこそが本質的と思っている一面もある。そして本実習の結果は参加者に実験的書き散らかしを経験してもらう事でもあり、そのことについていちいちああでもないこうでもないと考えてもらうことであった。そしてその考えた事をウェブおよび物理的空間(授業中)の両方で緩やかにでもいいから共有するということが、このCréation des romans selon la nouvelle dramaturgie et structure littéraire(「現代的ドラマツルギとその構造に基づく文学創作」)と題された授業で目指したことである。

*Le Coursの今後のゆくえは未定である。個人的計画ではまだしばらく、「このまま」である。ちなみにどなたでも筆者としてメンバーになることができる。参加希望があればどうぞご連絡ください。(Le Cours :http://www.mrexhibition.net/cours/)