Décongélations Prématurées @ Atelier Alain Lebras, Nantes / 展覧会「未成熟な解凍」,ナント
Décongélations Prématurées
Du 8 au 26 mai 2013
Atelier Alain Lebras, Nantes
http://decongelationsprematurees.overblog.com
video clip here
未成熟な解凍?時期尚早の解凍? »Décongélation Prématurées »は、Anne-Sophie Yacono がキュレーターを務めるナント市美大出身の若いアーティストたちによる手作りの展覧会である。綺麗な脳ミソ(いったい何の?)がお皿の上で静かに解凍されているすてきな本展覧会のポスターをレストランに持っていくと、本来是非とも掲示していただき多くの人の目に触れて欲しい!!というアーティストたちの熱い願いとは裏腹に、悉く断られた。脳みそが解凍されているイメージの何がいけないか!もの申さぬそれは、我々の食卓に上がる鮮やかなタルタルや、美味しいハンバーグステーキの友達ではないか!…というのはあくまで私の個人的なコメントだが、そもそもこの展覧会、「未熟な解凍」と名付けられる前には、それは食に関わるコンセプトだったそうだ。下に幾つか紹介させていただく作品を見てみると分かるが、どうやら、 »Décongélation Prématurées »は、食(吸収•同化)すること、成熟(腐敗)すること、冷凍(仮死状態に)すること、それをもう一度解凍する(蘇らせる)こと、これらの一連のできごとをアーティスト達が様々な方法で取り組み表現した展覧会であったらしい。
5月7日幕を開けた本展覧会は中盤を迎えていた。5月18日、19日、展覧会も残すところあと一週間になり、様々なパフォーマンスやイベントが企画されていたその週末機会を得て、ナントのアトリエAlain Lebrasを訪れた。ナントの国鉄駅から歩いてすぐ、大きな通りから枝分かれする石畳の小道を突き当たりまで歩いていくと、オシャレでエネルギーに満ちた若者の群れが見える。パフォーマンスが行われたこの日の夜、スペースは賑わっていた。空間は広々としており、実に様々な作品形態、絵画、彫刻、ビデオ、ミックスメディアインスタレーション、写真、パフォーマンス空間等が互いにぶつかり合うこと無く共存しており、それでいて、全然異なる表現である作品同士が不思議とゆるやかに結びついているように感じられた。その様子は、会場の写真をご覧頂ければ明らかかと思う。さて、ここに参加アーティストのリストを記載しておく。
Boris Detraz, Evor, Makiko Furuichi, Emmanuelle Hardy, Heejung Kim, Laurence-Louise Landois, Benjamin Moutte, Angeline Rethore, Jean-Philippe Rykaert, Manon Maurios, Manon Rolland, Stéphane Menti et Romain Teule, Amandine Ronzier, Anne-Sophie Yacono, Ariane Yadan, Anne Carrique, Jérémy Segard
(参考 HP)
まずはじめに、もう一度展覧会タイトル、Décongélation Prématuréesに込められた意味と展覧会コンセプトに戻ってみたい。この展覧会は前述したようにキュレーターを務めた美術家のAnne-Sophie Yacono声かけで、企画当初「食べること」をテーマにスタートした。多くの参加アーティストは本展覧会のための作品を構想した。「食べること」がテーマの展覧会。「食べること」とは何だろう。
第一に、一般的な意味において、それはもちろん食事のことだ。食事とは、生き物が生命の維持のために行う義務的な行為であり、行わなければ生き延びられない、と信じられているところのものである。それ故に食べることは生き物にとって本質的で、野性的•動物的でもある。野蛮であることを嫌うエレガントな人間たちは、古来より「食べる」という行為に様々な付加価値を与えてきた。例えば、美食。より良いものを食べれば人生が豊かになる、あるいは身体と精神が美しくなるような妄想。そして食の過剰と不足。現代の神経性/精神的な病の中で過食や拒食の問題は深刻さを増しており、フランスも日本も例に漏れない。動物的行為である食が、異なる意味を付与される事態である。または、流行のエコとかビオという言葉。エコで生きることが自然のためになる?ビオを食することはクリーンで優しい?だれがその確からしい結果を証明してくれるのか。そして、食べ物は腐敗し、腐敗を止めるために例えば冷凍し、細胞を仮死状態にすることができる。どんな季節にどんな国のモノも食べられる我々の超便利な世界は、冷凍食品に溢れている。さいごに、「食べること」は吸収•同化することであり、異物を飲み込み、それを砕いたり溶かして、自らの内側に取り込む行為だ。その行為はあたかも、捕えられた対象が捕らえたものの中に吸収される、つまり捕食者の勝利のように見えるけれども、被食者が捕食者を内側から侵食し、時間をかけて破壊するようなことかもしれないのだ。食べることは排泄することを招き、通常この方向性は一方通行であり狂わない。我々は皆、それは時間というものが一方的にしかすすまないので、このテーゼ「食べることは排泄することを招く」すら不変であると信じる。だが時々、時間が逆に進まないまでも、体調不良や薬物の使用により、非日常的な状況が創り出される際、我々は嘔吐する。嘔吐は、この確からしい矢印の方向すらひっくり返してしまう点で、偉大である。
今回の記事では、残念ながら全てのアーティストの作品に言及することは叶わず、6名の作家の作品を選ばせていただいた。ではさっそく見てみよう。
Fièvre ou Fontaine ou Ce que j’ai vu avant de vomir, Ariane Yadan (熱狂あるいは噴水、はたまた嘔吐の前に見たもの)
Ariane Yadanの作品Fontaineは、オープニングイベントのために作られたのだが、その彫刻から滴る真っ赤な液体が床などに飛び散ることもあり、その後の会期では展示されなかった。陶器で作られた精巧な頭部の上部が破壊され、そこから血の噴水がほとばしっている。壊れた頭部を持つ人物の表情は、作家が名付けたように、Fièvre興奮しているようであり、自らの内部を本来満たしていた体液が放出する様子に驚きを覚えているようでもある。幸いにも人間の感覚はそれぞれ独立して働くことができ、我々は目を閉じて静かにその噴水から液体が止めどなく流れてくる音に耳を傾ける時、それはまるで、我々の肉体を満たし、生き物を満たし、地球を満たす水の静かな流れを聴くことができる。
Scènes, Makiko Furuichi
Makiko Furuichiは、今回私にこの展覧会を教えてくれたアーティストで、水彩、油彩、コラージュで高い評価を受けるほか、パフォーマンスやビデオも制作している。彼女の作品に焦点をあてた記事は以前インタビューをした際に書かせていただいたのでどうぞお読みください。(salon de mimi, Makiko Furuichi)さて、この展覧会では体液や性器、腐敗や嘔吐という明瞭なアプローチが見られる中、Makiko Furuichiの「食」の捉え方はもっと総合的なものであった。彼女が描いたのは、生き物の相互作用の結果としての身体、「肉」である。様々なポーズをとり、多様な色と形をもつ肉体は、それらがもつエネルギーを世界に及ぼしているが、そのエネルギーは光合成を行う植物においてさえもじつは、外側からもたらされたものなのだ。彼女の描き出す世界では、そういった、人間と動物、動物と植物、内側と外側、世界と個体という、自明の区別が非常に自然に無に帰される。区別の無い世界は再度彼女の方法で統合され、表象されるのだが、その世界には、以前存在したような理不尽な選別や絶望的な差異の影はもはや見当たらない。むしろ、理想的な調和のイメージがそこにある。
Messagers sordides (Ange à la banane, Combat d’anges saouls, Ange nu), Boris Détraz
Boris Détrazは、本展覧会に我々が目にしたことも無い天使が描かれる3枚の大きなタブローを出展した。バナナをもった天使、酔った天使の争い、裸の天使がそれらである。彼らはいったい天使なのか?天使とは神の使いで、いたずらもするがピュアな心を持っていて、可愛らしい子どものイメージで描かれ、少なくとも我々は、そのような天使としか出会ったことが無い。直に会ったことがないにせよ、彼らは酔って乱闘するなど聞かないし、バナナをほおばらないし、淫らな意味で裸で描かれたりしない。赤と黒を基調に描かれたことも無ければ、顔面から水平に突き出す、ピノキオの鼻あるいはサギのくちばしのような突起物を持っていたりしない。Boris Détrazは伝統的な西洋絵画の中で天使の身体の真髄まで染み付いたステレオタイプをどこまで脱色、脱臭、解体することができるのか試みる。
Memento Mori, Benjamin Mouette
「食べ物を粗末にしちゃいけません」とはよく言ったものだ。誰のために?世界には食べられない人々がたくさんいるから。貧しくてお腹をすかせている人がいるから。作った人の心を踏みにじることになるから…。「人を殺しちゃいけません」という大前提が、突如拠り所を失ってしまう瞬間があるのと同様に、「食べ物を粗末にしちゃいけない」大前提はいとも簡単に崩れてしまうようなことがある。今日、スーパーに物が溢れ、総菜屋もレストランも、消費する量ぴったりを購入することなどあり得ず、常に過剰である。賞味期限が過ぎた大量の食物はそれを食べたい人の存在と独立して廃棄される。それがいかに理不尽に思えても、個人としての消費者には手に負えない大きなことであり、我々が捌かれたガチョウの胸肉の最も美味しいところだけを食べて残りをゴミ袋に入れようとも、あるいは隅々までキレイに食し、ガチョウに心からお礼を言おうとも、所詮は自己満足の問題である、言い換えると、それによって世界は変わらない。Benjamin Mouetteのビデオ•インスタレーション作品メメント•モリは、彼が生み出したマリオネットが狂ったように食事を貪る。暴食の様子を撮影したショート•フィルムが、その惨事の後のままに放置された汚れたテーブルの上のテレビ画面を通じて放映されている。壁にはvanitasの静物画が淡々と、生きているものは皆やがて腐って死んでいくという儚さ(vanité)を語っている。
The cherry on the top,Manon Rolland(Performance)
ヘンゼルとグレーテルは、森の中で迷子になっても、森の声が怖くても、お菓子の家を見つけて喜んだと思う。お菓子の家に心をときめかせない子どもはいない。カラフルなお菓子で組み立てられた彫刻に私たちはいつまでもワクワクさせられてしまう。クールなブラウス、エプロン、前髪をまとめる大きなブルーマリンのリボン、赤すぎる口紅にちょっとだけパントマイムを思わせる身振り。Manon Rollandのパフォーマンスは、展覧会のムードを突然パティシエのアトリエに変えてしまう。大きなテーブルに店開きしたアイテムを次々に積み上げていく。黄色、抹茶色、紫、ピンク、色とりどりのカステラや蒸しパン、パウンドケーキたちはうずたかく詰まれ、動物の飾りやロウソクと花火で飾り付けられて、さあ出来上がり。一見すごい色に見える全てのケーキは、彼女の手作りであり自然の色素や素材にこだわって作られ、所謂化学的な着色料のようなものを使用していないのだそうだ。ケーキはパフォーマンスを見守った人々によってたちまち切り崩され、貪られ、倒されてしまう。

Les portes de Chatteland, Anne-Sophie Yacono
本展覧会のキュレーションも務めたAnne_Sophie Yaconoは、パフォーマンス、絵画、彫刻など様々なメディウムを操る表現者であり、メディウムの特徴と向き合い、それらを自らの明確な目的に向かって産み直す彼女の作品には、強烈な性のコンプレックスがいつも影を潜めている。Les portes de Chattelandは、その陶器彫刻の精巧な色彩と形も、インスタレーションも、それがもつ小宇宙たるムードも、非常に素晴らしい作品である。彼女のリトグラフに、ダンテの神曲の地獄篇の一場面を描いた作品があるが、このフィクショナルな世界Chattelandの門(Les portes)という言い方も、我々のこの世界とは似つかぬ異世界への入り口としての門を想起させる。この「門」としての彫刻には穴があいていて、筒のような穴もあれば真ん中が裂け目のように細く開いたものもあり、切り株に据えられて固定されたものの他に、地を這う原始生物のような生命体が自由に動き回る。それぞれの彫刻は彼女の言葉では貯金箱(Tirelires)という存在から着想を得たそうだ。貯金箱とはその内部に異物をのみ込んで溜めたいだけ溜めることの出来る存在だ。私たちは、そこにお金以外のものも突っ込むことが出来る。そして蓄えて、ある日それがいっぱいになったら、金槌で破壊する。貯金箱の陶器彫刻はバリエーションある形態を持っているが、それらはすべて、中心にある最も立派な彫刻の子どもたちである。女性器の裂け目。我々はこれらの貯金箱がそのメタファーであったことを理解する。しかし実は、Chattelandの平和を保っているのは男性器の不在なのだ。貯金箱は自己充足していて、男性器を必要としない。Anne_Sophie YaconoはChattelandを女性性が優位に立つ世界として創造する。ただし、我々はその彼女の引き裂かれた欲望と悔悛をはっきりと目にすることになる。我々が中心にそびえる最も大きな女性器の裂け目を、その真後ろからのぞいたその瞬間に。
展覧会 Décongélations Prématurées
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Keith Haring « The Political Line » @ Musée d’art moderne, Paris/ キース•へリング
Keith Haring
The Political Line
19 Avril – 18 Août 2013
Musée d’Art Moderne de la ville de Paris
www.mam.paris.fr
Keith Haringは、1958年生れ、ニューヨークでストリートアートの先駆的アーティストとして活動した。コラボレーションしたアーティストには、Warhol、Lichtenstein、Rauschenbergという当時のニューヨークのポップアートの巨匠たちや、あるいはアウトサイダーアートのBasquiatらがいる。
彼の名が知れ渡ったのは、1980年、ニューヨークのメトロ構内の広告掲示板を彼自身のキャンバスに作り変えてしまうことによって始まったサブウェイ•ドローイングによってである。シンプルで明快、アニメーションやバンド•デシネのようなコミカルなデッサンはメトロ利用者(通勤者)の目にとまり、注目を集めた。
ストリートアートは彼にとって、誰の目にも触れる、もっとも平凡だがもっとも強力なマスメディアとして、彼の掲げる政治的であったり人道的であったりする様々なスローガンのプロパガンダのため有効だったのである。
パリ市立近代美術館(MAM)での回顧展となる今回の展覧会では、Keith Haringの多岐に渡った制作と関心のなかでも、展覧会のタイトル通りポリティカルなメッセージに着目して構成された。
参考までに、MAMのKeith Haring展 »The Political Line »のチャプターを以下に記しておく。
⁃ The individual against the state
⁃ Capitalism
⁃ Works in the public space
⁃ Religion
⁃ Mass Media
⁃ Racism
⁃ Ecocide, nuclear threat, apocalypse
⁃ Last works : Sex, AIDS and death
国家と個人の章において見られる作品にはしばしば、国民を搾取し脅かす存在としての「犬」が悪役として描かれる。Keith Haringは個人の自由が最大限尊重されることが理想国家の姿であるといわば盲目的に信じていた。ドローイングの中には、自由を主張して牢獄にいれられる人々、人々を痛めつけて苦しめる暴れ犬のほかにも、棒のようなものを持ち指導的立場にあるが実は国家に心を売ったロボットのような存在、そしてさらには、個性を失い無思慮のまま国家に追随する匿名的存在が登場する。
彼の生きた1960年代ー80年代、大量消費社会と経済成長のまっただ中、多くの表現者が様々に彼らの視野を示したようにKeith Haringもまたこのテーマに惹かれた。あるいは、公共空間の広告掲示板を自らの作品発表の場とするアイディアはこの大量消費社会とマスメディアに扇動され、豊かな生活を求めて毎日メトロで通勤するサラリーマンや労働者たちの目に触れることが前提である。したがって、そのナイーブな理想に水を差すようなメッセージは、通勤者の目を楽しませる以上の意味を持つことになる。
Keith Haringは伝統的カトリックの家に生まれ育ち、宗教が扇動した植民地支配の歴史や、現世の生活にそぐわない習慣の数々に反感を抱きながら生きてきた。そういったわけで彼の作品の中にしばしば現れる神の姿は、一人一人の人間を支配し、自由を奪い、牢獄に押し込める時代遅れなものとしてネガティブに描き出される。そして、人種差別主義、アパルトヘイトを批判し、「悪者」としての白人が黒人を奴隷化し、彼らを貧困に陥れたのだというストーリーを繰り返し描く。
また、1988年、広島の原爆ドームを見学したKeith Haringは大きな衝撃を受け、 »We know that ‘humans’ determine the future of this planet. We have the power to destroy and create. »と述べて、非核のための活動を精力的に始める。そして、1980年代よりアメリカでその脅威をふるい始めたAIDSの存在は、1985年に発表された顔中に赤い斑点を伴った自画像「ポートレート」に見られるように、彼の作品に姿を現してくる。1988年、自身がHIVウイルスに感染したことを知り、その2年後ニューヨークでその短い生涯を閉じた。
Keith Haring の作品はこうしてポリティカルな文脈で整理されてみると、当時のニューヨークのムードの中で、政治や民族や宗教の問題に取り組み、マスメディアの浸透をシニカルに捉え、非核や非エイズのためのメッセージを精力的に送り続けた、主題は多岐にわたるけれどもとても明解だと、あまりにスッキリ納得されてしまいそうである。しかし、それだけではなさそうだと、私には感じられる。最後に、彼のペイントにおいて私が気になっている二つのことについて記しておきたい。一つ目は、Keith Haringの表現におけるセックスの意味、二つ目は、彼の絵の中にしばしば見られる穴の空いた身体をもつ人の意味である。
ホモセクシュアルであったKeith Haringにとって、性行為は必ずしもアニマルとして生を再生産する「生殖」の含意に留まらなかったと思われる。さきほどの国家と個人の衝突の章であげた、匿名者が犬を犯するデッサンをもう一度見てみたい。犬に挿入した人間は、犬のオーラを得て、さらに無個性な人民によって崇められるセックスを獲得している。あるいは別のドローイングでは、抵抗する個人を征服しようとする棒を持った牢屋の番人は、彼らを支配するため彼らを犯す。Keith Haringにとっての男性器は、ある意味で凶器のように野蛮なものであり、理解不能なものでもあり、しかしある事柄の手段となるような存在であったのではないだろうか。彼の絵に見られる男性器挿入の意味を考えることは、避けて通れないように思える。
また、胴体の真ん中にぽっかりと空洞をもったキャラクターが頻出する。彼らは、怪我をしている様子もその穴によって苦しんでいる様子も全くなく、むしろ、その他の普通の人間よりも何かが吹っ切れた存在であるように描かれている。身体に穴が穴があいていること、その中を自由に空気や犬などが通り抜けていくことは、彼らにとってどのような意味をもつのか。Keith Haringの残した言葉によれば、初めてこのイメージの着想を得たのは1980年、ジョン•レノンが殺されたことを知った日見た夢の中にこのようなイメージが現れたのだそうだ。彼は、他の多くの作品がそうであるように、この作品にこれ以上の説明も与えておらず、タイトルも与えていない。あるいはまた、口から肛門(あるいは女性器)に棒が貫通したキャラクターもしばしば登場する。これもまた、「穴の空いた人」であり、そのような身体の描き出しに見られる人間の感覚といったものが、Keith Haringの作品全体に充満する、空虚なようでしかし決して耳を塞ぐことのできない不穏な通奏低音を奏でている気がしてならないのである。
*本展覧会は、8月13日までMusée d’Art Moderne, Parisで開催されている。
Joan Jonas « Reanimation » @Galerie Yvon Lambert, Paris / ジョーン•ジョナス « Reanimation »
Joan Jonas
Reanimation
April 27-May31 2013,
Galerie Yvon Lambert, Paris
Joan Jonasは1936年ニューヨークに生まれ、彫刻を学ぶ傍ら、現代詩および中国文化とギリシャ神話やその伝承に興味を持つ。コロンビア大学でファインアートの修士号を取得すると、60年代半ばより、Warhol、John Cage、Allan Kaprow、あるいはフルクサスのメンバーたちやBruce Naumanらが精力的に活動を繰り広げるニューヨークの前衛的なムードの中にジョナス自身も参入し、これらの新しい芸術から得た刺激が、彼女をパフォーマンス•アートへと導いた。
Joan Jonasはそれまで一貫してポップ•アートとミニマリズムにもっとも強い影響を受けてきたのだが、1970年代始めの作品ーMirror Piece (1971)ーにおいて、女性の身体を見たことのないような仕方で描き出すと同時に、空間と音の可能性を探るような実験的でコンセプチュアルな方法を模索する。あるいは同年に発表された最も重要な作品、Organic Honey’s Visual Telepathy(1971)では、表現のコンセプトをプロセスとて淡々と鑑賞者に見せることを徹底し、ミニマリズム的枠組から完全に脱出した。「女性によって演じられる女性イメージ」を探求するため、Joan Jonas自信が奇妙なドール風マスクをまとって、フィクションとしての別のパーソナリティーを演じる。親密さとナルシシズム、イデアとしての女性のジェスチャーやコスチューム、それらがときに主観的に、あるときは皮肉なまでに客観的に描き出される。Joan Jonasは、フェミニズムのアーティストとして、しばしば自らを見つめ、語りかけるようにして、女性のイメージ、身体とアイデンティティの問題に取り組み、ある一つの文化や社会の女性像を越えていくような新しく不思議なディメンションをもった女性像を表明している。彼女は、民族伝承や中国や日本などアジアの文化、あるいは神話や歴史など幅広いソースから得たインスピレーションを、ヴィデオ、デッサン、写真、オブジェクト、音楽、パフォーマンスという多様なメディアを組み合わせることによって作品として織り成す。
Joan Jonasのパフォーマンスについてはまた別の機会に改めて、他の作品にも言及しながらお話しすることにしたい。
さて、今回Galerie Yvon Lambertで2013年4月より展示されたインスタレーション作品 « Reanimation 2 »(2012)は、実は昨年、六本木のギャラリー WAKO WORKS OF ARTにおいて2月から1ヶ月間に渡り展示会が行われたので、そちらでご覧になった方もいらっしゃるだろう。そもそも、この作品« Reanimation » は、2012年6月−9月のdOCUMENTA(13)(Kassel)のメイン会場の一つであるKarlsaue Parkで展示された。公園内に設置された木小屋は、dOCUMENTA(13)のキュレーターであるCarolyn Chritsov-Bakargiefの提案でアーティストに与えられたのだが、彼女はその小屋の窓をスクリーンとして作り直し、4面のスクリーンを通じてヴィデオ作品« Reanimation »(In a Meadow)ヴァージョンを創り出した。
この作品は、アイスランドの作家Hallfor Laxnessの小説« Under the Glacier’に着想を受けて2010年より制作が始められた。人間には触れえない絶対的な自然の姿や動物たちの命を描くLaxnessの小説と、しかしそのGlacierは今日の世界において溶け出し、地球全体に異変を及ぼしつつあるというJonasの想像力を混ぜ合わせ、その世界観を彼女の解釈によって再表象したものだ。
dOCUMENTA(13)では、Glacierから二つのビデオ、もう一面にはFishのビデオを展示。残りの一面、最も大きなスクリーンには2012年に制作されたばかりの、Reanimation(2012)を展示した。氷と黒インクを使ったドローイング、氷は徐々に溶けていって黒インクはのばされながら、しかしどこまでのばされても決して透明にはならない。吊り下げられた無数のクリスタルがキラキラするフォトジェニックなスクラプチュアがアイスランドの秘境を彷彿とさせる。また、雪の粒というよりもむしろ氷の粒といえるほど透明な地面に黒インクで描き、そのインクが一瞬にしてその表面で冷たい粒と化すさまは、言語描写の限界を超えて、あまりにも美しい。
Joan Jonasの展覧会を訪れる楽しみは、もちろん作品を前にパフォーマンスを伴っていれば彼女の身体のムーヴメントとヴィデオインスタレーションが生み出す生きた物語であるのは言うまでもない。純粋に展覧会について述べるなら、それは彼女のインスタレーションの空間に応じた様々な変化である。たとえば、Galerie Yvon Lambertでの展覧会« Reanimation 2 »と、dOCUMENTA(13)(Kassel)は、そのプレゼンテーションの仕方がまったくことなる。dOCUMENTAでは、鑑賞者は小屋の内側に入ることは出来ず、窓の外からスクリーンを覗き、さらにその家の中に展示されたデッサンやクリスタル彫刻を覗くことによって、極北の秘境を内側に向かってのぞき見する形をとっていたが、Galerie Yvon Lambertでは、鑑賞者はあたかも、物語の禁忌を犯すような大胆なシチュエーションに投げ出される。Laxnessの小説の内部、人間が足を踏み入れてはならない秘境にこっそり侵入し、本来見ることの出来ないはずの自然の営みや命の姿を盗み見る。そして、その大切なものが溶け出し、破壊されている様子すらも目の当たりにすることを強いられる。われわれは、温かく平和で、危険の無い「内側の世界」で、彼女が「外側の世界」のことを問いかけているのに耳を傾けるだろう。そして、その親密な語りは、我々の「内側」をとおりぬけて、それぞれの物語としてあつまり、やがて静かな音楽のように響き渡るだろう。
*WAKO WORKS OF ARTのインスタレーションからGalerie Yvon Lambertでの展示を行うにあたり、Jonasは木枠と和紙で作ったスクリーンを利用し、日本の障子のような演出を施した。これは、より構造の内部にいるかのような鑑賞効果を高め、鑑賞者がダイレクトに映像に出会うためのアイディアである。
*dOCUMENTA(13) Reanimation (In a Meadow)
*WAKO WORKS OF ART Reanimation
Photo Album de la conférence de H.Yohioka(29/5), « Mobilisable 2013 » (30/5-31/5)
Album de photos avec les images prises du 29 au 31 mai, j’ajouterai d’autres images et certaines vidéos prochainement.
5月29日の吉岡洋さんの講演会、および30日•31日の »Mobilisable 2013″で撮影した写真を掲載します。追加写真やショートビデオ、吉岡さん講演録画リンクなどは随時連絡いたします。
la conférence de Hiroshi Yohioka
le 29 mai 2013
Ensad, Paris
Mobilisable 2013
le 30 et le 31 mai 2013
Labo de l’édition, Paris
Les Citrons, projets d’un livre numérique expérimental / 『檸檬』e-book作品の試み
Ensad Lab, Emeri (Ecran mobile et récit interactif)が中心になって計画してきた展覧会« Mobilisable 2013 »に二つの作品をだすことになりました。コンセプト自体は2年前くらいからずっと考えてきたもので、使用写真などのメディアも、かなり長い時間かかって作ってきました。たくさんの方々のご協力も得ました。本作品は、電子書籍の形をとっていますが公にダウンロードは出来ないので、展覧会にお越し頂くか、お会いした際にご覧頂ければと存じます。作品のイメージビデオは以下にあります。
(また、展覧会のサイトは こちら 、また詳細は こちら(salon de mimi内) にもございます。)
大久保美紀
檸檬1と檸檬2
2013年 iPad用デジタルブック作品として
写真:大久保美紀
コンセプト:大久保美紀
技術:ドミニク•キュナン
iPad、フォトアルバム、シュミレーションビデオ
本作品は、1901年生、31歳で夭折した大正文学界の鬼才、梶井基次郎の短編小説『檸檬』(1924年)の現代的で実験的な読書経験を追求した作品である。基次郎が21歳の時に書いたこの散文は、非常に奇妙で一貫性がなく、それでいて作家の鋭い感覚や世界への視線や直観的な解釈といったものが随所に浮かび上がるように表現されている。1920年頃より、肋膜炎にかかり、その肺尖カタルに苦しむ。退廃的な生活と母への贖罪という矛盾した感情に引き裂かれながら5年かけて高校を卒業した後、東京大学の英文学部に進学する。矛盾したように見える要素が共存する複雑だが豊かな文体、それは洗練されたセンスを予感させるもの、平和的でしかしメランコリックなものがそこにある。日本の伝統文学の当時の自然主義とも耽美主義ともつかぬ、あるいはまた西洋的な香りを感じさせる、私小説的でありながら独自のものである。
この作品を本プロジェクトで取り上げたのは、この作品が古びない芸術的価値たるものを感じさせるからに他ならない。一見すると、ある意味で時代的で社会的で文化的で個人的な主題をしかもかなり独自の言語、文体で綴られた(基次郎の文体は日本人から見ても特徴的である)文学作品が、全く別の言語システムの中でどのように独り立ちし、そしてどのように受け止められる可能性があるのか、そのとき、新しく生まれた翻訳文学と、オリジナルの文学の間にはどのような関係性とギャップが生まれ得るのかという、長きに渡る個人的な関心事項に深く触れる。
現代は、インターネットや翻訳システムの開発、目覚ましく進化する同時翻訳や、文章や小説の電子アーカイブ化のなかで、翻訳文学の持つ意味も変化しつつ在ると考えられる。
そのようにある作品はしばしばそれが生み出された言語と切り離された状態で味わわれ、評価され、愉しまれる。翻訳文学は、しかしながら、オリジナルとともにある。あるいはそこから遠く隔たって立ち現れたとしても、本質としてそれらは共にあり、共にあり続ける。
本作品では、そのことを、1においては重ね合わさせた異なる二カ国語のテクストによって表し、2においては音声とビジュアルがシンクロナイズされるという方法で表現した。
Le Citron 1においては、我々はぴたりと重ねられた異言語のテクストに戸惑い、その内の一つを選択しようと試みる。背景のイメージは、各々のページのテクストが表象する物語の場面と対応しているのだが、それを隠していたテクストが失われると鮮やかな色彩を取り戻す。さて、テクストを追いかけてそれらがあるはずの方向に場面を滑らせると、そこには非日本語話者にとって不可解な言語でしかない「日本語」で書かれたオリジナルのテクストだけが黒い背景の上にくっきりと浮かび上がる。そこを逃れようとして、画面上に指を滑らせても、そこからどこにも行くことは出来ない。読むことの出来ない本は、放棄されてしまうのだろうか。しばらくじっと待っていると、もう一つの『檸檬』がゆっくり浮かび上がってくる。
Le Citron 2においては、鑑賞者は一冊の写真アルバムを手渡される。全ての写真は白黒で、頁番号がふってある。そのイメージにぴたりと画面あわせると、白黒のイメージがぱっと鮮やかな色彩を帯びた同じイメージとして交換される。それが消えると、一本の糸のようにフランス語の檸檬のテクストが一定のスピードで流れてくる。同時に日本語で朗読する声が重なる。読者が読みたいリズムでストーリーを読み進めるという行為は、ここでは朗読者のリズムで物語が紡がれ、それにシンクロするテクストを追いかけるという行為にすり替えられてしまう。
本文の朗読は、吉岡洋さん、コンセプトアドバイスはジャン=ルイ•ボワシエさん、そしてプログラミングはドミニク•キュナンさん、そして京都写真の撮影協力で田中学さんにお世話になりました。ありがとうございました。
本作品のイメージビデオはこちらです。
Miki OKUBO
« Le Citron 1 » (développé sous Mobilizing, modèle le diorama)
« Le Citron 2 » (développé sous Vuforia, la réalité augmentée)
mai, 2013, pour les projets d’un livre numérique expérimental
Médias : Miki OKUBO
Concept : Miki OKUBO
Conseil : Jean-Louis BOISSIER
Programing : Dominique CUNIN
Voix : Hiroshi YOSHIOKA
iPad2, livret de l’album de photo, maquette 1, maquette 2
Dans le cadre de la recherche sur les livres numériques expérimentaux, ces deux projets jumeaux proposent une nouvelle forme de lecture de la nouvelle intitulée « Le Citron » (1924) de Motojiro Kajii, écrivain de génie à l’époque de Taishô. Motojiro Kajii naquit en 1901 et mourut d’une pneumonie en 1932 à l’âge de 31 ans. L’histoire « Le Citron » écrite quand Kajii avait 21 ans est un texte étrange. Il manque de cohérence et montre un air de décadence, toute fois, dévoile une vision sensible du monde, une sensibilité subtile, et des interprétations précises de l’auteur.
Il souffrit de la pleurésie ensuite de la catarrhe chronique, et décéda sans se guérir. Déchiré entre les sentiments contradictoires : une passion de la littérature qu’il n’atteignait qu’au travers d’une vie décadente, mêlé à un sentiment de rédemption apporté par sa mère qui le soutenait. Kajii finit ses cinq années d’étude au lycée et commença ses études de la littérature anglaise à l’Université de Tokyo (l’actuelle Todai). Son style d’écriture est complexe et riche par la coexistence de l’ensemble des traits antonymes, comme sophistiqué, paisible à la fois mélancolique. Il n’était pas écrivain naturaliste ni esthéticien. Ses ouvrages souvent influencés par l’esthétique occidentale semblent être une autofiction, cependant il est toujours impossible de les définir.
Le choix du texte s’est fait, d’une part pour sa valeur artistique impérissable de l’ouvrage « Le Citron », d’autre part pour certaines caractéristiques de style chez Kajii qui convenait à mes intérêts à propos de la littérature traduite. Employant un vocabulaire unique, son texte est basé fondamentalement sur une ambiance de l’époque et la culture, traitant des thèmes personnels. Que se passe-t-il dans la relation entre le texte original et traduit, quand ce texte sera traduit et deviendra autonome dans une autre langue complètement différente ? Je m’intéressais à ce point-là.
Dans la vie contemporaine, nous vivons en bénéficiant de développements impressionnants des systèmes de traduction, comme certains logiciels qui permettent de traduire des textes en temps réel. Cela modifie la signification et la position de la littérature traduite. En outre, l’accélération des techniques pour l’archivage numérique des livres bouleverserait aussi ses modalités.
Néanmoins, il va de soi que la littérature traduite n’existe qu’avec les textes originaux. Même si, grâce aux systèmes de traduction sur le réseau, on a l’impression que la littérature traduite soit parfaitement transparente et superposée sur le texte original, ces deux textes sont fondamentalement différents bien qu’ils n’existent qu’ensemble, et qu’ils ne s’oublient ni abandonnent jamais.
D’abord, dans « Le Citron 1 », deux textes de différentes langues superposées jouent un rôle important, dans « Le Citron 2 », les lecteurs auront deux informations différentes : média sonore et texte mobile.
Dans « Le Citron 1 », nous sommes embarrassés par l’illisibilité des textes et finirons par en choisir un. Les images de fond en tant qu’information visuel représentent une atmosphère ou bien une scène de pages. Quand nous glissons sur la page noire à droite, il n’y a qu’un texte japonais, sans possibilité d’obtenir un texte compréhensible pour les lecteurs francophone. La traduction est un travail du « temps » où le traducteur prend un moment suffisant pour s’immerger dans l’univers de cet auteur et retrouver petit à petit son récit dans un autre système linguistique. Nous, les lecteurs, partageons ce temps indispensable afin d’atteindre un autre ouvrage « Le Citron » qui viendrait de naître, devenu autonome.
Dans « Le Citron 2 », les lecteurs seront invités à faire une expérience de lecture consistant en deux différentes actions synchronisées. Quand les mêmes images de fond que « Le Citron 1 » seront captées par l’écran de l’iPad, ces images en noir et blanc se rendent en couleur, puis, la voix du déclamateur et le texte mobile simultanément commencent. Nous pourrions quitter la page commencée, cependant, il n’est pas possible de choisir une de ces deux actions, ni de revenir en arrière pour récupérer la partie déjà disparue de l’écran même si nous n’avons pas réussi à de le capter. Ce qu’il existe là est une histoire unique, « Le Citron » reconstitué différemment que l’original…
(Miki OKUBO)
Mobilisable 2013 au Labo de l’édition, 30 et 31 mai 2013
Mobilisable 2013 au Labo de l’édition, 30 et 31 mai 2013
Mobilisable 2013, ouvrages expérimentaux pour écrans mobiles
Deux journées au Labo de l’édition*, jeudi 30 et vendredi 31 mai 2013, de 14h à 18h.
展覧会 « Mobilisable 2013 » @Labo de l’édition, 2013年5月30日、31日(14時−18時)
ラウンド•テーブル『モバイル•スクリーンのための実験的エクリチュール』、5月31日18—20時、同会場にて。入場自由。ぜひお越し下さい!
(texte cité de site « mobilisable 2013 »)
On le sait, en l’espace de peu de temps, l’écran est devenu fondamentalement mobile. S’il vient du téléphone, installé sur les réseaux, il est à la fois un ordinateur et une page. Ce qu’il affiche, et ce sur quoi il permet d’agir à la fois intuitivement et selon nos habitudes culturelles, est aussi bien de l’ordre du livre et de la carte, du film et de la télévision, de l’outil et du jeu. Ne pourrait-on pas regarder ce que l’écran nous offre comme une entité qui serait plus ou moins tout cela à la fois, et même dans une version « augmentée » ? C’est ce type d’« ouvrage pour écran mobile » qu’il est passionnant d’explorer aujourd’hui, sans se poser nécessairement la question de sa nature ou de son destin. Ce sont un certain nombre de prototypes de ces ouvrages expérimentaux qu’expose « Mobilisable 2013 » au Labo de l’édition, sur une proposition du laboratoire EnsadLab de l’École nationale supérieure des Arts Décoratifs, associé à l’Université Paris 8 et à la Haute école d’art et de design-Genève. À l’exposition et à la démonstration s’adjoint bien sûr la discussion : des rencontres et une table ronde.
La table ronde « Une écriture expérimentale pour écrans mobiles » (jeudi 30 mai, de 18h à 20h) invite des designers et chercheurs à témoigner et à débattre des nouvelles formes de consultation et de lecture, mais d’abord des questions d’expérimentation et de formation attachées à une écriture propre aux ouvrages pour écrans mobiles.
Liste des intervenants :
Jean-Louis Boissier, chercheur à l’Université Paris 8 et à EnsadLab
Dominique Cunin, artiste, chercheur à EnsadLab
Jean-Michel Géridan, professeur de design graphique et interactif à l’ESAD-Le Havre
Anette Lenz, graphiste, professeur à la HEAD-Genève
Camille Pène (Labo de l’édition, modératrice)
Étienne Mineur, designer, professeur à l’EnsAD et à la HEAD-Genève
Daniel Sciboz, graphiste, professeur de design interactif à la HEAD-Genève
Douglas Edric Stanley, professeur de design interactif à la HEAD-Genève
* Labo de l’édition
http://www.labodeledition.com/
2, rue Saint-Médard, 75005 Paris
Tél : +33 1 83 64 89 00
contact@labodeledition.com
Gilles Ouaki « I lock you and more »/ジル•ウアキ 愛の南京錠を集めよ! @moretti & moretti
Exhibition « I lock you and more »
Guilles Ouaki
du 19 avril au 22 juin 2013
Gelerie moretti & moretti ( site of gallery here)
(artist HP here)
われわれは、夢を見ない。あたかも繊細で非常に傷つきやすいフリをしているが、裏切られ驚かされても、深いところでは実は痛くも痒くももない。愛はデリケートで感傷的、多くの人の人生の中でとりわけ大切な主題である。人々は愛を得るために、そして、ひとたび得た愛をもう決して失わないために、じつに努力家である。ちぎりをむすぶ(精神的に、肉体的に、法的に、社会的に)、目印をつけてアイデンティファイ可能にする、最終的に戻るべき場所を約束する、あるいは、お互いがお互いからひと時も離れたり忘れたりできないようにつなぎ止めておく。「嫉妬」という感情は、対象は違うにせよ小さな子どもでも抱くことの出来るプリミティブな感情であるにもかかわらず、人の一生において多大なエネルギーと時間を費やす、いわゆる「愛」の領域を支配する最も中心的な感情である。嫉妬の物語は何を具体的に思い出すでも引用するでもなく、一様にして、愚かしく悲惨である。それをあたかもエレガントでロマンティックな衣を着せてお洒落に表現する事によって「素晴らしい作品」とか「人間の本質を巧みに絵が描き出した名作」などと崇められる場面に出会うたび、むしろ、生き物としての人間の限界にぶちあたってしまったようで、胸が悪くなってしまう。このよからぬ感情が制御を失って悲惨な結果を招くことを予め防ぐため人間が考えたのが数々の約束事だ。鍵と錠は、その愛の約束の忠誠さを象徴するモチーフを代表するものだ。鍵と錠によって愛がどこかへ行かないようにつなぎ止めようとする愚かしく愛らしい努力については以前、貞操帯とパリのポンデザール橋を飾る無数の「愛の南京錠」についてのエッセイでとりあげたことがある。この「愛の南京錠」について簡単に説明しておこう。パリにはポンデザールの他にもいくつか愛の錠を括り付けるのにゆかりの橋がある。この習わしは、有名な遺跡や観光名所に自分と恋人の名前を彫りつけたり、日本であれば縁結び神社に願掛けをしにいくようなものだ。このような名所はおそらく世界中にあるのだろう。さて、そのエッセイの冒頭はこのように始まる。
愛とは、しばしば、お互いのセックスに錠を掛け合うことである。(ここでいうセックスとは、性交渉だけでなく性器そのものや性的イヴェントなど、広義の性をさす。)愛と施錠の物語パリのセーヌ川に架かる橋、Pont des Arts(ポンデザール)には無数の南京錠が付けられている。(写真3) パリジャンのカップルも観光客も、愛する人とパリに来たならば、二人のイニシャル入りの南京錠(愛の南京錠/Cadenas d’amourと呼ばれる)をこの橋に括りつけ、しっかりと錠を閉めた後、その鍵を川に投げ捨てる。こうして、錠を解くことのできる唯一のアイテムである鍵は、世界から消え失せてしまった。二人の愛の証である南京錠は永遠に解錠されることはなく、パリのセーヌに存在しつづけるだろう、というとっても素敵な話だ。
鍵は、様々なシチュエーションで、愛しあう恋人同士を象徴するモチーフとしてロマンティックにふるまい続けてきた。しかし、「愛しあうこと」のゲーム・ルール(règle de jeu)は、相手のセックスをお互いに施錠することである。ポンデザールを訪れる恋人たちがはにかんだ笑顔で遂行しているのは、相手の性交渉の決定権を所有し管理しあうための、あの恐ろしい貞操帯の施錠の儀式と本質的に変わりない。人々は、こうやって錠をして、その鍵を破棄することによって、永遠の誓いの成立に安堵する。(…)
(批評誌『有毒女子通信』第10号 特集「ところで、愛はあるのか?」連載 《小さな幸福をめぐる物語》―第一話 「愛と施錠の物語」より。フランス語版全文はこちら)
« I lock you and more » 展のアーティストGuilles Ouakiは、恋人たちが心と願いをこめて括り付けた愛の錠をこっそりもぎ取ってコレクションし、それを自分の作品として販売/発表しているアーティストだ。実は、あまり公に知られていないことだが(隠してもいないとは思うが)、パリ市は定期的にこのcadenas d’amourを掃除していて、一定量(景観として美しいと見なさす事の出来る錠の量)を越えた錠は、錠切りの悪魔の道具により、いとも簡単に切り取られて捨てられる。Gilles Ouakiそのパリ市による清掃の直前にいつも愛の錠コレクションを探しにやってくる。どうせ清掃が来たら無作為にもぎ取られてしまうので、Gillesは念入りにお気に入りの素敵な愛の錠を選ぶ。素敵なデザインの錠、メッセージが掘られている錠、愛の深い事がそこから伝わってくる特別な錠…。彼はその錠を様々な方法で作品化する。このオブジェの一つ一つは、重たい。重たいというべきか、しつこいというべきか不吉というべきか。壊された錠のおのおのには個別の恋人たちの物語が託され、その臭いがぷんぷんする。切られた錠はもう二度と閉じない輪を描いており、無造作に行われた切断や、その痛々しい切り口と対照的に名前や絵が描かれた部分などを併せ持ち、不穏な存在である。
大判のオリジナルプリントの裏側には、大きく引き延ばされた写真に写っているものと同じ南京錠(実物)が留められている。この作品を購入するということは、どこの恋人のものかも知らぬ愛の南京錠(しかも破壊されてしまった)の運命を請け負ってやることだ。持ち主の恋人たちがどんなカップルなのか、どんな顔でどのくらい愛し合っていて、今現在どこにいるかなどということに想いを寄せることもあるかもしれない。さらには、ある時アーティストがとりわけ目的も使い道の見通しもなく手に入れた生地サンプルのカタログのページに、その生地の色や質感にマッチする錠を一つないしふたつ選び、貼付けたアサンブラージュの作品群。このように額に入れて作品化されると、なるほど、Gillesに選びとられることがなければパリ市の清掃員によってゴミとして回収されて一瞥すらされることなく廃棄されたのに、チャンスを得て芸術作品として救われた幸運な南京錠たちだ、と思うかもしれない。そもそも南京錠は鍵を廃棄することによって恋人たちの永遠の契りの象徴となり得たにも関わらず、いとも簡単に切断され、誰かのオフィスや家の壁に飾られる運命かもしれないのだ。
私はこの愛の南京錠を馬鹿にしているわけでも嫌っているわけでもない。こんなエッセイを書くくらいだから、むしろ気になっている。しかし、なぜ愛し合う感情の継続のため橋に錠を結びつけるのかという問題が脳裏をかすめる。愛する気持ちのモチベーションは、ここにおいて内部充溢しておらず、その外側のもっと大きなものに頼ろうとしている。明日には変わってしまうかもしれない燃え上がった気持ちやいずれ果ててしまう命よりもずっと確からしくて不朽のもの。実は、愛する事に限らず、人々の活動はこのような外在する動機づけで満ちているとすら言える。それがたとえ非常にナイーブに行われていたとしても、いかに愚かしく見えても、それは依然としてひとの本質のかけらである。この展覧会 »I lock you and more. »は、愛の南京錠を破壊を見せながら、ひとびとの根拠なき安堵を打ち砕き、それは確かに少しだけ気持ちいい。
書き散らかしの信仰 :「現代的ドラマツルギとその構造に基づく文学創作」/ Création des romans selon la nouvelle dramaturgie et structure littéraire
2013年パリ第8大学Arts Plastiquesの学部学生を対象とした授業で、後期(2月~5月)「création littéraire / 文学創作」と題された授業を行った。この授業は前期の講義形式とは異なる実習の授業である。パリ第8大学の芸術学科の特徴の一つは学生の幅広いポテンシャルと興味に応えるバラエティに富んだ授業である。実に前後期合わせれば300もの異なる授業が提供されている。さて、フランス語ネイティブ話者でない私が「création littéraire / 文学創作」などと題された授業をするのは、もちろん一般的な意味での文学作品の創作のスキルを学ぶためなどではない。しかし、実習という授業のスタイルを最大限に生かした制作(の嵐)を経験し、その行為ついていちいち考えるためである。
参考までに、シラバスに掲載した詳細は以下。
Titre : Création des romans selon la nouvelle dramaturgie et structure littéraire
Contenu : Dans la société informatique, les développements techniques des jeux vidéos et l’expérience généralisée de la vie virtuelle modifient radicalement la construction littéraire et la dramaturgie. À travers ce cours, on réalise des créations de romans (courts récits dont la forme sera à choisir) en se référant aux caractéristiques structurales, soit de “Keitai-Novel”, “Twitter Novel”, ou encore “Game Novel”. On les diffusera aux lecteurs sur le réseau en réfléchissant à la meilleure stratégie, ou bien on fabriquera un livre imprimé. Ce cours pratique sera conduit en relation avec le cours thétique “Exposition de soi et dispositifs mobiles”.
題目:「現代的ドラマツルギとその構造に基づく文学創作」
今日の情報化社会の中で、コンピュータゲームの技術発展やヴァーチャルリアリティーの日常的経験が我々のライティングやドラマツルギの構造にまで影響を及ぼしている。本実習では、このような変化したライティングの構造的特徴に基づいて様々な可能な形式を選択の上、短編を書く。ケータイ小説、ツイッター小説、ゲーム小説などもその選択肢に含まれる。ストラテジーを練り、最も効果的な方法でインターネット上で発表するか印刷して製本する。本演習は、前期講義「自己表象とモバイル•メディア」の関連授業である。
本演習は、全12回(1回150分)を大きく3つの項目に分けた。
1、ミニブログを利用し、短編小説を書く
2、日記(ブログ)について考え、日記を書く
3、自由なメディアを用いて私小説を創る
第一部では、ケータイ小説、ライトノベルやゲーム小説(オンライン小説)といった、文学と非文学/プロの作品とアマチュアの作品の境界線を揺るがせながら存在するような作品群の物語構造に着目する。これらの新しい文学作品は経済的なインパクトを考えれば決して無視できない重要な傾向を示しているにも関わらず、クラシカルな意味での小説とこれらの創作は頑固なまでに隔たれがちである。しかし、このような物語に深く侵食された今日、実際に人々がものを書くそのありようは、レシの構造の変化の影響を否応なしに受けている。発話が断片化するだけでなく、その結果、テクスト自体の断片化はロジックの方法にも影響を及ぼす。ミニブログやソーシャルメディアにおいて日々何かを書くという経験を「小説を書く」ことと関係付けられるだろうか。
第一部では、シンプルなゲームのルールを共有し、梶井基次郎の『檸檬』をベースにした幾つかのライティングを実践した。プラットフォームはツイッターを使用した。
①リレー小説(タイトルと出だし、終わりを共有し、その間を参加者で繋ぐ。一つのエピソードはツイート1回分で書かれなければならない。)
②ツイッター小説 課題創作、自由創作(リアルタイムにエピソードごとツイートし、物語を紡いでいく。長さは自由。)
③紙に書くツイッター小説 (②と同じ構想の物語を紙に書く/タイプする。文章表現、物語の長さ、文体は全く異なるものとなる。)
第二部では、日記、自伝、自画像(セルフポートレート)、私小説をキーワードに、今日「私」について書くとはどんな意味を持つ行為なのか考える。日記帳それ自体に錠がついていることもあり、誰にも見られないようにコッソリ書き綴る日記と、赤裸々に綴られた日々の出来事や心境を写真を添えてリアルタイムで公開し続けるブログ。両者は共に、「私」について書く行為に違いないが、その目的も方法も異なる。読まれる事を意識して書かれるブログは、意識的にも無意識的にも、作者が演劇的に振る舞うように促す。演劇的振る舞いには誇張やでっち上げ、噓も含まれる。発表することを前提に書かれた日記は、それがもし物語的変形を含むのであれば、「私」を主人公に織られたオートフィクションと果たして違うものと言えるのだろうか。
第二部では、参加者それぞれに「私にかんする5つの話」を書いてもらった。全体を通じてのタイトルと、各々の話には個別のタイトルをつけ、それぞれの話は個人が選んだ何らかのメディア(写真や音楽、ヴィデオなど)を伴ってブログ記事として発表する。日記の枠組みの中で、どの程度本当の話を書き、あるいは演出するかはそれぞれにまかされている。蛇足であるが、本創作の一つのアイディアの例として、5つの話を写真を添えて授業ブログに掲載した。参加者の多くは、一例としてこれを参照している。(pdf.Les histoires ordinaires(en français), 日本語版はこちらにもあります→salon de mimi,尋常な話 1,2,3,4,5 )
第三部は、文学のみならず、現代アートの領域に目を向けたときにも私小説的なアプローチやテーマはクリティカルな位置を占めていることを認識した上で、私小説のさまざまな方法について模索する。さらには、小説創作のプラットフォームはウェブ上にも見られ、それは必ずしもプロになる事を目的とせずにアマチュアのライターにも広く門戸が開かれているように見える。私たちが「私」についての物語を創作し、それを授業サイトを通じて発表できてしまい、作品がインターネットを通じて誰かによって鑑賞されること、そのたやすさをどう考えれば良いか。あるいは、たやすさの反面、情報を発信してもそれが誰にも読まれないかもしれない可能性(現実)につきまとう空虚な手応えをどう生きればいいか。書き散らかされ、放置されたテクストの山は積み重なる一方であり、情報発信のたやすさはこの山の巨大化に協力するよう全ての個人を招待する。
第三部では、テクストに限らず、自由なメディアを選択の上、オートフィクションを完成させ、その内容を授業ブログに発表し、最終授業で参加者に紹介することにした。
本演習ではレポート2回が課され、受講者はその問題について作成したレポートを同ブログに公開した。
Sujet du rapport 1
Réflexion sur la pratique de la création littéraire en diffusant les fragments en temps réel comme micro-récits. Analysez aussi les nouvelles modalités de l’écritures fragmentée en comparant les 2 moyens différents de l’écrit : sur Twitter et sur papier.
レポート課題1:ミクロブログを通じた短編のように断片的に拡散される文学創作の実践について考察する。断片化されたテクストのあり方についても分析する。
Sujet du rapport 2
Après avoir lu l’ensemble des journaux intimes publiés sur le blog…,
– Publier un journal intime sur le réseau et en tenir sur un carnet sont des expériences tout à fait différentes, car, quand on le publie sur internet, il est indispensable d’être conscient du regard des autres. ( L’existence de lecteurs inconnus ) Comment cette prise de conscience et cette situation particulière influencent ou modifient l’écriture d’un journal intime ?
– Aujourd’hui, le blog ou bien les sites comme interfaces qui proposent de devenir “écrivain amateur” offrent une grande possibilité pour la création littéraire, comme s’il était désormais plus facile de vous exprimer dans l’écrit. Argumentez votre point de vue et vos remarques à propos de l’acte littéraire dans la société informatique.
レポート課題2:授業ブログ(Le cours)上に公開された作品(journal intime 2013とタグのあるもの)を読んだ上で…、
—インターネット上に日記を公開することと日記帳に綴ることは異なる実践である。インターネット上に公開する際には他者がそれを読む事が前提ととなっているのは言うまでもない。その読まれ得るという意識は日記を書く行為にどのような影響を及ぼすか。
—今日、ブログやアマチュアライターの活動を勇気づけるようなサイトは、文学創作の可能性を切り拓き、それはあたかも、これから人々は書くことによって容易く自己表現できるのだと主張しているようでもある。情報化社会の中で、ものを書くとはどのようにあるべきか。
昨年の9月に開設したこの授業ブログは、現在500もの記事が文字通り「散乱している」。各々の独立した情報が整理されたページと違い、ホームを覗けば、タグごとに検索しないかぎり、投稿された時間順にひたすら記事が現れる。書き手の殆どはソーシャルメディアを利用した経験があり、チャットやメールなどのデジタルテクストによるコミュニケーションに慣れており、中には個人ブログに日々日記を書いている。彼らはウェブで言葉を発することに何の恐れもなく、戸惑わない。さきほど「散乱している」と言ったが、私は故意にそれが散らかるように仕組んだのではないし、各々の記事にはタイトルもキーワードもタグもついており、カオティックな本棚よりも遥かに整然としているのかもしれない。それでもなお、この場所は何となく不穏である。ウェブリテラシーとか、ウェブ時代のルールのようなものがあり、繊細できちんとしていて情報リテラシーがある先生ならば、授業ブログは、各々の記事のクオリティーを高くしようとか、書き間違いや誤りは皆無にしようとか、生徒の書いたものを隅々までコントロールしてその内容を管理把握しようとか、せめて前のスメスターの記事は消そうとか、考えるのかもしれない。私は今のところそれをしていない。勿論、誤字脱字のレベルなら外国人の学生も多いパリ第8大学なので添削めいたことをするのは悪くない。その外で私は今のところ、全ての記事を残し、全ての書き手にも彼らが望むなら、いつでもログインして自分の記事を直したり消したり新たに書き加えたりする可能性を開き続けている。にもかかわらずその結果は、自分の書いた物がこんなにも閲覧可能に置き去りにされているのに、誰一人としてそのテクストを拾い集めに行かず、振り返って直そうともせず、あるいはすんだ事だからと言って処分したりもしない。大学生活では次々に課題が与えられ、論文やレポートやプレゼンが課され、それらを超高速でこなして、できるだけ良い点数で単位を取得しなければならない。したがって、授業で要求されたならレポートをウェブで公開するのも仕方ないし、済んだ事は基本的に振り返らない。この諦めの態度は、悪く言えば堕落であり、良く言えば、底抜けにいさぎよい。
私の行っていることは、いわゆる完璧志向の既存の情報リテラシーを信仰する人には最強の堕落と見なされるだろうし、授業のウェブサイトはそのように「あるべきでない」と否定されるだろう。私はそう思う人がたくさんいるだろうことと、その憤慨は理解した上でなお、この書き散らかしたものたちが何か大切なことを語っている気がしてならない。書き散らかしこそが本質的と思っている一面もある。そして本実習の結果は参加者に実験的書き散らかしを経験してもらう事でもあり、そのことについていちいちああでもないこうでもないと考えてもらうことであった。そしてその考えた事をウェブおよび物理的空間(授業中)の両方で緩やかにでもいいから共有するということが、このCréation des romans selon la nouvelle dramaturgie et structure littéraire(「現代的ドラマツルギとその構造に基づく文学創作」)と題された授業で目指したことである。
*Le Coursの今後のゆくえは未定である。個人的計画ではまだしばらく、「このまま」である。ちなみにどなたでも筆者としてメンバーになることができる。参加希望があればどうぞご連絡ください。(Le Cours :http://www.mrexhibition.net/cours/)






























































































