09/3/14

展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(2)

展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(2)

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ベルリンド・ドゥ・ブリュイケールの表現について話そう。ドゥ・ブリュイケールは(1)でも紹介した通り、ベルギーのゲントで制作するアーティストだ。彼女の表現は厳しい。彼女は表すべきものを誤摩化したりしない。その蝋彫刻は見る者にあまりにも強い印象を与えるし、造形は人間を含め、動物の生きている時間が終わって、それが変形したり存在がむき出しになったりする「あとの時間」を私たちに感じさせる。彼女の描くポートレートは真っ黒な輪郭に赤い眼孔がのぞくもの、あるいは蝋色の輪郭に両目から血を流す頭部、我々に向かって立っている髪の長い女のその赤い髪が全てこちら側に足れている絵など、画面に満ちあふれた作家の率直な不安が伝播してくる。
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彼女の見ているものは、我々が関心していることよりももっと遠くにあるのかもしれない。彼女の彫刻が表現する死せる姿であったり、動物たちの骨や人間にしても青白く朽ちて柔らかくなったような肌は、生きている我々が生き続けるためにふだん見ることを避けているものだが、たとえば世界が何万年も何億年もあるのだとしたら、そのうちのたった数年や数十年が動物や動物である我々が生きている時間だ。血が通い、瑞々しく、硬く強い時間はかぎりなく短い。

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そのようなとき、やはり彼女の一貫した関心である肉体や肉は、異なる有り得るかたちをもって、存在するかもしれないということを認めることができるような気がする。

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ジャナ・ステラバックは1955年チェコのプラハ生まれ、ソヴィエトの侵攻の68年、家族と共にヴァンクーヴァーに移住した。モントリオールでディプロムを得た後、ニューヨークとトロントで数年を過ごし、モントリオールに定住する。彼女はフランス語とカトリック文化圏のその地で、アメリカ大陸に居ながら彼女が生まれ育った欧州の文化を思い出す。自らのアイデンティティを問い、カナダ人でチェコ人であることを問う。そういった問題意識は、彼女をカフカ文学に導き、ジャナ・ステラバックは『変身』に明らかに参照した作品をいくつか表現している。

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たとえば、クリノリンで遠隔コントロールをする作品Remote Control II(1989)や、同様に、金属でできた起き上がり小法師のような構造に下半身を預けるSisyphus(1990) は、肉体は自分に所属するにも関わらず、想いのままにはならない客体であり、変容したり、変形したりするかもしれない奇妙なものである。

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また、金属の尾のようなものをつけるパフォーマンスは、カフカの『変身』を明らかに想起させる。大きな「部分」を伴った人の体は、脱皮途中の虫や異なる生き物のように見える。芋虫のように地面を摺ってすすむ新たなわたしの身体の「部分」は、以前から体の一部であったかのように振る舞い、また突如切り離されもする。

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アンデルセンの童話『Princesse au petit pois(エンドウ豆の上に寝たお姫様)』に基づいた作品もステラバックの子ども時代の記憶の中から何度も浮かび上がって来る表現である。

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髪の毛、パン、肉等多様な素材を利用して身体とアイデンティティを問う表現を続ける彼女が1984~85年に制作したThe Dressは、電流を流すと胴体部分を中心に数本の電熱線が光と熱を発する。ジリジリいう音はそこにある肉体が熱線によって痛めつけられるような鋭い感覚を覚えさせる。彼女にとって肉体は、アイデンティティの問題を抱える客体としても、自らが抱える肉や内蔵の塊としても、しばしば問題を抱えた存在として現れ続けるのである。

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展覧会 Les Papesses 女教皇たちはアヴィニョンに在り(3)につづく。

08/31/14

たよりない現実、この世界の在りか @SHISEIDOGALLERY

「たよりない現実、この世界の在りか」展

SHISEIDOGALLERY
2014.7.18 – 8.22
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銀座の資生堂ギャラリーで開催されていた「たよりない現実、この世界の在りか」展は、アーティストの荒神明香とwah documentの南川憲二、増井宏文で構成される現代芸術活動チーム「め」による個展である。資生堂ギャラリーはブティックとは別の入り口を通って地下に降りて行くのだが、展覧会の張り紙はあるもののそれらしい入り口が見当たらない。工事中で鉄骨のあらわになった壁がビニールシートで覆われたような、あれっ、ピカピカの銀座の資生堂にこんな場所が?と思しき空間を意味有りげにのぞかせたドアがこちら側に開いている。どうやらここが入り口である。

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「たよりない現実、この世界の在りか」と題された展覧会はぜんたいでひとつの小宇宙とも宇宙そのものとも呼ぶべきインスタレーションになっていて、この心配を誘う入り口の足場に注意を払いながら階段を下りて行くと、強烈に暖色系の照明が、まだ暗さに慣れていない目の奥に焼き付く。ホテルの廊下に見立てられたその通路には、部屋番号が付されたいくつかの扉が閉じられており、壁には丁寧な印象を与えるランプと異なる世界からのメッセージを自動筆記したようなドローイングが飾られている。廊下は一度曲がって、左手に小さな部屋があり、突き当たり右に、こんどは一部屋だけ、覗き見ることの出来るホテルの一室があるようだ。

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廊下をゆっくりすすみながら、依然として目が慣れない。廊下を一度曲がったあとに、一度目の世界の裂け目と出会う。暗闇の中にホントウは見たことがない「木星」はきっとこのような見た目を呈するのではないかと子どもの頃よく眺めていたカラーの図鑑『宇宙』の本の色のついた美しいイラストのことなどを思う。ぼんやりと浮かぶ球体は、廊下の奥の小さな入り口から入る部屋からも覗き見ることが出来る。

廊下の突き当たりにドアが開いた部屋があり、訪れる人はその公開されたホテルの一室を出たり入ったりしている。ぴたりと整った客室、そこはしかし既に誰かに割り当てられた後の部屋であり、衣類や帽子などが置いてあり、机にもその人の私物と思われるいくつかの物が置かれている。私たちは、誰かの部屋にこっそり忍び込むよう招待され、それゆえに、ベッドや部屋の物に触れてはならないと予め注意されている。客室に住むその洋服や物品の持ち主は、私たちがここに来たことすら知らないのだ。では私たちがいるのはいったいどこなのか?なぜこっそりと誰かの部屋を覗き見ることに招かれ、その人に知られることなく去らねばならないのだろう?もしかして、私たちがホテルに滞在するような時、いや、そもそもいつも通り自分の部屋にいるような時、だれかが訪れてこっそりと我々を垣間みて帰って行く、そんなことがあったのかもしれない。

私たちは誰かの滞在する部屋の縦長の裂け目のまえで立ち止まる。鏡だ。それは通常私たちが「鏡」と呼んでいるものの形状をしており、ただしその境界面は私たちの存在を認めない。触れてはならないと言われている展示の中で、そこに鏡があると信じる以上手をのばすわけにはいかない。なぜ?私たちが頑にルールを守るのはなぜなのだろう?鏡に自分自身が写らないという非常事態を前に、世界と調和するためにルールを守る必要なんてないにちがいない。非常事態は信じ込んでいた世界が壊れるということを意味しているので、このようなとき、風穴が空く。鏡だと思い込んでいた、しかし私を映し出さないそれは、もうひとつの向かい合った部屋に出入りするための穴であったことを見つける。穴は見つからないかもしれない。見つかればそこを通り、見つからなければ戸惑うだろう。しかし人はいつしかその両方に慣れて、二つの異なる世界で生き続けることができるのである。

部屋にあった鏡が裂け目あることが見つかり、ぽっかりと浮かぶ惑星を認め、もういちど灼熱の銀座8丁目の地上に登る道筋がみつかり、地下で見たものについて考えを巡らすこともひとつの現実であり、たとえばホテルの一室で、自分の写らない鏡の前を素通りし、来た道を戻るようなことがあっても、あるいはまた、ギャラリーの入り口のドアのなかの不穏な様子を垣間みて、地下には降りないと決意することも、それらはすべてありそうなことであり、あってよいことである。

「たよりない現実、この世界の在りか」は、一つのありそうな「世界の在りか」を提示することを通じて、もしかして私たちが何らかの事情や慣習から見ないように気をつけていることなどを凝視するような契機を与えてくれるのかもしれない。世界は意外と隙だらけであることなど。

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08/30/14

INVITATION – 浮遊する意識 –

INVITATION – 浮遊する意識 –
2014.8.9 – 8.24 @KCUA
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8月24日まで@KCUAにて開催されていた本展覧会は、京都市芸術大学芸術学研究室の学生が企画・実施する展覧会「Colors of KCUA」シリーズの第4回で、「INVITATION = 招き」をコンセプトとして構成されている。日本語の「招き」は古語「招し」(おもしろい、好ましい、美しい)に関わるという本来の意味に着目したコンセプトだそうだ。
なるほど、INVITATION=招きの展覧会は、おもしろい経験へと鑑賞者(あるいは参加者、体験者)を招いてくれるダイナミックな空間であるようだ。

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展覧会会場に赴くと、まず迎えてくれるのは、東谷俊哉の作品《「私」の観測法》のベイビーだ。ちょっと怖いが近寄ると、やっぱり更に怖いのだが、長いへその緒で向こう側に繋がっている。そうか、このベイビーはまだ産み落とされておらず、母の肉体と接続している存在として一時的にこの場に置かれているのだろう。体験者は、ベイビーの向こう側に居る母親の体内を思わせる着物の中に潜り込むように招待される。その内部では赤ん坊の視野が転写される一方、着物の内部に包まれて声を持たない「内側」の者の発言は赤ん坊によって媒介されて「外側」に向けて発せられる。身体を用いた体験を通じて、自他の境界に関わる問題を扱うこの作品が、へその緒で結びついたままの赤ん坊とそれを宿すものを「自」「他」の表象として用いたのは、ロジックであるが同時に奇妙なことでもある。産まれる私はそれを宿した個体とは根本的に異なる個体であるにもかかわらず、その両者は曖昧に接続されており、その内部ではたしかに、思考や感覚の転写や媒介ということが起こっても不思議ではない。あるいはもっと自他の境界が曖昧な世界では、そもそも、赤子とそれを包むもの両方が、自分という個体の異なる現れ方であると認識することも可能かもしれない。ここで、世界からやってきて知覚されることと、世界に向けて作用することという二つの距離が近づいたり離れたりするのだ。

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映像を映し出す複数の画面が一面の背景のように設置され、その前には赤い布がかぶせられた背の高い台がある。台の上には古代の宗教儀式を思わせる五体の埴輪のようなものが置かれており、赤い布が広げられたその地面はというと、無数の埴輪の欠片が散らばっている。黒木結の《consum(ed)er》は、資本主義経済において消費される「アイドルという生身の少女のイメージ」についての作家の思考を表しているそうだ。画面には断片的に、いわゆる「アイドルらしい」少女が、フェミニンなワンピースを着て現れ、少年と仲睦まじくしている様子などが映し出される。そして、埴輪が振り落とされた金槌によって破片と化すプロセスが繰り返される。
モノを破壊するという行為は、それがたとえ小さな規模であっても、そこに暴力が介在するという点で、その破壊行為そのものが強い印象をもつ。それが映像として表現されたときは殊のほか強烈である。それが繰り返されればさらにその効果は補強される。それゆえ、物語全体は破壊行為に煙に巻かれない意味を持つことが必要になるだろう。
「アイドル」というのはもちろんテレビに登場するアイドルだけでなく、「アイドル的存在」といった表現によって想起されるイメージも含めて「アイドル」と作家は呼んでいるのだろう。イコンを壊し続けることによってなされることはなんなのか。消費され続けるイメージを新たにしうるのかどうか。こわしてもこわしても、映像はループし、おわりなく、アイドルは現れるのである。そのことがむしろ真理のようでもある。

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横内朝の繊細で内省的な物語を表現するインスタレーションは、小鳥をモチーフにして恋愛を表現した作品である。過剰に演出されたナイーブなテクストやオブジェは、「恋」や「恋愛」がしばしばそのように作り込まれていること、作り込まれた虚構の物語を反復するように導かれていることなどを十分に戦略的で強かに暴きだしていると言えるだろう。

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鈴木孝平の映像と写真作品は、我々が普段見ているはずのものや、感じているはずの感覚を提示する。たとえばビニール袋がくしゃくしゃになった状態からどのように広がり、どこまで広がれば動き続けるのをやめるのか。小さくまとまったコードがどのように元の形に戻ろうとして、しかしどの時点でもう動けなくなるのか。我々はそのことを知らない。これらのビデオを見ながら、我々はそうか、普段は意識していないけど、こんなふうに世界は営まれているのだな、などと、無垢なことを思うかもしれない。しかしふと考えて見ると、我々は普段あまりにも不注意で、そのことが本当に起こっているのか、あるいはどのように、いつまで起こっているのか、そのことを全く知らないのだから、それらがたとえば真実でも虚実でも、結局の所、我々はそれを判断できない。知らない我々はそれを信じるのは自由だが、信じなくても別に良いのではないか、ひょっとしたら、信じられないようなおかしな方法で世界が動いているかもしれず、それはそれで、そのほうが面白いのではないか、などと世界に関心を与えてくれる作品である。

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08/29/14

アート・スコープ 2012-2014 旅の後もしくは痕 / Art Scope – Remains of Their Journeys

「アート・スコープ 2012-2014 旅の後もしくは痕」

原美術館:http://www.haramuseum.or.jp/generalTop.html
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原美術館では、2014年7月12日から10月13日より、四名のアーティスト:今村遼佑、大野智史、リタ・ヘンゼン(Rita Hensen)、ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)による「アート・スコープ2012-2014」展が開催されている。本展覧会は、Daimler Foundation Japanの文化・芸術支援活動 »Art Scope »の一貫で海外での経験を経た四名のアーティストが、その交換プログラムの成果を、それぞれの異国での経験をもとに制作した新作によって発表する展覧会である。2012年、リタ・ヘンゼン(Rita Hensen)、ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)はドイツより日本に召還され、今村遼佑、大野智史は2013年、日本より派遣された。

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大野智史の絵画には、具象的に描かれた植物の葉や実、それを取り巻く自然の景色を認めることができるが、そこに強烈な色彩の幾何学的で抽象的なフラグメントが挿入されている。背景の色もオレンジや白が用いられ、それはおよそ描かれた植物が生きる世界とは異次元であるにもかかわらず、時にカオティックに配置されるそれらは、飛び交い混ざり合う幾何学的欠片を通じて結びつきを持っている。
大野智史の絵画には21世紀のデジタル技術と絵画の融合の可能性を探る態度が見られる。デジタルイメージの転用、複数のイメージのレイヤーを重ねるということ、そういった表現は今日多くの表現者によって新たな可能性の追求が行なわれており、既視感とは恐ろしく、ときに我々の鑑賞を妨げ、瞬時に行なわれるステレオタイプな判断で我々を盲目にすらする。大野智史の大きな画面を何度も見つめながら、私は、現在のようにデジタルイメージで溢れ返る時代に、わたしたちがなお、絵画作品に向かい合う意味があるとすれば?という問題について考えていた。(もちろんその意味があると思っているから見るのだし、表現者が描き続けるのも同じ理由だと信じているのだが。)
画家の創り出す「表面」が非常に触覚的なものであるということが、これに向かう一つの理由になり得るだろう。どれほどデジタルイメージの解像度が上がり、3Dの再現性も進化したとしても、それでもなお、近づいて凝視する価値のある絵画であると私は呼ぶだろう。

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お盆を過ぎ、晩夏の蝉が力を振り絞って鳴き尽くし、原美術館は懸命な喧噪に取り巻かれていたのが、今村遼佑のインスタレーション作品が置かれた展示室に足を踏み入れると、そのような世界とはついにぷっつり切り離されてしまったかと一瞬思われたほどだった。「一瞬」と言ったのは、実際には彼の作品は、窓際の外界の雰囲気や、光や空気の射し込む様子とダイナミックに関係をもつものであり、その空間に身を置いて経過する時間を感ずることによって、切り離されたかのように感ぜられた外側の世界と内側の世界は再び一つに統合されることに気がつく仕組みになっている。
それにしても、一歩足を踏み入れたときの、鑑賞者を暖かく守るような繊細なで整然とした空間は、そのような強烈な印象を私に与えたのであった。
曖昧で奇妙な言い方だが、今村遼佑のインスタレーションを経験して感じたのは、それらのインスタレーションに取り巻かれている磁場と、それと無関係に存在し/存在した/存在し続けるところの外界との距離が揺らぎ、その中で持続的な眩暈を起こすような感じだ。その距離はゼロでも無限でもなく可変的で、そのメタ的な眩暈すら時と場所を変えても思い出される不思議な感覚なのである。ひとつの手がかりとして、映し出された映像はベルリンで撮影されたものであり、異なる場所に我々を接続するということと、それが加工を経ることによって虚構性を増すことがあげられるだろう。

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リタ・ヘンゼン(Rita Hensen)の「八丁堀」は結びついた和紙にフェルトペンによるドローイングであり、とても素敵な作品であった。絵画のそれぞれは糸で結びつけられていて、それはスッキリ解かれて離れているものもあれば、緩やかに絡まり繋がっているものもある。糸によって物理的に結びつけられるだけでなく、そもそもそれらは重ね合わされた和紙に滲みやすいフェルトペンで描かれており、一枚二枚下の紙にも同じ軌跡が認められるのは、そういったわけである。あるドローイングは、その下に置かれた数枚の和紙に浸透する。重なり合った和紙が同じ痕を共有し、それがたとえ旅のあとにバラバラになり、世界の離れた場所に散らばっても、彼らはその痕跡を留める。それはマテリアルである全てのものが持てる能力である。

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ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)のビデオ作品「つかのまの記念」は、彼が日本滞在した2012−2013年の経験(日本という国の震災の傷痕とフクシマをめぐる国際社会情勢)を主題にしている。作品は、何かドラマチックなストーリーを展開するわけではない。25分間のビデオのなかに認めることが出来るのは、フクシマの原子力発電所の作業員のイメージを表すという真っ白のユニフォームを着た一人の人が、東京の人混みや交差点、様々な場所に立ち尽くしているの姿である。そこには何もおこらない。そのひとは非常に目立っているのに誰もが通り過ぎ、見られているのにそこに軋轢は起こらない。存在していないかのようであり、不穏でもある。ベネディクト・パーテンハイマー(Benedikt Partenheimer)が表現したのはその違和感かもしれない。

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08/28/14

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会 / NEW INTIMACIES

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会 / NEW INTIMACIES

ホテルアンテルーム:http://hotel-anteroom.com/gallery/

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「インティマシー(親密さ)」という類いのテーマが、美術の展覧会においてとりあげられるとき、それがとても魅力的に思えるのはなぜだろう。展覧会だけではない。作品がなにか「親密さ」に関わる主題をめぐって作られたとき、たとえば、美術作品や文学作品、演劇や音楽、あるいはパフォーマンス。様々な形をとって行なわれる表現が、人々の非常に個人的な部分に触れると知るとき、そのようは表現は「繊細で脆く小さな世界」を捉えたに過ぎないと一蹴されうるいっぽうで、同時に、隠された脆弱なそれを垣間みたくてたまらないという欲望に人々は駆り立てられるかもしれない。
そのような状況は、「親密さを表現する」行為それ自体が、ア・プリオリ、見られるべきでない親密な瞬間を他者の目の前で暴露するという自己矛盾の遊びであることに端を発する。

そもそも、芸術の主題は古来より親密な主題に溢れている。親密な主題、それが追求されるのは、異なる人生を生きる個人の非常に違った人生のフラグメントが他者にとってもの珍しい対象として受容されるからではなく、それがユングの元型(archetype)のような普遍的表象の領域に触れうることを人々が直観的に知っているからである。そのことが脆弱な個人をインティムな領域から解放し、大きな世界に関係することを許すのだ。この意味で、一般に普遍性の芸術と呼ばれているものも実は、脆くて小さな個人の表象と表裏一体である。

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さて、「親密すぎる展覧会」の「親密すぎる」とはどういうことだろう。
人はいったい、親密すぎることが出来るのだろうか。恋人同士はいったい、ほんとうに親密すぎる関係なのだろうか?
多様である個体間の関係において、「過剰に親密である」状況を定義するのは難しい。人はどれだけ交わりをもち、共振し合っても、おそらく過剰に親密であることができない。この点では、恋人同士よりも思考の奥深くまでを共有する双子のような個体のほうがずっと親密であると言えるかもしれない。この展覧会タイトルは、冒頭にも述べた、我々の親密なるものへの抗いがたい興味を刺激する戦略的なものだ。私たちは、逆説的にも普遍的である「アンティム」なものを垣間みたくてたまらないように運命付けられている。

本展覧会は、ホテルアンテルーム京都 Gallery 9.5で開催された。8組のカップル(アーティストだけではなく、ギャラリスト、学芸員も含まれる)が、協働で作品を制作し発表している。

〈手をつなぐこと〉のためのドローイング

〈手をつなぐこと〉のためのドローイング

「〈手をつなぐこと〉のためのドローイング」と「〈手をつなぐこと〉のためのインストラクション」は井上文雄+永田絢子により構想され、異なる時間と場所で実践されたイベントである。非常にシンプルなインストラクションは以下の通りだ。

0 待ち合わせ場所に集まってください(トランプを持参すること)
1 トランプの数字を使ってくじ引きをして2人組をつくります
2 それぞれ決まった相手と手をつないで、自由に過ごしてください(90分)
3 最初の場所に集まり、どのように過ごしたかを全員で話し合います(90分)

よっぽどの人好きでない限り、知り合いでも友人でもない他者と手をつないで90分を過ごすのは心理的に抵抗を伴う。苦痛を感じる人もあれば、時間を持て余すかもしれず、あるいはひょっとすると繋いだ手のぬくもりと共有した時間が相手への愛着に転じることもあるかもしれない。こういった「イベント」は日常生活で訪れることない奇妙な事態である。非常事態であるからこそ、新しい関係性の経験をもたらしうる。人々が、奇妙で常軌を逸したこのようなパフォーマンスに、しばしばすすんで身を投じてしまうのは、そのような非常事態の可能的意味を察知する能力があらかじめ備わっているからに他ならない。

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高木瑞希+竹崎和征の作品は、何枚かの異なるドローイングが切り刻まれて、一つの画面を再構成している。細く切り取られた各々の欠片は描かれていたものを垣間見せるものもあれば、全く分からないものもある。目の粗い織物のように再度合成された性質の異なるフラグメントの集合体はまるで、恋人同士という一般的に非常に強く結びつき、互いの深い部分まで踏み込んでいるように思える関係性において、その二つの個体は、混ざり合って中和するのでなく、依然として異物としての存在を保ちながら、しかし分離不可であるつよい結びつきとして存在していることを明らかにしているように思える。

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菅かおる+田中和人の「before flowers are blooming on canvas」は消えかけているような、目を凝らしてもその細部を認めることのできない、独特な表面が印象的な一連の絵画である。

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斎木克裕+西脇エミの作品「CURRENT」はドローイングの下に形而的に水を受けるためのコップが用意されているマンホールを表したものと、イメージの上に水が入ったコップを置くことによりカナル・ストリートを表した二つのインスタレーションから成る。私が展覧会を訪れた日は、九条駅から5分歩くのもままならぬ大雨だったのだが、窓際に設置されたインスタレーションである点在するコップが暗示する「CURRENT」(流れ)が外界とのつながりを強く認識させた。「流れ」は8組のカップルが提案するそれぞれの表現を繋ぐのみならず、それが建物の外へと溢れて行くように促しているようである。

ニュー・インティマシー 親密すぎる展覧会は、8月31日まで開催されている。

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06/30/14

Boris Détraz + Makiko Furuichi exhibition Chambre Charbon / シャンブル・シャルボン, ボリス・デトラズ+古市牧子

Boris Détraz + Makiko Furuichi exhibition
Chambre Charbon

2014年7月5日(土) ~ 21日(月・祝)
木金 17:00 – 21:30/土日 12:00 – 19:00/月~水 休
オープニングレセプション:2014年7月5日(土) 19:00 – 21:00

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フランスのナント在住のアーティスト・デュオChambre Charbon(シャンブル・シャルボン)をご存知でしょうか。Boris DétrazMakiko Furuichiの二人のアーティスト、彼らは数年来互いの芸術表現をよく知り、影響を与え合ってきたカップルです。表現者同士が深くかかわり合うとき、そこに生じるインタラクションは強力で、興味深い。彼らの二人展を目撃することは、二人の中に生じた変化や対話、衝突や突然変異を目の当たりにする行為であり、場合によっては目撃する私たちが、第二のインパクトを被る身となるかもしれない。

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日本に出発目前の二人がパリを通過し、彼らに展覧会についての言葉を聞くことができたのだが、もしあなたが表現の生まれるその瞬間に興味があって、表現の生まれ方そのものに働きかけようとする試みをかいま見ることに興味があれば、ぜひ足を運んでほしいとつよく願う。展覧会は7月5日土曜日より、WISH LESS gallery にて始まる。

《過去Salon de Mimiインタビュー記事、展覧会記事はこちら》
★古市牧子/ Makiko Furuichi アーティストはハイブリッドな絵を描く:http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=811
★Décongélations Prématurées @ Atelier Alain Lebras, Nantes / 展覧会「未成熟な解凍」,ナント:http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2007

彼らが今回展示するのは、開かれたデッサン達だ。今回の展示のために新しく生み出された作品群である。Boris DétrazとMakiko Furuichiのそれぞれの作品を知る人であれば、彼らの持てる世界観もテクニックもあまりに違っており、以前から違っていたし、今も違う。しばしばカップルの中で起こるようにどちらかがどちらかに芸術的に迎合したり、混ざり合って似通ったり、アンビエントな模倣が見られたり、ということが無い。では彼らは互いの言葉を聞いていないのか、というと、そうではなくて、誰よりもよく聴いているのである。彼らはお互いの世界観を、模倣や視覚的類似によって確認されるよりも別の次元で混ぜ合っているのではないか、私はそのように感覚する。だからこそ、今回彼らが行った、ある意味実験的なペインティングはとても興味深いのである。

Ultrasommeil
, Boris Détraz, 2014

Ultrasommeil
, Boris Détraz, 2014

Chambre Charbon(シャンブル・シャルボン)は、展覧会名であり彼らのデュオ名でもあるが、フランス語の »Cha »というのは特徴的な音である。空気の多い音で、人間の口が楽器としてのキャパシティを発揮するようないい音だ。Chambre:部屋/空間、Charbon:炭/デッサンの木炭。彼ら自身がChambre Charbon(シャンブル・シャルボン)のコンセプトについて語った下りがWISH LESS gallery のサイトに掲載されているので、これを引用しよう。

———シャンブルとは仏語で空間(部屋)、シャルボンは炭素を意味し、2つの言葉は”汚れた道具と汚すための空間”に置き換えています。絵に見える荒々しい躍動感や強烈な存在感は、手を汚し部屋をけがす事で生まれた結果であり、これらの行為そのものが作品を構成する上で重要な証明となるのです。つまり「潔白な手によってつくられる、罪のあるイマージュ。」だと2人は語ります。(引用:here

Inquiétude, 
Makiko Furuichi, 2014

Inquiétude, 
Makiko Furuichi, 2014

ペインティングはフィジカルな行為である。ムーブメントを引き起こす個体を包含する空間で、そこに存在する物体を物理的に傷つけたり変形させたり変質させる行為である。二人はその空間で、互いの行為が世界を傷つけ変容させながら、その空間にリアルタイムで第三者が介入して来ることを許している。そこでさらなる抵抗や摩擦を生じさせるために。そして、彼ら自身とその第三者が本質的に変わるために。
二人の作品が日本でコレクティブに展示されるのを見られるのは興味深い機会です。

WEBSITE
Boris Détraz:http://www.borisdetraz.com
Makiko Furuichi:http://makikofuruichi.com
Chambre Charbon:http://chambrecharbon.com

06/30/14

Indiens des Plaines @quaibranly, インディアン・ファッション

本展覧会« INDIENS DES PLAINES »は、エッフェル塔から少しセーヌ沿いに東に移動したPont d’Arma近くのMusée Quai Branlyにおいて現在開催中の展覧会である。「プレーンズのインディアンたち」と題された本展覧会で出会ったのは、鑑賞者の注意を喚起するのに成功したセノグラフィーであり、展示作品であり、物語であった。

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Musée Quai Branlyは、パリの大きな国立美術館がそれぞれの担当領域によってある程度棲み分けをはかっているといったあまりに一般的な見方から紹介するならば、世界のプリミティブアートとアフリカやオセアニアのアート、少数民族の文化や手工業のコレクションを数多く収蔵しており、企画展もまた、こういったプリミティブアートやアフリカ・オセアニアの工芸に焦点を当てたもの、人類学的観点からある文化を展開・紹介するような傾向が見られる。ただし、この美術館の一つの強さは、「アートとはなんであるか」「アーティストとは誰か」という、自分がアートに関わっていると自負している人なら誰しもつい溺れてしまうくだらない問いから、完全に解放されている点であると思う。

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我々がここで目にすることの出来る展示作品は、しばしば作者不明あるいは匿名の表現者たちによる作品である。イリノイのある地方、ミシシッピ上流の谷、グレートプレーンズ、それぞれの地域で名も無き作り手たちが丁寧に作り上げた精巧な衣類や織物、人形や祭りのための飾りといったものが17世紀よりその地を訪れたヨーロッパ人を驚愕させてきた。

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人々はしばしば、今自分たちが生きている、あたかもたった一つに結びつけられたかのようなグローバル世界が行き着くべき理想的体系であるかのように思って、それ以前に独立して存在していた別々の世界は、現在ある全てのものより洗練されておらず野蛮なものだと妄想しがちである。今の世界が最終的で最高の形と感じるのは、我々が今しか生きられない生き物だからなのである。現在のデザインや技術は存在した全てのものの上に立っていることは有り得ず、だから、我々の知らない物凄いものが時々発見されたとしてもそれは実はとてもナチュラルなことなのである。

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展覧会は7つの章に分けられ、最も素晴らしいことには、開かれた大きな展示スペースに至る前までの3つのセクションは、現在から遡って行く時間軸をとっている。
L’exposition est ainsi organisée en sept parties :
. Le renouveau artistique dans la vie contemporaine, 1965-2014
. Communautés et diaspora, 1910-1965
. Peuples anciens, Pré-contact
. La vie dans les Grandes Plaines, 1700-1820
. L’épanouissement d’une culture, 1820-1860
. La mort du bison, 1860-1880
. Dans les vestiges des terres ancestrales, 1880-1910

アイデンティフィケーションに血眼になるような展示はアートの可能性を広げないが、ならばどうしたらいいのか?という問いへの一つの解釈がここに展示されていると思えた。

Manteau d’homme and Souliers de femme (about 1920),
Artiste lakota
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Patchwork (about 1915)
Rebecca Blackwater, artiste dakota
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Manchettes de danseur (about 1925)
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Chaussures sabots (2014)
Jamie Okuma, artiste luiseno, Californie
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Robe de femme avec accessoires (2005)
Jodi Gillette, artiste lakota hunkpapa
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本展覧会は、2014年4月8日〜7月20日まで開催中である。
参考:http://www.quaibranly.fr/fr/programmation/expositions/a-l-affiche/indiensdesplaines.html

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05/8/14

Salon de Montrouge 2014 / サロン・ド・モンルージュ 2014 @Beffroi, Montrouge

Salon de Montrouge 2014

Salon de Montrougeは、1955年に始まったサロンで、拠点のモンルージュ(パリの南)で、Léger, Lurçat, Daliなどの回顧展を行いました。1976年以降、Nicole Ginouxの方針でコンテンポラリー•アートに焦点を当てたサロンへと方針を転向します。サロン・ド・モンルージュ(Salon de Montrouge)は、Montrouge市の全面的なサポートのもと、若いアーティストの幅広い表現活動を受け入れて、彼らを助け・育てるためにその機会を提供し続けていると言えます。従ってこのサロンは、素材や主題を問わず作品を受け入れています。コンテンポラリー・アートのアーティストたちが社会のなかで重要な役割を担うべきであり、たえず変容する状況の中に投げ入れられているとすれば、彼らが美術の教育を受け終えた後にどのような「道」を提案してあげられるだろうか?どのような場所で、どのような機会に、彼らの表現を発表して行くべきだろうか?Salon de Montrougeが若いアーティストをサポートしようとしているのは、このような重要な問いに関する答えのひとつをたぐり寄せてあげることと言えるでしょう。

2009年から当サロンは、Stéphane CorreardがArtistic Directorを務めて、今日まで多くの応募から選ばれたアーティストの作品を毎年Montrougeの市役所向かいのBeffroi(鐘楼)のスペースで展示しています。第59回目となる今年は、4月30日から5月28日まで開催しています。
http://www.salondemontrouge.fr/index.php/salon-2014

今回はパリ出身、ナント在住のアーティスト、Anne-Sophie YACONOさんに招待していただいて、レセプションに行ってきました。Anne-Sophie YACONOは、ミックスメディアでラディカルなコンセプトを発散している若手の女性アーティストですが、彼女の作品はSalon de mimiでもご紹介したことがあるほか、有毒女子第12号 特集「食べないこととか」で私のエッセイのなかで紹介させていただいてます。
展覧会 Décongélations Prématurées (Nantes)
http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2007
有毒女子第12号 特集「食べないこととか」
http://www.mrexhibition.net/wp_mimi/?p=2754

彼女の作品は、入り口右手の階段を上っていただいて左手の「Anne-Sophieの部屋」と言わんばかりのお部屋にずらりとおいでです。レセプションでドレスアップした彼女と、ご両親にもお会いしました。こちら、サロンのサイトをご覧頂くとアーティスト・インタビューのビデオもあります。
http://www.salondemontrouge.fr/index.php/salon-2014/la-selection/7-artistes/12054-anne-sophie-yacono
Les portes de Chatteland, 2013
Céramiques et sculptures sur bois. Dimensions variables
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また、フライヤーのイメージに採用されている招待作家の作品は、1977年生れ、オルレアン出身のJulien Salaudの作品。

第55回のSalon de Montrougeの受賞作家。動物の剥製を使った作品を作っています。
彼のブログはこちら。(Blog Julien Salaud

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また、ハンガリー出身の作家Anna ADAM(ANNA ÁDÁM)の空間の記憶をモチーフにした作品は繊細でした。社会的・政治的抑圧が、学校や職場だけでなく、個人の生活にまで陰をひそめていた彼女が生まれる前の時代。その事実は写真を通じて、現代を生きる人にも物語を伝える。
Re-Play !, 2013
Broderie, collage sur photographie

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JUDITH DESCHAMPS

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Dorith Galuz, Collectionneuse, 2014 video 7min12
この映像は、Judith DESCHAMPSがコンテンポラリー・アートのコレクターであるDorith Galuzにインタビューした際に撮影したもので、彼女は1970年代から現代までのリアルとフィクションを織り交ぜて物語をつくる数々の作品をコレクションしてきた。彼女の言葉からそこにある歴史全体を摑み取り、そこに参入し、過ぎた世界を作り変えようとする。

 

Anne BROUJEANの二つの作品(Les Petites Morts, 2012
Photographie et texte, Biographies, 2012
Photographie et texte)は、一人一人は限られた時間を持ち、生まれては死ぬ私たちの、そうはいっても生きている時間はたくさんの思い出や出来事に満ち溢れ、幸せであったり、悲しかったりする、人間の「生」というものをこのアーティストの方法で表した一つの実験的な試みでしょう。とにかく、ビックリします。Les Petites Morts(2012, かわいそうな死者たち)は、世界の様々な文化の中で生きて死んだひとりの人間が、棺桶の中で?棺の中で?肉体をともなった最後のイメージとして表象されています。日本人らしい写真もあります。
なんて書いてある?

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「サーモンのアルミニウム包み焼き」(Les Petites Morts, 2012
Photographie et texte)
彼女の問題意識としては、現代の情報化社会にあって、私たちは、私たちのナルシシズムを満足させるような自由な発言を認められているけれど、それと同時に生や死のイメージが蔓延するなかで、それへの生き生きとした感情は乾燥し、バラバラになり、退化すらしているかもしれない。テクノロジーの発達した社会における我々の感情の問題を喚起する作品と言えるでしょう。

 

GAËLLE CALLACは、ブルターニュ生れ。親密さや個人の物語をテーマとする作品を作っています。彼女にとって、このテーマは、決して個人の中に留まるような小さな問題ではなく、それはむしろ、普遍的な問題として立ちのぼります。本作品は、本のタイトルからインスピレーションをうけた言葉遊びで構成される作品で、今や時代遅れのもはや見向きもされなくなった古い本を集めて、ひとつの時が止まったような記憶を作っています。

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CLÉMENTINE DESPOCQ

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彼女は、もともと宝石やアクセサリーなど装身具について学び、その後装飾品のデザインについて学びました。しかしビデオの中でも彼女が述べているように、アクセサリーはそれを身につける身体を伴ったとき、一つのオブジェクト以上のものになることに興味を抱きます。彼女の作品では、単体のアクセサリーが独立するのではなく、常に、そこにある肉体のことを想起させます。

PAULINE BAZIGNAN

彼女は画家です。しかし、筆も指も使いません。もちろんそのほか何によっても、紙やキャンバスに触れることはありません。彼女はまず紙を床におき、色彩の雫をぽたっと垂らすと、折りをみてその紙を垂直にします。絵の具は重力に惹かれて流れて行く。時々は紙やキャンバスにせき止められて、時々はその流れる性質を失って途中で止まってしまいながら。花のような、星のような、不思議な表象。(Sans titre, 2010
Acrylique sur papier. sur toile.)

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たずねずにいられなかったオレンジの彫刻。普通、鋳型をとる彫刻言うのは、量産するために鋳型をとりますよね、ロダンの考える人がたくさんあるように。彼女はコルシカ産のオレンジの彫刻をたくさんつくったのですが、どのオレンジも、一回だけ型にするとその役目を終えてしまいますから、これらのコルシカ産オレンジの彫刻は同じものはもちろん一つしかないんです。一つ一つの実の大きさやあの白い筋の様子がよく分かります。

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Salon de Montrouge 2014は、2014年5月28日まで!

04/28/14

驚くべきリアル / The Marvelous Real @東京都現代美術館

驚くべきリアル ー スペイン、ラテンアメリカの現代アート ーMUSACコレクション
THE MARVELOUS REAL@東京都現代美術館( http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/musac.html
2014年2月15日ー5月11日
* http://www.musac.es/# (MUSAC)

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東京都現代美術館で開催中の「驚くべきリアル」はカスティーリャ・イ・レオン現代美術館(MUSAC)のコレクションより、スペインとラテンアメリカ諸国の27人のアーティストの作品で構成される。MOTチーフキュレーターである長谷川裕子さんが企画した展覧会だ。この展覧会はずば抜けて面白いので、2014年5月11日まで開催されているので、東京に行かれることがあったらぜひともお薦めしたいのである。
本展覧会カタログによせた文章の冒頭で長谷川さんは、グレナダの詩人フェデリコ・ガルシアロルカFederico Garcia Lorca)の一節を引用している。

「スペインでは、他のどの国よりも死者が生き生きとしている。」(En España, los muertos están más vivos que en cualquier otro país del mundo.)

――∑(゚Д゚)アァ!?
マンガ的に反応すればこんな感じである。スペインでは他の国よりも死者が生き生きしている、死は生よりも活気をもっていると言われても、どうピンと来ていいか分からないだろう。確かにスペインという国は、歴史の中で独特のストーリーを紡いできた。宗教的なものの伝統は現代も生活の随所を支配し、彼らが経験した政治的問題は一目置かれるべきだ。1968年にこぞって「春」を経験したヨーロッパ諸国を横目に眺めながら、フランコ政権が倒れたのは実に1975年のことである。1939年に国家元首となったこの人は第二次世界大戦後の1946年から10年近くにわたって国際社会からスペインを孤立させ、75年に死ぬまで独裁を続けたのだ。スペインだけではない。この展覧会では、このようなスペインの影響を色濃く受け続けたラテンアメリカ諸国のアーティストの表現も目撃させてくれる。

さて、スペインでは生者より死者が生きている話に戻ろう。ガルシア・ロルカのこの命題への違和感は実は、生きているスペイン人がそもそも元気すぎるという一つのイメージに端を発する。彼らは高速・多忙な現代社会にあっても、シエスタの伝統を貫き、朝早く起きてまでお昼寝を確保し、夜な夜な夕食をとったあげく夜更かしをし、熱い夏は更に夜行性になり、情熱的なフラメンコを踊る女を口説くギターのうますぎる男と、赤ワインは果てしなく濃厚で、だからこそそのサングリアは最高…。彼らの突き抜ける明るさはしかし、彼らの奏でる音楽を耳にし、暗い色彩で塗り籠められた彼らの絵画を目にした瞬間、深い心配に変わる。彼らの救いようのない悲哀、絶望的な現世への嘆きのようなもの、そんなものを彼らは現世に存在する我々が決して手の届かない存在に語りかける。あるいは、死者が彼らに語りかけているのかもしれない。我々が生きている世界では、通常明確に隔絶していると信じられている二つのものの境目が曖昧になることがある。例えば生ける者の世界と、死せる者の世界の往来がそれだ。スペインの生ける者たちが見せる表現においては、それらが行き交い、その軌跡を時々可視化しながら、本当はそこに境界が存在しないことを向こう側の世界の声を介して我々に語りかける。

ガルシア•ロルカは38歳のとき1936年フランコ軍に銃殺された。
En España, los muertos están más vivos que en cualquier otro país del mundo.
死んでいることと生きていることの間が溶解する。
生と死に支配されない彼らは、強い。

 

前置きが長くなってしまったので、早速作品を見ていこう。

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Lara Almarcegui ララ・アルマルセーギの《穴掘り》(1988年)は、アムステルダムの空き地で毎日穴を掘り続ける様子を写真によって記録した作品である。ララ・アルマルセーギは、1972年スペインに生まれ、ロッテルダムで制作するアーティストだ。昨年は第55回ヴェネチア・ビエンナーレに参加し、スペイン館にて大量の石が部屋からこぼれ出ている未曾有のインスタレーション《廃墟》(Ruins)を発表し、鑑賞者を困惑させた。ストイックだがラディカルな方法はなるほど、ゴードン・マッタ=クラークの影響を彷彿とさせる。穴掘りで見られる見捨てられた/日常見向きもされない場所を人目に晒しだす手法は彼の一貫したテーマとして引き継がれる。

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Sergio Belinchon セルヒオ・ベリンチョンの《なだれ込む》(2007年)は、三枚のスクリーンが夜明け前の薄暗い森の中で行われる怪しげな出来事の始終を映し出すヴィデオ・インスタレーションである。静寂の森にふと我々と同じような普通の衣服を着て、子どもであったり老人であったり若者である人々が群れになって疾走している。それだけの人の群れが全速力で走り抜けているというだけで異常さに目が釘付けになるのだが、彼らの幾人かはハシゴのような物を抱えていて、こちら側と向こう側を仕切り分けるフェンスを力づくで乗り越えていく。Sergio Belinchonはヴァレンシア生れ、現在はベルリンで制作を行い、見つめるとハッとするような写真作品を発表してきている。柵を飛び越えてその向こう側へ行くというイベントは、具体的現実としての移民問題や差別問題を越えて人々の潜在的欲望を可視化するような試みにすら思える。

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Joan Fontcuberta ジョアン・フォンクベルタの表現は驚きに満ちていて、その物語の虚構性やアーティストの目論みは厳しく批判的である。ついこの間パリのヨーロッパ写真美術館ではジョアン・フォンクベルタの回顧展として、メディアや科学の信憑性を問うたFaunaシリーズに加え、彼がキュレータを務めた「スプートニク」展も部分的に再現された。フォンクベルタの表現に関しては、Faunaシリーズを再考することは必ず価値があるだろう。さて、作品《移民》(2005年)は、2003年にジブラルタル海峡近くの浜辺で殺された二人の移民の写真を一万枚のイメージで再構成した作品である。

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1962年生れの女性写真家、Carmela Garcia カルメラ・ガルシアによる《無題》(2002年)は、三部作オフィーリアシリーズ(http://www.carmelagarcia.com/ofelias-3)の内のワンシーンである。オフィーリアは言うまでもなく、シェークスピアの《ハムレット》に登場するハムレットの恋人の美少女で、父ポローニアスを殺害されたのち、正気を失って両手いっぱいの花を抱え、野原を彷徨うようになり、ついに川で溺れて死んでしまう。オフィーリアは身を投げたのか、それとも足を滑らせて溺れ死んだのか? カルメラ・ガルシアの想像力は、そんな月並みな終着点を持たず、さらに問いかける。オフィーリアが水の中でもし突如正気に戻って、やはり生きるために世界に戻ってきたら? ハムレットなんかもはやどうでも良く、父も死んだがそれでも生きるために戻ってきたとしたら? 人は生きることを決められる。その逆も然り。世界はこのようにある。いや、それは結果としてオフィーリアが溺れ死んだとしても同じことなのだ。

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Anthony Goicolea アンソニー•ゴイコレアのショート•フィルム作品《両生類》(2002年, Amphibians : video here)にはドキモを抜かれる。赤ずきん風マントを被った男が、原っぱから森の中へ駆け抜けている。虫の羽音に混じって苦しそうな呼吸が響く。彼らは次第に集まって、木の幹に足を取られて時々転びながら、起き上がり、再び駆け、ついには水辺を発見する。いっせいに水の中を泳ぎ回り、そこではもう赤ずきんマントや重々しいブーツは不要となり、彼らは身一つでやっと地上の息苦しさから解放されたという風に、水の中で生命を取り戻す。彼らの泳ぎは魚達のそれよりずっと醜く不効率で、彼らの四肢は水を掻くには脆弱すぎる。それでも彼らは喜びきらめき、境目を越境することに成功する。

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《彼を内に守る山》(1989年)は1993年に36歳の若さで夭折したLeonilson レオニルソンが残した、心に残る一枚の絵である。サンパウロで学んだ画家は、政治的・社会的弾圧や差別に対する個人の生のあり方を見つめる作品を発表した。彼は同性愛者であったが、91年にエイズ感染が発覚してその二年後に亡くなった。

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Enrique Marty エンリケ・マルティの大作《家族》(1999年)は、それがリアリズムを越えたある主の強調であり、フィクションの要素を含むと理解した上でなお恐ろしい。それは確かに強調でありながら、同時に依然として現実を描いているためだ。本作品は、スナップ風の家族写真群である。よく見ると、女の顔は狂気に満ちていて、赤ん坊を可愛がる大人達はその性器に何かしている。あどけない少女は顔から出血しており、鼻は奇形化し、のどかな午後を思わせるワンシーンでは男が発狂し、病院のベッドに横たわる女の表情は既に死者が混じっている。これらがスナップ写真の「いたずら」で終わらずに、繰り返し我々の脳裏に蘇って来るのはなぜだろう。それは実は我々にとって全て、ある意味での既視イメージだからなのである。それを否定しても、受け入れても、我々はこのことを知っているのだ。

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Marina Nunez マリナ・ヌニェスの《モンスター》シリーズ(1998年)では、こちらを見つめる女の身体の一部がロボットやアンドロイドのボディの一部のように変容している。そしてそのストーリーの続きは、この異変はやがて女の身体全体を蝕んで、彼女をモンスターに変えてしまうことを約束しているのだ。映画《もののけ姫》でアシタカの身体を蝕む自然界からの呪いとは異なり、彼女らの異変は、彼女らが社会の中で抑圧された苦しみに由来する内的なものであるように見える。だからこそ彼女らはそれを受け入れて共にあるのだろうか。

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Javier Tellez ハビエル・テジェスが精神衛生施設のメンバーとのコラボレーションで実現した《保安官オイディプス》(2006年)は、想像力の天井をぶちぬいている。基本的に、ソポクレスのおなじみのギリシャ悲劇オイディプスを基礎としてストーリーが展開されるこの作品では、統合失調症のオイディプスは始終能面を付けて役を演じる。行く先のない、逃げ道のない、この古代悲劇を取り上げることに何の意味があるのだろう。鑑賞者は、能面を身につけているにもかかわらず構わず演じられる残酷なシーン、オイディプスが目をえぐるクライマックスシーンなどにまゆをひそめる。だが、物語は思いもよらず崩壊を向かえる。オイディプスは能面を外し、窒息するはずであった小さな世界の壁紙を破って、清々しく深呼吸し、物語を終えるのだ。何を悩んでいたんだろう? とでも言わんばかりに。

展覧会は5月11日まで。東京都現代美術館にて開催中である。

04/27/14

ガブリエル・アセベド・ベラルデ《舞台》/ Gabriel Acevedo Velarde, « Escenario »

世界の秘密を知ってしまったような、ーそれも、けっして知るべきではなかった類いの、そうでありながら、確認などする前からおよそ明らかであった類いのー、ばつの悪い瞬間だった。一人でそれを眺めていても十分に「良心の呵責」たるものを感じ得るのに、こともあろうにそこは東京の六本木の美術館の開かれた一室で、そこにはイノセントな子どもはもちろんさらにナイーブな大人すら出入りし、スクリーンに目をやって、そこには短い行為が反復されていることを認めると納得したようにその空間を去って行く。

《舞台》(Escenario, 2004)と題された映像作品は、ペルーのリマ出身のガブリエル・アセベド・ベラルデ(Gabriel Acevedo Velarde)の作品である。ガブリエル・アセベド・ベラルデは1976年生まれ、これまでビデオ作品を始め、ドローイングやインスタレーションを手がけているが、2011年にフランスのリヨン・ビエンナーレに本映像作品《舞台》を発表し、国際的な評価を受けたのである。

《舞台》は奇妙な作品である。
本作品は、六本木の森美術館の展示室において2014年5月6日までご覧いただけるが、こちらの一応こちらのウェブリンクも紹介しておく。3分程度のショート•アニメーション作品である。
video here 

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何が起こっているのだろうか?
このステージで繰り広げられるシナリオはいったい、何を意味しているのだろうか?

ガブリエル・アセベド・ベラルデは、そのドローイングやビデオ作品において、個人の人間と公的なるもの(大きな組織や集団)が、明確な衝突に至らずにそれが一見日常的で平和的状況のなかで対峙する場面においてうごめいている「なにか」を可視化しようとする。

作品《舞台》では、無個性の個人が観衆となって一つのステージの前にひしめく。登場人物はおよそ、それら無個性の個人と、彼らを選別し、整列させ、「舞台」に連れてゆき、光線を当てる、彼らがつよい光線によって変性したのちに集団にもどす一連の働きをする役人たちがいる。役人たちは、無個性の個人たちよりも体格がよく、身長も大きい。言って見れば、選別されるべき個人は半ズボンを履いた子どもで、役人は小学校の先生のようである。子どもは舞台に連れ出され、大砲のような装置で強烈な光と音を浴びて倒れてしまう。一見暴力的なシーンに思われるが、次の瞬間観客はその悪い予感を拭い取られ、安心する。なぜなら、倒れた子どもは役人に抱きかかえられた後にすぐに自力で歩いて集団にもどり、他の子どもと元気にステージを鑑賞しはじめるのだ。表面上、誰も傷つかず、何も壊れず、そのムーブメントはひたすらに繰り返され、私たちは鳴り響く光線大砲の音とその強烈な光の断続の中に、映像の物語を追う動機を見失うだろう。

だが私たちは全てを見せられている。

光線大砲で気絶させられるのは、世界が見えるようになってしまった子どもたちなのだ。無個性な個人は、時間が経つに連れて目を開き、見てはならないものを目にしてしまう。見てはならないものを見ることは、役人の意図に反するばかりか、個人の身を脅かす危険すらある。だから、個人は逃げたりしない。無意味に長い整列の道筋に列をつくり、黙って並び、審判を待つ。光線大砲を受けることになれば、覚悟はできているというふうにまっすぐにステージに登って、もう一度盲目となる。溢れる光の中に全てはホワイトアウトし、これでもう、世界の秘密を目撃せずにすむ。これでもう、集団から切り離されてひとりぼっちにならなくて良い。見えないことは幸せとなり、彼らはもういちど、見ることを奪われることによって自由を得た集団の中に身をうずめる。しかしその幸せも長くは続かない。光線大砲の魔法は少しずつ溶けてゆき、そこでは世界はたちまち不穏なものとなってしまう。そのことをだれかに密告される前に、自己申告し、整列するべきなのだ。もういちど盲目になるために。

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世界の秘密は見えてはならない。それは見えることによって、脆弱な個人を脅かすだろう。
大きく見える役人も、自分の目をしっかりと守っている。彼らはそれがあることを知りながら常に瞼を半分下ろし、そちらに目をやらないことによって、自分自身が存続する世界を守っていると信じ込んでいるのだ。

盲目となることによって、あるいはまた、見てみない振りをすることによって束の間の幸せを享受する個人たちは、共通した思い込みがある。

それは、その世界を囲む塀はとうてい超えられないほど高く、高く、彼らを閉じ込めていて、そこからは出られないのだ、だから、そこにいて、繰り返しながら、従うのだ。

ガブリエル・アセベド・ベラルデはこのことに対し、明確な異論を唱えている。
彼らの小さなステージと、慎ましいコミュニティを囲む柵はたとえようなくお粗末で、その外側には言うまでもなくずっとひろい外側の世界が広がっており、簡単に飛び越えられる、ということを。

主催: 森美術館
企画: 荒木夏実(森美術館キュレーター)
会場: 森美術館 六本木ヒルズ森タワー53階
http://www.mori.art.museum/contents/mamproject/project020/