09/9/19

ホメオパシー(同種治療)について 6  ホメオパシーは妊産婦の味方?

ホメオパシー(同種治療)について 6 
ホメオパシーは妊産婦の味方?(2019年9月9日)

こだわりや詳細な知識あるいは信仰を持たずに、ひょっとするとそれがなんであるかさほど疑問視することもないままにホメオパシーを試したことがある人の中には、それが妊娠と出産をめぐるコンテクストだったという人も多いはず。ホメオパシーは、フランスでは2019年現在で、なんと半数ほどの大学の医学部や薬学部で教えられている。つまりそこでは、ホメオパシーを専攻してディプロむを取得することが可能だ(http://www.psychomedia.qc.ca/sante/2019-07-06/homeopathie-enseignement-universitaire)。しかし、これまでも述べてきたように、現行の実験ではホメオパシーがプラセボ(偽薬)以上の効果がないことなどを理由に、「似非科学」「似非治療」と罵る厳しい批判の声が尽きず、複数の大学でホメオパシー教育に終止符を打って、全面的に廃止する動きが起きている。

一方で、ホメオパシーを処方する助産師(sage-femme)の数は増え続けており、2011年処方が合法化された当初、24%であったホメオパシーを主として処方する助産師は、2013年では42%まで増加している。この背景には、人手不足かつキャリアが正しく認められていなかった助産師の社会的権利と医療実戦における権利の見直しと拡大がある(http://www.doctissimo.fr/html/grossesse/accouchement/15349-droits-sages-femmes-elargis.htm)。あまり知られていないが、助産師になるためには5年間の専門教育が要求され、これは一般医や歯科医と同様であるのに関わらず、助産師は薬の処方や処置の点でかなり限られた権利しか持たない。そこで2011年以降何度か起こった権利見直しのための運動の結果、助産師は新たに、妊婦の胎児の問題に関わる抗生物質、授乳の痛みや問題に関わる治療薬、つわりや頻尿の問題、生理痛の問題、産後の避妊などについて、ホメオパシーのリメディーを含め、薬の処方の拡大が認められたのだ(助産師が処方できる薬のリスト:https://www.legifrance.gouv.fr/affichTexte.do?cidTexte=JORFTEXT000024686131)。

この権利拡大のきっかけとなった助産師たちの運動の背景には、妊産婦から薬処方の強い要求があるにも関わらず何も処方できない状況があった。妊娠中、あるいは授乳中は、食生活、経口薬はもちろんのこと、塗布薬に至るまで制約がある。私自身の妊娠期の経験では、つわりの症状が強く出て、それも2ヶ月ほど続いたので、産婦人科医が検診のとき、「症状を抑えるような薬は何にも飲めないし、つわりに薬なんかないのよ、そのうち治るんだから大丈夫よ」と彼女が言い放った際、本気でイラっとした。そして、そんなことがあって良いものかと本気で思った。そこから、たとえ薬の処方がデリケートだったとしても今日こんなにも医療が多方面に発達し、研究が進んでいるのだから、女性の妊娠期の不快感(時に悠に不快感を通り越して、苦痛といっても過言でない)に対して何も対処しようとしないのは、産む女性を「苦しむべき存在」と見なすような、「産み出すのは苦しくて当たり前」と古臭いマッチョな美徳をなおも押し付けるような恥ずべき実状じゃないのか!と深く憤るまで感情が高まったのを熱さが喉元過ぎた今ですら全然忘れていない!世の中の女性たちよ、<当たり前>、<仕方ない>、<そういうもの>、とか甘んじてないで奮起しようよ!絶対ちゃんと効くお薬が人類には作れるよ!と本気で思った。というか今も思っている。現状は絶対(苦しんで生むべし美学に基づく)怠惰の結果なのである。しかし、女性は妊娠期の直後(つまり出産の後)新生児を抱えてたちまち大変忙しくなってしまうので、残念ながら(あるいは怠惰でマッチョな人たちには幸運なことに?)、過ぎてしまったつわりの苦しみや妊娠期の不調に対して今後の人々のためにマニフェストするエネルギーも時間もないのだ。そうして、今日まで「苦しむのが当たり前でしょ」というフレーズがまかり通っている。ホメオパシーの話題からちょっといやだいぶ逸れているが、もう一度言いたいのだが、女性は(あえて苦しみたい場合を別にして)生むために苦しまなくてもいい、と思う。

さて、この話で何を言いたかったかというと、妊産婦は摂取できる薬が大変限られた(あるいはほとんどない)状況におかれているので、心身の不調をきたした時、これまでいとも簡単にお薬を飲んで不調をサクッと改善して生きてきた人々は、かなりパニクる。なすすべがないなんて?苦しいまま過ごさないといけないなんて?そこに、ホメオパシーが提案される。完璧なシチュエーションである。これしかない、というわけだ。産婦人科医は処方しないだろうが、そこで困って助産師に相談しに行けば処方してもらえるというわけだ。

ちなみに、また繰り返して申し訳ないが、私はホメオパシーを馬鹿にするためにこれを書いているのでない。困った時にホメオパシーを処方されて症状が緩和した、助かった!という人やそもそもホメオパシーを実践している人の肯定的な証言を無下にする気は無い。症状が改善したなら良かったし、効かなかったら残念だと思うだけだ。

ただ、強調するのは、ホメオパシーは妊産婦に処方される時、それは唯一の可能な投薬として処方され、彼女らはしばしば妊娠という非日常的で(多くの場合慣れてもいない)身体の異常事態に直面してしばしばパニクっているので、ホメオパシーはこのタイミングで、なんていうか、もうあるだけでたいそう有難い代物として登場する。よく知らない人も疑い深い人も、本当に困っている時の唯一のお薬として提示されたホメオパシーをやってみないわけにはいかないだろう。だってやって損はないのだから。だって本当に困っているのだから。そういうわけで、思うに、ホメオパシーの居場所が妊産婦の体調管理であり助産師による処方が主流なのは大変わかりやすいなあと思う。

09/9/19

ホメオパシー(同種治療)について 5 <個人化された医療><優しい医療>というイメージ

ホメオパシー(同種治療)について 5 
<個人化された医療><優しい医療>というイメージ
(9月9日)
ホメオパシー(homéopathie)は、代替医療(médecine douce)の一種であり、原材料から抽出した原液をかなり希釈した上で砂糖玉と合わせて仕上げているために副作用がほとんどなく、その処方は個人の体質、生活環境に対応している。ホメオパシーは、患者の<全体>(globalité)を見ることを原則とする。症状が観察できる部分だけでなく、患者がどのように症状を訴えているか、よく症状の周辺を観察するのはもちろんのこと、患者の精神的状況やこれまでの生活について、さらにはどのような生活環境で日々を送っているのか、患者の<全体>を見極めた上で最もあったリメディーを選択する。遺伝による病や、体質的にかかりやすい病気などの素質を熟知した上で、病になることを避けるための予防すら行うことが可能だ。この点は、現行の医療で処方される薬が基本的には予防ではなく治療を目的としているのと大きく異なる。(私が以前取り組んだmédecine personnaliséeのプロジェクトのことも思い出される。)

ホメオパシーの重要な特徴の一つは、個人化された医療であり、ありうる病を見極めてそれを予防しようとする医療だということである

この点がいかに魅力的であるか、現行の医療と比較すると直ちに明らかになる。現行の医療はしばしば、上に述べたように、症状が現れてから、あるいは病気になってからの治療を目的とした投薬や処置しか行うことができず、将来なるかもしれない病気に対して手を打つために医者にかかるというのはあまりない。さらには、もちろん体質に合わない薬や、飲んでいる他の薬と合わない薬を処方されるということは今日あり得ないにせよ、現行の医療においては患者が副作用を受け入れることはある程度当たり前の現状がある。「選択肢がない」と説明されてしまう場合には、相当キツイ副作用すら我慢してくださいということが当たり前のようにある。

そもそも、19世紀すでに怪しげだと言われていたホメオパシーを信仰していた人々が魅力を感じた理由が、ホメオパシーが「優しい医療」だったことは知られている。その当時は今よりもずっと、医療は痛みを伴う恐ろしい経験だったのだ。確かに、昔の治療は想像するだけで痛そうである。その当時、痛い治療や手術もせずに、微量の毒(しかも超希釈されていて害はない)を服用すれば病が良くなるとすれば実践しない手はない。それがきちんと効果を上げて病が治るのならば!

今日ホメオパシーを信仰するためには、もう少し別の理由があるだろう。

抗生物質のように、世界中で大量に処方されているけれど、副作用があったり、病の原因である細菌以外の最近にも作用してしまうことで体内常在菌にダメージを与えて、結果的に体調を崩すことがある投薬など、化学療法には、ある病を治療するために身体の何かしらが犠牲にされるか、ダメージを受けることを甘受するようなシチュエーションがよくある。また、乱用が耐性菌を生み出すことによる問題もある。化学的な経験により、我々の身体は<変容>してしまう。ある時は望まない意味で不可逆的な変化を遂げるかもしれない。治療の<前>と<後>では元の身体は戻ってこないかもしれないのだ。一方で、私たちの身体がもともと持っているという<記憶>に訴えかけ、これを呼び起こすに過ぎないホメオパシーでは、身体を象徴的な意味で<変化させ>、<傷つける>ことなく体調を整えることができることになる。

身体の自然治癒力を信頼すると同時に予防のための医療であることも重要だろう。ここでは、中国の医者にまつわる逸話を思い出すことができる。東洋医学や中医もまた、伝統的に<全体を看る>ことが重要視されており、問診は時間をかけて大変丁寧に行われ、病気や症状のある部分だけでなく患者の全体を見渡し、予期される病や症状が出ないようにするための気配り(ケア、治療、soins)を促す。逸話では、医者は患者が病にならずに健康を保っている間は報酬をもらえるが、一度体調を崩すと報酬を受け取らない。何故なら、患者が健康を維持することが医者の任務であるので、患者を病ませてしまったことが医者の責任であるという。興味深い話ではある。ホメオパシーも、<全体をみる>という点では、こういった東洋医学と共通する思想があるのだろう。

一方、ホメオパシーは現代ヨーロッパ(日本でも)コテンパンに言われることが多いが、東洋医学はなお重視されていたり、正当性が認められている。西洋でも中医を学ぶのはちょっとブームになってさえいるのはやや皮肉に思われる。何故なら、<科学的であるかどうか>というスタンダードでは、東洋医学の基礎となっている人体論や陰陽論は「科学的」ではないだろう。中医はそのエキゾチズムによって西洋人を魅了し続けることができている気がするが、東洋医学が今日も有効だとされているのはエキゾチズムのせいだけではない。となれば、違いは効果が認められているかどうかだろうか?

09/6/19

ホメオパシー(同種治療)について 4 水の記憶との関係

ホメオパシー(同種治療)について 4
水の記憶との関係 (2019年9月5日)
今日はホメオパシーに少し距離を置いて、「水の記憶」について取り上げてみたい。1988年にジャック・バンヴェニスト教授がNatureに発表したセンセーショナルな論文「水の記憶」は、当時たいそうホメオパシー支持者を喜ばせた(テーズが反証されたのち、Banvenisteが水の記憶についてまとめた著作は日本語訳も出版されている:『真実の告白 水の記憶事件ーホメオパシーの科学的根拠「水の記憶」に関する真実のすべて』)。それもそのはず、「水の記憶」理論が立証されれば、ホメオパシーのリメディーに原材料となった物質の分子が一個も含まれていないことが問題にならないし、希釈によってどれだけ引き伸ばされても物質の効能が記憶されていることが明らかになるかもしれないからだ。結論から言ってしまったような、いつも通り順序の悪い記事になってしまったが、さて、「水の記憶」について手短に紹介しよう。

「水は記憶する」という考え方は、1988年にジャック・バンヴェニスト(Jacques Banveniste)が明らかにした、免疫における抗原抗体反応の影響に関するテーズからきており、バンヴェニストは、水溶液をもとの分子が含まれていないほど極度に希釈しても抗原抗体反応を引き起こす能力を保持すると主張した。水溶液が希釈されて元の分子が含まれていないということはつまり、水分子のみの状態。その水分子がそれ以前に溶けたものを記憶していて、それによって抗原抗体反応を記憶していると述べた。この斬新なテーズは、瞬く間に論争となり、科学的反証のすえ否定され、現在、<科学的思考に基づく><一般的な理解>では、水分子が記憶するなんてありえない!ということになっている。

いうまでもなくホメオパシーは、この「水の記憶」的な考え方が基礎となっていて、つまり極度の希釈によっても失われない<記憶>のような(水の記憶が否定されてしまうような現行の科学によっては計測できない)現象があって、それゆえに微量の毒物の刺激を適切に身体に与えることができると考えている。

「正しい」「正しくない」の議論をしたいだけなら、ここでもう何もいうことはなくなってしまいそうだが(なぜなら、バンヴェニストの実験と結論は、同様に実験した研究グループによってことごとく反証されているのだから、科学的に水の記憶が立証されなかったことは認めざるをえない)、私はもう少しこの興味深い現象について考え続けたいように思う。人はあるとき直感によって左右され、それこそ何故と万人にわかるように説明することが難しいけれども本当であるところの直感は実在して、私には、水の記憶をベースとするホメオパシーという療法がたとえ科学的に立証されなくても、それが全く無為のものと言い切れるのか、いや言い切る前にもっと考えるべきことはないのか、と思えてならない。

少し引っかかるのはホメオパシーが、個人に焦点を当てた個人化された医療だということである。このことは、そもそも実験によって計測可能なブレない結果が叩きだせなかったことをよしとしてしまわないだろうか。ホメオパシーは確かに曖昧でマージナルな発展を遂げてきた。完全に無根拠な民間療法とか言い伝えではもちろんなく、魔女の調薬を想像させる錬金術的であり化学的でもあるリメディーの生成方法。そしてあわよくば現行の科学の基準で効力を立証しようとしたが今の所うまくいっていない。次のようにいうと、結局考え語ることから逃げていると批判する人もいるかもしれないが、そうではない。大真面目に、科学で立証される物事は一つの物差しであって、私たちの生命を取り巻く全てのことがそのただ一つの物差しによって測られることはできない、といってみたらどうだろうか。私たちの生命は、毒が薬になったり、健康と病が判別不能になったり、生きるために死んだり、数多くの一見の<矛盾>を孕みながら複雑なダイアローグを行っている。そこには、単純な二項対立とか、相補的な構図では解りきることができないような、私たちが表現の仕方を獲得していない営みがあるのではないか

問題提起にするとたいそう月並みでどうしようもない表現になってしまったが、実はとても大切な何かがこの問題の周辺にはあるように思われてならない。

09/4/19

ホメオパシー(同種治療)について 3

ホメオパシー(同種治療)について 3 
(2019年9月5日)
ホメオパシー(homéopathie)の基本的な考え方とリメディーの生成について、今更だが言及しておきたい。これらの内容についてはより専門的で網羅的な情報を手にいれる手段があり、これから書くことは一応、私のような非専門家が端折ってまとめているに過ぎないとご理解いただいた上でお読みいただければと思う。

ホメオパシーは、同種治療つまり、病や症状を引き起こす原因となるもの(と似たもの)を微量摂取することによって、これを治療することができるとする考え方である。スルーしてはいけない。「え?待て待て、それってどういうこと?」とすかさずつっこむべきだ。病や症状を引き起こす原因を摂取することでなぜ病が良くなるの?と。ここにホメオパシー最大の仮説あるいは魅力的思想が横たわっていると思われる。それは、「身体は知っている」原則なのである。それは直ちに、ジャック・バンヴェニスト(Jacques Banveniste)が1988年にNatureに発表した論文のテーズ 「水の記憶」(« Mémoire de l’eau »)が言ってのけた、「水は憶えている」を思い起こさせる。バンヴェニストの「水の記憶」についても、のちの考察の過程で言及するつもりだが、この論文が発表された時、フランスの、いや世界のホメオパット(ホメオパシー専門家)たちは大変喜んでこれを支持したのはもっともなことだ。今回の話題に戻るが、ホメオパシーの最大のポイントは、私たちの身体が生まれながらに持っている自然治癒力たるものへの全面的な信頼(と信仰)なのである。
つまりこういうことだ。病や症状を引き起こす原因を摂取することでなぜ病が良くなる。なぜならば、身体はもともと病や不調が起こった時にそれを治癒する力を持ち合わせていて、しかし身体の不調においてはそれが忘れられているに過ぎない。それを思い起こさせてやるためには<適切な>刺激を与えることこそが必要であり、その刺激というのが、身体の不調の原因となった<毒>を超微量摂取することなのである。

次の図は、doctissimoというフランスの医療関係のウェブサイトにあるホメオパシーの原理を説明する記事から借用した。図は、絵を見ての通り、
<健康な人> + <希釈されていないホメオパシーのリメディー> = <不調がある人>
<不調がある人> + <適切に希釈され準備されたリメディー> = <健康な人>
という単純明快な方程式を表している。


また、以下の図も同様の記事から借用したものだが、ホメオパシーのリメディーに記されている「(数字)CH」「DH(数字)」という記号が、どのような希釈濃度を表していることを説明している。これはホメオパシーの創始者であるハーネマンの名にちなんでおり(ハーネマン式100分希釈、la dilution Centésimale Hahnemannienneあるいはハーネマン式10分希釈、la dilution Décimale Hahnemannienne)、1CH数字が上がるとそれは1/100に希釈される。リメディーにもよるが、処方されるリメディーでよく見るのは、7CHとか9CHとかが多く、5CHというのもあったが、それでも原液の100の5乗分の一の濃さなのでかなり希釈されていると言える。

ホメオパシーのリメディーの原材料は、植物、動物、ミネラル由来の三種類があり、そのうち60パーセントは植物由来のため、なんとなく身体に優しく自然なイメージがつきまとう。調べていくと、虫を丸まんますり潰したものとか、カエルとかイカスミとか、ウソ〜、希釈されててもなんだか摂取が憚られるよ?といった原料にも出会う。リメディーの原料と効果リストもかなり興味深いのでこの話題はまたのちにとっておきたい。今日のところは、ホメオパシーのリメディーがどのように作られているかごく簡単にまとめた。以下の図は同様のdoctissimoよりホメオパシー原料を説明する記事より引用した。お分かりのように、延々と希釈されたのちにそれはショ糖や乳糖と合わされて、あの色とりどりのプラスチックケースに入っている甘い小さなつぶつぶになるのだ。砂糖玉は舌下において溶けるまでゆっくり待つことによって摂取される。

さあ、この原材料から遠く遠く希釈されていく様子をご覧ください!原材料はすり潰したり濾されたりしたのち、アルコールに混ぜられる。三週間ほどアルコール漬けにされる。そして、濾されて、濾されて、ここでやっと上の希釈方法の図に出てきた原液が完成する。説明が前後してしまったが、材料となった物質が、リメディーには一分子も含まれていないのはどうやら本当で、この長い希釈の過程を経て、患者が摂取するリメディーが作られているのだ。

子供の時の薬が甘いシロップが多いからだろうか、この甘ったるい砂糖玉を舐めていると、嫌が応にも精神がリラックスして、この「優しい医療」(médecine douce)の毒?にあてられる気がする。この薬には恐るべきあるいは苦しむべき副作用もなく、苦くて嫌な味もなく、なんと私の身体に優しいことか!

09/3/19

ホメオパシー(同種治療)について 2

ホメオパシー(同種治療)について 2 
(2019年9月3日)

ホメオパシー(homéopathie)について、前回の記事で、医学的に効果が証明されていない療法に保険適応をすることや処方を認め続けることについて議論は尽きないことを書いた。それ自体に心身への害はない単なる砂糖玉であるリメディーを処方することについて、どのような理由で厳しく批判があるのだろうか。プラセボ(偽薬)は医療としても適切に用いられることについてはその効果が認められているのだから、もしただの砂糖玉であったとしても、それがなんらかのポジティブな働きかけを患者に対してしうるとすれば、処方を全面的に禁止するまでの批判が出るまい。

戦後のホメオパシー実践では、いくつかホメオパシーによるリメディー処方による死亡事故が起こっている。日本でホメオパシーの問題について語られる時必ず引かれるのが、2010年に起こった新生児死亡事故である。これは、新生児は出血時に血液凝固の働きを助けるビタミンKを十分に持たず、母乳でもこれを補うことはできないことから、稀にある消火器や頭蓋内出血を防ぐため、今日は産院で出産するとビタミンK2シロップを処方され、これを新生児に飲ませることになっている。新生児死亡事故では、適切に与えられるべきビタミンK2シロップの代わりにホメオパシーのリメディを与えたことにより、新生児ビタミンK欠乏性出血症により新生児が死亡してしまった。

また、イタリアではホメオパシーの処方のみを受けていた7歳の子供が中耳炎を悪化させ脳に炎症が及び死亡したという事件が2017年に起きている(http://www.lefigaro.fr/flash-actu/2017/05/27/97001-20170527FILWWW00072-homeopathie-l-italie-s-emeut-de-la-mort-d-un-enfant.php)。この悲惨なケースでは、子供の両親は3歳からホメオパシーのみそれ以前も耳鼻咽喉の不調を治療してきており、中耳炎についても過去にホメオパシーのリメディーで治療したことがあったが、二週間も熱が下がらず緊急病院へ連れていったという。子供にホメオパシーを実践する親の数は決して無視できない中で、ヨーロッパでのホメオパシー見直しが厳しくなるきっかけとなる一件であったことは間違いない。

上述のような極端なケースでなくとも、反対派の主要な主張としては、ホメオパシーのリメディーを与えられて、患者がホメオパシーのみで治療が可能であると信じることによって、癌や他の病など急を要する治療に取り組むことが遅れてしまい結果的に重篤な事態を招きうるのだから、ホメオパシーに基づく処方を患者が信じてそれのみで病気が治ると考えてしまうことは危険だ、というものだ。

ここまで考えてみると、<実はこんなにも危険な(可能性のある)>ホメオパシーが一体どのようにして広く利用され、公的に処方され、その効果が信じられるところでは信じられ続けている状況が今日もあるのか、わからなくなるかもしれない。

これ以上考察を進める前に断っておきたいのが、私自身がここで行いたいのは、ホメオパシーがいいか悪いかを議論することではないということだ。ホメオパシーの実践者に対して、あるいはホメオパシーの非実践者に対して、個人的な意見の介入や批判をすることは全く目的ではない。私が心に刺さっているのは言ってみれば、「今日私たちがだいたいは信じ切っている科学的なことでは証明されない療法であるホメオパシーを、自立させ得ているものの正体はなんなのか?」、「科学的見地に基づく医療を超えた力みたいなものを、私たちは再度味方にすることができるのか?」、「その力は私たちをよりよく生き抜くいこと可能にするのか?」そんな好奇心に満ちた疑問なのである。

09/2/19

ホメオパシー(同種治療)について 1

ホメオパシー(同種治療)について 1
2019年9月2日

ホメオパシー(homéopathie)は、同種療法、つまり、ある病や症状を起こしうる物質によってそれを治療することができるという考えに基づく治療法である。病や症状を起こしうる物質とは時に毒や身体に害のある物質のことであり、それを薬として利用することで心身の不調を治そうとする考え方だ。身体にとって毒となるような刺激によって病を防ぐという原理だけ聞くと、今日科学に基づく西洋医学に慣れている私たちは、「ワクチン」のことを思い出すかもしれない。しかしワクチンとホメオパシーのリメディ(ホメオパシーに使われる薬のこと)は決定的に異なる。ワクチンはご存知のように感染症の予防のために接種され、それは対象となる病の病原体から作られる抗原(弱毒化あるいは無毒化されている)を含んでおり、結果、身体は病原体に対する抗体を産生して感染症に対する免疫を獲得するというものだ。ここで、ワクチンの効果は医学的に証明されている。一方、ホメオパシーの効果は、現代の医学的見地から、プラセボ(偽薬、placebo)以上の効果はないとされ、それ自体に害はないがリメディーはただの砂糖玉に過ぎないとされている。

ホメオパシーは、用語としては18世紀末にドイツ人医師のサミュエル・ハーネマン(Samue Hhnemann, 1755-1845)によって用いられ、ヨーロッパにおいて各国で研究がなされた。ナチス・ドイツ時代にアドルフ・ヒトラーがホメオパシーを厚遇したことはよく知られているが、ユダヤ人強制収容所で行われた人体実験においてホメオパシーの偽薬以上の効果が検証されることはなかった。ドイツ以外の各国でも、今日までホメオパシーのリメディーによる治療が医学的見地から効果を認められたことはない。

にもかかわらず、戦後も、どころか今日においても、ホメオパシーは「代替医療」として普及し実用化されている。ヨーロッパの国々の中でもフランスはホメオパシー実践が今日もなお盛んな国の一つである。ホメオパシーのリメディーの処方は、30パーセントまで保険が適応される<オフィシャルな治療>と現行の医療ではみなされている。(ただし、昨年の医療関係者124名による署名運動を含め、医学的に効果が証明されていない療法に保険適応をすることや処方を認め続けることについて議論は尽きない)

ホメオパシーは、現代主流の医学的見地から偽薬以上の効果がないことは明らかであるのに、医学先進国であるフランスにおいて今尚実践されていることはとても奇妙な事象だと思うし、そもそも効果がないということが一般に理解されているのかどうかも微妙なところであり、その現状も非常に謎めいている。なんとなくだが、ただの砂糖玉だと気がついてはいる一方で、砂糖玉にすらすがりたいと思わせるような魅力がホメオパシーにはあるのではないか、あるいはホメオパシーという不明瞭な代替医療が確からしく科学的な現代医学に対して一般の人々が抱く不満のようなものを受け止める役割をしているのではないか、と感じられてならない。

これから、どのくらいゆっくり考えていくことができるかわからないが、このなんとなく不穏な問題について、そのありうる答えを探っていきたいと思う。なぜホメオパシーを現代人の我々が頼りにするのか考えることは、私たちが抱えている身体に関する問題、現代医療に対する問題、よりよく生きることに対峙する仕方について思考を深めることを可能にしてくれると直感するからだ。

議論したいことはたくさんあるのだが、ひとまずは私がなぜホメオパシーのことが大変気になっているのか、そのきっかけについて述べたい。
私は2015年より、フランスのナント(Nantes)を基盤に医療と環境の問題を提起する大変興味深いアート活動を続けているアーティスト、ジェレミー・セガール(Jérémy Segard)との協働プロジェクトをいくつか展開してきた。彼とのプロジェクト展開において、やがて、ファルマコン (Pharmakon)という、ある物質や出来事はしばしば毒と薬の両義的役割を持っている、という興味深い概念に出会い、これについて、研究及び展覧会を通じて探求してきた(展覧会ファルマコン )。2017年に京都と大阪で9名のアーティストによるコレクティブな展示を行い、その開幕に合わせて開催したシンポジウムにお越しいただいた埼玉大学の加藤有希子さんは、新印象派のプラグマティズムについて色彩とホメオパシーに焦点を当てた講演をしてくださり、ホメオパシーが19世紀ヨーロッパである種の怪しげな宗教的な信仰を受けて支持されていたという状況や、同種療法が毒を用いて行おうとしたことに関心を抱く。そして、強烈だったのは自分自身のホメオパシー実戦である。私は2018年12月に出産し、半年ほど経った6月頃から度々授乳時の痛みや乳腺炎の手前までいくような乳腺の炎症を経験し、助産師に三回、医者に二回かかった。助産師は私に複数のリメディーを処方し、医者はアルコールと抗生物質を処方した。強い痛みや熱が伴い、崖っぷちの状況で、処方されたリメディーは言われるままに正しく摂取し続けたが、症状が落ち着くにつれて、ホメオパシーについて冷静に色々考え直してみると、砂糖玉によりすがったことが馬鹿らしくも思えてくるが、いやまさか、ちょっとは効いたのではないか、など思いたくもなってくる。多少保険が効くとはいえ、一時期だいぶん調子が悪くなって大量のリメディーを処方され、それを購入して摂取したのだ。偽薬でしたと片付けるには、助産師の処方もたいそう公的に行われているし、なんだか腑に落ちない。そもそも、この代替医療はかなり多くの妊婦・産婦、子供、老人、自然的なイメージの代替医療を好む患者によってしぶとく実践されている。これだけ情報の入手が可能な今日、自分が服用する薬がどんなものかは知らない手段がないわけでもないし、それなのにこれほどまでにホメオパシーが根強いとしたら、無視しづらい。
さて、こう言ったことが私の関心の原点だ。

08/5/19

Ludovia #16, La représentation de soi à l’époque numérique – la considération sur la nouvelle conscience corporelle

Je participe à Ludovia#16 du 20 au 23 août 2019, Ax-les-thermes.
Je présenterai mes recherches à propos de la représentation de soi à l’époque de l’information, me référant à la nouvelle conscience corporelle ainsi que la pratique d’avatar, d’un corps hybride.
Le site officiel: Ludovia.fr

Résumé :

Dans mon intervention, je fonderai une étude sur les modalités contemporaines de la représentation de soi à l’époque de l’information.

La représentation de soi à l’époque numérique nous fait vivre une expérience inattendue. D’abord, la représentation de soi dans le cyberespace tels que les réseaux sociaux, qui est fondée sur la manipulation facile et la diffusion quotidienne des images de soi, modifient complètement notre perception et conscience corporelle. Vivant une telle expérience de la conscience de soi « modifiée », l’image de soi perd alors sa nature identitaire jusqu’à ce qu’elle se réduise en une icône ambiguë, voire « fluide » selon le terme de Zygmunt Bauman. Cette icône, aisément employée comme image du profil, est alors considérée comme une image qui représente le soi. L’« avatar », qui est son double « modifiable » et « remplaçable » selon son gré et son envie, joue un rôle important pour établir une conscience de soi numérique. Bien qu’elle soit souvent basée sur l’image en deux dimensions tels une illustration, un dessin ou un manga, quand l’utilisateur le pousse à l’extrême, cette image prend une allure transcendante en devenant un soi virtuel mais « réel ». Soit un personnage existant soit une créature imaginaire, nous avons de plus en plus tendance à nous référer à ce qui remplace notre corps « physique » pour se présenter comme le moi numérique. Dans le cas extrême, cette nouvelle conscience corporelle pourrait s’atteindre à un état hybride : mixte du corps humain et celui du robot ou d’autres êtres technologiques.

Dans mon intervention, je développerai la théorie de la représentation de soi à l’époque numérique en me référant à l’analyse d’Azuma Hiroki, sociologue japonais qui la théorise par des notions comme « consommation de bases de données » et « de nombreux petits récits après le déclin du grand récit » (appliquant la théorie du postmodernisme de Jean-François Lyotard) afin de mieux comprendre le système contemporain autour de l’expression identitaire à travers les moyens numériques. Je compléterai mon interprétation sur la particularité identitaire de notre époque en m’appuyant sur la théorie de Zygmunt Bauman, notamment sa définition de la « fluidité ».

J’introduis ensuite Ayano Sudo, artiste photographe japonaise, et son travail d’autoportrait intitulé « Autoscopy » où l’artiste mêle sa propre image à celle de quelqu’un autre, ce qu’elle appelle une expérimentation identitaire où elle expérimente une sorte de modification génétique au travers des moyens numériques. L’artiste a conçu ce projet à cause d’un souvenir d’enfance : de nombreux amis et connaissances l’ont reconnue dans un endroit où elle n’a jamais été, ce qui signifie qu’ils l’ont mal reconnue. Cette expérience a permis l’artiste de réaliser que la reconnaissance du visage de quelqu’un est tellement ambiguë que l’on peut croire à l’avoir vue même si son visage ressemble peu à celui d’autrui. L’artiste cherche alors à créer un récit sous forme d’autoportrait modifié fondé sur les modalités corporelles numériques.

Je conclurai mon intervention sur la nouvelle conscience de soi établie par l’expérience des usages de l’avatar et de la photo de profil stéréotypée, se figurant en deux dimensions – en une forme hybride ou robotique, qui impacte notre image de soi « réelle ».

08/5/19

ICA 2019 Belgrade, miki okubo, « Virtual Idol » and « dietary philosophy »

I participated in the ICA2019 (International congress of aesthetic studies) in Belgrade 21-26 July 2019. Here are my abstracts of presentations.
http://www.arh.bg.ac.rs/en/2017/12/11/ica-2019-belgrade-21st-international-congress-of-aesthetics/
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AESTHETICS OF VIRTUAL IDOL AND ITS CORPORALITY

Abstract
The virtual idol is getting more and more present and popular not only in geek cultures or subcultures, but also in a global music market. The virtual idol is generally a character based on its vocaloid voice completed with graphic image, detailled information on profil, amateurs’ participation in developping its universe and active consumers of its musical productions. We know as a pioneer example Miku Hatsune. A girl at the age of 17 in costume inspired by school uniform whose totem is Welsh onion, Miku Hatsune is a character based on Vocaroid commercialized by Crypton Future Media in 2004, through technological improvements, having become a real popular idol in Japan and lots of countries in the 2010s. In Paris, where Japanese pop-culture such as Manga, Animé or Cosplay fascinates many young peoples, her concerts archived such a high level success. On the stage, Miku Hatsune visualized by holographic projectors, singing, dansing and talking to her fans, mesmerized completely the spectators.

The first point I will develop is the aesthetic challenges of this new creature – virtual idol – for encouraging amateur creations as well as impacting on the contemporary artworld. The most important contribution of the virtual idol’s eminent advent to visual arts is the expansion of creative spheres as well as their restructure. The development of virtual idols world is fed by amateurs participations, who are often fans, consumers and creators. It welcomes also deviative creations associated with differnets genres such as video games, mangas, animations, films, fanzines, secondary creations or commercialization of character’s goods.

The second point concerns a new body consciousness brought to the importance by virtual idol culture, and more globaly by digital cutlres. Their particular corporal modality is due to the ontological ambiguity among human, artifact, robot, imaginary creature or set of digital information. Their immaterial corporality brings us to transform ourselves in a sort of hybrid existence in regard with movements, gestures, self-consiousness.

Through analysis of the corporal modality and phenomenological significations of virtual idol, I will consider its impact on visual arts as well as new aesthetics of body consiousness appearing in our society of information.

Index terms | body consicousness; character; corporality; digital culture; Japanese pop culture; virtual idol; vocaloid

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AESTHETICS FOR NEW DIETARY PHILOSOPHY AND HUMANITY THINKING

Abstract |
We are living in a particular era with regard to the notion of health and the way of feeding ourselves. Today, our dietary situation is in a dilemma; we are surrounded by various information about foods for well-being and good health, as well as advices for a diet or different calorie controls. When we watch TV programs, take a look at publicity in magazines, newspapers or on the Internet, it is obvious that excessive information on these topics are circulated around our everyday life, which brings us naturally to be conscious of what we eat and how to control our appetite to the obsessive extent. Moreover, we take sometimes medicaments or supplements for weight loss as compensation for the appetite satisfaction, gourmet and fine food loves.

The information about hygiene and security of food that we should rely on is also questioning. Certain organic foods succeeded commercially due to their “clean” (non-contaminated, secure and good for health) image. At the same times, these foods are so expensive that only wealthy people can afford to purchase. Thinking too much about food security can cause to increase food waste, especially food loss.

New attitudes against this food loss and challenges for overcoming information saturated society about eating and dieting are getting more and more visible. Food sharing, recycling, donating or other possible solutions are getting developed. This presentation aims at better understanding the veritable situation in the contemporary relation between our body and environment in order to seek the more appropriate dietary philosophy which is compatible with contemporary humanity thinking.

Index terms | body consciousness; diet; dietary philosophy; food loss, gourmet; hygiene of food; notion of health; security of foods

11/27/18

展覧会 松田有加里×フロリアン・ガデン「orbite elliptique」 −往き交う軌跡/奇跡

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展覧会 松田有加里×フロリアン・ガデン「orbite elliptique」 −往き交う軌跡/奇跡

本展覧会は、写真家の松田有加里が美術家のフロリアン・ガデンに呼びかけ、二人の表現者を知る大久保美紀がキュレータとして一つの宇宙観として提案した、ある意味異形の展覧会である。

展覧会のタイトルである「orbite elliptique」は、フランス語で楕円形軌道を意味する。生の往き交いを詩的に奏でようという両者の試みは、興味深い事に、きわめて明瞭な普遍的物理運動に身を委ねているというわけだ。

松田の写真が今回テーマとする<生命のサイクル>(消えゆく命―燃える命―命と命の間)は、誕生から死後の魂の世界へのひた続く道のりを歩いていく私たち人間の運命や天を仰ぎ見ながら魂の行方に想いを馳せる振る舞いと同時に、おのずと、仏教思想における「輪廻」(=円環)のことを私たちに想起させる。私たち個人はあたかも個別の人生を歩みながら、生きる時代も場所も異なるけれども、同じように生まれ、生きて、死にゆく、同心円軌道を廻る星屑のようである。たとえ同時代を生きても、その軌道は往き交ってまた離れ、たとえ時代を共にせずとも空間や建造物やオブジェを通じて出会うことすらあるだろう。人々は生き、そこにある自然物やモノにその軌跡を刻んで消えていく。モノや世界はその束の間のエネルギーを記憶する。フロリアン・ガデンは物質性の記憶や物語に着目し、それらに繊細な注意を向け、尊敬をあらわし、大切に見守る。

展覧会は、このような「orbite elliptique/楕円形軌道」にのって、生まれた国も世代も表現方法も異なる松田とガデンのまなざしを通じて世界を覗き見ることを私たちに可能にしてくれる。

大久保美紀

11/23/18

展覧会「ファルマコンII アート×毒×身体の不協的調和」11月25日まで!

皆様、

お元気でしょうか。
今年は11月10日よりファルマコン展開幕しています。

いよいよラスト三日となりました、展覧会「ファルマコンII アート×毒×身体の不協的調和」@想念庵(京都市左京区田中里の前町49−2)
本日も作家在廊(大久保、フロリアン・ガデン)で19時まで開館しています。明日、明後日も11時−19時(13−14時を除く)皆様のお越しをお待ちしています。
公開制作の「バベルの塔的細胞3」インタラクションゾーンを超えて、地獄ゾーン入り、目が離せません。パンも随時増えています。どうか、足をお運びいただけましたら幸甚です。

クロージングの25日の午後は皆様にこれまで面倒を見ていただいた酵母を元にパンを焼いて試食します。お誘い合わせの上ぜひ、いらっしゃってください。

Last three days of our exhibition « Pharmakon II » @Sonen-an, Kyoto.
Please come to see us! The last day, Nov 25th in the afternoon, you will taste natural yeast breads (cultivated during the exhibition). Please join us.

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